14 説法懇懇
鮮血が舞う。赤い霧がゼンの顔にまで散る。身を竦ませる臭気が、光り輝く叢を走る――。
グレイスの腕からついに力が抜けた。ユアを掻き抱いていた手がだらりと下がる。その脇腹を、煮え湯のように熱い血がぬらりと流れていく。
「おまえ……」
掠れた声。弱々しい皇帝の声に、彼の従者は困ったように少し笑った。そしてそのままどうと倒れた。彼の体重がユアの手から剣をもぎ取る。朱の糸が跡を引く。
忠実な彼の従者は、凶刃をその身に突き立てたまま横たわる。ユアの狂気が牙を剥く寸分前、彼は皇帝に覆い被さってその身を守ったのだ。皺が目立ち始めた彼の顔には、どこか満足げな表情さえ見える。グレイスは膝を折り、震える手で彼に触れた。
「おまえ、どうして……」
従者は伸ばされた君主の手に己の手をそっと重ねる。年季を経て固くなった彼の肌から、一秒、一秒を追うごとに温もりが引いていく。
「あなた様は、私の、月に御座いました。気高く、御美しく……触れることは、叶わず」
そう言ってにこと笑う。緩んだ唇から血が一筋零れ落ちる。
「御許し……下さい。私は、最後まで、あなた様の御心を……開いて差し上げることが、出来なかった。鉄と言われたあなた様の厚貌を、取り除いて、差し上げることが……」
グレイスは従者の手を握り締め、自らの頬に押し当てた。青の瞳がさっと潤み、涙が――初めて先帝に抱かれた夜に枯れてしまった涙が――ぽろりと落ちた。震える唇は愛する従者にかけてやる言葉すら見つけることができない。
「ああ、しかし今際の時に、ようやく……ああ、ああ……グレイス様。私は先に、あなた様の御感情を揺すぶる魂食らいが、羨ましく……妬んだことが御座います。しかし、もう……満足です。私めの人生にも、あなた様の御涙が、意味を、与えて……下さった」
ユアは数歩よろめき、草の上に尻をついた。浅い呼吸ばかりを繰り返す。
青褪めながら言葉を紡いでいた従者の唇が、ついに石のように固まった。グレイスは俯いたまま、彼の手をその胸の上にそっと置いた。
誰も動くことが出来ない。ゼンも、ダレスも、魔導師団も。彼らは皆、見世物小屋を出た直後のような一種の高揚感に浸っていた。偉大な臣民が一人果敢無くなったのだ。それを見世物に喩えるとは何たる不義か。だが事実、この恍惚とした場の空気は、間違いなくその形容に当て嵌まるのだ。ああ、何と美しき主従愛。魔導師団の何人もがこう思ったろう。願わくは我が身の幕引きもかくあらん、と。だが実際にその場に立てば、その内のどれ程が彼に続いて愛を貫き通す事が出来るだろう。四半分にも届くまい。そういった意味合いでの見世物である。舞台と客席の間には、僅かに空気が漂うだけでありながら、超え難い一線がいつも引かれているという事。
誰もの目がうっとりと細められた、その空気を打ち砕いたのは、一つの甲高い笑い声であった。
第十四話 説法懇懇
「はは、は! 馬鹿馬鹿しい、まるで喜劇だ! これはおまえの脚本通りか、グレイス。おまえは周りの者に、命を投げ出す事こそ美徳と教え込んだのか!」
ユアは笑う。笑う事で己の震えを隠そうとする。
彼には理解できない。これまで多くの貴人官人を手にかけてきた。その誰もが、彼が使役する精霊らを前にすれば、床に伏して命を乞うたではないか。高潔の士と謳われた人物でさえ。人間は人間を踏み躙る。人は何故結び合うのか? 他を陥れるためだ。己の苦痛さえ感じなければ、どんな悪業にも顔を顰めることすらせぬ。思いだせ、地下牢に響く女の声を。
――罪深いのはこの子よ。私だけ、私だけここから出して、お願い……。
誰もが亡骸の上に立って尚平然としているのだ。人は誰しも己が身が一番可愛い。そうだろう?
「その男もあの老人も、哀れなものだな! 自ら進んで、血濡れの皇帝の為に身を捧げるとは!」
「……ニンフのことか」
覚悟はしていた。叢に、ユアと見知らぬ少年だけが立つのを見た時に、もう。
あれは老いという言葉の似合わない男であった。年を得て益々壮健なかの老成は、その頑固さ岩の如しといった堅物である。元より覚悟あっての事、いくら魂食らいが恐ろしいとて、途中で逃げ出す人物ではない。その姿が見えないとなれば、
「おまえが、殺したのか」
「そうだよ。おれが殺した。朽ちかけた骨を全て折って皮膚を焼き、爪を剥いでローハーの海に捨ててやったよ」
グレイスが唇を噛む。湧き上がる怒りが彼を芯から震わせる。
「全部おまえが悪いんだ! おまえが皆を殺させた! おれが地下牢の床を掻いている時、おまえは柔らかな羽根布団に包まれて眠っていた。おれが鞭打たれている時、おまえは音楽の調べに耳を澄ませていた。おれが誰かの心臓を抉っている時、おまえは肉団子を食べていた……! おれが、おれが――」
リヒィ=ミヒィの声が蘇る。やがて皇帝の椅子に座る男は、半分はきみと同じ血を継いでいるのだ。きみを殺そうとした、あの女の魂を体に宿し、その愛を受けて育ったのだぞ。対するきみはどうだ。知っているのは鉄の扉の冷たさばかり。どうだ、憎くはないか。これが、同じ運命の元に生まれてきた兄弟の、あって許される姿だと思うか?
「おれが母親に首を絞められていた時! おまえは温かな笑顔の中にいた! 死ね! おまえなど死んでしまえ! おまえなど」
しかし、恐ろしく鈍い音が彼の言葉を遮ってしまう。獣のような素早さで立ち上がったゼンが、ありったけの力を込めた右の拳でユアの頬を殴りつけたのだ。突然の事態を呑みこめぬまま、ユアは横っ跳びに飛ばされる。薄っぺらい彼の体は、いっそ面白いほどに宙を舞う。
「自分の不幸を売り物にするなよ!」
ゼンが叫ぶ。それを聞き、ユアはようやく頬の痛みの理由を知るといったあり様。
「呪われた過去を押し並べて、それであんた満足かよ。ああ可哀想なことだねえって泣き真似の一つでも貰えりゃ、あんたそれで満足かい? 身を投げ出して、ただ少しだけでもあんたを愛してやりたいって膝を折った皇帝さんをさ――あの人、兄貴なんだろうが――それを殺して、あんた本当に満足かい!」
草を散らして跳び上がり、ゼンはユアの胸倉に掴みかかった。が、途端にその勢いがふっと崩れる。溜息のように力なく、ゼンは言った。
「あんた悲しいよ。勿論その過去も悲しい。だけどやっぱり、あんた自身が悲しいよ」
「おれが、悲しい?」
「ああ悲しいよ。涙が出るね。だってあんた、逃げてばっかじゃない」
ユアは眉を顰める。逃げる? おれが?
「逃げてなんかないよ」
「いいや逃げてる」
「逃げてなんかない!」
「逃げてるんだよ、あんたは!」
上半身を起こし、ユアもまたゼンを捩じり上げ、揺さぶらんという勢いである。だが体勢の上でやや有利のゼンが力勝った。
「あんた復讐って言葉に逃げてるんだ。復讐の檻だよ、あんた進んでそこに隠れてるんだ! 確かに檻の中まで鞭は届かないだろうよ。隅で耳を塞げば罵詈雑言も聞こえやしねえ。だけどあんたの頭を撫でよって手も届かねえんだ、あんた可愛いねって声だってそこじゃ聞こえねえんだよ。あんたが逃げてるから、あんたが復讐の念に囚われたままだから、あんた誰にも愛されなかったんだ。違うか? あんたが隠れ続けたばっかりに、悲しみが新しい悲しみを生んだんだ。違うかよ!」
「違う! おれは逃げてない、おれは悪くない! 悪いのは――」
「そういう言い訳が逃げてるって言うんだよ!」
ユアはびくりと肩を竦ませる。熱気に火照るゼンの顔。かつてこれほど激しい叱責を受けた事があっただろうか。ユアが知るのは裂けるような痛みと、打ち据えるような冷たい声ばかり。ゼンの言葉に暴力はない。なのに、ユアは痛みを感じる。痛い、痛い……だけど、どこが?
「なあ、ユア」
ゼンの声から煮え湯の熱が消える。残ったのは舌に甘い白湯の温もり。
「確かにあんたは悪くない。あんたが生まれた事は全然、悪くないんだ。誰もあんたを責められないし、あんたもあんたを責めちゃいけない。だけどね、いけないのはその後だ。あんたが言う“真実”ってやつを知ってさ、靄の中から抜け出してさ、あんた、どうした? ――あんた、それから逃げたんだよ。正面から向き合うのが怖くて、よくよく考えるのも嫌で億劫で逃げたんだよ、復讐って言葉を都合よく使ってさ。だって、そうだよな。辛い悲しいって過去を並べて見せてさ、だから復讐するんですって言えばさ、誰もあんたに同情せずにはおれんだろうよ。いや、だからって結局どういう“だから”だい、あんたは一体何をどう怨んで裁きを下そうっていうんだいって、そんなこと言う奴いないだろうさ。確かに許しちゃおけない罪もあったさ。俺自身聞いてぞっとする悪事もあったよ。だけど根本的な部分で、あんたやっぱり逃げてる。考えた事はあるか、え? 皆に愛されて育った罪って、あんた言ったけどさ、あんたその言葉の本当の意味を、考えた事はあるのかい?」
ユアは茫然とゼンをみつめる。ゼンが今言うような事を、ユアは聞いた事がない。教わった事がない。穏やかなのに、静かなのにこれ程体を震わせる声を、ユアはこれまで聞いた事が――。
「あんたね、さっきからずっと『愛されたい』って叫んでるんだよ。愛してくれ、抱き締めてくれって」
「そんな事……言って、ない」
「言ってるよ。俺にははっきり聞こえたよ。気付いてないのは、ユア、あんただけなんだ。あんた考えることを捨てて、本当に欲しい物から目を背けてさ、罪だ復讐だって言葉に大切な事を摩り替えて、さっさと檻の中に隠れちまったね。だから自分じゃ気付けなかったんだよ。ユア。あんたはずっと、『愛してくれ』って言っている」
「言ってない! 愛してなんかほしくない! おれは、おれは……」
悲鳴のようなユアの声は、今やすっかり湿っている。彼は今、夜の海にいる。いつ沈むとも分からない小舟で、荒れ狂う波に揺られている。月はすっかり雲に隠れ、己が信じていた“真実”という道標はもはや見えない。風鳴りのようなゼンの声が、ユアの小舟を左右に揺さぶる。逃げるな、ユア。あんたはずっと、愛されたかったんだ。違う、とユアは叫ぶ。そんなはずがない、おれが求めていたのは裁きの“時”だけ。幸福だった奴らの顔が、恐怖と苦痛に歪むのを見たいだけ……。
「ユア、聞いたろ、皇帝さんの言葉をさ? あんたになら殺されても構わないって、あの人言ったんだ。あの人あんたを抱き締めただろ。愛してやれなくて済まないって、あんたにそう謝っただろ? ほら、ちゃんと聞こえてるんだよ。あんたの声はさ、あんたが逃げさえしなければさ、ちゃんと響くんだよ『愛されたい』って」
ゼンの言葉が冷たい鉄の扉を叩く。優しく、気遣うように、コンコンと。檻の奥で淀むような影が、一つ小さく身動ぎする。闇との境目すらあやふやな人影は、青年と呼ぶにはまだ幼さを残す、赤い膝小僧の少年である。痩せ細り、飢え、泥に身を汚した少年は、恐怖に瞳を揺らして身を抱き締める。未知という恐怖、新しい風が彼を震え上がらせる。
事切れた従者の傍らに膝をついていたグレイスは、やおら立ち上がると彼らに向かって足を進めた。彼の歩みに合わせ、所在なく漂っていた精霊らがその道を開ける。静寂の、叢。
「おまえが私を見た時」
グレイスは言う。
「憎悪に満ちた目で私を見た時、私の体は震えた。恐怖と――喜びに。変な奴と思うかもしれぬ。だが確かだ。始まりの夜の靄越しのような姿ではなく、真正面から私に向き合ったおまえを、私は嬉しいと感じたよ。……今ようやく、私の心が知りたいと言って死んだ彼の気持ちが分かった気がする。我々はどこか似ていたのだね。私もずっと逃げていたよ、取り繕った冷静と無知に。彼やニンフは、私を檻の外へ連れ出そうとしてくれていたのだね」
ユアはますます怪訝そうに眉を顰める。グレイスが近づくに連れ及び腰になる彼の瞳は、得体の知れない物音に怯える小動物のようだ。グレイスはその傍にしゃがみ込んだ。
「私はずっと、おまえに惹かれていた。訳も分からぬままに。だがあの夜に大木の元へ、そして今この叢に私を呼んだのは、他ならぬ母の血だったのだね。呪われていようと、穢れていようと私には構わぬ。それが私を導き、おまえとこうして正面から語らう時間を与えてくれたという、それだけでいい」
「なんで……」
「家族だからじゃねえの」
ゼンが続きを請け負った。
「俺は頭が悪いからね、だからあんたが言う入り組んだ“真実”についちゃ正直よく分からない。ただね、これだけは知ってる。家族っていうのは、その本当の姿は、愛しながら叱ってくれる、何度手を振り払おうと抱き締めてくれる、馬鹿なお人好しの集まりなんだよ。血の繋がりはね、憎むためにあるもんじゃない。温かく鼓動を打つものだ。あんた、そのこと知ってたかい。復讐の色眼鏡抜きに、俺たちのことを考えたことがあったかい?」
……そんなこと、リヒィ=ミヒィは教えてくれやしなかった。馬鹿なお人好しの集まりだって? そんなこと、彼は一度でも言っただろうか。己が血を憎め、怨め、呪えよと。ユアが実際に触れ得た家族の記憶は、彼を害さんとする二本の腕のみである。その彼が、どうしてそれを愛ある温かき者共などと思えよう。
罪人に罰を。呪われた血に永久の眠りを。
ユアの海に月はない。だが、小舟の下の、泥かと思われた荒波の奥底が、それは美しい光を放っている事にユアは気付く。強い、しかしどこか優しい光が彼を誘う。ユアはもう一度空を見上げる。重く厚い雲に覆われた、体に粘りつくような深い闇。彼はようやく悟るのだ。目晦ましの靄から逃げ果せたと、一人真実の海を知り得たと思い込んでいたその場所こそが、実は汚泥にまみれた地下の底であったのだ。そこでは全てが歪曲し、憎しみに染まり、甘みさえも苦みに変わる。ユアはその、悪意の海とでも呼ぶべき魔の暗闇で、復讐の檻で、世界を逆さまに見せられ、そう教えられ、己の身が傷付くことを恐れて膝を抱え続けてきたのだ。ああ、真実を知らないのは、世界の優しさを知らぬは彼の方であった!
太陽の光さえ差さなかった檻を、今柔らかな光が包み込む。長い年月をそこで暮らし、すっかり凍りついた二本の足を、兄弟の手が優しく温める。彼を、ユアを憎悪に繋ぎとめて離さなかったのは、地下牢ではなく、母親の裏切りでもなく、彼自身であったのだ。檻の鍵を閉めたのは、他ならぬ彼の細腕。逃げることを選んだ彼の、弱さが彼を閉じ込めたのだ。
ユアの手が、無意識の内に持ち上げられる。足元を照らす光に触れようと。彼の心がそれを求める声に従って。
が、その指先が、今しも一つの新たな悲しみを呼び、まだ温い血に濡れたその指先を見た途端、ユアははっと躊躇した。この手は、この魂はもう朱に染まり切っている。それを今更、それこそ今更、おれ自身が許しを求めてどうするのだ。
素早く下ろされかけた彼の手を、しかし寸分早く、二つの手がしっかと握った。黒の手に、白の手。ゼン、それからグレイス。怯えて震えるユアの手の平を、彼らはただ黙って握り締める。ユアの喉が苦しげに音を漏らす。――ああ、どうして、この人たちは。
がちゃりと重厚な音がして、錆びついた鉄の鎖子が外される。少年はおずおずと檻から這い出る、小舟から波間へ――かつて見ぬ世界へと――息を止めて飛び込む。ざんぶという波の音。合わせて流れたのはただ一粒の、ユア純真の涙であった。
――ぱち、ぱち、ぱち。
間延びした、厭味たらしい拍手が響く。三人の兄弟は夢から覚め、それぞれに息を呑んだ。――ダレス。
「いい物を見させて頂きました。三流役者の下手な芝居よりは楽しめましたわ」
ユアはゆっくりと立ち上がる。その両脇を固めるように、ゼンが、グレイスが。
「ああ、素晴らしき兄弟愛。一国の長と、一族子飼いの暗殺者、それにみすぼらしい乞食とくれば。ふふ。なんともまあ珍妙で滑稽な取り合わせですこと」
この思いもかけぬ告白劇と、それに続く真実の絆の有様に、魔導師共はすっかり戸惑い、畏れ、狼狽えて、自失の渦に囚われている。全く役立たずとなった彼らを、ダレスはまるで顧みない。
「グレイス皇帝。あなた様が弟君を想う気持ちはよく分かりました。国に帰りましたら、急ぎ臣民にも教えて差し上げねばね。おまえ達の君主は、かの恐ろしき魂食らいの前に膝をつく男ぞと」
「好きなようになさるがよい」
元より皇帝の座に執着はない。引き摺り落としたければそうするがいい。
ユアの意識を白濁が侵す。残された時間の儚さを、ユアは全身で感じ取る。それでも彼は両の足で立つ。噴き出る汗を拭い、妖艶に微笑むダレスを正面から睨み据える。
「あの女は」
呟くようにユアは言う。
「おれと、同じだ」
彼女を包む、黒の炎のごとき念。憎嫉の世界をしか知らずに育った、哀れで醜く、孤独な女よ。
「終わらせないと」
血の呪いを? ――違うだろう。血が血を呼び、憎しみが憎しみを呼ぶ、負の感情の亡者が巻き起こす悲しみの連鎖こそ、終わらせねばならぬ悪弊である。
「ユア」
邪魔な虫を追い払うように、味気なく手を振ってみせるユアの背にゼンが呼び掛ける。ふり返ったユアの表情は、まるでさっぱりしない、それは情けない物だった。
「おれはやっぱり君達を殺すかもしれない」
「…………」
「君達を殺す事が、おれにとって唯一の夢だったんだもの。でも」
最後に「おかあさん」と言ったのはいつだったろう。応えのない呼び掛け、何も掴み得ない虚しい手。母を、肉親を、怨むべき対象と据え改めることで、与えられない愛の言い訳にした。淋しさを感じる己自身からも逃げた。だが今、彼はついに世界と対峙する。
「まず“おれ自身”と向き合ってみる。それから君達を殺すかどうか考える。だから離れて待ってて。答えが出る前に死んだりしたら、迷惑だから」
ゼンは思わず苦い笑いを浮かべる。これで、よかったんだ。俺がこいつに出会った事、いや、今となってはユアの白々しい演技に導かれた必然の出会いだろうが、それでも俺は後悔しない。俺はきっと、己の血に課せられた使命を果たし終えたのだ。なんだろう。銅貨が詰まった布袋を手にした時よりも、ずっとこう……柔らかい、そんな満足感が、体を芯から温めている。
ああ、もう死んでもいいかなあ、などとは欠片も思わない。笑顔の下で、ゼンをどう殺さんかと考えていただろうユアである。だが、時折響く彼の笑い声が、根から澄んでいた事はなかったか。なかったとは言わせない。偽りの顔さえ超えて、ひと時でも腹の底から笑い合ったのだ。そうでなければ、かの朝にユアの涙は零れなかっただろう。だから、グレイスのように自己犠牲に身を挺してまで彼を慰めようなどとは思わない。易々と殺されてなるものか。だが少しばかり、今となってはあの世の母も、百泉の下で俺を迎えても頭ごなしに叱りはすまい。そう、思う。
中途半端な笑みを浮かべたままのゼンの肩に、グレイスがそっと手を乗せる。救えない父を共に持つ兄弟である。ゼンは小さく頷くと、グレイスの促しに応じた。
二人が十分に距離を取るのを目の端で追うと、ユアは体ごとダレスに向き直る。ダレス。淋しい世界の虜となった女よ。彼女もまた、檻の中で膝を抱える少女である。ではユアは、彼女に手を差し伸べると? ――残念ながら、ユアは紛れもなく残忍な魂食らいなのだ。兄弟の思いに涙したとて、彼の身に滲みた血の不浄が清められるはずがない。檻があるなら壊すまで。鉄も鎖も憎しみも、全てこの手で焼き尽くしてくれよう。
「サルマン」
彼は詠唱も行わない。長ったらしい言霊など、彼には必要でないのだ。
「ラジネ。アキュロス――お願い」
木偶のごとき魔導師団から、畏怖と感嘆の声が漏れる。大地が揺れる。ただ一つの身で、四亜種の三体までを使役するこの男。JUGMA。長い眠りの時を経て、現世に鍛え直された悲しき伝説の魔剣。エルフを地に堕とさしめる魅惑の呪い。その力が今、彼の生命の全てを掛けて鞘から抜き放たれる。刀身に朝陽が映る。精霊らの舞う姿、剣の一閃を辿るかのごとし。
「ようやく御覚悟が出来ましたのね。すっかり待ち草臥れましてよ」
――世界よ。
今日、やっと再び見つけ得た懐かしき、温もりある世界よ。
――もし応えてくれるなら、今ひと時の力をどうか。
どこまでも青い厚地は言葉を発さぬ。彼の深慮など人間如きの知る処ではない。だが、目を開いたユアに迷いの色はなかった。
ユアの心臓がどくりと震える。熱い血潮が全身を巡る。彼は今、生きている。