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眩光

作者: 夜岸明希

 

 

 わたしがわたしでなくなってしまったのは、わたしではないものがわたしになったからだ。

 

「それ」は夏の終わりに突然現れて、トンネルの日陰で休憩していたわたしの皮を剥ぎ、奪い、身につけて去っていった。

 

 とても暑い日だった。

 

 金曜日で、夕暮時だった。部活が終わった帰り道。陽は沈みかけていたが、黄金色に染まった空は高い温度を維持していた。遠くに見える稜線に重苦しい雲の姿。もうじき雨が降るのだろう。髪が温もり、肌がひりつく。充満する熱。呼吸すら辛くてわたしはバイパスに逃げ込んだ。普段なら怖いから駆け抜ける日陰、コンクリートの穴、かたくて冷たい空気。

 

 その日は恐怖を感じなかった。陽射しのないことが、逆に素晴らしく思えた。家まではまだまだ距離がある。時間をかけて、体と制服にこもる熱を身震いして振り払い、暗い空気に流していく。汗が引くまではここにいよう、と決めた。雨が降る前に帰宅してしまいたかったけれど、ぎりぎりまで体を冷やしたかった。いっそ降り出してから濡れつつ帰った方が良いのかもしれない。

 

 わたしの部屋には冷房が何もない。うだるような暑さ、裸で畳に寝そべりうなされるだけの夜が、またやってくるのだ。

 

 うなだれた瞬間だった。

 

 それは、コンクリートの壁から急に現れた。スプレーの落書き、こども用駄菓子のシール、何かがぶちまけられたシミのあとで汚れた壁の亀裂から、白い仮面をつけた何かがすうっと出てきたのだ。何も着ていない人間のようなもの。

 

 人型だけれど、人ではなかった。つるんとして透明なゼリーみたいな肌をしていた。仮面には鋭くつり上がった目の形に開いた穴が二つ。音もなく、気配もなく、まるで当たり前みたいにそれは現れ、ぴたぴたと歩き始めた、わたしを見つめながら、こちらへと。

 

 穴の中に眼球はなさそうだ。ぽっかりと開いた暗闇が黒い目のように見える。トンネルの日陰よりも暗い穴が気味悪く浮かんでいるようだった。

 

 透明な体は向こうの景色を映している。蝉の鳴き声が弾け、ヤモリが小石の陰を滑り、中海の匂いを運ぶ風が平然と吹きすぎている田舎道を。葉のざわめきを。歪んだガードレールを。シンプルな標識を。

 

 平凡な日常の雰囲気に馴染めないまま、それはゆらゆらと近付いてくる。

 

 それが悪いものだとは思わなかった。不思議と、わたしには馴染む気がした。思えば、目があった時点でわたしは既にそれのものとなっていたのだ。怖くはなかったのも、親しみすらわいたのも、存在に疑問を抱かなかったのも、それがわたしに、わたしがそれになりつつあった証なのだ。

 

 白い仮面、液体のそれが立ち止まり、右手をのばしてきた。顔を掴まれ、頭頂部を撫でられたあと、ゆっくりと皮を剥がされた。蛇の脱皮よりもなめらかに、完璧に全ての皮が剥けた。痛みはなかった。むしろ、快感が脳に溢れた。かさぶたを剥がした時のような、ちぎれかけた爪や抜けそうな歯を思い切り引っ張る瞬間のような、背骨をあわだたせる快感があった。一切身動きがとれないまま、皮がめくれた。制服や下着は皮と一緒に足もとに落ちた。わたしの皮が剥がされたというより、わたしの皮より内側の肉体だけが液体に変化したのかもしれなかった。考えないようにしたかったが、体の感覚が事実を物語っていた。

 

 人型はわたしの皮袋に潜り込み、わたしとなり、わたしを置いてわたしとして帰宅していった。そうとしか言いようがない。ゼリー状の人間がぺらぺらの皮を頭からかぶり、次第にわたしそっくりの人間になっていった。彼女はわたしの下着を身に付け、制服を着た。そして何事もなかったように鞄を持ち、本来わたしが進むはずだった道を歩きはじめ、やがてその後ろ姿は遠ざかっていった。

 

 残されたのはわたしだけだ。ぐちゃぐちゃになった視界が跳ねる。あるのかどうかも分からない眼球の挙動がうまく制御出来ない。

 

 しばらくじっとしていた。徐々に恐怖が突き上げてきた。先ほどから感じていたこと。体がおかしい。奇妙な感じがして仕方がない。わたしの腹は、どこだ? 指は? 足は? 関節は? 肺は? 脳は? 動けなかった。見たくなかった。魂が全身に満ちていた今までの感覚ではなかった。生ぬるいプールに沈んで溶けているような浮遊感。体内の感覚をさぐってみるが、自分の体がどんな形をとっているのか理解出来なかった。

 

 わたしは呼吸すらしていなかった。吸おうと思っても鼻が動かないし、鼻がどこかも分からない。苦しくはないのだが気分が悪い。眼球も、やはりない。先ほどの視界はどこから得たのだろう。見ようと決めたらすぐにまた視界は開く、その確信はあった。けれど、もう見たくない。ぐるぐると回る化け物じみた視点など二度と開きたくない。何も知りたくない。

 

 数十秒が過ぎた。その間、五感を封じ込めるように努めた。感じない、気にもしない、そうするうちに自分が虚無にのまれて消失していきそうに感じられてきた。進展のない時間に堪えかねて、勇気を出して再び「目」を開けた。水中で見た湖底の景色、そんなフィルターのかかった視界が開いた。見える範囲は人であった頃とそんなに変わらないが、細部がぼんやりとして判然としない。

 

 目を凝らすように集中すると、焦点が定まりだした。バイパスを出て陽光の下を歩いていく制服姿のわたしが遠くに小さく見えた。休み休み、ゆっくりと歩いていた。彼女は鞄からタオルを取り出し、首に巻きながら歩をすすめたが、ふと空を見上げて立ち止まった。やはり雨が降る前に帰ろうと思ったようだ。小走りで眩い光の中に消えた。わたしの目ではこれ以上は追えそうにない。

 

 待って。それはわたしなんだ。

 

 声が出ない。口がどこにあるのかもはっきりしない。

 

 わたしは、それなんだ、これはそれで、わたしはわたしなんだ。何度も叫ぼうとするが、蝉の声しか聞こえてはこない。

 

 焦って追いかけようとしたら、体が崩れた。ぱしゃん、と鳴って、わたしの視界がアスファルトにぶつかった。そして完全に悟った。というよりも、認めた。わたしの体は透明な液体になっていると。人型であることさえやめた、水たまり。皮も筋肉も骨もなく、言葉も発することが出来ない液体がわたしだ。

 

 どろりと無様に広がった液を動かして、全力で全身を確認する。心が震える。

 

 体がない。

 

 体がなかった。

 

 暴れようとしても水音が跳ねるだけだ。目のまわりにかたさを感じる。調べるまでもない。仮面がついているのだろう。わたしに与えられたのはそれだけ、これだけ、あとは奪われてしまった。わたしの暮らしが、わたしの肉が、わたしの全てが。

 

 雨が降りはじめた。一気に降り注ぐ強い雨。山の向こうから迫っていたはずの雨雲はいつの間にか辺りの空を塞いでいて、眼前まで近付いていた。陽光溜りとの境目がものすごい速度でこちらへと滑りくる。境界線がバイパスを横断する。雨音が頭上で爆発する。背後から伝わっていた熱気も、やがて雨に押し込まれて消え失せる。むせかえるような湿気、濡れたアスファルトの匂い、たちのぼる不快感。S字カーブ、カーブミラー、農道、タバコ工場、広い田畑、何もかもが水に飲まれていく。どのみちわたしの目で見る景色は最初から、水中に没している。水中のものが更に水中に沈んでいき、輪郭らしい輪郭がなくなっていく。

 

 わたしは笑った。笑うしかなかった。いつの間にか口が出来ていて、水音混じりの声が出ていた。気持ち悪い声を聞いて、口をつぐんだ。

  

 やがてわたしの中のなにもかもが冷えていった。

 

 

  *

 

 

 どうしようもない。行く先もないし予定も家もなくなってしまった。わたしはもはや人ではない。

 

 諦めてバイパスを出る。時間をかけて水たまりの体を動かせるようにはなった。人目を避ける為に用水路を通って移動し、小さな児童公園に隠れた。

 

 長い距離を這いながら進んだが、この体は腹も空かないし疲れもしない。眠くもならない。寒暖や物の感触は分かるのだけれど、どこか他人事のように感じる。冷たくても辛くはない、暑くても苦しくはない、とげが刺さろうとも痛くはない。触れるもの、まとわりつくもの、通り過ぎていくもの、世界を構成するものはまるで違う次元にいったようだ。わたしはここにいるはずなのに、ここにいない。いないようなのに、確かにいる。

 

 わたしの皮を剥いだあいつも、こうやって生きていたのだろうか、などと考えた。物陰に隠れ、コンクリートに紛れ、夜闇をさまよって生きてきたのだろうか。

 

 自身について、液体について考察しているうち、深夜になった。わたしは滑り台の下で寝そべっていた。もし人がわたしを見たら、ただの水たまりと、そこに落ちた仮面を見出しただろう。けれど田舎の端っこにある公園なんて誰も訪れやしなかった。当面、そこがわたしの隠れ家になった。どこかの廃屋にでも忍び込もうかとも考えたが、もはや移動する気力がなかった。なにやら億劫になっていたのだ。きっと天国に旅立っていった人達も同じような気持ちになるはずだ。欲求から解き放たれると倦怠だけが残る。わたしには何かをする動機と意欲が失せていた。石に、花に、風に、星に、大気に、川に、海になったようなものだ。わたしは人ではない。わたしはなにもなくてもわたしで、なにもないからなにもなくてわたしではない。行き先とは、生者だから、繋がりがあるから、人の間に、命の間にあるから生まれるのだ。個には点しかない。線を引く意味も意義も価値もない。などともっともらしく思いながら、つまるところなにもかも面倒なのだった。

 

 一人で、長すぎる日々を無為に過ごしていった。何日も、何日も過ぎた。空は明るくなり、暗くなった。星が巡り、大気が滑り、雲が流れた。鳥がはねを広げ、飛行機が軌跡を残して青空を割り、雨が降り、虹がかかり、霧があふれ、蝙蝠が飛翔し、また、何もいない空が青白く輝いた。

 

 わたしは惰性的に思考し、終わらない自分の生を、あるいは始まらない死を、冷ややかに見つめていた。

 

 人型の彼は、人として生きたくなったのだろうか、とぼんやり考える。彼について考えるのがもっとも生産的で興味深い。

 

 あれも元は人間で、皮を奪われた人だったのだろうか。それとも最初から化け物として生まれ、わたしではじめて人の皮を剥いだのだろうか。

 

 何にせよ、彼が水の体より生身の方が良いと答えを出したのは間違いない。わたしだってそう思う。自分の皮があればなあと思う。こうなってはじめて、命とは温度なのだと知る。恨み、妬み、喜び、抱擁、暴力、意志。感情は、未来は、希望は、絶望は、夢は、罵倒は、温もりだ。羨ましい限りだ。

 

 だが不思議なもので、わたしはあいつから自分の皮を取り返そうとは思えないのだった。何万回考えても、有り得ない、と断定してしまうのだ。あの皮はもうあいつのもので、わたしのものではない。それにわたしであるわたしは今も継続している。消滅したわけではない。

 

 終わったことだ。驚くほど未練はなかった。

 

 ある種の満足感を得ていた。わたしは生きた、わたしは奪われた、わたしはわたしを放棄せずわたしとしてわたしを剥奪された、つまりわたしはわたしを全うし、わたしとして走り抜けたのだ、と。それはわたしが昔から定めてきたわたしの生き方で、望んでいた素晴らしい終わりともいえた。

 

 たとえばわたしが皮を剥がされずに数年後、病死でもするとして、その時だって、人生をやり直したい、と病床で騒ぐことはしない。わたしはわたしをちゃんと生きたなあ、と充足する。仮に神様から人生を一からやり直せますよと言われても、やり直したくはない。どうせまた間違え、また後悔し、また満ち足りて、また死ぬだけだから。

 

 今を見ていれば、今を生きていけば、人は強くなれる。わたしはそのことをここまでの人生で学んできた。何もかもを人のせいにしてきた両親、殴り、刻み、縛りつけてきた祖父、兄に性的な虐待をくわえた祖母、家族を呪い、祖母を殺した兄、家に溢れる恨みつらみ、呪い。だからわたしは、今を懸命に生きると決めて日々を過ごしてきた。なにがあっても、なにをされても、自ら命を絶つのは自分で自分に許さなかった。終わりは向こうから来なければならなかった。そうでなければ、死の間際に笑ってやらなければ、世の中を呪いながら他者を苛む家族と変わらない生き物になる気がしていた。わたしは全てに感謝をしてみせる、生を平らげてみせる、そして今、わたしは液体になった。リレーは終わった。バトンはあれに渡り、わたしは死んだようなものだ。頑張った。わたしはもう、わたしをやらなくてもいい。わたしは痛みに、屈辱に、恥辱に負けなかった。

 

 わたしの皮を被ったあいつは、わたしの苦しみも幸せも被って先を生きていく。わたしはもはや体を動かすこともままならない。水たまりに化けて思考するだけで精一杯だし、満足なのだ。皮には憧れるが、能動的になれるほどの欲求ではない。

 

 今を生きる。今を見る。今を考える。

 

 寂しくはある。惜しくもある。悔しくもある。なぜ、と怒りもする。でもこの体のせいなのだろうか、偽りの湖底から見上げる月夜は澄んでいて、静かだ。どうだって良いじゃないか、なるようにしかならないのだからね、と、呟いてみる。ぼやけた声。液体が同時にこぽこぽと鳴る。

 

 全身に納得が満ちていた。

 

 負の感情は、湧いたそばから霧散していった。

 

 彼は、わたしの苦痛とどのように向き合っていくのだろう。

 

 

 

 

  *

 

 

 

 何年も漂ったのだと思う。時間感覚はとっくに消えていた。最初の住処である公園はいつかの時点で取り壊された。ずるずると移動し、辿り着いた先が今暮らしているタバコ工場だった。そこはとっくの昔に放棄され、いたるところが崩れていた。雑草がコンクリートの隙間に茂り、窓ガラスは割れ、風が吹くと廊下に低い唸り声が響いた。わたしは雨水が溜まっている会議室に長年おさまっていた。

 

 その部屋の天井は崩れ、床は窪んでいた。外が丸見えの穴あきドームみたいだった。雨水の溜まる箇所はちょっとしたプールのようになっていた。五歳児くらいなら少しは泳いで楽しめるかもしれない。部屋はだだっ広くて、数十人規模で話し合いが可能なサイズだ。地震によるものか、老朽化のせいか、東側の角から中央にかけて床が傾いていて、雨水が蓄積されている。わたしはそこでじっとしている。

 

 体を水に浮かべて空を眺めるのは心地が良い。朝がきて、昼がきて、夜がくる。町から明かりが失われたのか、わたしの視力が向上したのか、意識するようになったから気付いたのか、夜空には星が数え切れないほど浮かぶ。かつて見たことがないほどに。

 

 立派な専用プラネタリウムだ。わたしは水中から宇宙を見て、水中にいながら宇宙に浮かんでいた。夜が明ければ空に鳶が回る。雀が快晴を滑り渡る。白い月が薄い青空に浮遊する。わたしも水に揺蕩う。

 

 自分の人生を振り返ることにも飽きたわたしは、やることがなくて日々を持て余していた。天啓のように時々思考の種が浮かぶと、哲学じみた思索をすることは出来たが、もはやわたしはぷかぷか浮かぶ海月と同じ存在になりかけていた。思考することが減っていった。

 

 無。

 

 気怠い心地良さ。

 

 ただ自然を観測するだけの物体。

 

 定点観測、天体観測、そこに意思はなく意味もない。星々の運行、季節の移り変わり、人でなくなった身では、あらゆる感情が色褪せてしまう。

 

 何年も、何年も過ぎていく。過ぎたのは数年のようでもあり、一万年であるような気もする。わたしとは何だろう? そんな疑問も剥がれ落ちる。悲しくもない、楽しくもない、時の牢獄とも思わない。

 

 

 *

 

 

 冬の夜、細身の少女がタバコ工場に侵入した。わたしは久方ぶりに意識を働かせた。激しい物音が何度もした。はじめは建物が崩落したのかと思った。が、どうやら何者かが歪んで開かなくなった扉をこじあけて押し入り、うろつきだしたようだった。足音が動き回るのを感じた。ほこりのせいか、時折くしゃみをしていた。咳もだ。空気が震えている。気配というものの温もりが伝わってくる。

 

 人間だ。

 

 にんげん。懐かしい響き。タバコ工場周辺は人類が滅亡したのかと思われるほどいつも静かだった。外を探索する意欲も失せていたわたしだったが、それでも懐かしい人間の気配には興味がわいた。視界を開き、体を雨水からかき集めてかたまりに戻した。わたし、を再構築するのには多大な力がいった。人間らしい思考をしていた記憶は粉々になって古びていた。太平洋に混ざった飲料水を再び一本の瓶に戻すような作業に思われた。けれど、足音が近くなり、会議室の扉が開いて侵入者の姿が現れた瞬間、わたしは唐突に自分をはっきりと思い出した。

 

 少女は埃と土で汚れていた。見たことのないデザインだが、学校の制服姿のようだ。やつれた顔で、右足を引きずっている。吐く息が白い。改めて生きた人間を久しぶりに目にしたのだと理解した。少女はようやく辿り着いた、という風で、会議室の壁際の床に倒れ込んだ。

 

 部屋の片隅は崩れてへこみ、雨水の池になっていて、それは相変わらずわたしの体と混ざりあっている。濁った水面に頭上から降る粉雪が溶けている。油だまりのような池に鋭い月が刺さり、わたしのまわりは銀色に灯っている。今夜はかすかな雪だが、空の半分はすっきりと晴れてもいる。池は冷えているのだろうが、凍るほどではない。仮面を持ち上げ、視界を定める。

 

 気付かれないように少女を観察した。彼女は荒い息で胸を上下させながら座っている。もわもわと白い煙がたちのぼる。顔が赤い。寒さだけではなさそうだ。病気かもしれない。栄養が足りていないのか、肉らしい肉が腹以外についていない。濡れた黒髪は適当にハサミで切ったようにばさばさで、右半分だけあまりにも短い。顔立ちこそ可愛らしいものの、皮膚の汚れや手足の生傷、たまに開く目の異常な光のせいで、野良猫のように見える。少女は膨らんだ腹をさすりながら時折呻いている。

 

 しばらくして、今度は松葉杖をついた少年が入ってきた。二人とも中学生くらいだろうか。彼もまた疲れきっていて、ぼろぼろだった。背負っていた鞄から食料や水筒を取り出して、彼らは飲み食いをはじめた。少年は片足だけ義足だった。散乱していた椅子を並べて二人は座った。少年は異常の出たらしい足を調整しはじめた。

 

「まだ、大丈夫そう?」

 

 と、少年はたずねた。少女は頷いた。彼は彼女の顔色を、彼女は彼の足を気遣っていた。

 

「でもたぶん近いうちには」

 

 そうか。

 

 それだけ言って、少年は会議室を出た。彼は時間をあけて幾度か出入りを繰り返した。どうやら生活基盤を整えているらしい。少年は別室から棚を運んできて、薬品、本、食料を並べ、汚い毛布で寝床を作った。机や書棚を積み重ねて壁と天井をそなえた小型の寝室を会議室内に作り、布をはり、毛布を敷き詰めて暖を確保した。彼らは西側の隅を住居に変えた。そこなら雨も雪も降らない。

 

 工場内で生活するつもりなら、他の区画は崩落だらけで適さない。とはいえ、廃墟であることに変わりはないし、人が生きていくのには辛いだろうに。わたしは徐々に変貌する会議室を俯瞰で眺めながら訝しんだ。

 

 少年はタバコ工場を出ては物資を携えて戻り、また出掛けていった。毎日、雪がちらついていた。二人は震えながら凍えていた。コンクリートブロックを集めて、彼らは焚き火をした。薪を運ぶのにも、恐らくは用意するのにも少年は苦労しているのだろうと思われた。今にも死にそうなほど疲弊している。廃墟で暮らさなければならないのはなぜなのだろう。明るく灯る火、照らされる二人の横顔は暗く悩んでいるように見える。

 

 外の世界がどうにかなったのか、駆け落ちか。

 

 わたしは逃げずに見ていた。彼らは隠れる者だ。これ以上新しく人が現れたり、騒がしくなったり、暴れたりもしないだろうと思われた。単純に懐かしくもあった。人の営みが。人間の匂いが。それらの思いがわたしを会議室から離れがたくした。

 

 少年はいつも疲れきって深く眠った。何往復もしたのだ。一度外出したら、戻ってくるまで半日はかかった。何回もあの足で歩き、更に工場内の資材を動かして部屋を構築するのは激務だっただろう。少女は眠る少年の髪を撫でながら、愛しそうに「いつもごめんね」、と毎夜繰り返していた。

 

 人間らしい思考を彼女らのおかげで思い出したわたしは観察をし続け、ようやく二人が何なのかを知った。少女の腹はかなり膨れていた。そして二人はほとんど同じような顔をしていた。同じ苦悩、苦痛、壁に立ち向かう共同体としてだけではない、性別が違っているだけの、本当に同じような顔をしているのだ。瓜二つというべきか。あるいは。

  

 なるほど、とわたしは思った。じんわりと、心に熱が灯ったような気がした。人間とは、そうであったな、などと再確認する。情が絡み、体も絡み、愛憎が熱を持つ。何の感情であれ、対象に思いが生じるのは人間らしさの幸福そのものだ、仮に不幸だとしても幸せなことだ。そこには熱があるのだから。

 

 きんと冷えた夜、少女はこどもを産んだ。

 

 唸り、叫び、暴れ、わめき、食いしばりながら彼女は戦った。風も吹かず雪も降らない静かな夜だった。まんまるな月が天井の穴の向こうで小さく、しかし強く輝き、焚き火の灯る部屋の四隅に残る暗闇をかすかな銀に染めていた。少年も少女も混乱しながら処置をした。壁面に二人の影が現れ、ゆらゆらと動いた。子どもの頃に見た教育テレビの影絵アニメーションを思い出した。不気味なのに優しくて、恐ろしいのに滑稽な影の動きを。

 

 決して清潔ではない場所での出産だったが、二人は可能な限り配慮して対応した。寝床のまわりにタオルが散らばり、少女は顔を真っ赤にして喘いでいた。てらてらとぬめる赤ん坊を少年が取り出し、右往左往しながら処置をして、体を拭いてやり、少女に抱かせた。泣き声が静かな廃墟にこだましていた。月の冴える夜。焚き火の橙に右半身を染め、左半身を冷えた夜気に晒している少女。仄かに輝く母子の裸体はなめらかで、美しかった。汗が煌めき、彼女の胸の蠕動がおさまっていく。少女ははじめて微笑み、少年もはじめて笑った。赤ん坊の泣き声の中で。

 

 朽ち果てたタバコ工場はその日、出産が終わるまでずっと騒がしかったが、不快ではなかった。

 

 ああ。羨ましいな。とわたしは思った。あんな風に苦しんだのちに、あんな風に笑えたら。わたしがわたしだった時、わたしは本当に生きていたのだろうか。バイパスで休憩していた時。遠い過去。わたしも何かを考え、本当に懸命だったのだろうか。細かい部分の感情が思い出せない。わたしはもはや水たまりでいることになれすぎてしまった。

 

 彼女らの皮を剥いだら、どうなるのだろう?

 

 ふと、そのような考えが頭をよぎる。少女の皮を剥ぎ、中に入れば、わたしは母になれるのだろうか。血肉を得て、少年と暮らし、赤ん坊を育てられるのだろうか。そうかもしれない。そうなのだろう。そうしたら、思い出せるだろうか。温もりを。欲求を。苦しみを。幸せを。夢を。現実を。時間を。皮膚や肉体を。彼我の境界線を。鼓動を。

 

 ずるり、と体が勝手に動いた。わたしの意思かどうか自分でも分からない。思考と体が、知らず流れていた。欲しいと思ったわけでもなく、願ったわけでもない。吸い込まれるようにわたしは少女に近付いた。そうしなければならなかった。疲れきった三人は眠っている。今なら、気付かれないうちに皮を剥げるかもしれない。近付くほどにわたしの内側が人間に近くなるのを感じる。偽りの熱が高まり、欲が、あの焼けつくような胸の痛みが甦ろうとする。

 

 瞬間、ぱちん、と焚き火の中で薪が爆ぜた。

 

 赤ん坊がぴくり、と動いた。這いずる液体と、仮面のわたしの目の前で。母の顔はすぐそこにあった。赤ん坊は醜い猿のような顔を彼女に寄せた。わたしは手をのばした。触手のように細長くのびた液体の手。それはわたしの意思とは無関係に動いて、母の方ではなく、赤ん坊の頬に触れた。赤ん坊は冷たさに驚いたように見えたが、泣かなかった。肉のやわらかさにわたしは震えた。衝動はおさまった。

 

 自分がひどく汚いものに思えた。

 

 それすらも、ありがたいことだと思った。

 


  *

 

 

 数年が経った。繰り返された夫婦の会話から、外の様相を少しずつ知った。外はいたるところで荒廃がすすんでいるようだった。ゆっくりと時間をかけて、こどもが減り、静かになった時代。そこから突発的に疫病が蔓延して世界中の年寄りが先に死に、やがてショッピングモールや公共交通機関が撤退したあとの田舎町のように、大量の人が往来から消え、急速に崩れていく社会。そんな中で産まれた貴重なこどもなのに、狭い世間からは祝福されない子。その赤ん坊は四歳になっていた。少年と少女も見た目は多少大人になり、どうにかそれらしく見える父母となった。

 

 四日前にこどもの母が亡くなった。感染症だった。病気を運んできたのは義足の父親だった。外と行き来していたのは彼だけなのだ。少女は流行病であっさりと命を落とした。何にせよ、どの国にいようが、どこに隠れ住もうが、一日ごとに人間は数え切れないほど死んでいく状況だった。人との繋がりこそが人の命を奪っていった。仕方の無いことだとはいえ、割り切れるものではない。父親は三日三晩泣き続けた。目のまわりは隈で縁取られ、掻きむしった腕には痛々しい傷がいくつも出来た。

 

 母が病気に罹った段階で、こどもは訳もわからないまま会議室から締め出されていた。扉がどんどんと叩かれたが、父親は弱っていく妻の髪を撫でながら泣き、震えるばかりだった。

 

 ぼくのせいだ、と彼は泣いた。

 

 彼女も泣いていた。あなたのせいではない、と。

 

 こどもは違う部屋でなるべく接触しないように閉じ込めておくしかなかった。寂しくて泣くこどもの声が、夫婦の胸を刺し続けていた。それから少しして、母親は血を吐き散らして死んだ。

 

 それでも人は生きていくものだ。タバコ工場から離れたところにある、誰も足を踏み入れない草原に少女の体を埋葬して数日が過ぎた頃、父親は息子の為に再び立ち上がった。彼は以前よりもがりがりに痩せていて、わずかな食料は息子だけ食べていたのだが、とうとうその在庫が全て尽きてしまったのだ。

 

 今までは食料をもらう為に、彼が定期的に実家へ通っていた。祖母が唯一夫婦の味方で、こっそりと支援をしてくれていた。夫婦は実の両親をはじめ、他の親族からも絶縁されていた。人口が減って地域の共同体が縮小された分、わたしが人間だった頃に比べて周囲からの圧力や干渉が強いらしい。今は法律に守られる時代ではなく、勝手な理屈や行き過ぎた制裁が人を支配していた。各村、各町ごとに、勝手な政治が行われ、勝手な制裁や勝手な法が作られていた。自由などなかった。が、それすら維持出来なくなりそうなほど人の数は減少した。

 

 昔ながらの禁忌をおかした彼らは、親族に見つかると、死ぬまで痛めつけられるようだ。祖母を通じて貴重な食料を奪っていたのももし見つかってしまえば、なおのこと。だから彼は古くなった義足で、深夜、裏路地をこそこそと歩く。どれだけみじめなことか。彼には働き先もなく、自給自足するほどの体力もない。祖母からの施しにすがるしか、彼に手はない。片割れを愛してしまった、それだけのことなのに。

 

 もちろん、視点を変えれば、人は生きていかねばならないのに、わざわざ肉親を愛して恨みを買い、生をぶち壊してしまった破滅行為、ともとれる。愚かなこどもが許されないこどもを作った。故にその姿は自業自得なのだろう。

 

 だが、誰も悪くはない。誰も良くはない。ただ、人間が数人存在しているだけだ。数人集まれば、真の自由は消える。人が二人いれば、奪うもの、奪われるものになる。与えるもの、与えられるものにもなる。少女は少年に与え、少年も少女に与え、けれど、少女は少年から平穏な日々を奪い、少年は少女から命を奪い、あるいはその逆、因果というものは勝手に回転する。そこに何の意味があるのかをわたしはかたわらで考えていた。

 

 結局、父親は何も持ち帰らずに戻ってきた。息子は腹を空かせていた。若い父は、扉ごしで息子に謝った。明日にはなんとかするから、と。泣き疲れて眠る息子を見ることすら出来ない。会議室にこもり、彼は頭を抱えた。

 

 なぜだ、なぜだ、なぜだ。震える声が部屋にこだました。

 

 二日後に、彼は戻ってきた。息子は衰弱していた。いくつかの缶詰を息子に届け、また外出した。わたしは注意深く父親を観察していた。独白を聞いた。嗚咽を、謝罪を、怒りを、痙攣を、号泣を、虚脱を眺めた。そしてわたしは知った。彼の祖母は妻よりも早くに死んでいたのだ。ついでに、実家の人間たちも全員。

 

 彼を養ってくれる人も、彼を痛めつける人も、もういないのだ。

 

 彼は息子が眠っているだろう真夜中になると、毎晩ひとりごとを言うようになっていた。罪の意識に苛まれ続けていた。時々持ち帰ってくる食料や水は盗品だった。墓荒らしの戦利品というべきかもしれなかった。後ほどわたしは彼の遺した手記を読み、このあたりの時期に何が起きたのかを詳しく知るのだけれど、錯乱し、わめき散らす様子からしてなんとなくの見当はついていた。彼は妻が死んでからしばらくの期間、一家ごと病死した無人の家に潜り込み、物資を盗むことで生き延びてきたのだった。それは危険な行為だった。誰かに見つかったら追われ、殺されるはずだった。妻と同じように血を吐き散らしながら死んだ遺体のそばから盗みを働く自分を受け入れられずに彼は苦しんだ。

 

 彼はまだ発症していなかったが、死ぬのは遅かれ早かれ時間の問題だった。病で全滅した家は焼かれたりもしてきたが、軒数が増大するにつれ区画ごと立ち入り禁止扱いとなっていた。生きたいと願う人間は感染宅に盗みには入らないし、飢えから仕方なく侵入するものがいたのならば、生存者の中に混ざらないよう、盗人は駆除しなければならない。徘徊して物資を漁るのは結局自殺とたいして変わらなかった。

 

 父親が感染者の住宅から手に入れた缶詰、衣料品は軽く水洗いしただけで息子に与えられた。それらは清潔なものではない。息子にも病気がうつる恐れがかなりあった。けれど、他に手はなかった。どうしようもなかった。病気への対策も、知識も、誰ももう、どうにも出来なかった。

 

 街に空き家は増えていく。家を荒らすのは重罪だったが、それだけに得られるものも多かった。何より、咎めてくる側にいる人間の姿も今では見かけなくなっていた。どんなに張り詰め、監視しあい、線を引こうとも、人間は日に日に減り続け、しまいには誰もいない山向こうへと逃げ出していく。だが、疫病はどこまでも追っていく。屍で築かれた道を残して。

 

 この時期から、彼はタバコ工場よりも、実家に入り浸るようになっていった。そこの離れに家具を集めて自室を作った。長年ずっと閉ざされていた旧宅だった。時々街に出て空き巣を働いては、明かりもささない座敷牢のような一室に、閉じこもる。

 

 彼には静かな時間が、一人だけの時間が必要だった。疲れきり、絶望していた。人生を振り返らないと、爆発してしまいそうだったのだ。彼はタバコ工場に物資を投げ込むだけで、息子には極力話しかけもしないようになった。入口を外から封鎖し、息子を施設に監禁したまま、餌を与え続けた。

 

 ここまでの流れは、長い時を生きるわたしには一瞬に感じられた。あの日の少年は目まぐるしく変わり、暗闇に堕ち、息子を半ば放棄し、自らの過去に没した。

 



 *

  

  

  

 息子の名前はハルといった。立春の日に生まれたから。と少女は出産した翌日にいっていた。もっと凝った名前にしなくていいの? と少年は笑いながら聞いた。いいの、と少女はこたえた。

 

「わたしも秋に生まれたアキだから」

 

 君がそういうなら、と少年は満足そうに息子を抱いた。

 

 

 

 

 ハルは今、一人ぼっちになってしまった。泣いて、泣いて、泣き疲れてまた泣いて、やがて黙った。缶詰を食べ、うずくまり、横たわり、排泄し、虚ろになっていった。

 

 春がきて、夏がきて、会議室は熱溜りになった。

 

 彼は父親がタバコ工場にまともに入らなくなってから、わたしのいる部屋に戻ってきた。家族の思い出、彼の家はここにしかないのだろう。ハルは瓦礫のかげで寝たり、片隅に溜まる雨水に浸かって体を冷やしたりして夏を過ごした。巨大な水たまりはわたしが溶け込んでいるせいなのか、虫もわかず、腐りもしない。ゆらゆらと混ざり、泳ぎ、沈みながらも、わたしはずっとハルを眺めていた。

 

 空から光が零れ落ち、水面をぎらぎらと白銀に塗りたくる。しばらく雨が降っていない。水位は下がり続け、やがて会議室の池は干からびてしまった。珍しいことだった。底に残されたのはささやかな水溜まり、つまりわたしの体と、白い仮面だけだった。

 

 ハルは水が干上がってはじめて見えた白い仮面を手に取ろうとした。だが、それはわたしと繋がっていた。液状の体が仮面にひっぱられて細くのびる。

 

 ひ、とハルは仮面を落とした。ちゃぷん、と仮面が体内に潜る。彼はすっかり怯えてしまい、瓦礫をのぼっておりてこなくなった。

 

 夜、ハルは会議室で寝なくなった。よほど怖かったのだろう。また驚かさないようにわたしの方が移動し、身を隠すべきだろうか、などと考えているうちに、すぐに夜が明けた。ハルは意を決した顔で錆びたペンチを握り、警戒しながら現れた。

 

 ハルはわたしには聞き取れない単語をいくつか叫んで、低く唸った。

 

 わたしは仕方なく、体を人型に作り上げようとした。長らく忘れていた形。なかなか成功しない。手を作り、床に触れる。ぺしゃん、水が崩れる。何回も繰り返しているうちに、ハルは怖がってへたりこみ、泣いてしまった。ペンチを投げつけられたが、液体の腹に飲み込まれ、それは床に落ちた。

 

 そういえば、わたしは喋ることが出来たのだっけ。口を作り、発声を試みる。水音が爆ぜる。ハル、ハル、怖くはないよ。喋ってみたが、グラスに注がれたばかりの炭酸水みたいに水が弾けるだけだった。

 

 水の球になり、這って近寄る。ハルは尻餅をついて後ずさった。床は埃だらけだ。わたしは水の指で、ハル、と書いてみた。だが、ハルは泣くばかりだった。

 

 その日は何を試しても効果がなかった。

 

 次の日も、その次の日も、雨は降らなかった。ハルは喉が乾いていた。飲料の差し入れが尽きている。少年はまだ戻らない。

 

 瓦礫に隠れ、みすぼらしい格好で寝そべるこどもを見て、わたしは思案する。手を伸ばす。この体は水だ。もしかしたら、喉を潤してやることくらい出来るかもしれない。寝ているハルの口に指を入れる。喉を通り、食道を抜けていく。

 

 ハルが目を覚ました。息苦しさでむせ、全てを吐き出した。逆効果だった。わめきながら彼はわたしを叩き、逃げ出した。決定的だった。それまでハルは恐れながらも寂しさからわたしの近くをうろちょろしていたのに、この件以降、部屋に一切入らなくなってしまった。

 

 久しぶりに父親が戻った。飲料も食料も運んできた。重そうな袋を引きずってきた彼は疲弊しきっていた。ひもを握っている手は血だらけだったし、顔色も悪かった。肩で息をしながら彼は施錠していた扉を開け、荷物を入れた。いつもなら息子が騒ぐ気配を壁ごしに見つめてから、扉を閉めるところだ。

 

 けれどその朝、ハルは騒がず、タバコ工場はしんとしていた。父親は訝しげに辺りを見渡した。わたしは会議室の壁に開いた亀裂から、やせ細った彼の虚ろな目を見ていた。彼はどんどん腐敗しているように見えた。後悔しているからなのか、今を諦めたからなのか、未来が見えないからなのか。血色の悪い肌、白いものが混ざった頭髪。

 

 そうか、とわたしは思った。彼はもう少年ではない。くたびれた若者だ。絶望した若者だ。一人ぼっちになった、瀕死の青年なのだ。

 

 ハル、と彼は叫んだ。

 

 ハル!

 

 返事はなかった。何時間も試したが、状況は変わらなかった。彼は笑った。腹の底から笑った。笑いすぎて息が出来なくなるほどに。砕けたコンクリートの通路に、獣みたいな咆哮が響いた。彼は叫び、床を殴り、そしてまた笑った。涙がとめどなく溢れていた。彼は座り込み、水を飲み、缶詰を食べた。荒く息をして、散々笑い、一階のロビーの床でいびきをかきながら眠った。

 

 わたしは震えていた。アキが死んだ時には感じなかった、恐怖というものを内側に見出した。寒い夜、透き通った空気の中で産まれたこどものまなざしを、小さな眼球を、小さな指先を、小さな体を思い出した。幸せそうな家族の眠り、やわらかな添い寝、日々の騒々しさ、響く泣き声を思い出した。どうしてわたしは、ハルが死んだことに気が付かなかったのだろう。あんなに衰弱していたのに。どうしてわたしはハルの為に何かをしなかったのだろう。ハルが会議室を出てから、何日が過ぎたのかさえ、思い出せない。落ち着くまで待てば良い、そう思っていた。けれど、少年は一瞬で分かったのだ、静けさが何を意味するのかを。

 

 生きているからこそ、死が見えるのだ。

 

 では、今のわたしは何なのだ?

 

 夜が訪れた。ようやく雨が降りはじめた。深夜テレビのノイズみたいに、真っ暗な空が鳴動していた。男はへたりこみ、暗闇の中でじっとしていた。わたしも人間だった頃はそうだったな、と思い出した。家族が深夜に怒鳴り合い、殴り合い、やがて静かになったあと、わたしは何も映らないテレビを見ていた。灰色の嵐を見つめていた。ザー。それだけ。チャンネルを変える。ザー。それだけ。それだけのことがそれだけだから、安心出来た。くだらないことも苦しいことも悲しいことも、ザー、それだけ。に、溶けてしまうようで。それが死なのだとしたら、悪くはないなと。そう思っていた。

 

 生きていたら、生きているだけだと感じるものだ。むしろ何も感じないことの方が多いくらいだ。けれど実際は溢れ出すほど多くのことがらが至るところで弾けている。生きるとは、自分と感覚を無数に粉々にして消費することだ。他人と感覚を無数に噛み砕いて摂取することだ。対して死は、それだけだ。それだけに、見える。暫定的な一点。単一とは充足で、安寧で、停滞だ。諦めた人間には停滞が救いとなる。何も願わなくていい、何とも戦わなくていい、何からも叱られなくていい、全ての生命に平等に訪れる静かな停止。ザー。それだけ。もう何も考えなくていい、安らかな音。灰色の嵐。

 

 彼は、哀れな父親は、もう限界なのだ。割れた天井から降る雨に濡れたせいか、彼は咳をついた。髪をかきむしり、歩き回り、息子をさがそうか迷ったあと、何かを振り払うようにくるっと背を向け、工場から立ち去った。丸めた背中で、ぎこちない歩き方で、男は闇に消えた。その背中は、バイパスでわたしを剥いだあれを思い出させた。あれは光の中へ、彼は闇の中へ。そしてわたしは、いつも見送るばかりで、当事者になれていない気がした。物資で膨らんだ袋だけがあとに残された。

 

 あの日、わたしは皮を剥がされて当然だったのかもしれない。わたしの人生は、気配を消して、嵐が過ぎ去るのを待つばかりだった。兄が祖母を殺した時も、部屋にこもっていた。教室で友人がいじめられた時も、子猫が市役所そばの歩道で鳴いていたのを見た時も、いつだって他人事だ。この体は、この時間は、この暮らしは、わたしにふさわしいものなのかもしれない。

 

 雨音。タバコ工場のいろんなところから雨水がしみだしている。せめて、と、わたしは動き出した。せめて、ハルを埋葬してやろう。廊下をずるずると這う。人間らしさをほとんど無くしつつあるわたしの、わずかな人間性を呼び起こしてくれた家族の為に、何かをしよう。瓦礫の隙間を見、階段をのぼり、事務室や亀裂の中や更衣室を調べた。ハルはどこで冷たくなっているのだろう。考えだすと心臓が痛む。痛む気がするだけだ。わたしには脳すらない。悲しいとは感じるけれど、感情はプラスチックで作られたまがいもののようで、質感がない。それでも、悲しいものは悲しいし、悼みたいという感情に偽りはない。

 

 ハルは倉庫の棚にもたれていた。特に腐敗した様子はない。近付いて顔に触れた。あたたかい。慌てて彼の鼻に触れてみた。

 

 息をしている。

 

 彼は死んではいなかったのだ。弱ってはいるが、確かにまだ生きている。来た道を戻り、飲料を運ぶ。頭を起こしてやり、水を飲ませようとした。彼は熱を出していた。意識が混濁している。額を液体の腕で冷やしてやりながら優しく揺さぶった。ハルは差し出された飲料に気付き、弱々しい手で容器を掴むと少しずつ飲みはじめた。わたしはハルを会議室のソファに連れていった。

 

 やがて夜が明けたら昼の陽射しが当たってしまう。いつか少年がアキとハルの為にやったように、ぼろ布で屋根を作った。棚をソファの左右に並べ、ぴんとはった布で覆う。床や雨水で冷やしたこの手を広げてやれば、ハルの額の熱を多少冷やすことも出来る。

 

 数日が過ぎた。ハルはようやく少し起き上がれるようになった。わたしは彼のそばを決して離れなかった。一人になってしまうと時間感覚が違うわたしはきっとまたあらゆる前兆を見逃すからだ。介抱が続いた。彼はうなされながらも感じるところがあったのだろう、わたしを友達だと認めてくれたようだった。

 

 不調の波が過ぎ、多少回復してからも、わたしたちは二人で過ごした。暑い時はハルがわたしの中に入った。頭だけ出して、ハルは仮面をつついて笑った。わたしは彼の髪を撫でてやった。夜が寒い時は、焚き火をおこしてやり、水溜まりに潜ってハルの眠りを見守った。深夜、鈴虫の声が聞こえはじめる。秋が近付いている。やがて再び冬がくるだろう。

 

 わたしは不安を覚えていた。ハルの父親はもうこない。食料ももうすぐ尽きるし、ハルは外に出られない。体調の問題もある、例の病なら危険な状態がもうじきまたやってくる。けれど今は、食べること、飲むことが最優先だ。巨大な密室に残されたこどもをいかにして救えば良いのだろう。

 

 いや、待て。父親はハルが死んだと思って去ったのだ。鍵は開いているのではないか。

 

 夜中のうちに確認したが、確かに施錠はされていなかった。けれど、彼が絶望して暴れたせいなのか、強烈な夏の陽射しと久しぶりの豪雨のせいなのか、建物の入口が歪んでしまっていた。扉は少しだけ開いて、動かなくなっていた。とても人間が通れそうにはない。窓には板が打ち付けられているし、屋上への扉も施錠されている。そしてわたしの体にはあまり力がない、人間に戻れたならまだしも。こんなことならもっと手前の日々を、行動に、状況把握に割いていれば良かった。

 

 人間らしくあることを放棄したわたしに出来ることはない。

 

 ひとつもない。

 

 ないのだろうか?

 

 いや、ある。外に出て、食料をさがしてくれば良いのだ。父親がやっていたように。

 

 その日の昼間、ハルは最後の缶詰を食べ終えた。彼はまだ父親が来ると思っていた。ソファにすわり、わたしの腹に足をつけながら涼んでいた。

 

「ねーねー」

 

 とハルは言った。

 

 ぱちゃ、とわたしは鳴った。

 

「おとうさん、まだ? まだかな?」

 

 わたしの体をかきまぜて、彼は楽しそうに笑う。柔らかい陽射しを反射させる液状の体。わたしはぶわっと全身を広げて、ハルを取り囲んだ。きらきらと輝くスクリーン。回転させ、波打たせ、ハルの顔を包んだり、手足に巻きついたり。光の粒が加速し、ハルの眼球に彩りを与える。ふと、彼の目のまわりが黒ずんでいることに気付く。

 

 虹色の黒目と、やつれた体つきを見つめながら、わたしは覚悟を決めた。

 

 出発は夜だ。ハルが寝入ってから、わたしは動き出した。かなり手こずりはしたものの、必死に強く念ずることで、どうにか人型に戻れるようになった。タバコ工場を抜けてからわたしは体を人型に変えた。ハルの父親を強くイメージしたのが良かったようだ。片足は義足になってしまうが、仕方がなかった。頭の中で人間を描いていないと簡単に崩れてしまう。それくらいわたしは水溜まりの体に馴染んでしまっていたのだ。

 

 ぎこちなく歩く。這うよりは断然早い。タバコ工場の外に出たのは、いつぶりだろう。土を踏みながら思う。外の景色は一変していた。道路は砕け、雑草が茂っていた。遠くにあったはずの街はまるで全て廃墟みたいに見えた。崩れ、燻り、朽ちていた。虫や鳥の声は聞こえてくる。が、空気中に人の気配がないように感じた。夜が濃い。夜空が濃い。頭上、目の前からすぐに始まる夜空。ぱんぱんに詰まった大気。星の数も多すぎる。こんなにも空は丸く、こんなにも空は広く、こんなにも星々は光っていただろうか。湖底から見る視界でもわかる。世界が自分らしさを取り戻している、すなわち人が減っているのだ、と。

 

 わたしは世界を観察した。いつの間にか視力が進化していることを知った。意識をこらせばこらすほど、対象は近付いてきた。ぼんやりとした水中のような視界も、引き絞るように力をこめると顕微鏡みたいに細部まで引き伸ばせた。折れた樹木、雑草まみれの畑、燃え尽きたあとの民家。義足の彼は、この景色をいつも見ていたのだ。夜空の下を、焼ける陽の下を、ずるりずるりと歩いていたのだ。

 

 街に辿り着いた。

 

 人間の姿はない。どの家にも人がいない。遺体が残された家はちらほらあった。が、食料は全てなかった。持ち出されたのか、奪われたのか。スーパー、デパートも駄目だった。腐った野菜や肉の汁が乾ききり、もはや虫も集まっていない。この分だと、どこも駄目だろう。心当たりがあるとしたら、ハルの父親だけだ。彼は食料を持ち帰ってきた、つまり、まだそこにはいくらか食べ物があるかもしれないということだ。記憶を掘り起こす。彼が住んでいた場所の話をかろうじて覚えている。

 

 その家を見つけるのに、丸一日かかった。タバコ工場を夜に出て、次の夜中に辿り着いた。似た名前の地名が三つもあって、そのうち最後の三番目が正解だった。そこは丘の中腹にある集落の最奥に位置していた。昔ながらの屋敷だ。想像していた通り、母屋には遺体が残されていた。台所の下に地下室が掘られていて、入口が開いたままになっていた。電気は付かなかったが、わたしの目はある程度暗闇でも見える。階段をおりると、空の貯蔵庫が確認出来た。ハルの父親はここからも食料を運んだのだろう。引き返し、部屋をあらためていく。どこにも食べ物はない。水道も出ない。離れに彼はいるだろうか。いるのだろう。せめて声が出せたら、分けてもらえるかもしれないのだが、今のわたしには不可能だった。それでも、すがるような気持ちで離れに向かう。

 

 厳重に施錠された離れの部屋。わたしは液状化して難なく滑り込んだ。座敷。広い空間に畳だけで、窓は高い位置についていたが、小さくてろくに月明かりもささない。ハルの父親はこの部屋に隠れ、閉じこもっていたのだ。悲しみに暮れながら、一人で泣きながら、重圧に潰されながら。

 

 すみっこに、義足の男が倒れていた。うつ伏せで、血を吐き、目を開いたまま。体には蛆がわいていた。わたしが近付くと蝿の群れが飛び立った。

 

 明るさを求めて内側から扉を開く。蝿の一部は密室から外に流れた。ようやく入り込めたまばらな月光が、薄い銀粉を畳に散らしていく。小さな光を羽に纏わせた蝿の集団が旋回し、散開し、また男の肌に覆いかぶさっていく。わたしはそれらを腕で包み、窒息させ、殺していった。遺体を液体で覆い、じっとしているだけで蝿は激減した。虫の死体と汚れだけを振り落とし、わたしは男の周囲をさぐった。

 

 缶詰が少しだけ残っていた。そして、彼の手帳が空の仏壇に置かれていた。それらを持ち、わたしは外に出た。入口の石段に腰掛けて、手帳を開いた。液体の指を極力かたくして、文字を滲ませないように注意深く。

 

 そこには彼の苦悩の始まりと終わりが記されていた。

 

 彼は双子の妹と恋をして、追い詰められた。流行り病が拡大して、いたるところが荒れ、寂れていった最中、彼らはタバコ工場に逃げたのだ。時勢的に、集団から離れて生きていこうとする人間がたくさんいたから、彼らもその動きに紛れた。しかし、はじめから恋をしなければ、こどもが出来なければ、あるいは完全に世の中から離れて家族を食べさせることが出来ていたのなら、アキはまだ長く生きていられたのかもしれなかった。そのことがずっと彼の胸に突き刺さっていた。

 

 実家は裕福で、彼の父は地元の名士だった。食料をため込み、備えは万全だった。祖母は貯蔵庫から時々食料を盗んでは孫に与えていた。ある時それがばれて、祖母は家を追い出された。山道をさまよっていたところを物とりに襲われて彼女は死んだ。治安は悪化していた。

 

 彼はけもの道を通り、田んぼを這ってタバコ工場と実家を行き来していたのだが、祖母が亡くなってからは、仕方なく空き巣を繰り返した。だが病気が蔓延すると街は放棄され、盗む先自体が少なくなってしまった。略奪、争い、実家の連中は立てこもって暮らしていたが、家族の中で病気が広がり、あっけなく死んだ。

 

 病人だらけの街には空き巣もこない。そこを逆手にとって彼は危険区域まで遠出しては食料を実家の離れに運び出し、厳しく管理した。それは賭けだった。危険はあったが、やらざるを得なかった。結果、彼はすぐに感染したが、運良くしばらく発症はしなかった。そのことに気が付かないまま自分はまだ大丈夫なのだと勘違いして動き、アキとハルに食料を与えた。やがてアキが感染し、死んだ。

 

 彼は全てがどうでも良くなった。世話をしてくれた祖母も、愛してくれたアキも、自分のいたらなさの為に死んだ。アキがいないのならば生きていても仕方がない。けれど、アキは「ハルと一緒に生きて」という。

 

 死ぬに死ねない日々だけが残された。

 

 彼はハルの顔を見ると死にたくなった。愛しいはずなのに、複雑な感情で壊れそうになる。息子は二人の罪の証に見えた。

 

 実家に出入りする自分とハルが会えば、感染のリスクは高まる。会わなければハルは餓死する。ならば極力会わずに食料を渡すしかない。ハルは工場内をいつまでも獣みたいにさまよっている。まともな教育もうけられずに。その様子は兄妹で盛った自分たちの息子としてふさわしいのかもしれない、と彼は思い、同時に深く嘆いた。自らの軽率さに、ハルを歪めた業の深さに。

 

 街から人は消えた。物資も尽きた。人間たちはここからずっと遠い田舎で距離を保ちながら集まっているようだ。あるいは、誰も知らない僻地に少人数で逃げている。終わりが近付いている。彼は今更遥か遠くへなど行けやしない。この辺りに、漁りに行ける場所なんて、もうない。助けもこない。異常気象で作物もうまく育たない。育ったものは奪われ、喰われ、荒らされて終わりを迎えていた。

 

 そして、彼も病気になった。

 

 アキへの謝罪の言葉が、最後のページに残されていた。

 

 終わりなのだ。

 

 わたしは離れに戻って彼の遺体を眺めた。散らばった蠅の死骸を眺めた。閉塞的な空間に転がる命のぬけがらを眺めた。皮だけがのこされたものたちを眺めた。

 

 タバコ工場に戻ると、ハルが弱々しく泣いていた。一人ぼっちで辛かったのだろう。二人でいたものが一人になるとよけい辛くなるものだ。わたしは缶詰を三つ、ハルの足もとに置いた。彼はがつがつと食べた。三つ、丸ごと。止めることも出来たが、そうはしなかった。大事に食べたから、どうなるというのか。死がちょっと遠のくだけだ。

 

 数時間が過ぎたところで、ハルは食べたものを全部吐き出してしまった。強い咳がとまらず、胃の中身が溢れた。糸をひく唾液に、血も混ざりはじめた。再び熱も出ていた。わたしの心は冷静だった。分かっていたことだったし、どうにもならないことでもないからだ。

 

 わたしに出来ることは、最初から、たった一つしかない。

 

 

 

  *

 

 

 

 衰弱したハルはうなされながら眠っていた。彼のまぶたは黒ずんでいた。

 

 父親の手帳に書かれていた病の特徴を思い出す。

 

 わたしは、苦しそうに眠るハルの顔に手をかけた。

 

 やり方は分かっている。

 

 べりっと、簡単に皮は剥がせた。ハルの肉は床にぶちまけられて、液状化した。ぺらぺらの皮を、自分の体に被せていく。潜り込む。指先まで液体で満たしていく。皮膚の感覚、内臓の感覚、血液の温もりを一気に感じる。液体だった体が、ハルの内臓に置き換わる。皮が記憶している内容物を、液体が再現していくようだ。彼の記憶も流れ込んでくる。言語化されていない感情。空腹、飢餓、突き上げる寂しさ、狂乱、怒り、シンプルなかたまり。


 大丈夫、大丈夫だ、ハル。分かっているのだ、君のことは。今分かったのだ、君のことが。君は生きなくてはならない。まだ何も知らないのだから。無垢なのだから。辛いだろう、苦しいだろう。だからこそ今が素晴らしいのだ。

 

 わたしは所詮、当事者ではない。理屈だけ理解している臆病者だ。君たちみたいに生きていない。戦ってもいない。後悔すらしていない。君たちが、わたしは羨ましいのだ。生きてくれ。頼むから、明日を、その先を見てくれ。

 

 ハルは液体になった。わたしはハルになった。肉体。痛み、苦しみ、怠さ。激しい頭痛の感覚が襲ってくる。骨が、筋肉が、血管が確かにある。熱を感じる。

 

 数分で頭痛の波がおさまると、わたしは壁にもたれた。全身が重い。心臓が跳ねている。脳の重み、胸の疼き。呼吸を忘れていた。肺が膨らむ。視界が揺らいでいる。全身状態はかなり良くないけれど、生きている感覚が素晴らしかった。

 

 もう二度と人にはなれないと思っていた。血とはこんなにもあたたかく、心音とはこんなにもうるさく、意識とはこんなにも輝くものなのか。

 

 発声を思い出すのに苦労した。唾液を飲み込むことや、眼球を動かし、瞬きをすること、些細なひとつひとつをじっくりと取り戻した。

 

 ぎこちなく出した借り物の声で呼び掛ける。ハル、ハル。

 

 目覚めたハルは、ごぽごぽと騒いだ。水溜まりが揺らめく。

 

「ハル、聞いて。ハル」

 

 わたしは言った。「驚かせてごめんね。君の皮を借りたんだ」

 

 潜伏期間、発症、死までの猶予は大体知っている。残り時間はあまりないはずだ。

 

「ね、手を伸ばして、ハル」

 

 ぐにゃぐにゃと暴れる水溜まりに触れて、わたしは仮面を見据える。「時間がないんだ。わたしのお願いを聞いて」

 

 何を言われているのか、ハルには伝わっていないようだ。わたしは液体に顔をつけた。手でかたまりを集め、顔にぶつけるのを繰り返す。駄目だ。一旦離れて、顔を上から下へと引っ掻くまねをする。何度も、何度も。剥がした皮を被る仕草も、何度も、何度も。時間が過ぎた。

 

 ハルはようやく腕を作り出した。意図は伝わったらしい。あるいは、液体人間としての本能か。

 

 わたしは微笑み、頷いた。ハルは、わたしの皮を剥がした。彼は驚いて皮を落とし、後退した。中途半端に作業を中断されたせいか、わたしの体は赤い肉塊のまま崩れかけていた。血まみれの腕をふるって、ハル本来の皮を彼に被せた。ハルは皮に包まれ、元のハルになった。

 

「あ、あ、」

 

 ハルはふらついて、床に倒れた。わたしの記憶が流れ込んだのだ。彼は膨大な情報量に翻弄されていた。眼球が上下左右に揺れ動く。知識の土台もないのに、わたしの数十年、あるいは数百年を一瞬で処理出来るはずがなかった。

 

 あの日、バイパスであれがわたしになった時、あれはどこに行くべきかを知っていた。皮を被れば、皮の記憶を得ることが出来るのだ。実際にわたしもハルの記憶を得た。ならば言葉の分からないハルにわたしの記憶を植え付けたなら、彼にある程度の教養を仕込めるのではないか。一人で生きていくには、最低限必要なことだ。でないとハルはただの水溜まりにしかなれなくなる。

 

 賭けは成功とも失敗とも言えなかった。ハルはわたしの記憶に埋もれて、呻いていた。わたしはわたしだ、だからわたしの中にハルが流れてきても、原始的な衝撃しかこない。こどもの見る世界が、感覚が、その鮮烈さが眩いばかりだ。しかし、ハルに流れたわたしの密度は、こどもを飲み込んでしまう。わたしの一生、人間としての、液体としての長い時間、思考、異常な感覚。ハルはのたうちまわった。頭を抑えたまま。

 

 わたしは容赦なく、再度皮を剥がしてハルに成り代わった。

 

「ハル。聞こえるね」

 

 液体がこぽん、と鳴る。

 

「君はまだ、人間の感覚を忘れていないはずなんだ。口を作って。喋ってみて。練習は必要だけど、できるはずだから」

 

 ハルは蠢いた。脳を離れた体は、先ほどよりましになるはずだ。頭痛から解き放たれ、わたしの記憶を咀嚼したハルは、少しずつ落ち着きを取り戻していった。試行錯誤の末、彼は人型になった。ハル本来の姿ではなく、わたしが見たハルの父親の姿に。恐らく、参考に出来る強烈な記憶が直近のものしかなかったのだろう。ましてや本人にも愛着がある父親で、わたしが参考にして動かしたひな型でもあるから。

 

「が、が、」

 

 水を吐き出しながら、ハルは床に膝をついた。口らしき穴から少量の水が吹き出している。

 

「ハル。ゆっくりでいい。落ち着いて」

 

「わ、わたしは、」

 

 ハルがもがきながらわたしを見る。仮面の奥、見えはしない暗闇の眼球がわたしを見ている。

 

「ハル、わ、わたしは、」

 

「違う。ハル。違う。ハルはあなたなの。わたしは、わたしなの」

 

「違う、ハル、違う。わたしは、わたし、ハル」

 

 手を伸ばして、ハルはわたしの膝に触れた。

 

「どうして? ちゃんと考えて。あなたがハル。わたしはずっとあなたを見てきた液体なの。あなたにはわたしの思い出が全部入っただけなの」

 

 全部。空っぽのまま生きた、白紙のこどもに注がれた、わたし。

 

 液体は、ハル、ハル、と繰り返している。人型を保てなくなり、水溜まりが広がる。仮面がつるりと表面を滑る。

 

「そんな、ハル。分かってるんでしょう? 本当は意味が分かるでしょう?」

 

「ハル、あなたは、生きて、ハル、」

 

 ハルが手を伸ばして近付いてくる。遅れてぬるぬると伸び出す上半身。仮面が震えながら迫る。

 

 わたしの皮を剥ぐ気だ。

 

 彼はわたしになりかけている。死にゆくハルを救う為に、ハルの体を奪おうとしているのだ。それはわたしがやろうとしていることなのに。

 

 わたしは走って事務室を抜け出した。扉を閉める。意味はない、相手は液状だから簡単に出てくるだろう。それでも、何かせずにはいられなかった。わたしの中にハルが存在していて、強い不安感が突き上げてくるのだ。深呼吸だ、深呼吸。わたしの体を、ハルに与えてはいけない。この体は、この子の肉体は、もうあまりもたないのだから。

 

 廊下を走る。血管が、内臓が、脳みそがぐちゃぐちゃになっているようだ。苦しい。息が出来ない。どこを見ても、探っても、出入口はない。扉は開かないし、亀裂から抜け出すことももはや不可能だ。

 

 可能性があるとしたら?

 

 暗闇を手探りで移動する。今や人の目は不便だ。ところどころ崩れた天井の穴から射し込む月明かりが、かえって視界を乱す。ちらちらと落ちる銀色の帯が邪魔をして、暗がりの細部が視認出来ない。

 

 錆びたペンチを見つけ出すまでにかなりの時間がかかった。ハルはじわじわと迫ってきていた。わたしは階段をかけのぼった。胃袋が痛み、思わず嘔吐しそうになる。

 

「ハル、聞こえる?」

 

 スポットライトがあたっているように光が注がれている階段の踊り場から、どうにか声をかける。階下は闇に溢れていて、ハルの姿を確認出来ない。血のかたまりを吐き出してから、わたしは続けた。

 

「落ち着いて考えるの。順番をしっかりと辿って、焦らないで。わたしの記憶が流れたなら、わたしが何をしようとしたか分かるでしょう。ゆっくりと記憶を見て。ハルはあなたなの、目的は達しているのよ」

 

 足もとに迫ってきた液体が、ぴた、と止まった。

 

「ハルは、わたし?」

 

「そう。わたしは、わたしなの。あなたはハル」

 

「分からない。頭がぐるぐるして」

 

 不意に、手が伸びてくる。上体を逸らして辛うじて避けた。

 

 ぎりぎりだった。

 

「逃げないで、わたしは、ハルを、」と液体は言った。

 

 だから、落ち着きなさい、そう言ってわたしは液体を踏みつけ、階段を駆けた。

 

 屋上への扉。錆びた錠前をペンチで殴る。外れない。経年劣化した鍵だ、今にも砕けそうに見える代物なのに。この体では、震える手では、霞む目、溶解しそうな脳ではもう、無理かもしれない。

 

 殴る。

 

 外れない。

 

 殴る。うずくまる。ペンチが手から離れる。

 

 不意に、金属音。

 

 からん、と錠が落ちた。

 

 わたしは急いで扉を開けて、屋上に出た。

 

 

 

 月光を中心に据えた夜空が、半円の空が、死にかかっている眼球に溢れた。

 

 

 

 数えきれない星が、一面に散りばめられている。月明かりに冷たく研がれた銀色が空気を凍らせているように見え、その向こうに黒い幕が広がっている。久しぶりに生身で見る空は、黒々とした海そのもの。風の音しかしていないはずなのに、大気が液体となって動いている気がする。鼓膜が震える。星の広さが分かる。夜空の表面に波が見える、飛沫が見える、海流が見える。その底知れない暗闇を背景に人工的にも思える星の光が渦を巻き、羽を伸ばし、海面を埋め尽くしている。

 

 肉眼で見る世界は、こんなにも巨大なのか。視力の問題ではない。液体の目では気付かなかった、生きた圧力。

 

 圧倒される。

 

 生と死を実感する。

 

 よるのにおい。

 

 現実と幻想。風が吹き渡る。人が消えて地面には闇が蔓延ったはずだったが、実際はかえって光に満ちていた。夜に満ちる光、きんとした月、青白く発光するコンクリートの建物、いたるところに鋭く刻まれた陰影。崩れた床、瓦礫が作り出す明暗。

 

 屋上にぽっかり開いている大穴、その上に突き出した頼りない足場に踏み出して、わたしはくるりと振り返った。足場といっても、瓦礫がはみだしているだけのものだ。ぐらつきはしないし、寝そべっても余裕があるくらいには大きいが、いつ砕けてもおかしくはない。

 

 ハルは父親の形をとって、憂鬱な老人のような足取りで追い掛けてきた。ずるりずるりと屋上に現れ、立ち止まる。空を見て、わたしを見た。

 

 床に潰れ、水溜まりに戻り、動かなくなった。仮面も空を向いたまま動かない。

 

 恐らく、彼はわたしが長年見てきた記憶を整理しているのだ。静寂の間、ハルはわたしの人生を咀嚼して学習しているに違いない。

 

 わたしは立っていられなくなり、瓦礫に寝転がった。寒い。重い。咳が止まらない。

 

 二人ともそのままに、夜が明けていった。わたしはずっと苦しみにたえていた。二度、血を吐いた。咳がずっと続き、腹が痛み、目もあまり見えなくなる。苦痛の波が来ては去る。

 

 強い陽射し。夏の終わり、乾いた光がじわじわと気温を上げていく。やがてハルが動き出した。彼はわたしのそばへやってきて、こちらの顔をのぞきこみ、自分のてのひらを見た。

 

 液体のてのひら、透けるてのひら。

 

「ああ。分かってきた。わたしは、ハルなんだね」

 

 ハル本人の人型に、彼はなった。わたしは安堵した。

 

 だが、とハルは言った。

 

「なぜ、わたしを助けるのですか。死ぬべきなのはわたしです。何故なら、それはわたしの体で、わたしの運命で、わたしの道なのに」

 

 わたしは答えなかった。言うまでもないからだ。彼はわたしを継いでいる。わたしが答えないことも分かっていたはずだ。となればハルは、寂しいだけなのだ。お子様め。だからわたしは、意地悪く笑って見せた。

 

 ハルはわたしを見下ろしながら続けた。

 

「あなたの為に出来ることが、わたしにはない。あなたの記憶を見た。街には誰もいないし、父も死んで、食べ物もない。遠くに行けば、あるいは。しかし戻る頃にはもう、あなたは生きてはいないだろう」

 

 ハルはわたしを見つめていた。「頼むから、皮を返してくれないか。あなたがそうであるように、わたしもそうであるのだから。その死はわたしのもので、この体はあなたのものだ」

 

「それは違う」


 わたしも彼をまっすぐに見た。口の周りが血だらけで、息も吸えない。喘ぐようにどうにか喋る。

 

「その体は、わたしを奪い去った誰かのもの。わたしはもういないの。とっくにわたしは死んでいる。あなたも知っているでしょう」

 

 二人とも話さなくなった。話す必要がなかった。死は怖くなかった。わたしがそう感じていることもハルは知っている。ハルの中にわたしはいる。わたしが朽ちても、わたしは死なない。

 

 昼が来て、夜が来て、その度、わたしは弱っていった。目が動かない。仰向けに寝転んだまま、薄く開いたまま乾く目に夜空を滲みこませる。指一本動かせない。ハルはわたしの隣で水溜まりになっていた。

 

「ハル」

 

 ほとんど声にならない音を出す。ハルはわたしの口元に体を寄せた。

 

「わたしは、その体になってから、無だった。時間が過ぎて、一人で、でも、怖くはなかった。静かに、物になっていった。それで良いと思っていたんだ。そんな時、君の父親と母親がここにやってきた。子どもが子どもを産んだ。君のことだ。ああ。随分生きたなあ。わたしは、自分が空っぽなのだと思っていたけれど、違ったよ。愛しかった。そうだ、二人が生きて、死んで、ハルがいて、みんな死んでいく、明日も明後日も誰か死ぬ、だけど、やっぱり、人って良いものだね。そこにいるだけで、いてくれるだけで、心が動くのだから。愛だけじゃない。憎しみも、恨みも、殺意でさえも、温もりなんだ、繋がりなんだ。何も無いのが、一番恐ろしいんだ。一人が怖くないと思える自分こそが、一番怖いんだ」

 

 だから、ハル。君は生きて。人をさがして。人に触れて。わたしはいつも君の中にいるから。寂しくなったら記憶を開いて。わたしは君の、もう一人のお母さんになりたいんだ。

 

 いつから言葉になっていなかったのだろう。もしかしたら、最初から? わたしの主観がハルの体から離れていた。意識が引きずられていく。暗くて広い空に吸われていく。ハルがわたしの体を包み、震えているのを空から見た。一人ぼっちにさせてばかりだ。業を押し付けてばかりだ。だが、わたしは彼の中に残存している。永遠に、わたしは彼を守り、導くだろう。彼が新たな皮を得ていつか死を迎えるまでは。ただ、後悔がひとつあった。

 

 わたしが見てきたわたしの昔。これだけはハルに見せたくはなかった。走馬灯のように、忌まわしい過去が視界いっぱいにたちのぼる。眩い光が駆け回り、意識がどこかに飛んでいく。様々な時代のわたしが、様々な日が、夜が、朝が、光に溶けたり溢れたりを繰り返す。 

 

 

 

 水滴が額に当たる。目を開くと、そこは寝室だった。わたしは縛られていた。真夜中、真っ暗な部屋、眼前に口を開いた祖父がいた。見えなくても分かる。祖父はにた、と笑いながらよだれを垂らしているのだ、わたしの顔に。体が動かない。いつの間にかロープで縛られている。体に触れるしわだらけの手。ただ触られるだけだ。ただ舐められるだけだ。ただ刻まれるだけだ。それだけだ。全身を汚される兄よりは、たぶんましだ。そう考えてやりすごしていたことを思い出す。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 両親はいつも互いを罵り、怒鳴りあっていた。みすぼらしい一軒家。二人が騒いでいる間、わたしは祖父に、兄は祖母に、それぞれの部屋で弄ばれていた。怒声が全てをかき消していた。何年も続いた我が家の慣習。それが普通だった。

 

 今度は兄が祖母を刺し殺した夜が眼前に組み立てられた。思い出せる。三十七箇所、それが祖母の体につけられた傷の数だった。

 

 だがわたしの体にはもっと多くの傷がついていた。比較にならないほど浅いものではあるけれど。祖父は毎晩わたしを殴り、触り、カッターナイフで少しずつ肌を刻んでいた。

 

 彼が言うには、所有物の印らしい。醜い肌にしてやれば、誰も抱こうと思わないだろう、と。祖父の誕生日、祖父母の結婚記念日、好きな数字、好きな言葉、好きな図形、わたしの体は祖父の記録帳になっていた。

 

 両親は祖父母に人格を破壊され、支配されていたから、気にもとめなかった。両親は互いの浮気を疑い、互いを監禁しようとし、互いをけなしあい、憎みあっていた。子ども二人は生きようが死のうがどうでも良かった。

 

 ならばなぜ子どもを作ったのかは分からないが、どうせ夫婦間の駆け引きに利用する為なのだろう。あるいは、祖父母の命令だったのかもしれない。

 

 わたしとは違う形で虐げられてきた兄は祖母を殺害し、血まみれの姿でわたしの寝室にやってきた。わたしも血まみれだった。兄は返り血、わたしは自らの血に汚れていた。肩で息をしていた兄は、威嚇する祖父を殴りつけて畳に倒し、瞬時に指を数本切り落とした。

 

「分かるか」

 

 悲鳴をふさぐ為に祖父の口を蹴り潰してから、兄はわたしに言った。怒りで頭が膨らんでいるように見えた。暗がりに二つの目玉が煌めいていた。

 

「人間なんてこんなもんだ。思い切りやったもんが勝つんだ。先なんて考えるな。こうなったらどうしようとか、捨てられたら、飯が食えなくなったら、そんなもんが何だ。やっちまえば新しい明日がくる。今までと違う明日がな。俺はお前とは違う。ババアにもジジイにも、てめえら全員に、もう従わない。そこで見てろ、俺が自由になるところをな」

 

 兄は、うずくまり泣き叫ぶ祖父の腹に包丁を突き刺そうとした。しかし急いで飛び込んできた父に殴られて吹き飛んだ。父は怒り狂っていた。母もだ。祖父が口から血をこぼしながら指示すると、両親は兄を押さえ付けた。ロープで縛り、警察を呼んだ。わたしは虐待のあとが見つかるとまずいと思われたのか、母の車に乗せられて親戚の家に預けられた。

 

 兄はそれ以来、帰ってこなかった。

 

 帰ってこなかった兄が、とても立派な人間に思えた。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 場面が変わる。何の温度も感じない、バイパスの日陰。いつかの夏の日だ。わたしは制服を着ていた。あの日は暑くてたまらなかったが、死んだわたしにはもう分かりはしない。蝉の鳴き声、風の音、コンクリートの壁、アスファルトのざらつき、歩道の白線。

 

 それは、音もなく現れた。

 

 スプレーの落書き、こども用駄菓子のシール、何かがぶちまけられたシミのあとがついた汚い壁の亀裂から、白い仮面をつけた何かがすうっと出てきたのだ。

 

 懐かしい液体。懐かしい仮面。あるいは、見飽きた液体。馴染んだ仮面。

 

 思い出した。

 

 そうだ。

 

 わたしはあの日、いつもの帰り道から外れるつもりだった。

 

 この道をまっすぐ歩いて、道をそれて、誰もこない木々の奥深くへと入り、あらゆる今を終わらせようとしていたのだ。

 

 液体が、近付いてくる。

 

 蝉の声が弾けている。

 

 夏の終わり、陽光に目を細める。

 

 液体の手がわたしの額に触れる。

 

 それは、光を身に宿している。

 

 それは、わたしの苦しみを知っている。

 

 光を乱反射する水の体が、わたしを剥がす。

 

 剥がしてくれる。

 

 何もかもを、わたしの何もかもを引き受けて、それは歩きはじめる。

 

 何も言わずに、軽やかな足取りで、光の中に没していく。

 

 あまりの眩さにわたしは目を閉じる。ようやく仮面の意味が分かったのだ。だから、あの時、恐ろしくなかったのだ。

 

 ハルも全てを見たのだろうか。

 

 見たのだろう。

 

 そして彼も誰かの終わりを背負うのだろう。

 

 命は、何が起きても、何が無くなろうとも、いつまでもどこかで続いていくのだ。

 

 もう、何も言うことはない。考える必要もない。

 

 これは君の死で、私の死だ。

 


 そこにあるのは、あまりにも眩しい、終わりの光だ。

 

 

 


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