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12 秘鑰、穴に嵌まりて

 夢を、見ていた。


   第十二話  秘鑰、穴に嵌まりて


 ――おかあさん。

 恐る恐る、呼んでみる。

 ――おかあ、さん。

 返事はない。

 代わりに暗闇から伸びてきたのは二本の白い腕で、痩せ細り、血管が青く不気味に浮きあがり、皮膚には醜い色の斑点が浮かんでいる。どこか腐臭すら感じる。

 無言の腕は、躊躇うことなく幼子の細首を絞める。悲鳴を上げることも敵わず、幼子は空気を求めてひくひくと痙攣する。細い腕とて、振り払う力がこの幼子のどこにあろう。腐臭がするのは彼とて同じことだ。

 すぐに鉄と鉄が触れ合う耳障りな音が響く。

 薄れていく意識の中ですら、幼子はこれに続く二つの音をありありと思い浮かべることができた。もはやお決まりの、定番化された流れである。ほら、風が切られるしなやかな音でしょう。ほら、打たれて叫ぶ人の悲鳴でしょう。ほら、ほら、やっぱり。

 またある時には女のすすり泣く声が聞こえる。

 ――ここから出して。

 涙に濡れた訴えにも、しかし応える声はない。女はそれでも声が嗄れるまで諦めない。

 ――お願い。私に罪はないじゃない。罪深いのはこの子よ。お願いよ、ねえ。私だけ。私だけ、ここから出して。

 枯れ木のような女の声を聞きながら、幼子は薄い瞼を閉じる。もう二度と覚めませんようにと強く、強く願いながら。涙は全部、長い睫毛が飲んでしまったに違いない。もう零れない。


「ユア」

 それでも時が来れば身体は起きる。幼子の世界に、朝も夜も未だ訪れたことはない。彼が知っているのは、万年水に湿ったような地下牢ばかりだ。

「ユア」

 ――ああ、恨めしい……。

「おい。まさか死んじゃいねえだろうな」

「うん?」

 ユアは身を起こした。――朝である。


   ◇


 腹は減ってるか、とゼンは言った。ユアは静かに首を振る。

「そっか。ま、無理はしなくていいけど、食える内に食っとけよ。病に勝つにはまず体の健康から」

 どこぞのお医者先生のような事を言う。ユアは曖昧に微笑んだ。

 食えと言いながら、ゼンが齧っているのはどう見ても草の茎だ。割と太い。ユアの指二本分はあるだろうか。じっと見ていると、食うか、とゼンが茎を差し出した。先がゼンの歯のためにささくれているのを見咎めると、ゼンは決まりが悪そうな顔をして茎の上下を持ち替えた。

「ほれ」

「うん、いい。ありがとう」

 意外と甘いのよ、これが。そう呟くと、ゼンは再び熱心に茎をしゃぶり始めた。

 ユアはうっつらと顔をあげる。空の東端が白み始めている。

 ふと、ユアの人間離れした聴覚が微かな物音を捉えた。波が押し潰され、また新たに生み出される音。間違いない。西から船団がやってきた。

 ユアは半魔である。体を流れる血の半分は魔族のものだ。その魔族の元をずっと辿れば、神に愛された子エルフに行きつく。彼らは全てに於いて他の人種から抜きん出た人々だ。身丈も、美しさも、魔力も、そして五感も。長く遠い流れを経て、それを受け継ぐユアであるから、やはり彼の耳も鋭い。無論ゼンが海の音に気づくはずもなく。

 頭はなかなか冴えている。競り上がるような動悸もない。ユアは満足してにっこりと微笑んだ。

 さあ、最期の時がやってくる。快く迎え入れようではないか。


  ◇


 グレイスは青靄せいあい立ち込めるバレリアの大地に足をついた。清々しい空気である。

 さすがは果実の国と言われるだけある。港に立つだけでも緑黛の一端を思わせる木々を臨む事ができるのだ。頻繁に石を細工するため、その粉が常に宙を漂っているローハーとは風の澄み具合が違う。木の温もりと石の冷たさ。二者はこのような部分にもその違いを現すのかと、グレイスは少し検討外れの事を考えた。

「ダレス様には、とうに御着きのようで御座いますね」

 なるほど、船が幾艘か並んで繋がれている。見張りらしい兵士がグレイスらをみつけ、膝を折って頭を垂れる、最上級の礼をした。彼らは見るからに驚き、うろたえている。それに構わず、グレイスは右手をひらと振っただけで、声の方に顔を向けた。静かな目で傍に立つのは、あの日彼が怒鳴りつけた従者だ。おまえなど付いて来ずともよかったものを、とグレイスが言うと、忠実な従者はにこと笑った。

「命は義に縁りて軽し、で御座います」

「何も戦争に赴く訳ではない」

「しかし二度と帰らんと御決意なさっていることに変わりは御座いませんでしょう」

 グレイスは息を呑んだ。目を大きくして従者をみる。

「二十余年、畏れ多くもあなた様の御傍に控えさせて頂きました身です。不肖ながら、あなた様の御考えも、少しばかりは御察しできますかと」

 ふ、とグレイスは微笑んだ。言いおるわ、と。

「止めぬのか」

「無駄骨でありましょうや。ですからここまで傅いて参ったのです」

 あなた様は今御隠れになってよい御仁ではございません。明けゆくバレリアの冷える空気に、従者の声が穏やかに滲みる。グレイスは静かに目を細めた。


  ◇


「――『喧騒と慈愛に満ちた国に朝が来る』」

 リヒィ=ミヒィである。彼はある屋敷の、あろうことか屋根の上に断りもなくよじ登り、朝日を見ながら好い気分で嘯きの真似事をしている。

「『狂った宴はより一層熱を増しながらその終焉へと向かう。グレイス、ゼン、そしてユア。抗いがたい運命に導かれ、三人の男はついに同じ厚載の上に立った。それぞれに思うところ在り、又その抗いがたい衝動が突き動かす処に拠って』――どうだい、ヌエ。こういうのは」

 怪しい笑みに口を歪め、ふり向く先には一人の青年。ヌエと呼ばれた彼もまた、屋根に腰かけて憚らない。鬱蒼と茂る森のような髪は絡み、色もまた珍妙で、淡い紫をしている。所々に白と黄にそれぞれ染め上げた髪が混じっていて、ひどく目立つ。着ているローブは質素なもので、その上あまり清潔そうではない。リヒィ=ミヒィとまではいかずとも、彼もまた、相当に不気味ないでたちである。

「くどいな。それに『抗いがたい』を二度も使っている。だが最初の一文はなかなかいい。……そうだな、私ならばこう書く」

 ――喧騒と慈愛に満ちた国に朝が来る。饗宴は静かに終幕へ向かう。

 グレイス、ゼン、そしてユア。三人の男はついに同じ大地の上に立った。それぞれの思いを胸に抱き、その衝動が突き動かすのに従って。

「ふうん」

 リヒィ=ミヒィはつまらなさそうに鼻を鳴らす。

「それよりも、みたまえ。ユア達が動き始めた。――ああ、いい具合。北西からダレスがやってくるぞ。皇帝は……おや、まだ港ではないか。急がねば祭りに間に合わんぞ。このままいけば、そうだな、彼らはスプダイの外れで鉢合せすることになろう。ヌエ、これはあなたの御膳立て通りか?」

「さあ」

 ヌエは曖昧に呟いた。

「私は予見者ではないからね。ただ時々道を示してやれるくらいで。私の仕事は見届けること、そして書き残すこと。それだけ。なるべくこの世界に関与したくはない」

「ふうん。そうかい」

 生の輪廻すら超えた者、そしてその輪廻を回し始め、この世界に命を吹き込んだ者との会話が、屋根の上で静かに交わされる。やがてどちらともなく黙りこむと、“時”が来る瞬間をみようと息を潜めるのだった。


   ◇


 ゼンの顔は青褪めている。唇は戦慄わななき、足は震え、目は左へ右へと動いて忙しない。

 二人はくさむらの中にいる。普段はおよそ好んで寄る場所でもあるまいに、いまやどこをみても人、人、人である。しかも先日の野次馬共とはまるで違う。上質のローブを着込み、腰には業物と知れる剣を佩き、胸に紋章を光らせ、いかにも知識と力に満ち満ちた男たちが、群生する葦のように屹立しているのだ。これで怖れ入らぬはずがない。

「な、何だよこいつら……」

 まさに一瞬の出来事であった。熱病にうなされたように海へと進み続けるユアに仕方なく従い、この叢に差しかかった途端、待ち構えていたように人垣が立ちあがったのは。

 そこ、この国の首都にして最大の港町、スプダイまであと丘を一つ二つというところ。バレリアに決まった王はいない。一族の特性にならい“緑”や“風”などの名を冠した諸侯が群立しているのだ。彼らは互いに手を取り合い、バレリア各地に一定の勢力を守っているのだが、このスプダイだけは中立点とされている。訪う者を拒まぬ土地だが、何人の支配も受けぬ聖域でもある。ここでは全街人こそ王なのだ。砂漠のオアシスにも似た街である。貧は貧を呼び、細民街は細民街を生むが、富も往々にして貧を招くあたりがこの世の面白み。この一帯も例外ではなく、やはり乞食や浮浪者の類が多く集まる。それでこの囲い、乞食崩れの強盗団かと思ったゼンだがそうでもない。みよ、彼らの容貌。その伸びた背筋を見る限りでも、卑しい身分とは格が違うと感じられはしないか。

 ユアは神妙にしている。突然の来襲にも動じていない様子だ。石のように静かで、彼がそうである限り、どうやら山のような者共も動かぬ腹でいるらしい。それがゼンの混乱を何とか限界の一手前で押し止めている。

 彼らは一様に、ある人物を待っていた。その、ある人物というのが。

「――あら、まあ。何年振りかしら」

 不意に、甘ったるい声が響いた。それだけで、まるで彫像が並んでいたかのようなこの空間に、ふとある種の人間臭さが生じる。傀儡に、魔女が命の息を吹き込んだに違いない。

「御久し振りですこと。地下牢以来ですわね、魂食らいのユア=A=フロイアント」

 ダレスだ。ゼンにとっては思いもかけぬ、女人の登場である。男ばかりが集う中で、彼女の存在は一際目立つ。ダレスとユアを忙しく交互に見遣りながら、ゼンはぽつりと呟いた。

「たまくらい? いや、それよりも――あのおばさん、一体誰よ」

 おばさんとは。畏れ多くも隣国の皇太后に向かってこれである、さすがはゼンの黒き舌よ。いくら知らないとはいえ、万が一彼女の耳に入っていれば――幸い、距離は十分に取られていたため、その突飛な台詞はユアのみ楽しむところとなったが――彼など一瞬で燃え滓とされることだろう。何せ、サルマンを使役して紡ぎ出す三本の矢は、光のように速く飛ぶのだ。一度刺されば、その肉をすっかり焼いてしまうまで決して抜けぬ。尤も、今度ダレスがその矢で射止めんと心に期しているのは、憎き血を継ぐユアただ一人であるが。

 ゼンの言葉に、ユアは一頻ひとしきり笑った。ダレスは丁寧に整えた眉をしかめる。面白くない。いくらユアが知能の足りない愚か者とて、これだけの人数に囲まれては萎縮もしよう。そう思っての布陣であったのに、その中心にあってなお大笑の余裕とは。

「おばさんはないよ、ゼン。あれはね、あの女は、レザフのお嫁さんなんだよ」

「は? レザフ?」

 前の皇帝、とユアが言う。はあ、前の、ね。ゼンは曖昧に繰り返したが、刹那遅れて絶叫した。

「皇帝の嫁! じゃあ、あれ、皇后かよ!」

「こーたいごー」

 それが“皇太后”を指しているのだと気付くまでに、ゼンはしばらくの時間を必要とした。いや、それよりも。

 皇后か皇太后かなどは正直どちらでもいいのだ。問題なのは、レザフ――ユアに殺された一国の長――の妻が、こうしてここに現れたということ。なぜ、となれば、導かれる答えなど一つしかあるまい。

 ――ユアに引導を渡しに来たのだ。

 ダレスはゆったりと微笑むと、わざとらしく鼻を手で覆いながら言った。

「お友達も御一緒ですのね。随分と小さなお子だこと。それに肌黒くて……みるからに臭そう。ここまで臭いそうですわ」

「なんだと! も一遍言ってみやがれ、この口裂け毒女が!」

 言ってから、しまった、と口を押さえるも既に遅い。持ち前の悪い舌が、考えるよりも先に反応してしまったのだ。ゼン一生の不覚である。ダレスの顔がみるみる引き攣っていく。それこそ毒の女かのごとき形相。怯えで泡すら噴きかねないゼンの隣で、ユアがけたけたと笑い転げた。息をするのも苦しそうだ。

 まさか彼の言葉をきっかけにした訳ではあるまいが、ゼンがひたと口に手を当てると同時に、不動かに見えた軍勢が揺れた。手に手に剣を抜いている。禍々しい刃が朝陽を受けて白く輝く。しかしこれはただの威嚇に過ぎない。裁きを下すは飽くまでダレスが望むところ。

 一際小高くなった丘に立つダレス皇太后は、滑らかな詠唱の後に、地獄の劫火もかくやの威厳に満ちた火の精霊、サルマンを現世に呼び出した。いや、最後こそスージーにその座を譲ったものの、やはり長く魔法学校の頂辺を務めた女である。現れたサルマンの美しさよ。魔導師団から感嘆が漏れる。静かだった空気は渦巻く熱風と化してゼンを襲う。

「なんてこった。あの腐ればばあ、魔導師かよ……」

 ゼンの膝から力が抜ける。あの女、どうやら訓練を受けたらしい魔導師である。化け鼠とは訳が違うのだ。しかも加えてこの軍勢。ユアの力は数度目にしただけで常人のそれでないと分かる程であったが、やはりそれにも限度がある。その上今や彼の命は風前の灯火。薔薇が深紅に染め上がるのは時間の問題である。

 火の精霊サルマンはダレスの傍に侍り、下知や今と待ち構えている。だがダレスは動かない。どうやらゼンの表情を恐怖が満たしていく様を見て楽しんでいるらしいのだ。つくづく醜い女である。

「スージー」

 うっとりとした声音で、ダレスは今は亡き学友に呼びかける。

「愉悦の“時”が来たわ。あなたにこのあり様を見せてあげられないことだけが残念」

 左の拳を鼻の先に突き出し、添えていた右手をゆっくり引き絞る。サルマンの姿が一度揺らめき、ダレスを取り囲んだかと思えば、やがて光は集束して彼女の手元へ。ゼンはその構えに見覚えがあった。あれはかつて、ユアが火の矢を放った時と同じ体勢ではないか。射止められ、壁に貼りつけられたまま燃えて、塵となった化け鼠の姿が脳裏に蘇る。だが、ユアはしんとした目でダレスを見据えて離さない――。

「静まれ!」

 突如、凛とした声が張り詰めた空気を切り裂いた。ゼンを、立ち並ぶ魔導師共を、そしてダレスさえ震え上がらせる、有無を言わせぬ強い声。

 ゼンは声が放たれた方をみる。二人を囲っていた人垣の一部が割れ、朝日を背に受けた一群が、そこを悠然たる足取りで進んでくるではないか。

 先頭に立つ身丈の優れた一青年。腰まである小麦色の髪を揺らせ、空色の瞳を意志に燃やし、薄い唇を引き結ぶこの男こそ、ローハー国第三十七代皇帝、グレイス=E=ロウである。ダレスの率いる魔導師団にどよめきが走る。彼らもやはり、皇帝を絶対と崇める一臣民なのだ。動揺が色濃く立ちこめる。若く、気高き君主の姿。それは彼らに囁きかける悪魔の声音を薄れさせた。

 グレイスは鷹揚な足取りで歩を進める。その傍に従者がぴたりと添う。グレイスの視線は躊躇いなくユアを正面から捉える。ユアもまた彼に向き直る。同じ色をした二対の瞳が交錯する。

「これはこれは」

 ダレスは腕を下ろさない。ユアに狙いを定めたまま、細められた目だけをグレイスに向けて。

「グレイス皇帝。朝早くから御苦労な事で御座いますわね」

「義母上にも」

 対峙するユアとダレスの中間地点に差しかかると、グレイスは静かに足を止めた。義母に向き直り、胸に手を当てて軽く頭を下げる。

 いっそ粛々と進む時の中、ついに混乱が頂点に達したのはゼンである。次々に新手が現れるのだ。ゼンにとっては全て新顔である。加えてあの長身の男、グリースだかグレイスだかと呼ばれたか、事もあろうに彼は……皇帝だって?

「義母上にはかつて見ぬ勇猛な御姿ですな。して、何とされる御つもりです」

「知れたこと。あなた様の弟君の呪われた心臓を、ちくと刺してやろうと思いますのよ」

 ダレスは妖魔のごとく美しい笑みを浮かべる。それでこの台詞さえなければ、ゼンはうっかり見惚れていたかもしれない。流石、老いても尚美しいかつての才女である。

「ん?」

 ゼンが何かに気づく。

「弟君?」

 グレイスを指さし、それから今度はユアを指す。ユアは薄っぺらな表情のまま。

「え? ユアは皇帝の弟なわけ?」

 ダレスが艶のある声で笑う。

「正しくはしがない庭師の家の二男坊ですわ、臭い御方。――グレイス皇帝といえども所詮は取るに足らぬ家系の出。その上、後に穢れた血を世に生み落とした女の腹で育ったとなれば」

 まるで取って置きをひけらかすかの口ぶりであるが、しかしてんで事情を知らないゼンがそれを理解できるはずもない。むしろ、その言葉に動揺したのはローハーの臣民らであった。悲鳴にも似たどよめきが上がる中、ダレスはついに腕を下ろし、代わりに声を張り上げた。

「皆の者、今こそ真実を聞け! 下賤なる魂食らい、ユア=A=フロイアントの生みの母は、かの高名なスージー=C=イスケ。見目麗しいグレイス皇帝の、実母にあらせられる御方ぞ!」

 どよめきは今度こそ悲鳴に変わる。グレイスの傍に控える従者すら狼狽えた。当然だ。頑なに秘められていたユアの身元が、今ここに、ついに明らかとなったのだから。それも、グレイスとは血を分けた兄弟であるという。これが驚愕せずにおれようか。

「グ、グレイス様……」

 取りすがるように呼び掛ける従者を、しかしグレイスは見返りもしない。ダレスを睨みつけながらただ一言、事実だ、とだけ言った。怒りを丁寧に噛みしめたかのような声である。そこではっと気付いたことに、握り締めたグレイスの拳から、つと朱の滴が垂れているではないか。きっかけさえ与えれば、彼は猛犬のように踊り狂って、ダレスの喉元に噛みつくのではなかろうか。そう思い身を竦ませるほどの拳の震えようである。

 憎しみと混乱。怒りと愉悦。様々な感情がごうごうと渦巻き、その隙間に一瞬の静寂が訪れた、その時。

「――は、は、は」

 弾む毬のような笑い声。場違いに澄んだ明るい声は、ろんろんと草の上を跳ねる。

 ゼンは呆気に取られてユアをみつめる。身を屈め、肩を震わせ、腹を揺らしながら狂ったように笑うユアの姿を。

「はは、は。あはっ、あはははは!」

「ユ、ア……?」

 高らかに響くユアの哄笑。今こそこの場を支配する感情はただ一つ。

 ――恐怖である。

 圧倒的な恐怖が、ユアは笑っているにも関わらず、抗いがたい力で諸人に襲いかかる。ついには剣を取り落としてしまう者すら現れるとなれば。

 ゼンは気付いた。ユアの、目。血を前にしても変わらず澄んでいた空色の瞳が、困ったように笑っていたその顔が今や、

「……狂って、いやがる……」

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