龍:蜘蛛
4
ただ、そのお遊びも束の間だった。
突然、「ボォサァ」と風がけたたましくなったかと思うと、はるか遠くのビルの奥から“白く反射する何か”が突き出てきた。
巨大なその物体はみるみる伸びて、根元から青いアーモンド形の球体を現す。円の中心部分は暗く、グルンと回ってキゴウ達の正面を捉えた。
次にその巨体に大きく捻りが入り、三角の頂点が二人を向いた。そして、上下に分かれ割けた亀裂から長い触手のような物が生えてくる。
風を切り裂いているものの正体は完全に露わになり、その優雅な羽は斜めに傾いて、今まさに獲物へと進路をとった。
「なんだあれ」とケイが叫んだ。
その速度は予想よりも断然に早く、まだ指先サイズだった巨体は、ケイが叫び終える時にはもう目前がその頭で埋まるほど接近していた。
キゴウは反射的に、風と体をひねらせて回転し、斜め上に浮上する。
竜の首はギリギリまでこちらを捕らえようと伸びて、その牙は鋭い風を起こしながら通り過ぎた。
竜が通った後の逆巻く風に巻き込まれながら、二人は何とか体勢を立て直そうとする。
竜は縦回転で飛翔し、こちらに方向転換を始めている。
ケイが「逃げろぉ!」と叫ぶ。
「逃げるよ」
キゴウは風だけを強くイメージする。他の事は思考から省く。自分を押し出す風。その流れをより早く、より早く……。あの竜のように、まるで空気を切り裂くように、より早く、もっと早く。体を押す力が鋭くなっていき、空気の切っ先が刃のようにとがって来る。
「来るぞ、近づいて来てる」とケイが背後で叫ぶ。まだスピードが足りない。
あの遥か地平線の先にあるビルに逃げ込む。あそこまで逃がれられれば。
竜より早く。このままではダメだ。もはや、風じゃない。風じゃ足りない。振動する音のように、いや、音でもない。それ以上の――
やがて頭から言葉がなくなる。意識が脳の中に沈殿していくのを感じる。ただ静かになる時間の中で、未来のイメージが浮かぶ。体が引き延ばされ、青く発光し、周りの空間は歪み、まとわりついていた音すらゆっくりと離れていく。
ビルのガラスに激しくぶつかり、体は箱の中に転がって、奥の壁に背中を打ち付けた。
そのしばらく後に意識がそこに着地する。
キゴウとケイは折り重ねるように倒れ、しばらく呆然としていた。
「何があった?」やがて、キゴウの下で潰れているケイは振り絞るように声を出した。
キゴウも頭の整理がつかず、その質問に答えられなかった。ただおずおずと何とか体を起こして、とりあえずケイの上から離れて立ち上がった。ケイに手を差し出し、立ち上げた後、ケイはまた「何があったの?」と口を開けた。
振り返ると竜は大分離れた所にいた。その場で浮遊しながら、こちらの様子を探っているようだ。
「あいつ、ここまで来るんかな」とケイ。
すると「それは考えない方がいいよ」とキゴウとケイ以外の声がした。驚いて声の所以を見ると、その人は気だるそうに立っている。
「柳。いつのまに」
「どこいたんだよ~」とケイは情けなく泣きそうな声をだす。
「アナタ達こそ。最初から吹っ飛んでどっか行っちゃって」
「見てたのか、助けろよ」
「無理でしょ。あの状況で」
柳は窓の外を指さして辺りを示した。
「ていうか、外はもう竜の巣だよ」
柳に言われて気づいた。あの竜だけではない。四方を4匹の竜がビルの間を縫って旋回している。
「なんか一人ヤバイのがいるバトルに入っちゃったみたいだね。ステージが飲まれている。皆竜がいるものだと思い込んじゃったみたい」
「あの竜もイメージなのか」とケイが聞く。
「多分ね。もしかしたらステージのNPCかもしれないけど」
「よしじゃあいないものだと思えばいいんだな。いない、いない…」ケイが目を瞑ってブツブツ唱える。
「相手のイメージのほうが遥かに強いから無理だよ。それに自滅効果が重なって、もう皆が認識してしまったから」
柳は諦めたように地面に座り込んだ。
「まぁ時間切れまで運があれば逃げ切れるかもね。相手も、あの動きを見ていたら迂闊にしかけてこないかも」
「あの動き?」とケイが繰り返す。
「初心者は飛ぶだけでも難しいのに」と柳は言った後、キゴウを見た。「少しはゲームのこと思い出したの?」
「いや……」
「あぁそう。記憶が無くてもセンスは変わらないんだろうね」
「やっぱり、キゴウはすげぇ奴だったの?」とケイ。
「いや、私の力じゃなくてケイの……」
「そんなわけないよ。あんなの初心者ができていい動きじゃない」
柳は肩を竦めて微笑んだ。
キゴウはその時、ふと柳の何が変わったのかに気が付いた。
華奢な身体。その胸元が少し膨らんでいる。これまでジェンダーを示さなかった柳が、あきらかに女性の体を着ている。
その理由を深く考える時間はなかった。柳は目を細くして立ち上がり、窓の外を見て「あぁ期待外れ。来るよ」とため息を吐くように言った。
辺りを旋回していた竜が、どうやら一斉にこちらに矛先を向けつつある。
「どうする? 飛んで逃げるか」とケイ。
「もうさっきみたいに飛べない?」と柳。
「あぁ多分。どうやったのか分からない。そもそも私のイメージだったのかも……」
「そう感じるってことは無理そうだね。まだ遮蔽物があるここで戦ったほうがいい」
柳は両手に黒い球を浮かべて身構えた。それが何なのかはよく分からないが、おぞましい気配があった。
「何それ」とケイ。
「分かんない。とりあえず、ヤバそうな物」
「かっけぇな」柳に影響されたのかケイは「うーん」と唸りだして両手から、微妙に煙をたたせた。
「何それ」今度は柳がケイに聞く。
「とりあえず、ヤバイ物」とケイは遠い目をして言う。
「そっか。色々ヤバいね」と柳は冷たくあしらった。
「ケイ、とにかくその霧を出し続けといてよ、無いよりはいいから。竜が突っ込んで来たら地面に穴を空けて下に逃げよう。どこまで下があるか分からないけど、とりあえず逃げ続けるしかないよ」キゴウが戦略を伝える。
風の音が唸り出した。
竜達が大きく羽ばたいて一斉にこちらに迫って来る。
キゴウも何かイメージを構えようと思ったが、あの美しい姿を見ていると打ち倒せるイメージは何も沸いてこない。こんなに複雑な獣の姿を想像してみせたのは一体誰だろう。むしろ、そのプレイヤーのほうに想像が働く。
竜が首をうねらせて、ビルに飛びかかって来る。柳が黒い球を持ち上げる。
その時、ビルに張り巡らされている窓ガラスにヒビが走った。
しかし考えて見ると、先ほどキゴウやケイが飛び込んできた側の窓は既に割れているはずだ。その何も無いはずの空中にも亀裂が入っている。つまりガラスでは無く、空間にヒビが出来ている。
そのヒビは瞬く間にビルの外まで広がった。最初に突進してきた赤い竜は、亀裂が首元をかすめたかと思うと次の瞬間には首がふき飛んでいた。他の竜も、翼や足を切り落とされ、悲鳴をあげ落ちていく。
一番巨大な白竜だけが唯一亀裂に堪えてこちらへと迫ったが、ヒビは蜘蛛の糸のように粘着性の物質に変ってしまう。竜はいつしか体を何重にも絡まれて、羽は折れ、ヒビに這いついたまま縛り上げられた。
こうしてみると蜘蛛の巣の様だ。
そう思った矢先、黒い塊が竜の首元にジリジリとすり寄った。竜から今まで聞いたことのないような奇声が響き、銀色の血しぶきが上がる。雄大だったその姿は少しずつ力みを失って、やがて糸の上で人形のようにぶらさがり、ゆっくりと首が落ちていった。
「…お前がやったのか」と呆然と見ていたケイが、柳に聞く。
「私に出来るわけないじゃん」と柳はキゴウの方を見た。
「いや、私でもない」
「じゃあ誰が…」ケイがそう言い終わる前に、景色が突然黒く飛んだ。
切断された竜の首の中から、ブクブクと沸騰するように黒い液体が溢れてきて、ビルの中に一斉に伸びてきた。
遥か遠くから柳の叫び声がする。
キゴウが振り返った時には、ケイの胴体がもう無くなっていた。バラバラになった手と足が、ビルの外に弾き飛ばされている。柳が抱えていた黒い球をその闇に投げた。影は黒い球を受けると、赤黒く濁ってマグマのように歪んだ。しかし次の瞬間にはそこから伸びてきた影に柳の首は押さえつけられ、そしてマグマが柳の体に燃えうつった。柳は一瞬光っては燃え尽き、黒い灰になった。
闇の中から、さらに暗い影が湧いて出てくる。
実体のない小さい現象が、そこに立っている。
影は滑るように近づいてきてキゴウを見上げる。
そして、まるで握手でも求めるかのように右手を差し出す。
悪寒。
背筋に歪な感覚がよぎってキゴウは飛び退いた。はずなのに、影の右手は近くにあり続けた。そして指先が幾つも分かれてまた手となり、その手の指先が幾つも分かれて、蜘蛛の糸を張り巡らせながら追いかけてくる。
キゴウはビルの外に飛び出した。
いつの間にか世界は丸ごと暗闇に変っていた。
そして、さらに深い黒色に体は落ちていく。
青い光をイメージして辺りに灯すと、這いよる腕はやはり目前にあった。光の切っ先を鋭い刃に変えて迫りくる手を向かい打つ。しかし手は切れば切るほど、分裂して広がる。
気が付くとビルも消え360度真っ青な世界になり、そして360度から無限に伸びてくる手に囲まれた。
キゴウは闇雲に切り払ったが、手はまるでキゴウが対応できるギリギリの所でわざと攻めているかのようだった。いつしかキゴウは自分が切った手の数を数えだした。それは、3百42万回にのぼったところで次第に数えられなくなった。
少しでも手を抜いたらどうなるのだろうか。
麻痺しだした神経回路が半ば無意識に好奇心にかられ、一瞬手がゆるんだ。
均衡はあっという間に崩れた。足を掴まれ体が浮かび上がり、一気に黒いものがなだれ込んできた。キゴウは何とか身体を捻り、足を切り落とし手から逃れる。
ダメージを負った上で、また無限のつばぜり合いが始まる。
いつまで続くのか。この攻撃はいつ止むのか。
少しずつ絶望感が募ってきた。もう消えていい、トドメを刺してほしいという欲望が強くなってくる。
その時、背中がふと何かに触れられた。そして気づくと、落ちていたはずの体はビルの中に立っている。
「ループしたね」と正面に立つ影から聞こえる。手は消えて、ただ影は炎のように揺らめいていた。
話しかけられたのか?
よく分からないが、とにかくキゴウは限界だった。
残った片足で、なんとか地面に三角形を作り倒れこまないようにした。
何かしら相手に反応を示して、もうこの戦いは終わりにしたかったが、降伏の言葉すら出て来ない。言葉も生めないほどに、スペックを費やしてしまっていた。キゴウはただ余裕のない表情で、相手も見つめることしかできなかった。
また影は滑るように目前に浮いて、キゴウを見上げる。
「帰ってきたんだね」
その時、サイレンが響いて景色が歪みだした。
一気に白い光で明るくなって、目前でブロック型の数字にポイントが加算されていく。
そして、気づけば草原の上で寝ていた。