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11 強き胤

 ――恐れながら申し上げます。スージー=C=イスケ様は、既にこの世におられない御方なのです。

 滅多なことでは動じない皇帝の、鉄の厚貌がさっと青ざめる。椅子に座っていなければ、きっと膝から崩れ落ちていただろう。

 スージーは既にこの世の者でない。スージーは、母は――死んだ。

 グレイスの耳は、外界の音を全て遮断してしまったようだ。従者が涙ながらに何か叫んでいるのだが、しかしグレイスには届かない。ただ自分の血が体内を巡る音だけが聞こえる。ざあ、ざあと、潮騒のように。


 彼女は出来た母親であった。まるで家に寄りつかない夫に文句のひとつを言うこともなく、子のグレイスに涙をみせることもない。それどころかいつも笑顔で、父親の分もと彼に惜しみない愛を与えた。いいわね、グレイス。父さんは悪い人ではないの。ただちょっと、そわそわの虫がいるの。

「そわそわの虫?」

 そうよ、と彼女は答えた。悪い虫でね、父さんの体の中に住みついて、時々いたずらをするの。そうすると父さんは酷くそわそわしちゃって、家でじっとしていられなくなるのよ。

「だから母さんはずっと一人ぼっちでいなきゃいけないの?」

 違うわ、と優しく微笑む。あなたがいるじゃないの、グレイス、と。

 そわそわの虫はどこにいるの、と訊ねるあどけない息子に――彼は目元がとてもよく母親に似ている――スージーは少女のように目を瞬かせた。ここに、と言いながら、幼いがゆえに丸い息子の腹をくすぐってやる。やめてよしてと体をよじりながら、純真の息子は明るく笑う。

 近所で評判の、仲の良い母子であった。だが、成長するにつけ、グレイスには父親に巣食っているのが“そわそわの虫”などという可愛らしいものではないことに気づき始める。そわそわの虫が騒ぐくらいで、どうして母さんを打ったりするだろう。どうして僕の首を絞めたりするだろう。

 なかなか子に恵まれない皇帝に、養子縁組の話を持ちかけたのはローザであろう。まさかスージーがグレイスを手放すはずがない。弾む勢いで決まったこの話に、最後まで抗い続けた彼女である。ただ一人の息子を、どうして皇一族に渡さねばならないのか。涙ながらの訴えは、しかし皇城には届かなかった。対するレザフは、だからこそ頑なにグレイスを貰い受けようとした節がある。可愛さ余って憎さ百倍、ということだろうか。かつて自分を裏切った女から大切な者を奪い取る。しかもその子が、かの女の面差しをくっきり受け継いでいるとくれば。


 力なく落ちた手が机を打ち、頁が数枚はらりとめくれる。開いていた書物は先帝レザフの私記である。もちろん未完成で、後ろ四半分ほどは白紙のままだ。しかし、ちょうどめくれた白いはずの頁に乱雑な文字をみつけ、グレイスは動揺に揺れる瞳でそれを追いかけた。

 ――スージー=C=イスケは地下牢で死んだ――

 グレイスは今度こそ言葉を失う。これは、この走り書きは一体、どういうことだ。


   第十一話  強き胤


「グレイス様!」

 大股で回廊を歩くグレイスに取りすがり、半ば泣き叫びながら従者が言う。あまりに取り乱しているため、呼び方が皇嗣時代のそれに戻っていることにも気づいていないらしい。

「御待ち下さい、グレイス様! 何となされます!」

 どうにか彼を止めんとする従者を、グレイスは強引に振り払う。

 従者が必死に取り付くのも仕方がない。その静かな御面みおもて氷の如しと言われた男が、如火烈烈の形相をみせているのだ。これが落ち着いていられようか。しかもその向かう先が彼の義母、ダレスの私室ともなれば尚更。

 やはり皇帝に生母の死を伝えるべきではなかった、と従者は思う。

 彼とてスージーの死がどのようであったかは知らない。ただ、その死が内々に済まされたということ、それを機に彼女の夫が姿を消したとことを噂に聞いたばかりだ。何かしら“臭う”事象であるため、皇城では誰もが避けて通る話題だ。それなのに――ああ、なんと愚かな――こともあろうに彼女の実子グレイスにそれを零してしまうとは!

「どうか、どうか御止まり下さいグレイス様!」

 ダレスの私室は目前である。従者の悲痛な叫びに何事かと危ぶんだのだろう。ダレスの侍女が扉から顔を覗かせ、グレイスの様相をみた途端にきゃっと叫んで竦みあがった。グレイスは彼女を押し退け、足音荒く部屋に入る。次女や従者が控えるホワイエに似た小部屋を抜ければダレスのくつろぐ私室であるが、グレイスは挨拶もせずに扉を開ける。かつてないことだ。彼を追ってきた従者は血の気を失っている。

「無作法な! 何でございますの!」

 悠々と茶を楽しんでいたらしいダレスが金切り声をあげる。小机に置いたカップが騒々しい音をたてた。傍に侍る侍女らは言葉を失って震え上がっている。

「……お話があります」

 感情を抑えつけるあまり、震えた声でグレイスが言う。言いながら、部屋にいる侍女や従者らに目を走らせた。出ていけ、と目で言うのだ。侍女らはうろたえてダレスをみたが、皇帝のあまりの形相に抗えようはずがない。先を争うようにして部屋から逃げ出してしまった。慌てたのはダレスだ。これでは味方がいなくなるではないか。

「お前もだ」

 涙で顔を汚しに汚し、それでもグレイスの傍を離れようとしない忠臣は、子どもがやるようにいやいやと首を横に振った。

「出来ませぬ! グレイス様、もしもあの御方の事で御気を乱しておらるるなら――」

「貴様の与り知るところではない!」

 平伏していた従者は、半ば茫然とグレイスをみつめる。その間にもグレイスは声を荒げ、誰ぞ此奴を連れ出さんかと下知して止まない。畏れ入った者が数人ばらばらと部屋に駆けこみ、呆けた様子の彼の従者を引きずっていく。彼らが出ていくと、部屋は不気味なほどに静まりかえった。ダレスの歯が震えて鳴らす、かちかちという小さな音さえ聞こえそうなほどだ。

「義母上」

 グレイスの声は静かだ。しかしそれが不気味さを煽る。

「スージー=C=イスケは……我が実母は、どのようにして死にましたか」

 ダレスがはっと息を呑む。グレイスは彼女を睨みつけて離さない。

「どのようにして、死にましたか」

「…………」

「お答え下さい」

「……わたくしが知るはず、ないでしょう」

 いまやダレスの唇までもがわなわなと震えている。恐怖のためか、それとも憎きかたきの名に再び悋気を発したか。

「偽りを仰いますな。義母上が御関わりのことは知れております」

「生意気な口をお利きでない!」

 グレイスの言葉を遮るように、ダレスの高い声が響く。彼女の顔は赤く染まっていた。

「何という無礼! わたくしが、かの女の死に関与していると? おぞましい! わたくしはあなた様を庭師の家から拾って差し上げましたのに、その見返りがこの仕打ち。ああ、これがあなた様の真の御顔なのですわ。亡き夫にも――」

「話をすり替えられますな!」

 今度はグレイスが遮った。ダレスは張りを失った目元を引き攣らせる。

 グレイスは懐に持っていた書物を取り出した。先帝レザフの私記である。グレイスが開いているのは例の頁、殴り書きの文字がある部分である。

 ――スージー=C=イスケは地下牢で死んだ――

 血で書かれたのだろう。文字は黒ずみながら、しかしぞっとする臭気を思わせる色をしている。ダレスの震える目がそれを追うのをみると、グレイスは次へと頁をめくった。

 ――皇后ダレスの陰謀である――

 ひぃっとダレスが悲鳴をあげる。さらにもう一枚、グレイスは頁を繰る。

 ――憎しみが罪を生み、罪が運命を回し始める。穢れた血はダレスのために流された――

「馬鹿なことを! こんな、こんな……」

「懺悔の時がきたようだな、皇太后」

 濁った声でぎゃっと叫び、ダレスは声がした方をふり向いた。グレイスは驚かない。何とはなしに、予感していたのだ。彼はこの場にやってくる、と。

 窓際に立っているのはリヒィ=ミヒィである。やはり奇妙な格好をしているが、今日はそれが全て一様に黒い。まるで喪に服しているかのような。

「な、何者! 誰ぞ……誰ぞここに――」

 無駄だ、とリヒィ=ミヒィが言う。その声はすっかり笑っている。

「先からこの部屋一体にウィンディーネが気を張り巡らせている。一切の音も漏らさんよ」

「おまえ……おまえ、何者なの。まさか、グレイスがよこした刺客なの!?」

「いや、彼と僕はただの取引相手にすぎん。ああ、安心したまえ。取引といっても、きみの命はそのやり取りのうちに入らんさ」

「訳の分からぬことを申すな! 名乗りなさい、痴れ者!」

 ダレスはもはや発狂の体である。グレイスはそれを冷めた目でみている。リヒィ=ミヒィは深々と頭を下げて胸に手を当てた。いっそ馬鹿馬鹿しく思えてくる仰々しさである。

「皇太后にはお初に御目文字仕る。僕はリヒィ=ミヒィ。永遠の子どもと呼ばれる者だ」

「永遠の子ども……」

 おや御存知か、とリヒィ=ミヒィは言う。まあいい、さっさと本題に入るとしよう。

「この字は貴様の仕業だな」

 リヒィ=ミヒィにちらと視線を向けてグレイスが言う。にやにやと笑うばかりで、リヒィ=ミヒィは答えない。

「義母上。全て御話し下さい。あなたが母にした仕打ちが如何なるものか」

「わ、わたくしは何も……」

 言いながら、ダレスは追いつめられた小動物のような瞳でリヒィ=ミヒィをみる。彼が半歩ばかり前に進み出ると、ダレスは湿った悲鳴をあげた。

「わたくしは何もしていない! あの女を殺したのはユア! 全てユアの仕業よ!」

 グレイスの目が見開かれる。リヒィ=ミヒィをふり返り、掠れた声で問うた。

「まことか」

「結果だけを述べるとすればな」

 だが真実は隠されたままだ、とリヒィ=ミヒィは言う。言いながら、また半歩ダレスに近寄る。ダレスは逃げようとしながら、しかし体が言う事を聞かないらしい。手足は椅子から立ち上がろうともがいているのに、肝心の腰がぴくとも動かないようなのだ。馬車に踏みつけられ、轍に張りついた間抜けな蛙のようである。顔までそれらしくみえてくるから滑稽だ。

「さあ、話すがいい、皇太后ダレス。気を安んじられよ。前にも言ったが音は漏れん。きみの罪の告白も、やはり外には聞こえんのだ。無論――断末魔の叫びも、な」

「嫌よ! わたくしは死にたくなどない! 死ぬのは嫌!」

 気狂いのようにダレスは叫ぶ。滅茶苦茶に腕を振りまわし、なにもない空間をいたずらに引っ掻いて。ならば話せ、とどこか優しくさえ感じる声で促すリヒィ=ミヒィに、ダレスの震える唇がついに動いた。

「あの女……ユ、ユアは……ユアは……――」


 ダレスはついに気が触れたらしい。

 皇一族が皇城を出ることなど、これまで数えるきりしかなかったはずだ。しかもそれがローハーの外ともなれば。もはや論外である。今度のダレスの行動に、大臣らは驚き呆れるどころか、もはや言葉すら失っている。

 きっかけはラジネの出現だ。遠く東から飛んできたらしい。バレリアの地にいる警吏団が寄越した遣いである。

 ――罪人の足跡を見つけまして御座います。

 精霊の声は、彼女らを使役する資格のある者にしか聞こえない。一部の人間は、彼女らの姿を拝むことすらできないという。しかしローハーの人間は誰しも精霊の声を聞くことができる。彼らが自国を“神の国”と称するのはそれ故だろう。実は、ローハーの興りは“エルフ――神に愛された子――の一団が流れ着いたものというから、当たらずとも遠からず、というところ。

 それはともかく、ラジネの注進はその場にいた全員の耳に届いた。もちろんグレイスにも、ダレスにも。ダレスの気狂いはこの瞬間にあらわになった。聞くや彼女は、騒がしい声で叫び始めたのだ。やはりあの女の血は穢れているのよ、あたしが息の根を止めてやる、と。

 もはや言葉遣いも定かでない母の様子に、ヤマはすっかり怯えてしまった。大臣らはどよめき、誰ぞ典医を呼べと叫ぶ声すらする。突如起こった騒ぎの中で、グレイス一人がしんと静まりかえっていた。その顔はもはや鉄の冷たささえ感じさせない。目は空洞のように虚ろであった。

 結果、ダレスは自身で魔導師団を率い、バレリアへと渡ってしまう。諌めようとした大臣が一人、彼女の使役するサルマンのために燃え滓となったという。

 ダレスは魔法学校出の人間だ。そうでなくとも大臣一家の息女なので権威は高いが、皇城御抱えの魔導師らには特に広く顔が利く。その彼女が鶴の一声ならぬ鬼神の絶叫を発したのだ。畏れ集まった魔導師らは一大戦力となって、彼女に付き従いバレリアに向かうこととなった。

 グレイスはこれにまるで関わろうとしなかった。何も皇太后自ら赴く必要などありますまい、御止め下されと、彼にすがりつく大臣もいたが、グレイスは何も答えなかった。こんなあり様だから、皇帝までも御乱心と噂されるのは仕方のないことだ。

「義兄様、義兄様」

 ヤマは声を放って泣く。椅子に座るグレイスの前に膝をつき、その腿に齧りつくようにしながらである。グレイスは夢から醒めきれぬような目で彼をみた。

「義兄様、御気を確かになされませ。義兄様まで遠くに行かれましては、私はもう、この世に生きておられません」

「ヤマ……」

 母の狂態を目の前にし、さらには心から慕う義兄までもがふよりと浮いてしまいそうなあり様なのだ。大臣は皆子どものように騒ぐばかりで収拾がつかない。ヤマは混乱と悲しみと恐れに泣いた。震える彼の肩をみるにつけ、グレイスの目が光を取り戻していく。青冥と言われたその頭脳が、再び切れのある輝きを放ちはじめる。

「ヤマ」

 呼ばれてヤマは濡れた顔をあげた。しっかりと自分をみつめ返す目。ああ、これでこそ義兄様と、ヤマの双眸に再び涙が溢れる。

「ヤマ」

 優しさが零れる声で言い、グレイスは椅子から立ち上がると彼もまた膝をついた。驚き慌て、彼を立たせようとするヤマを、グレイスはやんわりと押し止める。そしてその、幾分丸みを帯びすぎた柔らかな体を――こんな事はこれまでになかった、一度たりとも――抱き締めた。ヤマは目を見張る。体は一度びくりと痙攣さえする。惜しみなく与えられる義兄の温もりを、これは幻かと疑うような目……。

「ヤマ。済まない」

 グレイスは静かにそう言った。

「私はおまえを愛している。おまえは確かに私の弟だった」

 それからもう一度、済まない、と繰り返した。

 ヤマの肩に顔を埋めるようにしていたので、彼の表情は窺えなかった、と後にヤマは語っている。ただ、その時の義兄の声は、かつてない温かみに満たされながら、どうしようもない悲嘆に暮れているようでもあった、と。


 グレイスは屹と立った。優れた身丈、揺るぎない瞳、意志を持つ唇。おお流石は皇帝よ、と人は甘い吐息を漏らすだろうが、この時の彼はグレイス=E=ロウの顔ではなかった。かつて母の愛の元で育った、グレイス=C=イスケである。

 彼はついに真実を知った。赤く塗りたくられた義母の口は、二十年隠し通した罪をついに告白したのだ。

 しかし、それを知っても尚グレイスは迷う。自分は、ユアを一体どうしようというのだ?

 ――ユアは、ユアは……。

 ダレスの悲鳴にも似た告白が蘇る。

 ――ユアは、あの女に……スージーに孕ませた子……。

 思いだすだけでもグレイスはくらりと倒れそうになる。ユア=A=フロイアント。彼は、穢れた魂食らいは――血を分けた弟であったのだ。異なる男を父とした、しかし確かに同じ女の乳を吸って育った肉親。ああ、あの夜にみた彼の瞳。国の長を殺しておきながら、平然と鼻歌をうたっていた恐ろしい彼の瞳。あの色は、晴れた日の空のような色は、我が身とまるで同じではないか。彼ともっと言葉を交わしたいと願う心は、気づかぬままに同じ血の温もりを求めていたというのか。

 しかし同時に、グレイスは酷な事実も知ることになる。ユアは、彼のただ一人の弟であると同時に、掛けがえのない母を手にかけた張本人でもあるのだ。

「更なる力を得させるためよ」

 あの日、気が正常の域を振り切ってしまったのだろうか、哄笑の後にダレスは言った。

「力は力を呼ぶ。その身を食らえばユアの力は増すわ。あの女、魔力だけは人の二倍三倍とあったもの。ふふ、ましてや母親の肉よ?」

 そう言ってダレスは大口を開けて笑った。この世の女とは思えない壮絶な笑いである。

 ユアは母親を、グレイスの生母でもあるスージーを殺した。望んでか、そうでないかは知らない。どちらでもいい。とにかく殺した。そしてその肉を食らった。やはり望んでかどうか、それは分からない。これもやはり、どちらでもいい。

 スージー=C=イスケは地下牢で死んだ。ユア=A=フロイアントは地下牢で生まれた。このA=フロイアントの名は偽名である。彼を皇帝の忠犬として傍に侍らすために上三位の階級を与え、適当な姓をつけてやる。姓などどうだって構わなかった。彼にとって大切なのは“JUGMA”の名前。かつてそれを手にしたエルフの心を虜とし、ついには闇にとさしめ、魔族の祖となるに至らしめたという伝説の魔剣。一振りで十の命を奪うというこの魔剣が、皇一族が恐れた人物を消し去るためにと、二千年の時を超えて鍛え直された。それがユアの正体だ。

 作られた子ども。情のない人間兵器。

 哀れなスージー。先には庭師見習いのローザに犯され、後には恐ろしい魔族の男に犯されたのだ。地下牢で、幾人もの前で。

 魔族の男もまた滑稽で、心悲うらがなしい。彼はどのようにして脅されたのか、はたまた芳しい好餌に惑わされたか。命を受けて人間の女を犯し、胤をつけ、果てには生まれてきた子どもに殺された。これもまた、力を得るべくという座が白む理由のために。その命を下したというのがダレスだ。そして更なる上手の影がここにちらつく。庭師見習いのローザだ。なんと、スージーの夫である彼こそが、この話をダレスに持ち込んだ張本人だというのだ……。

 しかしグレイスにとって、それらはもはやどうでもいい事だった。起こってしまった事だ。どれだけ歯を鳴らし唇を噛もうがどうともならない。他国に逃れたローザが、いまもどこかで同じ星をみているかと思えば腸が煮えくり返る思いだったが、それよりも、なによりもまず、

 ――ユア。

 彼に会わねばならない。それだけは声を明にして言える。だが、その先をどうするか。弟よ、とその肩を抱くのか? それとも母の敵と言って詰るか? ――分からない。分からないが、ただ彼に会いたい。その衝動だけは押さえようがない。

 ユアの命はじきに尽きる。皇一族に手をかけた者の末路は悲惨なものだ。背中に刻まれる美しい薔薇。それが、かの人の命を吸いつくしてしまう。薔薇が己の命で深紅に染め上げられるその時まで、罪人は血を吐き続けねばならぬ。それが魂吸いの呪い。そうなってしまう前に、彼が業に満ちたその生を終えてしまうまでに、どうか一目彼に会いたい。そして――心が思うままに彼と接したい。

 グレイスは屹と立った。優れた身丈、揺るぎない瞳、意志を持つ唇。だれも彼を止めることはできない。

「バレリアへ」

 ローハー国第三十七代皇帝、グレイス=E=ロウ。彼最後の下知が、朗々と広間に響く。

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