1-1 四十にして惑わず
七月のとある雨の日。
四十歳の誕生日を迎える午前零時、三橋陽平は座禅を組んで瞑想していた。両親と暮らすまあまあ小綺麗な実家の二階自室。無精ヒゲの男は何やら気持ち良さそうな顔をして座り続ける。洋間だけどフローリングに座布団を敷いてひたすら座っている。
「ああ……なるほど……それがこの世というものか……」
瞑想の中で何かをつかんだ瞬間、陽平の脳裏にファンファーレが鳴り響き、システムボイスっぽい声がする。
「おめでとうございます。あなたは悟りの境地に到達したのでこの世界での使命を完了されました」
「これまでに経験されたゲームの経験値全てがコンバートされました。
コンバート上限レベルを超えた分はスキル経験値に振り替えられました。
全ての黒魔法をマスターしたのでアークウィザードになりました。
全ての白魔法をマスターしたのでアークプリーストになりました。
全ての魔法をマスターしたので賢者になりました……」
陽平はふいに目を開けて苦笑した。
「……夢か」
瞑想中に気持ちよくて眠ってしまうことも多い。
ここは住み慣れた我が家、少しカビ臭いエアコンが効いた子ども部屋。いつもどおり辟易とするほど現実的な現実が目の前にはあった。とうとう職歴無し友達無し彼女無し童貞のまま四十歳を迎えてしまった。
三十歳童貞に達した時には魔法を使えるようになるかと0.1ミリぐらいふざけて期待してみたこともあるが、今回はそんなおふざけも思いつかないぐらい心は枯れていた。枯れていたつもりだったが、賢者になった夢かよと、照れ笑いする陽平だった。
不器用で目立った才能もなく、社会不適合者の陽平は高校中退してからというもの、部屋にこもってゲームばかりやって過ごしてきた。夢の中でまでゲームをやっていることも珍しくはなかった。
短期のアルバイトなどをしてみたことはあったが、何をやっても上手くいかない。両親がそこそこ裕福なので、問題の先送りがずるずると許されてきてしまった。
近頃の陽平は欲が無くなってきていた。着飾る服も、高い車も、贅沢な食事も三次元の彼女も、そんなに欲しくない。
全く欲しくないわけではない。タダでもらえるなら欲しい。でも、欲望というのは刺激せずにそっとしておけば、そうそう暴れるものではないことに気づいてしまった。
むしろ、暴れる欲望に振り回され、満ち足りることのない欲望を満たそうと日々働き続ける人々から距離を置いている気分だった。
「おっと、いけない。こういう時は寝てしまうに限る」
一瞬、深刻なことを考えそうになったが、くよくよ考えないのが陽平という人間である。もうちょっとくよくよ考えろよと突っ込みを入れたくなるぐらい能天気なのが彼のいいところなのだ。と、彼自身は考えているようだった。
歯磨きを済ませ、寝る前のおしっこをしているときに、脳裏にダイアログボックスのようなものが見えた。システムボイス風の声が警告してくる。
「賢者として異世界に転生する権利を本当に放棄されますか? 残り五十九秒……」
どうやら先ほど声を聞いてからずっとこの問いを投げかけられていたらしいが他の考え事をしていて気づかなかった。パソコンで言うならウィンドウを最小化していてバックグラウンドで継続されていた感じだ。
ダイアログボックスには「はい、転生します」と「いいえ、結構です」のボタンがあった。
面白そうではあるが、転生ってなんだろう? 死ぬんだろうか? 自分がいなくなったら両親が……サッパリするかもしれない。
行ってみようかなと思ったが、おしっこがなかなか終わらない。Lサイズのアイスコーヒーなんか飲んでいたせいでジャージャーと勢いよく出続けて、果たして間に合うかどうか。
もしも、おしっこが間に合って短パンを上げて手を洗い終わって、それでも時間が残っていたら行ってみるか。そんなどこか運命に任せるような心持ちでいながら、やっぱりどこか焦ってトイレを済ませる。
急いで短パンを上げ、トイレットペーパーのホルダーに手をぶつけながらもなんとか手を洗い、残り五秒だった。
四・三・二……。
「まあ行ってみるか」
目をつむって「はい、転生します」のボタンを押すと、承認しましたよと言うようなシステム音が鳴った。
目を開けるとそこは、見知らぬトイレだった。