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10 殺せないのかな

 訊けない。訊けるはずがない。

 ――ねえおまえさん、あんた、皇帝を殺しちまったって本当かい?

 ――うん?

 ユアはきっといつもの調子でとぼけてみせてから、

 ――あ、そういえばそうだった。

 なんて言うかもしれない。

 しっかりと噛みしめたはずの歯がかちかちと音をたてる。

 ゼンにはもちろん、皇帝がいかなる存在かなど知る由もない。ただ彼の貧相な想像では、それは素晴らしく豪勢な城に住み、何人もの召使に囲まれ、彼の周りはいつも笑いさざめき、毎日三食湯気のたつスープを飲める――これくらいが限度である。だが、彼がいかに地位高く、権力ある人間か程度は察しがつく。遠い国から、あれほどな敬弔団が訪れるほどだ。あれは名高い北の大国ユリシアと、バレリアの北に隣接する楯鉾の国レジアの両国王が乗った船というではないか。ゼンにはまるで無縁の、華々しい世界の住人らである。それを、ユアは殺したのだ。やはりきっと、何の慈悲もなく。確証はないが、確信がある。

 相手は畏くも一国の長。多少道理に外れたことをしたとて、彼だから、と目を瞑らざるを得ない人物だ。それでいて手を出したユアには、いったいどんな理由があったというのだろう。しかも――、

 とめどなく溢れる思考は、まるで濁流のようである。ごうごうと音をたてるその流れの中にいたゼンは、はっと我を取り戻した。

 簡素な家の一室である。かの学者風情の男の寝室だ。この部屋ただ一つの家具といっても過言ではない中型のベッドは、ユアの細長い体に占領されている。彼の薄い瞼はひたと閉じられて動く気配を感じさせない。

 事もあろうに、ゼンは彼の汗ばむ額に手を伸ばしていたのだ。湿ってしまった彼の前髪を払い、固く絞った布で粒の汗を拭ってやろうと。ゼンはつい苦笑を洩らす。俺は一体、馬鹿なのか善人なのか。どちらにせよ、救いようがないことは確からしい。みろ、手はこんなにも震えているのに、恐怖は間違いなく全身を駆け巡っているというのに、それでも彼の額に触れようとしているではないか。彼の苦しみを少しでも薄めたい、と。

 ユアは激しく喘いでいる。時折びくりと体を引き攣らせなどもする。また例の発作が起こったのだ。

 今度もユアは血を吐いた。ゼンの生気すら奪われてしまうほどの勢いだった。事実、ゼンは白目を剥いて倒れそうになった。学者風情も同じく。この時に甲斐甲斐しく働いてみせ、その手腕を如何なく発揮してみせたのは、彼の家で働くただ一人の下女だったのだから恐れ入る。やはり女は強し、ということだろうか。いい具合に年を食った彼女は青褪めながら、しかし血にまみれたユアの衣服を手早く脱がせ、あまり使われてこなかったらしい来客用の部屋着を貸し与え、細い体を楽々と抱えてベッドまで運んでやると、食卓に張りついたまま泡を吹いている男二人の背中をばしりとやったのだ。最高の気つけ剤であった。


   第十話  殺せないのかな


 ユアは死ぬ。それも、遠い先のことではない。五日か六日、いや、今日明日中かもしれない。

「ねえあんた。悪いこと言わない、夕餉もうちで食べて行きなさいよ。どうせ当てなんてないんだろう」

 例の逞しい下女が顔を覗かせる。まるでここは彼女の家であるかのような口ぶりだ。いや、ちらとみた学者との遣り取りを考えると、どうやら二人は家族同然の付き合いらしいから、割と自由も利くのだろう。もし旦那様が駄目だと言ったら、あたしゃもう一度ばしりとやってやるよ、とでも言い出しそうな女性である。

「……じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうよ」

「ああ、そうしな。栄養たっぷりのやつを作ってやるからね」

 そう言うと、熊とさえ張りあえそうな体躯からは想像もできないほどに優しく、下女は寝室の扉を閉めた。ただ、階段を下りる足音がどすりどすりと煩いのはいただけない。

 まさかその振動に呼び起されたのか、ユアがぱちりと目を開けた。唐突の動きだった。

 ゼンがぎょっとして身を竦ませると、ユアは顔だけを動かしてゼンをみた。そして小さく息を呑んだ。表情が心なし張り詰めてみえる。ゼンは曖昧に笑ってみせた。

「どう、して」

 ユアの声は悲しいほどに掠れている。

「どうして、いるの」

「いちゃ悪いかよ」

 ゼンはほとんど反射的に答えた。

「……逃げないの」

「なんで俺が」

 気づいたくせに、とユアは言う。ゼンは答えず、ただ彼の血の気のない顔をみつめる。

 やはりそうだったのだ。ゼンの中で、確信は常に真実に同格の意味を持っていたが、やはり実際に認められると改まった気持ちがする。ああおぞましい、皇帝殺しの罪人よ。しかし、そう思いながら、ゼンの心はどこか穏やかだった。微笑みさえ零れる。それをみたユアの目が見開かれた。かと思うと刹那それが濡れっ気を帯び、微かに震えたかと思うと、涙が一筋ユアの頬を伝った。目じりから、それは一直線に枕へと落ちた。

「おれは……おれは、ゼンを、殺せないかなぁ」

 なんとも物騒な台詞である。しかしゼンはその額に手を伸ばしてしまう。そして今度こそ優しく触れ、彼の前髪を払ってやる。なぜだろう、どうしようもなく――彼を愛しく思う。

「ゼンを、殺せないかなぁ。もう、殺せないのかなぁ……」

「無理なんじゃないかな。俺はお人好しだから」

 ユアの唇が小さく震えた。震えた拍子に、まるで木の実が転がるような調子で、ばかじゃない、という言葉がぽろりと落ちた。ゼンは下女が用意してくれた布を手に取り、彼の汗と、涙をそっと拭ってやった。


 結局、学者の家には丸二日も世話になった。逐一下女の申し出があったのだ。夕餉を食べれば、ついでだから休んでお行きよと言うし、朝目覚めたら、朝餉はいかがと伺いに来るのだ。どうやら生来の世話好きらしい。お蔭でゼンは助かった。起き上がれるようになったものの、ユアはどうも本調子でないらしく、数歩行くだけでも危うい足取りだったのだ。

 学者風情はあまりいい気がしないようすだった。仕方ない。宿賃のやの字も支払えないような乞食二人を、誰が好き好んで家に置こう。しかし文句は言わなかった。もしかすると下女の“ばしり”が一発か二発見舞われたのかもしれない。

「ありがとうございました」

 たどたどしく頭を下げるユアを、下女は心配そうにみつめている。腰に手を当てた彼女の後ろに学者が控えているものだから、もはやどちらが主人か分かりそうにない。

「あんた、本当にもう大丈夫かね」

「うんっ」

 元気よく答えるユアの横顔を、ゼンは静かに見守っている。大丈夫な、はずがない。

 ――背中をみてくれる。

 ユアの涙が収まった後のことだ。呟くようにユアが言うので、背中側に回ってまじまじとみつめる。なにもない。

「別になにもついてないぜ」

「ちがうよ。せ、な、か。服じゃないの」

 ああ、と言ってローブに手をかける。寒かないか、と一応断りを入れてから、真新しく草臥くたびれのないローブをぺり、と剥いでやる。

 露わになるユアの背中。肉がまるでついていない、それは薄い背中である。本当に、よくよく白い奴だなあ、と薄ぼんやり思っていたゼンだったが、ある一点に目を奪われて、ローブに手をかけたまま硬直してしまった。

 薔薇の彫り物である。老人の屋敷で湯浴みした際、同じものをみてゼンは惚れ惚れしたことがあった。ローハーじゃこんな洒落たものを入れるのか、と。そのときユアは言ったっけ。それ、全然いいものじゃないんだよ。呪いなんだよ、と。

 その時はまるで信じられなかった。その彫り物の繊細さは、物騒な響きから程遠いものに思われたから。だが今、それはすっかり姿を変容させてしまっている。よく計算されたらしいその形に変わりはない。ただ、色が。かつては白肌に溶けてしまいそうに色薄かった薔薇が、いまやくっきりと、滲むような赤に染まり上がっているのだ。手を触れれば濡れてしまいそうなほどに生々しい。

 ゼンの身が竦む気配を感じたのだろうか。

「どんな色」

 とユアが訊ねる。

「……別に。前と同じ、薄い色」

 現状が好ましくないことは考えずとも分かる。ゼンはとっさに誤魔化した。ふふ、とユアがひっそりと笑う。衣擦れの音をたてながらこちらをふり向いたユアは、うらぶれた町のような淋しさを思わせる顔をしていた。

「ゼンは嘘がへただね」

「うるせえ」

 ゼンは再び考える。

 皇帝を殺し、ローハーを追われたユア。彼をどうしても手に掛けなくてはならなかった理由が、きっとユアにはあるはずだ。

 以前までなら、そう、彼の手が一般の人のそれとは違い、おぞましい血の臭気が滲み付いたものと気づいた当初ならば、理由など考えるには至らなかっただろう。ふとしたはずみに、だとか、ちょっとした思いつきで、だとか、動機といえない動機を挙げて納得していたことだろう。だが、あの涙をみてしまってはそうも思えない。何かしらの訳がある。しかも、しかもユアは、

 ――こうなることを知って、あえて彼を殺したのではないだろうか。

 “悪いこと”をすれば呪いの罰が身に降りかかる。それを分かった上で、ユアはこの道を選んだのではなかろうか。どうもそんな気がしてならない。誰が自ら進んで苦しみを受けるだろうかとは思うのだが、呪いという言葉を口にするユアの静かな顔、それにこの淋しげな笑み。全てを泰然自若のまま受け入れようとしている風ではないか。

「ユア」

「うん?」

 いつもの声である。ただちょっと掠れているだけで。

「あんた……死にたいのか」

 ユアの顔がほんのわずかだけ強張る。それから張っていたものがふつりと切れたように、情けない笑みを浮かべた。垂れた目、下がった眉、困ったような笑顔。ゼンの疑念は、悲しい確信に変わった。それ即ち彼にとっては真実である。


 しかし、ユアにただ死を待つ気はないらしい。一歩一歩、踏みしめるように彼は海へと歩いていく。ゼンは訳も分からぬままそれに従うしかない。

 元より不確かだったユアの足取りは、いまや一層危うさを増している。雑踏を歩けば、あちらに肩を当て、こちらに腕が引っ掛かるといったあり様。休もうとゼンはしつこく勧めたが、ユアは頑として首を縦に振らなかった。ただ、海へ、と言う。

「分かったよ、分かったから」

 だけど肩くらい貸せよ、と言ってゼンはユアの腕を取る。複雑なようすで顔をしかめたゼンを、ユアは幾分か驚いたようすで見下ろす。――見下ろす。

 二人の身長差は、優に二十センチメートルを超えるのだ。

「ゼン」

「あ?」

「ちーさい」

 ぎゃんぎゃんと犬のように喚く声と、澄んだ笑い声が夕暮れの通りに響いた。帰宅の途につく人々は、なんだなんだと声の方に目を向ける。みれば、なんとも仲が良さそうな二人組ではないか。一方が腹をたてるのを、もう一方がうまく宥めているらしい。白いのっぽと黒いチビ助。珍妙な組み合わせの滑稽なやり取りに、それをみる人々の心はふと和んだ。

 彼らの誰が気づいただろう。二人のうち少なくとも一人が、ゆっくりとだが確実に、死への道を歩いているということに。

 ゼンがどうして気づけただろう。許されざる罪の下生まれたこの少年、哀れなユア=A=フロイアントを縛る業に、己自身も深く関与しているということに。

 誰も知らないのだ。まだ誰も、何も。本当のことなど、まるで。


 ゼンの肩を借りると、正直余計に歩きづらい。ゼンの支える体の左半分が、かくり、かくりと不格好に傾くのだ。ユアは喉を鳴らしてくつくつと笑った。対するゼンはむっつりと不機嫌で、しかし大真面目な顔で彼を支えようとしている。身長差をいかにして埋めんとあれこれ試しているようだ。

 静かにゼンを窺っていたユアは、ふと誘われるようにして顔をあげた。これまで一度嗅いだきりだが、心にじんと沁みついて離れないにおいが、今また、風に乗って感じられる。潮のにおいだ。

「――で、背の高い――白く、まだ若い――です。緑のローブで――」

 ユアの耳が、途切れ途切れに流されてきた言葉を捉える。声の元を辿ってみると、ああ懐かしい、ローハーの紋章を胸に留めたローブ姿の人間。

「ユア?」

 突然肩が軽くなったものだから、ゼンが訝って声をあげる。それに構わず、ユアは男のほうへと足を向ける。ゼンは少し離れて後を追った。

 冬の暮れは早い。闇は一秒を追うごとにその色を深めていく。まるでユアの身を呪いが食らっていくかのようだ。静かに、音もなく、どこか優しくさえある調子で。

 男は熱心に訊き込みをしている様子だった。応対するのは果物屋の店主だろうか。朝は早くに店を開け、夕は暮れきる前にこれを閉めるという生活に慣れきっている店主は、すっかり深まった闇にどうも落ち着かないらしい。さあ、知らんねえという相槌の合間に、ちらちらと空を窺っていたが、その目がふとユアをみつけた。ユアは半端な笑みを浮かべる。

「おう、兵隊さん」

 店主はぷくりと太った指でユアをさした。

「おまえさんの言う――細身で背が高い、色白の少年っていうのは――まさしくあちらさんじゃねぇのかい」

 男は店主の指の先を追う。追って、ユアに行きついた。途端、

「う、うあああああっ! たっ、魂食らい!!」

 絶叫。声は嗄れよ喉は千切れよと言わんばかりの大音声だ。店主はすっかり気押されて、たるみ始めた肉に半ば埋もれた瞳をぱちぱちと瞬かせている。ユアはやはり、のんびりと笑っている。

「でっ、伝れ、伝令を……!」

「アキュロス」

「ユア、駄目だ!」

 ユアの唇が静かに言葉を紡ぐ。刹那の後、体を揺さぶらんばかりの風が吹き荒れ、二体の精霊が姿を現した。片や水の精霊アキュロス、片や風の精霊ウィンディーネである。ゼンの素人目からみても、その二体の力量の差は明らかであった。気高さ、美しさの桁が違うのだ。煌々たる輝きを放つのは緑雲の黒髪を持つアキュロス。ユアが使役する水の化身である。

 アキュロスは清漣たる瞳に青い焔を宿し、いましもウィンディーネに襲い掛からんと牙を剥いた。力は力を呼ぶ。力は力を惹きつけるのだ。精霊は精霊をみれば猛る。竜が虎を見、虎が竜を見て吠えるのと同じ事だ。

 しかしユアはそれを抑えた。手を軽くあげてアキュロスの逸りを制する。

「いかせてあげて」

 ――“時”が来たか、ユアよ。

 ゼンにはついぞ聞こえない声で、アキュロスはユアに話しかける。ユアはただ静かに頷いた。

 ウィンディーネは白い衣を振り乱し、吹きつける季節風に後押しされるようにして空を飛んでいく。仲間の警吏を呼びにかかるのだ。精霊を見慣れぬバレリアの人々は、道に飛びだしては彼女が舞う姿を追いかけた。ああ、神の遣いがきたと感嘆する老人すらもいる。

 ウィンディーネを使役した男は、しかしユアが手を下すまでもなく地面に崩れ落ちた。呆けた様子だった果物屋の店主が、悲鳴をあげて店に逃げ込む。男の顔に赤みはない。

「ばかだなあ」

 のんびりとさえした口調でユアが言う。

「詠唱もしないで精霊を呼びだしたりするから。いっぱん人が、そんなことして無事なわけないじゃない」

「おい、今のは一体……」

 また一抹の風が吹き、アキュロスは雪のように儚く消えた。野次馬の中をどよめきが走る。彼らの視界に、苦しそうに倒れる男の姿は入っていないようである。

 ユアはゼンにふり向くと、困ったように笑ってみせた。説明はなし、というらしい。

「逃げよう」

「逃げるって」

 ユアは口を開きかける。が、そこから迸ったのは鈴のような声ではなく、どす黒い血であった。群衆の中から幾筋かの悲鳴が漏れる。

「ユア!」

 顔から地面に倒れ込んでいくユアの胸元に、間一髪でゼンが飛びこむ。細い体は、押し止めるに何ら苦労をかけなかった。がくりと意思なく垂れたユアの頭。糸が切れた操り人形のようである。傀儡。その言葉がゼンの胸を突く。

「ユア、ユアっ! しっかりしろ!」

「だいじょう、ぶ……」

 ゼンの肩に手をついて、震えながらユアは身を起こす。と、思いきや口を両手で押さえ、再び激しく吐血した。錆びた臭いが辺り一帯を包む。ゼンは声を涙に濡らしながら、今にも目を閉じてしまいそうなユアの体に取りすがった。薄情なものだ。野次馬共は、遠巻きにそれをみつめるばかりで動かない。医者を、という声すらあがらないのだ。あまりのことに、皆が茫然自失の体である。

 ユアは青褪めた顔でにこりと笑った。汗の玉が顎の先で鈴生りになっているのが痛ましい。

「へーき」

 この期に及んでまだそんなことを言う。ゼンは骨ばかりの彼の体を支えてやりながら、とにかくどこか休める場所をと視線を巡らせる。

「ここを、離れなきゃ」

「動けるような状態じゃねえだろうが!」

「だけど行くの。じゃなきゃ、おれは本当に、何のために生きてきたのか分からない」

 はっきりとした語調である。いつもの、朝霞を掴まえるように不確かな声の響きではない。

「もうすこし、もうすこしだから……」

 もはや自分に言い聞かせているようですらある。ユアは荒い息をつき、倒れたままの男に背を向けて歩き始めた。震える足で、ひとつ踏み出すごとに体をよろけさせながら。

 ゼンはしばらく言葉を失くしてそれをみていたが、やがて気を取り直すと彼に駆け寄った。そしてユアの頼りない撫で肩を支える。ユアは浅く笑った。

「だから、ちーさいって言うのに」

「黙っていやがれ」

 傍からみれば、どちらがどちらを支えているのか分からない。ユアがゼンに凭れかかっているようにも見えれば、ゼンがユアに吊り上げられているようにも見える。ちぐはぐに歩く二人の前で、雑踏がすうと開いていく。悠然たる海が、彼らの眼前で割れて道を示すかのようだ。静まり返った細い小道を、二人はゆっくりと歩いていく。たくさんの顔が得体の知れぬ二人連れを見ようとし、見れば慌てて影に引っこむ。誰もが半ば夢をみるような目つきをしていて、未知への好奇心と恐れとに心を掻き乱されているようだ。しかし、ゼンの目にもはや人混みなど映らなかった。みえるのはただ、先に続く一本の道のみ。彼を突き動かすは、それこそ得体の知れない衝動ばかり。


 この日、夜が明けるのを待たないうちに、ついにローハー国の中枢が動き出す。気が触れて我を失った皇太后が、御自ら大魔導師団を引き連れてバレリアに渡ってくるのだ。

 精霊ウィンディーネの力を借りずとて、この季節に決まって吹く風が彼女らの進みを助けてくれる。船団は鳥が飛ぶように海を滑り、矢の速さでユアを追う。

 暗がりに身を潜め、今こそはと息を殺すユア=A=フロイアントは、ただただ“時”を待っていた。

 ――もうすこしだ。

 ユアは静かに目を閉じる。世界よ。もし応えてくれるなら、今ひと時の力をどうか。

 ――もうすこしだ。じゃなきゃ、おれは本当に、何のために生きてきたのか分からない……。

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