激怒するメロス
メロスは激怒した。必ず、かの邪知暴虐の王を除かねばならぬと激怒した。メロスには何もわからぬ。笛に激怒し、羊に激怒して暮らしてきた。けれども邪悪に対しては、人一倍に激怒したのであった。
きょう未明メロスは村に激怒し、野山に激怒し、シラクスの町で激怒していた。メロスには父も、母もない。両名とも、激怒のしすぎで脳の血管が切れて死んだ。女房もない。十六の、よく激怒する妹と二人暮らしだ。この妹は、村のある律義な一般人に、近々、激怒する予定であった。理由は特にない。可哀そうに。話は変わって、はるばる市に激怒しにやってきたのだ。
メロスには竹馬の友だったセリヌンティウスがいたが、激怒のしすぎで、関係が崩壊していた。
歩いているうちにメロスは、市全体が、やけに寂しいことに激怒した。しみったれすぎている。メロスは激怒しながら、だんだん怒りがこみあげてきた。路で逢った若い衆の胸倉を捕まえて、何かあったのか、と激怒した。若い衆は、メロスの手を振り払って逃げた。
しばらく歩いて老爺に逢い、こんどはもっと、語勢を強くして激怒した。老爺は答えなかった。メロスは両手で老爺のからだをゆすぶって激怒した。老爺は、脳震盪を起こした。
「お前、そのうち、人を殺すぞ。まるでうちの王様だ。」
「王様は人を殺すのか。なぜだ。」
「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居りませぬ。」
メロスは激怒した。「呆れた王だ。生かして置けぬ。」
メロスは、激怒する男であった。激怒しながら王城に入り、たちまち巡邏の警吏に捕縛された。調べられている間もメロスは激怒し、殺害予告を叫び続けるので、王の前に引き出された。
「何をするつもりであったか。言え!」暴君ディオニスは激怒した。
「理由はよくわからぬが、とにかくおまえをぶっ殺したい。」
「驚いた。おまえは乱心しているのか。」
「黙れ、高貴なだけが売りの、くたばりぞこない。」「そういうお前は下賤なキチガイではないか。」
メロスと王は、激怒しあった。ああいえばこういう、激怒することだけが目的の、生産性のない堂々巡りの激怒であった。お互い、激怒するしか能のない馬鹿であった。そのうち、王が倒れた。激怒のしすぎて脳の血管が切れて、脳溢血を起こしたのだ。
「ばかな。」と暴君は、しわがれた声で低く唸った。兵士たちは、メロスを放置して王に駆け寄ったが、こと切れていた。もはや、メロスのことなど、誰も気にしていなかった。
メロスは急に冷静になった。
「私は怒りによって、暴君を殺すことに成功した。したが、この後のことは何も考えていない。正義を背景とした、心地の良い怒りにまかせ、嗜虐心を満たしたが、その後のことは何も考えていなかったのだ。」
「王が暴君だという話も、見知らぬ老爺から聞いただけで、本当かどうかも知らぬ。嗜虐心を、正当化したかっただけだから、事の真偽はどうでもよかったのだ。」
悪だと煽られたものに激怒するだけ激怒し、ぶっ殺して、あとは知らぬ。これでこの国が荒れても、滅んでも、責任をとる気は一切ない。メロスは、無責任に誰かに激怒して満足したいだけの男だった。
メロスはこっそり抜け出した。メロスの行方は、誰も知らない。