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1 十のつく日

 月のない夜だった。グレイスは養父の寝室に向かっていた。十のつく日の恒例だ。毛足の長い絨毯が、神経質をかけらも思わせない優しさで、革のブーツをそっと受けとめる。音はない。すめら一族の寝室や私室が集まるこの城の上層部は、部屋はもちろん、回廊にいたるまでが豪奢な敷物で覆われており、足音とはおよそ無縁なのだ。冬の到来を告げる鳥さえ今宵ばかりは大人しい。風だけがしんしんと流れていく。ローハーの空を舞う埃を抱いて、東へ、東へと。

 すべてがいつもどおりだった。深い情を鉄の厚貌のうちに隠すグレイスも、冷たく冴える大理石の壁も、息をつめて寝たふりをする警衛の兵も。ただ、ひとつだけ明らかな異状があった。目指す部屋の隅のほうで、丸まるようにして養父は死んでいた。

 黒い雲は繊介の光さえ許さない。いっそう深い闇に目をこらしながら、グレイスは寝室へと足を進めた。腰まである小麦色の髪が躍る。ふと入りこんできた風に湿り気を感じ、雨が降るな、とグレイスは思った。白い寝衣が夜闇に揺れる。と、むっと鼻にひっかかる――くすぶるように甘い――匂いがグレイスの全身を包んだ。養父が好み、寝室中の織物に薫きこめさせた麝香の匂い。その内にふと酔の覚める臭気を感じ、グレイスは眉をひそめた。鍛えられた筋肉が、にわかに湧いた緊張にきりりと締まる。高く造られたローハー皇城の石門でさえ、彼がくぐるとそこいらの門と大差なく思えてしまうほどに、それは堂々たる立派な体躯である。かわって彼の瞳ときたら、これが少年を思わせる澄んだ色をしているのだ。よく晴れた春の空だと言った人もいる。その空もしかしこの時ばかりは鋭さを帯び、油断なく部屋の隅々を走りまわった。

 やがて暗がりに慣れたグレイスの目は、床に広がる奇妙に大きな朱の溜りをみつけた。そしてその中央に佇む黒い小山を。グレイスはさらに目をこらす。金糸に飾られた寝衣の裾、赤褐色に灼けた肌、たっぷりとたくわえられた口髭。手足をまるでぎくしゃくに放り出し、崩れ落ちた人形のようなその人は、紛れもなくグレイスの養父、ローハー国第三十六代皇帝レザフ=E-ロウであった。


   第一話  十のつく日


 翌朝、まだ闇が遠く西へと去りきらないうちに、ローハー皇城は混乱と狂騒に包まれた。国の絶対権力者である皇帝が、夜陰にまぎれて暗殺されたのである。それも惨い殺され方であった。関節という関節は、本来の向きをまったく無視して折れ曲がり、皮膚という皮膚は裂かれ、打たれ、執拗に刺されて、そのために流れ出た血は、彼の寝室を満たしてなお溢れるという壮絶さだったという。

 この惨状をみつけたのは、彼が可愛がっていた若い給仕だった。

 皇帝の朝は早い。空が白むと同時に起きだすレザフ皇帝を助けるために、給仕は彼の寝室を訪れた。そして変わり果てた皇帝の姿をみつけたのだ。まだ半ば眠りの中にあった皇城を揺るがす、断末魔の悲鳴にも似た叫び声。

 彼女は哀れだった。あまりのことに気が触れたのか、回廊から身を投げて頓死してしまったのだ。きっと動かない皇帝にすがりついたのだろう、皇帝の死体から回廊までは血の足跡がついていた。しかし肉塊となった彼女は朱に包まれて、もはやどれが誰の血なのかまるで分からない。

 混乱で頭がおかしくなったか、彼女こそ犯人であると言い張る大臣がひとりだけいたが、彼の言葉を信じる者はいなかった。凄惨たるこのあり様。一給仕が、しかも細腕の女が、どうしてこんな離れ業を成し得よう。恐れてその名を口にする者はいなかったが、誰もが同じ人物を思っていた。ユア=A=フロイアント。伝説の魔剣“JUGMA”の名を冠した、哀れで憎むべき少年である。


「おはようございます、グレイス様」

 そう呼びかけられるよりも一瞬早く、グレイスは背後の人物を感じることができた。厚く塗りたくった白粉と、嫌みにふりかけた香水の匂いのためである。そのふたつが合わさって、皇后ダレスは今日も甘ったるい匂いをふりまいている。

「おはようございます、義母上ははうえ

 ふり向いてグレイスはうんざりした。抜かりのない化粧、美しく結いあげられた髪、卑しく歪んだ赤い唇。黒の衣装に身を包んでいるものの、それも申し訳程度の見せかけで、彼女が皇帝の死を悼むようすは欠片だってみあたらない。

「大変なことになりましたわね」

「ええ」

 ダレスは声すらもねっとり甘い。

「夫の訃報を聞きましても、わたくし、いまだに信じることができなくて……」

 夫とは。仮にも子であるグレイスに対し、ずいぶんと他人行儀な物言いではないか。

 哀れっぽく身をくねらせてみるも、ダレスの瞳は意地悪くグレイスを捉えて離さない。ちくちくと刺さる言葉のいやらしさ。しかしグレイスは慣れている。いつもこうだ。ダレスはグレイスを疎んじている。隙あらば排さんと、昼夜彼をつけ狙っていると言ってもいい。それも仕方ないことなのかもしれない。養子としてやってきたグレイスのせいで、遅くに生まれたダレスの実子、ヤマが皇嗣を名乗れないのだから。権力などは苦みの塊にしか思えず、グレイスは第一皇子の座など譲ってしまいたかったのだが、レザフ皇帝は決してそれを許さなかった。偏に彼を、そしてその才能を愛していたからである。このこともダレスの不興を買った。

 グレイスを支える皇帝派と、ダレス擁する血統派。いまやローハー皇城は真っ二つと言ってもいい。そんなさなかに皇帝が弑されたのだから、混乱が混乱を呼ぶこの状況もいたしかたない。

「ヤマとふたり、この世も終いかと身悶えましてよ。どうにも涙が止まりませんの」

「そういえば御目が赤くいらっしゃる」

 グレイスは適当に相槌をうつ。ダレスは唇の両端をきゅっと吊りあげた。

「ですがあなた様は気丈でいらっしゃる。まるで平生と変わりないのね。まあ、あなた様と夫とは血の繋がりもございませんから、それでそう冷淡でいられるのでしょうけれど、いまばかりはそれも頼もしく思えますわ。さすがは次期皇帝」

「義母上」

「そう。昨日は十のつく日でありましたから、夫はあなた様を御召しになったかと思うのですが?」

 さすがにグレイスは顔をしかめたが、一方のダレスはまるで気にも留めない。彼の言葉などはさらりと流されてしまう。なにか異変はみなかったのか、いや、いっそおまえが犯人を手引きしたのではないかと、言外にたっぷり意味を含ませてダレスはグレイスを睨めつける。

「確かに御呼びは受けました。しかし体調がどうも優れず、申し訳ながら御断りさせていただいた次第です」

 そこでやめておけばよかったものを、

「典医がそれを保証してくださいましょう。もしも私の言葉を御疑いであれば」

 と、つい余計な棘を吐いてしまった。よほど参っていたのだろう。考えるよりも先に口が動いた。

 言ってしまってから、まずい、と息をのむも既に遅い。ダレスのこめかみには青筋が浮かび、若い時分は美しかったのだろう顔は憤怒に歪んだ。

「あなた様の御言葉の正偽などどうでもよろしい。急ぐべきは汚穢おわいの処理よ。給仕女こそ罪人などと馬鹿げたことを言う大臣もおりますが、真の犯人など知れたこと。すべて下賤なユアめの仕業」

 グレイスはやや俯いてじっと堪えている。そうしていても、ちらちら向けられる二通りの視線を、グレイスははっきりと感じることができた。養母の陰湿な仕打ちにも耐えねばならないグレイスに同情する視線と、不共にも展開を興味深くうかがう視線との二種類だ。

「皇帝殺しの罪は、魂吸いの呪いなどで許されるものではないわ。ユアの身が呪いに食われる前にみつけだし、もっと酷い罰を与えてやるのよ」

 ふいに鋭い声を向けられた従者は、恐れ畏まって走り去った。手足がちぐはぐに駆けている。よほどダレスの形相に恐動したに違いない。そしてその言葉にも。それは皇后とはとても思えない口調だったが、次にグレイスにふり向いたときには、先ほどまでがまるで悪い夢であったかのように、ダレスは普段どおりの粘る口に戻っていた。

「ユアは魂食らいと呼ばれた男。これまで散々食らってきた魂を、今度は呪いに吸われることになるなんて、なんとも可笑しいことですわね」

 グレイスはうまく答えることができなかった。ただ曖昧に首を傾けてみせるだけで。

 散々まくしたてて気が済んだのか、大きな尻を左右に揺らし、ダレスは廊下をいってしまった。グレイスは頭をさげてそれを見送る。成り行きを見守っていた大臣や臣妾らは、気取られる前にと散らばっていく。

 グレイスはなにも感じなかった。怨みという鎧に身を固めた養母も、馬鹿げた噂話ばかりにうつつを抜かす高官たちも、グレイスを憂鬱にすることはない。城での生活は、彼にとって灰色でしかなかったのだ。悲しみも喜びも、すべては心の奥底に隠してしまったから。それに、別れ際にダレスが放った一言が、なにより彼を捉えて離さなかった。

 ――まったく、あの女の血筋はどこまでもわたくしを苦しめますのね。

 あの女。独り言にしてはいやに大きなその呟きは、グレイスの胸にちくりと刺さった。言外に含まれる色あいが、なぜかグレイスを引きつけてやまない。

 グレイスはひとつ息をついた。いまそれを考えたところでどうにもなるまい。

「葬儀の段取りはすんだのか」

 いえ、と従者のひとりが答える。

「先に戴冠式を執り行わねばなりません」

 グレイスの眉が翳るのを認め、従者は慌てて言葉を繋いだ。

「この国は一時たりとも指導者を失うわけにはいかないのです」

 ほとんど耳に囁くような調子だ。グレイスはじっと目を閉じる。

「皇帝の御霊を気遣われるあなた様の御気持ちはお察しいたします。しかし、こればかりはどうか御容赦くださりませ。すべては罪なき臣民のためなのです」

「……では、式は可能な限り静かにいたせ。華美を誇るな。黒にまとめよ。国中から祭司を呼び集め、皇帝の魂をよく慰めることも忘れるな」

 従者は深く頭をさげて、彼の言葉を伝えるべくその場を去った。

 私室に戻る回廊の途中で、グレイスは悲しげな笛の音を耳にした。皇帝の死を悼んでいるのか、揺れる音は泣いているようにも聞こえる。重い扉もその悲しみを遮ることはできなくて、漏れ入ってくる笛の音に、グレイスは深々と息を吐いた。全身が気だるい。二人の従者は扉の傍に控えていたが、顔を見合わせるとどちらともなく頷いた。

「私どもは外におります。戴冠式の衣装合わせがございますから、準備ができ次第御呼びいたします」

 気を取り直し、グレイスはしっかりと頷いてそれに応える。彼らの気遣いがありがたかった。なにしろ昨夜から動揺が過ぎる。グレイスにはひとりの時間が必要だった。

 グレイスは手近の椅子に腰をおろした。立派な装飾のほどこされた肘掛けがついた代物だ。高級な綿がしっかり詰まった一級品で、赤いクッションはグレイスの体重を優しく受け止めてくれる。目を閉じてグレイスは耳をすませた。従者たちの足音が扉の向こう、やや遠くでぴたりと止まる。疲れ切った皇嗣が眠りやすいよう、精いっぱいの距離をとったのだろう。皇城のあちらこちらで依然蜂の巣をつついたような騒ぎが続いているが、この辺りの回廊だけはしんと静かだ。

 やがてグレイスは立ちあがり、大きな壁掛けに歩み寄った。床まで届くこの壁掛けには、繊細な編み目にローハーの建国からいままでが描かれていて、レザフ皇帝からの贈り物だ。おもむろに手を伸ばし、グレイスはそれを外してしまう。すると奥から現れたのはひとつの扉で、驚くようすはかけらもみせず、グレイスは慣れた手つきでその取っ手を掴んだ。

 扉の向こうは窮屈な小部屋だった。ぽっかり開いた穴のような天窓からは、一筋の光が差しこんでいて、たよりなく揺れる埃をちかちかと照らしている。狭い部屋だが、それでさえ照らしきるには細すぎる光だ。ために部屋のなかは薄暗く、しかし陰鬱な空気はまるでない。埃っぽさはどうしようもないが、ここには澄んだ空気が生きている。昨夜まで、この隠れ小部屋にはひとりの老人が住んでいた。きっと彼がそうさせたのだろう。

 ニンフというその老人は、訳あって死人とされている。グレイスに匿われ、外界の一切と隔離されてから、もう軽く二十年が経つ。だというのに彼はめっぽう物識りで、なにを訊ねても首を横にふることはまずなかった。そんな彼だから、きっと、溜飲のようにくすぶるグレイスの疑念の訳も、すらすら説明してくれたに違いない。彼はグレイスの師であり、父であり、城で気を許せる唯一の人物だった。

 ふと目をやった机上に一冊の本をグレイスはみつけた。昨夜ここを訪れたとき、ニンフはこれを読んでいた――。


「新しい文字を作るのです」

 にっかと笑って言うニンフに、グレイスはすっかり呆れたことがあった。鈴の音のようなエルフ語に始まり、あまねく知られる人間語(これを共通語と呼ぶのは人間の傲であろうか)、土くさく訛ったドワーフ語、獣の呻きにも似たアスビット語など、その他識別すら困難な方言までを加えると、世にある言語は驚きの数に至る。文字もそれに準ぜられて然りだ。なのにまだ数を増やすと言う。まったく、頭がよすぎる者の考えることは分からない、と。

「なにも書かれておらぬではないか」

 しかし差しだされた羊皮紙には、文字はおろか、インクの跡も見当たらない。不審そうに呟くグレイスに、かざしてみなされと、ニンフは弾む声で彼を明かりの下に誘った。言われるままに羊皮紙を陽光にかざしてみると、なにやら小さな穴が無数に開いているのが分かった。

「規則に従って針を打っております。これは指でなぞって読む文字なのです。目が不自由でも書物を楽しめるように」

 聞いてグレイスの胸は痛んだ。ただひとりばかりのニンフの孫は、生まれながらに目が利かない。生来の不幸を背負う孫が、ニンフはかわいくて仕方なかったのだ。その孫が幼いうちに不帰の人となってしまったことを、まさかニンフが知る由もない。グレイスは笑みを作ることもできず、ただ彼の偉業に感心しているふりをするばかりだった。

 昨夜も彼は、新しい文字に書物を翻訳していたのだ。生きていればグレイスと似た年頃だろうニンフの孫は、しかし彼のなかではすっかりその時を止めてしまっているようで、開かれているのは幼児向けの御伽話であった。

「なにがありました」

 グレイスが一声も漏らさないうちに、ニンフは静かにそう言った。なにかあったか、と訊くのではない。なにかが確かに起こったのだ。それも至極宜しくないことが。そう思わせるに十分なほど、グレイスの顔は青褪めていた。

「皇帝が」

 グレイスは唇を舐めてやる必要があった。口が震え、うまく喋ることさえかなわない。

「死んだ。殺された。寝室で、おそらくは刃物で、血が……」

「よく分かります。しかしまずはお座りなさい」

 揺れる肩をやんわり押さえ、ニンフはグレイスを椅子へと導いた。水差しを手に窺うと、皇嗣は酷く震えている。差しだされた水を飲み干してようやく、グレイスはわずかに落ちつきを取り戻すことができた。

「皇帝が殺された。惨いあり様だった。血があれほどに赤いとは……思わなかった」

「命の色ですからな。深いわけです」

 ニンフがしっとり相槌をうつ。グレイスは視線を泳がせる。

「それに酷く臭かったのだ。身の毛がよだつような臭気だった。――いや」

 ため息をつき、グレイスは左右にかぶりをふる。長い髪が合わせて揺れる。

「こんなことは大事ではない。私が言いたいのは」

 グレイスは顔をしかめた。頭のうちが、まるで整理できていないのだ。ニンフはじっと彼の言葉を待つ。グレイスは大きな深呼吸を三度繰り返した。

「私が寝室を訪れたとき、彼は既に息絶えていた。不審な人影はもちろん、慌てた足音もなにもなかったが、犯人が誰かは分かっている」

「ユア=A=フロイアント」

 グレイスは浅く頷いた。

「彼以外に皇帝を手にかけようとする者など考えつかぬ」

 それで、とニンフは言った。それで、あなた様はどうなさるおつもりです、彼を。

「……逃がしてほしいのだ。ユアを、国の外へ」

 ニンフはなにも言わない。ただグレイスの面を見守る。グレイスも彼の目をみつめかえす。その瞳は迷った子犬のように不安げだった。

「彼を、捕らえさせたくないのだ。どうしても。彼が極刑の末に死ぬところをみたくない。最後の一時だけでも、彼に外の世界をみせてやりたいと思う」

 ニンフは思わず口を開きかける。しかしグレイスは首をふってそれを制した。

「なにも訊いてくれるな。私にも分からぬ。なぜこのように思うのか、どうしてこうも彼が気にかかるのか」

 あれなどただの穢れに過ぎぬのに。グレイスは吐き捨てるように呟いた。

 グレイスはゆっくりと立ちあがる。老いてなお人並み以上の背丈を誇るニンフさえ、グレイスの前では見劣りしてしまう。立派になられたものだ。ニンフの目が知らず細められた。

「引き受けてくれるか、この頼みを」

 ニンフはころころと笑った。頼み、と言うのがまた皇嗣に似合わずしおらしい。血筋はどうあれ、グレイスはレザフ皇帝が認めた世継なのだ。もっと威光をひけらかしてもいいものを、堂々たる態度は崩さないながら、しかし驕るようすは欠片もない。この方ならばローハーは大丈夫だ。ニンフの胸を温かいものが満たす。いきなり笑いだしたニンフに、グレイスはすこし困惑したようだ。

「お任せください。不肖ながらこのニンフ、ユアを伴い、夜のうちに消えましょう」

「二度とこの地は踏めぬぞ」

「元より承知です」

「相手はかの魂食らいだ。いつ命を奪われるとも知れぬ」

 決して外に漏れない程度に気を配りながら、しかしニンフは豪快に笑った。

「二十年も前に一度失った命です。あなた様に助けられなければ、この老いぼれは、今宵ここに立ってさえおりませんでした」

 二十二年も昔。グレイスが皇一族に迎え入れられた当時のことだ。まだ弱冠六歳。母親が恋しい盛りだ。それなのに、訳も分からないまま家族と引き離され、代わりに見ず知らずの大人たちの中に放り込まれたものだから、幼いグレイスが泣かない日はなかった。

 大臣たちは期待の第一皇子におもねりこそすれ、涙を不吉と咎める者などいなかった。ニンフひとりを除いては。その頃臣下やその子息らの教育係をしていたニンフは、ある日、グレイスの前に仁王立ちしてこう言ったのだ。

「いずれこの国を担う御方が、そんな御顔でどうします。いまやあなた様は“E”の称号を抱く御身。いつまでも恋慕の情に囚われて、真実を見逃すことでもあればどうなさる!」

 雷が落ちたかという激しい怒声だった。グレイスははっと息をのんだ。ただちにこれは不遜だと叫ぶ声があがり、日頃から彼を疎ましく思う者の思惑も絡んだのだろう、叱責はひどい打擲ちょうちゃくに話をすり替えて皇帝の耳に届いた。もちろんレザフ皇帝は激怒した。詮議の場すら設けず、ニンフに死罪を言い渡したのだ。グレイスがこれを黙ってみていられるはずがなかった。

 懐かしい記憶にグレイスの顔がほころぶ。血の気のなかった顔にもわずかに赤みが差した。

「おまえと別れるのは惜しい」

 ニンフはこともなさげに笑ってみせる。

「なにを仰います。あなた様はもう十分に御立派、私の助けなどもはや必要ではありますまい。ただひとつ、あなた様が玉座におわします姿を拝めないが残念です」

 軽口まで叩くとくれば。

 気を取り直したように顔を引き締め、胸の紋章に手をそえ、ニンフは片膝をついて頭を垂れた。この国で最上級の礼のしぐさだ。グレイスはその頭上を右手で払う。これは皇一族のみが行う返礼で、命を賭した奉公を誓う兵士のために、その過去や煩悩を切り落とすさまを表すという。ゆっくりとあげたニンフの顔は、晴れ晴れとして爽やかだった。グレイスは口をきりりと締める。

「いこう」

 別れは辛い。しかしグレイスは皇嗣だ。実際にこの国を背負うようになるのはもう明日明後日のこと。情に囚われ、真実を見逃すことでもあればどうする――。

 マントを羽織り、颯爽と部屋を出るグレイスの背中を、ニンフは濡れた瞳でみつめた。


 月のない夜だった。どっしりと茂る黒い木々も、皇帝の絶対を疑わない臣民も、贅の極みを尽くした毛皮にくるまれて眠る皇后も、すべてがいつもどおりだった。ただ、ひとつだけ小さな異変が起こった。生まれた歪はいくつもの波紋を生んでいく。ちょうど静かな水面に小石を放りこんだときのように。しかしこの夜はまだ誰もそのことを知らない。誰も、なにも知らないのだ。本当のことなど、まるで。

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