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13 揺るる灯火

「滑稽だ」

 地の底から湧き上がるかのごとき声である。

 ゼンはぎょっとしてユアを見た。笑いに震える身体を抱き締め、ユアは小刻みに揺れている。ようよう上げられた顔は正に狂易の様。そのあまりに壮絶な彼の顔に、ゼンはこれまでを共にしたユアが、かつてどのように笑っていたかすら思い出せなくなる。ゼンの名を呼ぶ彼の声がどのように響いたか、ゼンにはもう分からない――。

「恐ろしく滑稽だ。痴れ者が。皆、絶望のうちに死ね」

 狂気、怨咎えんきゅう、憎悪、そして又狂気。ユアが呟く呪いの言葉に、大魔導師団の威勢は跡形もなく打ち崩された。集団とは脆いものである。一人挫ければ悪病は瞬く間に周囲にまで伝染する。我を忘れて諸手を振り乱し、逃げ散る者は数知れない。輝く剣が地に落ちる様は、夜空を流れる星のようにさえ見え、幻想的で場違いなこと甚だしい。ユアはくつくつと喉を鳴らした。

「グレイス」

 呼ばれてグレイスは身構える。足の先から頭の頂辺までを、細かい震えが駆け抜ける。

 ぞっとするほど冷たい声で、しかし口調だけは平生の彼らしく、ユアはにことこう言ったのだ。

「血文字の言伝ては読んでくれたかな」

 はっとグレイスが息を呑む音は、ゼンの耳にまで届きそうな。彼の噛み締めていた唇が薄ら開く。場の異常さを堪えんとしてか、大地を踏みしめるように広げられた両足から、すうと力が抜けていくらしいのをゼンは認めた。

「血の……まさか、おまえ……」

 代わりに呟いたのはダレスである。ユアは張りついたような笑みをグレイスから逸らさない。

 そうだよ、とユアは答える。

 秘鑰はついに鍵穴に嵌まったのだ。血濡れた秘史は今こそ陽の照る元へ。ユアの甲高い笑い声は、深く閉ざされた扉が軋む音のよう。

「――あれを書いたのはおれ。無知で阿呆なユア=A=フロイアントの姿は虚像、隠れ蓑に過ぎない。皆皆、よくもまあ騙されたものだね。目隠しされたまま歩き回る君達は、本当に馬鹿馬鹿しかった。お蔭でたっぷり楽しめたよ」

 ユアは笑う。気狂いの哄笑。

「おれは全部知っている。スージーの罪、ローザの罪、レザフの罪、ダレスの罪、グレイスの罪、おれ自身の罪、ローハー全臣民の罪。それから」

 ユアはくるりとゼンにふり向く。それだけでゼンの身が無意識に竦みあがる。

「ゼン。きみの罪」

「俺の……」

 ユアはこくりと頷く。そう、きみの罪。生まれ出でたこと、それがきみの罪。おれと同じ、穢れた血が背負う業。

 ユアはゆっくりと鼻から息を吸う。ああ清々しい、バレリアの空気。果実の甘みを含んだ風が、ユアの肺を巡っていく。ユアはうっとりと目を閉じる。この瞬間、この“時”。どれほど待ち望んだ事か。どれほど、どれほど……。

 さあ御立ち合い。穢れ切った命を掛けた、ユア、一世一代の種明かしを始めよう。


   第十三話  揺るる灯火


 かの人の声は、風に乗ってやってきた。

「だれ?」

 ユアは顔をあげて問いかける。微かに自分の名前を呼ぶ、くすぐるような柔らかい声。

「だれなの?」

 しかし返事はない。

 ユアの妙な様子を見咎めたらしい。彼の教育係が立ちあがり、しなる鞭を手にやって来る。びしりと壁を打つ音に、ユアは小さな身を震わせた。痩せ切った両手を交叉して顔を庇う……。

 声は執拗に呼びかけてくる。次の日も、その次の日も。ユアは鞭で打たれることを恐れたが、優しい誘惑に抗うことができない。新しい傷をいくつもこさえる内に、ユアは唇を動かさず、喉を震わすことすらもなく、その微かな声と意思を交わす術をみつけた。ユアの顔が嬉しさに綻ぶ。

 ――きみはだれ?

 不思議な声は、ユアの耳元だけで楽しげに弾む。

 ――僕の名前はリヒィ=ミヒィ。永遠の子どもだよ、ユア。

 ――えーえんって?

 ――悲しいことさ。

 ――ふうん。

 ユアに出来た、唯一の話し相手である。血の臭い、精霊の輝き、鞭の音に加えて、この優しい声がユアの友だちとなった。ユアは食い物を貪る餓鬼ように会話を求め、楽しんだ。

 ある日リヒィ=ミヒィが言う。

 ――ユアよ。きみは囲われた世界で暮らして幸せか? なにも知らず、ただ好いように使われるだけで満足か?

 ユアには彼の言うことがよく理解できない。しあわせ、まんぞく? なんだろう、それは。

 ――僕はきみに新しい喜びを見せてあげることができる。楽しい祭りにだって参加できるさ。

 ――たのしい、まつり。

 ――そうだよ、ユア。きみには世界に復讐する権利がある。

 ふくしゅうするけんり。ああ、きれいな言葉。

 ――真実を知るのだよ、ユア。真実の意味は分かるか。甘く、時に苦いものだ。噛めば噛むほどその舌触りを確かにする。どうだ。この珍味、味わってみたくはないか。


「リヒィ=ミヒィ」

 声の芯まで震わせて、ダレス。

「あの男が……呪われた御子が、おまえに知識を与えたというの? この国の真実を?」

「そう。彼がおれの目を覚まさせてくれた。おれだけが唯一、彼のお蔭で、ローハーの眩惑の中から抜け出すことができたんだ」

「そんな……なぜ……」

 なぜという言葉は彼に通用しない。ユアは静かにそう言った。

「リヒィ」

 呟くようにゼンが漏らすと、ユアは彼にふり向いて薄っぺらに笑った。

「呪われた御子。最強の魔導師。輪廻の外より見守る者」

 グレイスの脳裏をかの人の姿がよぎる。薄汚れた衣服、不気味な被り物、耳まで裂けたかのような口。彼が、彼こそがユアをこの場へ導いたのだ。痛みばかりの真実を教え、怒りにレザフ皇帝を殺させ、その身に呪いを受けさせて。

 ユアが言う通り、彼になぜという言葉は無駄だろう。問えばきっと、彼はこう答える。

 ――暇潰し。

 グレイスの身がぞくりと震えた。リヒィ=ミヒィ。永遠の子ども。あまねく蔓延る不幸を食らい、世界の終焉に目を凝らす男。

 ユアは言う、罪がその裁きを受ける“時”がきたと。甘美な酔いに浸るかのような声である。

「おぞましいダレスにレザフ。憎悪の女に愚かな男め。きみ達最大の罪は、人間と魔族を交わらせ、穢れた血をこの世に生み落とさせたことにある」

 ユアの細い指にさされ、ダレスはひぃっと悲鳴をあげた。

「スージー。希代の才女にして愚者。我が子を手に掛けんとした子殺しの罪」

 グレイスがはっと息を呑む。地下牢で生まれたユア。そこで死んだスージー。まさか彼女はユアを、我が子を殺そうとし、その末に……。

「庭師見習いのローザ。子を売り、妻を売り、強欲の女に悪魔の提案を囁いた罪」

 いっそ厳かでさえある静かな語りが、隠された罪を暴いていく。澄んだ朝陽の元に晒していく。諸人の渇いた口は動かず、ただユアの面を見守るばかり。息の気配すら身を潜め、ついに開かれた重き扉の前に、身じろぎもせずに佇んでいる。

「第三十七代皇帝、グレイス」

 ごくりと音を鳴らして唾を呑む。ユアの瞳が――血の繋がりを感じさせて止まない、母の面影を残す瞳が――グレイスをひたと捉える。

「望まれざる血を継ぐ者。母に愛され、臣民に愛され、陽に愛されて育った罪」

 突然、ユアは腹を震わせて笑った。笑いながら、グレイスを睨みつけた。

「ただ、義父の歪んだ愛情だけには参っただろうね。あの女に似ていたことが災いの始まり」

 グレイスの体がびくりと跳ねる。嫌な汗が噴きだし、顎を伝って垂れた。

「十のつく日の秘め事。警衛の兵は皆知っていたよ、グレイス。男の身でありながら、義父の愛を受けいれなければならない、見目麗しい皇嗣の苦痛は」

「…………」

 グレイスの視界が白む。熱くなった血が耳の奥を流れる音が聞こえる。その彼の傍で従者が唇を噛んだ。あまりに強く噛んだために皮膚が破れる。彼は知っていたのだ。常にグレイスの近くに侍る彼だからこそ、十のつく日の翌朝は、グレイスの体から麝香の匂いが漂っていることに気づいてしまった。そしてそこに見つけてしまったのだ。スージーを諦めきれなかったレザフが、養子たる彼に強要した、許されざる情事の跡を。

 一頻り笑い終えると、今度ユアはぎりりと歯を噛んだ。穏やかでさえあった声が激しさを増す。グレイスを睨む目に憎悪の炎が宿る。二人を繋ぐ、切れる事のない血の交わりが、ユアの怨嗟をより一層強く深めるのだ。

「だがその程度の痛みで許されると思うな。おまえの罪は、真実を知らない罪! 無知のまま生を享受する罪! 血濡れの玉座に悠然と座る罪! 目を塞がれ、耳を塞がれ、人の手に守られて生きる罪! おまえが息をし、その心臓が一つ震えるだけでもおれは――」

 かっと開いたユアの口から、大量の血が噴き出でた。鎖が切れたように、魔導師の一団がざわめきを上げる。あれこそが皇一族を包む最強の守り、恐るべき魂吸いの呪いの実態である。血を、命を、枯れるまで吸い尽くす美しい薔薇。一度身に刻まれれば焼かれても消えぬ、深紅の薔薇。

 グレイスは目を見張る。青い草の上の朱の溜り。あの夜、彼の回りが動き始めた十のつく日の夜、レザフ先帝の寝室でみた血溜りとはまるで違う――息が詰まる程な鮮やかさ。あの血。目に飛びこむあの赤い血こそ、穢れ、嫉み、悲しみ、策謀、屈折した愛の果てに生まれ、そして我が身の半分を今も流れ巡る、血。

 崩れ落ちるユアにゼンが取り縋る。正気の沙汰ではない。ユアは全てを知った上で、全てを承知した上で何もかもを嘯きで通した、知能的な殺人鬼なのだ。スージーの冴える頭脳は彼の中にも生きている。ユアは何も知らない傀儡ではなかった。無垢の皮をかぶり、笑みの奥にぎらつく刃を秘め、衝撃と恐怖の裁きを下すこの“時”だけを待ち、生きてきたのだ。有能ぶる大臣らでさえ見破れなかった、諸人の想像の範疇を超えた、彼は類稀なる策略家なのであった。

 しかしゼンにそれを考える余地はない。彼の行動規範はただ一つ、おのが信じるままに動け。目の前で苦しそうに血を吐く殺人鬼がいればどうする? ――助けたいと、思う。

「ユア! しっかりしろ、ユア……!」

 悲痛な声だ。涙に濡れている。その場にいる全員が茫然と立ち竦む中、ゼンの震える声だけが響く。ユア、ユア、しっかりしろ……。

 ユアは汗にまみれた顔をあげた。灼けた肌に幾筋もの線を描き、ゼンの顔は見事なまでに間抜けだ。その顔にもはや恐怖の色はない。ただ救いを求める人間に、ユアに向けられる慈愛の念のみ。ゼンの生き様が、ユアの呪われた過去が築いた壁の向こうから、そっと手を差し伸べる。

「ゼン……」

 駄目だよ、とユアは言う。ユアはその手を取ることができない。なぜって、

「ゼン。きみの罪はね」

 その身体に流れる不浄の血。ユアは首だけを動かしてグレイスをふり仰いだ。

「おおまえの父が、家族を悪魔に売り渡した男が、その後どうなったか。教えてあげようか。海を渡り、バレリアの地へ辿りついた男は、事もあろうに――新たな胤を残した」

 静寂。ユアは自嘲的な笑みを浮かべた。

「ゼン。ゼン・デイアフォード。きみのその姓は偽りの姓。本当の名は……イスケ。ゼン=C=イスケ。バレリアに逃れたローザがこの地の女と交わって出来た子、それが、きみ」

 ――ゼン。皇帝グレイスを中に据えて、おれたちは、おれたち三人はね、呪われた血に縛られた兄弟なんだよ。


 罪人に罰を。呪われた血に永久の眠りを。


「なんと……」

 グレイスは思わず声を漏らす。声は恐怖に、驚愕に震えているが、それを今さら気にかけてどうなろう。血と血、憎しみと憎しみがぶつかるこの場で、皇帝の威厳を着込む必要がどこにある。

 あの子ども。ゼンとかいう黒肌の子ども。まだ成長の最終段階にも至っていないような彼が、血を分けた、もう一人の実弟だと?

 ゼンは崩れるユアの肩を抱きとめたまま動かない。ユアの言葉が耳に刺さっている。刺さっているのに、その意味をまるで理解することができない。

 ――呪われた血に縛られた、兄弟なんだよ。

 呪われた血。スージーの、そしてローザの。思い出話にしか聞いた事のない、ゼンが生まれる前に病を得て死んだという父親が、今の悲劇の幕を開けた張本人、ローザだというのか? そしてその血を継ぐ片割れが、現ローハー皇帝。まさか。ゼンはしがない日暮らしだ。乞食同然の“なんでも屋”だ。女手一つで彼を育て上げ、働きすぎた末に呆気なく死んでしまった母親に、あの世でどやされるのはご免だからと、生にかじりつく毎日を送る浮浪者だ。秘鑰の国から海を渡ってきたおぞましい呪詛が、この身に刻まれているだなんてことは、

「あり得ない。そんなこと、あり得る訳が……」

「でもそれが真実だよ。真実は時に信じがたい苦み辛みを含む」

「だけどそんな」

 言いかけてゼンは口をつぐむ。真っ直ぐに向けられたユアの瞳。青いガラス玉のような目に浮かぶ、これは憎悪と殺意の光。その鋭すぎる光に、ゼンは確信せざるをえなくなる。これほどの怨念、まさか虚像の上に生まれるはずがない。ああ、ああ、俺は――俺は、憎しみに満ち溢れた血の輪廻の、最後に行き着いた果てだったというのか。

 ――おれは、ゼンを殺せないかなぁ。

 あの日、涙ながらユアが漏らした言葉の意味を、ゼンは今こそ知る。

「この……」

 震えた声である。ダレスの、醜く肥えた身体の内から絞り出されるような声。

「穢れめ。揃いも揃って不吉な。今ここで、全て刈り取ってやるわ!」

 絶叫である。サルマンの衣が風をはらみ、三本の矢は再びユアに向けられた。地獄の劫火がユアの心臓を狙う。ユアはゆっくりと立ちあがり、まだ取り縋って離れないゼンの胸を、右手で強く押しやった。

「ユア!」

「彼を守れ!」

 ローザの血を継ぐ二人の男の声が重なる。刹那、青い草を千切って風が舞う。

 グレイス率いる精鋭の魔導師団が、彼の願いに応じて白の扉を開ける。瞬く間に姿を現す何十もの精霊達。赤に白、青に緑と、目に鮮やかな薄衣が宙にたなびく。

 奇声と共に放たれたダレス自慢の三本の矢は、風を切ってひょうと飛び、ユアの痩せた身体を貫くかと思われた。が、一瞬早く彼を囲んだ精霊群が、身を挺してそれを防ぐ。炎の矢は火花となって散り、それに射られた女たちも、金切り声だけを残して消え失せてしまう。彼女らを使役していた魔導師は、力を失って次々に倒れる。

 緑煙のように優しくゆらめく精霊らに包まれて、ユアはその青い目を見張った。

 ――どうして。

「邪魔立てなさるおつもり!?」

 赤い唇の端に泡など浮かべながら叫ぶダレスに、グレイスはまるで応じない。魔導師の一団を残し腰の剣を抜きさって、ユアの元へと駆けてくる。ただ一人の従者が、こうなればどこまでも、と彼の後ろをひた走る。

 ――なんで。

 復讐の念に満ちたユアの心に一握の砂にも似た空白が生まれる。が、それも束の間であった。息を切らし、熱気に顔を染めたグレイス皇帝。跳ねる小麦色の髪、ユアを映す空色の瞳、ああ――母の面影。この首を締め、この身を捨てて己だけ助かろうとした、許しがたい女。忌まわしい記憶が蘇ると共に、隙間は湧いて止まぬ憎しみに再び埋め尽くされたのだ。

「浅ましいぞグレイス! 恩を売って裁きを逃れようという気か!」

「馬鹿な」

 風を受けずとも揺れる精霊の衣の間をくぐりながら、グレイスはふと笑みさえ漏らす。握り締めていた剣を放り捨て、あの夜、あのおぞましい夜、触れたい衝動に駆られながらもついに動けずにいたあの肩に、今こそ、両の手を伸ばす。細く、頼りない肩。これまでどれ程の重みがこの肩に圧し掛かり続けたことだろう。想像もつかぬ。幾つの夜を、この肩は震えて過ごさねばならなかっただろう。想像もつかぬ。

 今、それを抱く。

 勢いを余らせて飛び込んできたグレイスの身体に押され、ユアは大きく仰け反る。朝暾ちょうとんが照らすユアの瞳は、驚愕に打ち震えていた。力なく開いた口は、戸惑いの声すら漏らさない。

 許される罪ではないと、死を以てしても償いきれる罪ではないとは分かっている。だがどうしても体が動く。愛を知らずに育った、母親にまで疎まれ殺されかけたこの少年を、この弟を、抱き締めたいと思ってしまうのは、これは罪の上乗せだろうか。少しでも温もりを与えてやりたいと、彼はきっと見た事もない憎しみのない世界、春の風のような心地よさを感じさせてやりたいと思う、この願いは欲深い己の傲だろうか。

 それでも。

 ユアの背を掻き抱く手に力をこめて、グレイスはその髪に顔をうずめる。

 血濡れた皇一族の歴史。その上に立つこの浅ましい身。全てを捨てようとグレイスは思う。このような少年を犠牲にし、ようやく成り立つような下らない国なら、そんなものは全て。

「離せ!」

 気を取り直したユアが叫ぶ。腕を我武者羅に振り回し、まるで予想だにしない行動をとるグレイスを引き剥がそうとする。しかし彼は離れない。元より体躯に歴然の差を持つ二人だ。胸板厚いグレイスを、ユアの細腕がどうやって押し退けよう。

 誰もが呆けたように二人を見守る。ダレスは両手をだらりと下げたまま。精霊でさえ、この哀れな兄弟の結末やいかにと様子を窺っているようだ。ユアばかりが気迷いに満ちた声で叫んでいる。

「触るな! おれに触るな!」

 どこか懇願するような響きですらある。

「今更理解ある振りなどするな! おれはおまえを殺すぞ!」

「それでおまえの気が済むのならそうすればいい」

 ユアの騒ぎがぴたりと止まる。

「おまえの言う通り、私は罪深い男だ。目晦ましの中にあえて身を置き、真実を探そうともせず、用意された居心地のいい椅子に座って」

 許してもらうつもりなどない。ただ、言わずにはおれんのだ。

「済まない――おまえを、愛してやれなくて」

 ユアの喉がひゅうと音をたてる。

 震える手がゆっくりと持ち上がる。この、体を包み込む確かな温かさ。地下牢の冷たさに身を伏せて眠った幼児期の記憶が、じわり、じわりと溶かされていく。

 ――おまえを愛してやれなくて、済まない。

 ユアの手が更に大きく震える。しかしなぜ震えるのだ。なぜグレイスの背に伸びようとする? この温もりを、この優しさを、まさか受け入れたいと思っているとでも?

 ユアは歯を食い縛る。唇の端が切れて血が滲む。小刻みに揺れる歯の隙間から荒い息を吐き、同時に己の腰に手を伸ばす。驚いたゼンの口が開くよりも早く、光の速さで抜いた剣を、素早く逆手に持ち替える。

 ――愛してなどほしくない……愛してなどほしくない!

「ユア! 駄目だやめろ!!」

 ゼンの絶叫が走る。しかし剣は振り下ろされる。まるでユア自身の迷いを断ち切るかのように、より一層その勢いを増して。


 鮮血が、舞った。

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