富美山楓太と鬼龍院華音が齎すのは吉か凶か。
【四月二日】
桜の花びらが舞い落ちる四月二日。
晴天に恵まれた街には太陽の光が降り注ぎ、美しい桜と青く茂る草原が春の到来を祝福しているかのようだった。その美しい光景は春の訪れとともに新生活という物語の始まりを告げる役割を担っているに違いない。何故ならあと数十分後の十七時にこの物語の幕が上がるのだ。
物語の舞台となる美嶋学園高等学校……の校門前に延びる公道を東へ少し進むと小さな喫茶店がある。店内は木目調のクラシカルなカウンター席とテーブル席が数席あるだけで、その洒落た雰囲気は思春期の高校生が背伸びをするにはうってつけの場所だった。
客層は学生がメインということもあって、春休みの時分に店内の客はなく、埋まっている座席は一席のみである。しかもその唯一の客である黒髪の姉弟は、昼前から延々と居座り続けており、店側から見ればはた迷惑な客でしかない。
時間潰しでその喫茶店に入った姉弟は、本来の用事などとうに忘れていた。二人はコントローラーと化した通信端末を操作して、テーブルの中央に立つ三次元の立体キャラクター操作し殴り合いをしていたからだ。
弟が操作するのはチャイナドレスを着た豊満な身体つきの美少女キャラ。姉が操作するのが筋骨隆々としたムダ毛に塗れた男臭いプロレスラーキャラ。性別的に選択キャラが逆のようにも感じるが姉弟はそんなことお構いなしに格闘ゲームに興じていた。
必死の形相で操作する弟に対し、姉は鼻歌交じりに……時には欠伸を交えながら余裕の表情で指だけを動かす。
姉が操作するプロレスラーが右腕を大げさに振り回しラリアットを繰り出す。直撃を受けた美少女キャラは吹き飛ばされると、何故かチャイナドレスが破れ散った。
弟の富美山楓太の眼前にLOSEという文字が浮かび上がる。彼は歯を食いしばり血走った目であられもない姿になった美少女キャラを見つめた。
「ぐぬぬ……また負けた……これで……九十八連敗……だけど悪い気はしない……」
楓太はそう言ってテーブル上に倒れる美少女キャラの引き締まった太腿を見つめる。そんな楓太の正面に座る姉の鬼龍院華音は絵に描いたようなドヤ顔で笑った。
「アンタもまだまだね! ま、高校時代にレトロゲーム愛好会のエースだったこのアタシに勝とうなんて七年早いっての!」
微妙な年月に楓太は首を傾げるが、すぐさま納得したように頷いた。
「七年……? ああ! つまり俺ちゃんも姉ちゃんの歳になれば勝てるってことね!」
「そういうこと。って無理無理! アンタが二十三になれば、アタシも七年分成長しちゃうしね! その時は三十歳かぁ…………誰が三十路ババァだゴラァッ!」
穏やかな笑顔から急変して鬼の形相を浮かべた華音は、テーブルに片足を乗せて楓太の胸ぐらを掴んできた!
「言ってない! 言ってないよっ! 思っただけ!」
情緒不安定な姉に楓太は怯えながら訴える。しかし華音の勢いは止まらなかった!
「思ってんじゃねーこのボケナス! こう見えてアタシは高校時代に美容研究部で」
「美肌ランキング一位になったんだよね!? うわぁ~っスゴイッ! さすがお姉たま!」
理不尽な仕打ちを受けても即座に対応する。そうでなければ理不尽な彼女の弟は務まらない。
楓太は一生勝てる気がしない姉を大げさに称賛すると、華音は「分かればいいのよ」と満足気に腰を下ろす。そして何事もなかったかのようにコントローラーを操作して九十九戦目のキャラクターに白髪でやせ細った老人を選択した。
「はぁ~(……情緒不安定な奴はこれだから)」
「あ?」
「な、何も言ってないよっ! さぁて!? 次はどのキャラにしようかなぁ~!?」
畏怖する姉の扱いに辟易しながら楓太は先程と同じ美少女キャラを選択する。次は趣を変えてチャイナドレスからメイド服に変更すると、姉への畏怖も忘れて楓太は鼻の下を伸ばした。
「ぐふふ! いいねぇっ! この引き締まった脚線美が堪らなぁい!」
次は超が付くほどの変態性を持った弟に華音は若干の嘆きにも近い表情を浮かべた。
「アンタさ。こないだはツルペタのロリ体型が良いって言ってなかった?」
「お姉ちゃん。男ってのはいくつもの愛と性癖を持っているもんなんですよ」
「癖と愛を同類項みたいに言うんじゃない」
キャラ選択を済ませた二人は体制を整えて机に目を落とすと再び戦闘モードに入った。
二人の眼前に「GO!」のテロップが浮かび上がる。それと同時に二人は激しくコントローラーを操作し始めた。
「そういえばさ。アタシたち何しにここまで来たんだっけ?」
「えと! あれだ! 姉ちゃんが! 高校の! 近くにある! この店を! 教えるって!」
「そうだっけ? ま、美味しかったでしょ? ここのナポリタン」
「うんっ! 良いケチャップ! 使ってるねっ!」
「そうでしょ? まぁ冬に来るときは、グラタンも……食・べ・て・み・なっ!」
“食べてみな”に合わせた老人キャラの連撃が見事に決まる。そして美少女キャラは悲鳴を上げて吹き飛ばされ、やはりメイド服が飛び散った。
勝敗カウンターに屈辱の九十九連敗の文字が浮かび上がる……楓太は再び血走った目で勝敗カウンターの先で倒れる美少女の姿を睨み付ける。そしてその姿を目に焼き付けると噛み締めるように目を閉じて天を仰いだ。
「……負けて……悔い無し」
まるで天に還りそうな勢いの楓太とは対照的に華音は欠伸をしながらポキポキと指の関節を鳴らした。
「ふぁ~あ。さぁて、そろそろ帰ろっか。アタシも明日の飛行機早いしね〜」
華音は明日から自営の仕事を休み長期旅行に出かける。自らを置き去りにする姉にジト目を向けながら楓太は嘆くようにぼやいた。
「まったく父ちゃんと母ちゃんは三十五回目の復縁新婚旅行に行っちゃうし、ウチの家族はどうしてこう放浪癖があんのよ」
「あ~ら何言ってんの? おじいちゃんも言ってたでしょ? “可愛い子には旅と苦労をさせろ”ってね」
「(うっわ。自分で可愛いとか言っちゃったよ)」
「あ?」
「はぅ! な、なんでもないですぅ!」
身体を縮こまらせながら、繕うように愛想笑いを浮かべる楓太を見て華音は満足気に笑った。
「まぁアンタを一人にすんのは忍びないわよ? そのお詫びもかねて今日は奢ったげる。あ、イイこと思い付いた! これを高校の入学祝いにしよう!」
満面の笑みでナポリタンとコーヒーの料金を確認する姉を見て楓太は驚愕した。
「え? 自営業の若き女社長さんが何を仰るやら……ははは。……あの、待って? ほ、本当にこれだけで済ませんの? だ、だって昼飯代だけ」
「マスターご馳走様~」
狼狽する楓太を他所に華音はそう言ってテーブルに設置されている機械に端末をかざした。硬貨が落ちるようなチャリンという音を合図に、料金が精算された事を確認した華音は意気揚々と歩き出す。そんな姉を楓太は慌てて追いかけた。
「え? ちょっとお姉さま? 本当にこれだけ? 俺ちゃんの進学祝い……」
二人が店の扉を開けると小さな春風が店内を揺らす。
その柔らかな風は、楓太がテーブルに置き去りにした一枚の紙をひらりとなびかせた。
床に舞い落ちた紙……美嶋高校入学申込用紙に書かれた文面には二人が忘れた用事が何だったかを物語っている。
【美嶋高校入学申し込みの受付締め切り時間は、四月二日十七時迄とさせていただきます。(当日は時間厳守でお願い致します。公共機関の遅延であってもご配慮は致しかねます)】
店内には十七時を告げる時計の鐘が鳴り始めていた。