第一章 キゴウ
第一章『キゴウ』
大学2年の夏。
全人類に向けてのアナウンスがあるとシステムから通知があった。
学校ではその内容について憶測が飛び交い久し振りに何だか賑やかだった。
正午、システムはこの世界が仮想世界だと発表した。計算によってはじき出されたいくつかのメタバースの一つだと。
その時、3人は食堂にいた。
「これ本当かな」キゴウがスクリーンの通知を見せると、柳は切れ長の目を細めて「システムが言うのならそうでしょ」と、いつも通り退屈そうに言葉を落とした。
「自然主義者が何て言うかね。自分たちも人工物だって分かったら」
「さぁ」
キゴウと柳はぼんやりとケイを待っている。ケイは固形物を食べるからいつも時間がかかる。
「信じないだけだろ。悪魔のささやきは」ケイは残ったパンをテーブルの穴に捨ててミルクを飲んだ。
彼は家が自然主義なので一応ちゃんと食器を使う。しかし、それが彼の思想という訳ではなく、ただの習慣だった。
「NPC愛護団体は騒ぎそうだ。ほら見ろ! 私達もNPCだ。やはり平等だったって」と柳は皮肉った。
「見下してるから愛護してたんだろ。目線が揃ったら分からんぞ」ケイは瓶を口に含みながら喋ると、言葉の終わりと共に残った液体をゴクゴク飲みほした。空の瓶が放られ、テーブルの穴は閉じて消える。
「しかしなんでシステムは公表したんだろうな。皆そんなこと言われたってどうしようもないだろ」と食べ過ぎたと言わんばかりに彼はお腹をポンポンと叩く。
確かに、世界が仮想だと分かった所で何か変わるだろうか。
ケイは身を乗り出し、やけに嬉しそうにギョロリと目を大きくする。「話変わるけど、次の大会出るらしいぜ」
「毎回そんな話は聞くけど」と柳。
「今回は本当かも」
「はいはい。幸せな奴」
「あぁ戻ってくるねぇ。ゴーストが」
キゴウは柳と同様に、呆れたような笑みを作る。
ゴーストが帰ってくる。それは大会の度に言われることで、その度に裏切られることだ。
「今度こそ見られるさ」何の根拠を持っているのか知らないが、ケイは何かが降ってくるかのように、天井を見上げた。
その日、帰りにバグ爺の所によった。彼はエリア2の境界である川辺に住んでいた。キゴウの住む箱から未整備域を通り、歩いて5分とかからない。エリア2は騒がしく煩わしかったが移らずにいたのはバク爺がいたからだ。
自然臭い川辺に降り、スクリーンで空気を浄気しながら、バク爺の家に着く。
彼は家の前の木に棒をひっかけ、その棒に汚らしい布をかけている。こうして日差しで服を乾かし、何度も着なおすのだという。なぜ、何度も同じ服を着るのかはよく分からない。それはバグ爺の世界のことだ。
キゴウが部屋に入ると、バグ爺は台所から振り返り「おうおうおう」と繰り返した。
そしてフライパンを机に置いて「食うか?」と言った。
キゴウはすぐに遠慮した。――それが一か月前にキゴウが適当に創生したウインナーだったから。
バグ爺はブツブツと意味不明なことを呟きながら、ウインナーにかぶりつく。そして熱かったのか、口をハフハフとしてフライパンに戻す。何を思ったのか皿を持ってきて、その口から出したウインナーを乗せて、また食べ始めた。意味不明な独り言の中に「ベロ、やけど」という単語は何となく聞こえた。
バグ爺は300歳を超える、と本人は言っているが実際は定かではない。おそらく彼に身寄りはないし、彼をよく知る人間もいない。頭の治療も放棄し、もうほとんどボケきっている。ちなみに爺と言うのは、まだ差別が根強かった時代のスラングで性と年齢を侮蔑するものらしい。
「うん、よくできた味だ、これは。よくできた味だ。中々ない。いや、昨日も食った。どうだい? 昨日も食ったな。旨いか?」
それはキゴウに話しかけている訳ではない。バグジーはいつも一人で話していた。誰と話しているかは分からない。そこにはいない誰かと話している。
たまにこの世界に戻ってきてキゴウに語りだす時がある。そういう時は、自分は高名な科学者だの、非凡なクリエイターだの、神様と話したことのある預言者だの、警察官だの、世迷い事ばかりを垂らす。身振り手振りで壮大な物語を再現しては、最後には寂しそうに黙り込んで、ノソノソと布団に潜る。いつもキゴウはただジッと黙ってその姿を眺める。
ぽたぽたと雨音が鳴りだした。すぐにそれは激しくなって騒然と部屋を包んだ。壁に雨粒が伝い、滝のような音の中で天井から雫が落ちてきた。バグ爺は嬉しそうに風呂場からバケツを持ってきて雨漏りの所に置く。
「雨だなぁ、ふれふれ雨だな」
風が呻り窓の外を眺めると、辺りは一気に暗くなっていた。水はほぼ水平に飛ばされている。頭の中のシステムに確認してみると、台風の中にいて雨はしばらく止みそうになかった。
「バグジー、ずっと降るって」
「おう泊ってけ。泊ってけ」
そう言うとバグ爺は窓を開け放ち叫んだ。
「見つけたいけど、見つけたくないんだ」
バグ爺はびしょ濡れになって頭を犬のように振った。
二階の空き部屋で眠った。蒸し暑く、布団は板みたいに固くて地面に寝るのとほとんど変わらない。
家の軋む音が気になり寝付けず、目を瞑ってバースに流れている情報を漁った。ここが計算結果の世界だと分かって皆どんな反応をしているのだろうか。自分にはどうでもよいことでも、人がどう思うのかは調べる。大抵そうだ。
感情の操作は必要な時以外しない。つい最近足したところなので今は割と感情的になれている。どうでもいい不快な気分も残している。自分を乱すものをなんとなく眺めて、感情の揺らぎを確認している。
瞼の裏に浮かぶ文字が頭の中へ流れ、言葉が再生された。
今この世界には、4タイプの生物がいる。
①実体世界からログインしてきている本物
②リアル同士がこの世界で性行為をして生んだシミュレーションの子供
③リアルとNPCが性行為をして生んだ子供。
④それ以外の完全なNPC
キゴウの世代が大体シミュレーションで出来た子供の第一世代ということだ。
NPCか、リアルの生殖行為によってシュミレーションされた子供か。些細な違いのようだが、それが何よりも重要だという人もいるようだ。
バースで再生される言葉は荒れ、汚い感情が垂れ流されている。
世界には不快感を捨てない人がまだ割といるらしい。
しばらくそこに浸かっていたが、溢れた情報は追い切れるものではなく、ぼんやり眺めているうちに眠たくなった。
翌朝、一階に降りるともうバク爺はいなかった。キゴウは家を出て川辺を歩いた。強い雨が降った後、いつもバグジーは川にくりだす。そうして濁流の中、流木を集める。キゴウはバク爺を見つけると川辺に座り、それを応援した。
「気を付けろよ、流れ早いからな」とバグ爺は叫び「大丈夫、大丈夫」と自分で返した。
嵐は過ぎ去ったが、まだ風は強かった。置いて行かれた分厚い雲が、日差しの無い水色の中に浮いている。その前をほとんど煙に近いベールのような雲が凄い勢いで流れていく。
川向こうの鬱蒼とした山々の木々は霧に紛れ、そして蠢き、風の音を揺らした。それ以外は静かだった。虫や鳥はまだ鳴いていなかった。
バグ爺が満足げに枝を集め終えると、キゴウはそれを運ぶのを手伝った。
家に着くなりバグ爺は枝を折ったり紐で結んだりして組み立てていった。下手くそな鳥の巣にしか見えないが、バグ爺には人形に見えるらしい。そうして出来た作品は部屋の隅に何体も積まれている。
重ねられた木偶のガラクタ。バグ爺はその一つに恋をしていた。いわゆる「大傑作」は未だに完成していない。最後の部品が足りないらしい。股の部分に使う、良い曲線の木が無いのだという。ただ、見つかれば恋が完結してしまう。それは寂しいとも彼は言う。
今日もゴミを量産し、上手くいかなかった人形は川に流してしまった。そうして帰ってくると、バク爺は大傑作を抱えて突然踊りだした。クルクルと優雅に、楽しそうに、まるで何かの音楽が流れているように。
バグジーが教えてくれた話で好きなものがある。神様から聞いたという話だ。
その昔、皆は神のために神のことだけを考えて生きた。それゆえに神から必要とされ、神に愛されたが、感情がなかったので、その愛が分からなかった。
神が世界を去る時、神は皆に感情を与えた。皆はそれで神の愛を知ったが、代わりに生きる目的を失った。その開いた空白に、蜘蛛が住み着いて人を苦しませている。愛と蜘蛛は、いつも一緒だ。
この話を聞いた時、キゴウは妙に納得したものだった。
バグ爺に聞いてみた。
「この世界は現実世界に作られた仮想らしいよ。ログインしてる人間とそのシミュレーション上の子供はいるけど、大多数はNPCなんだって」
「嘘だ」とバグジーは言った。世界を作った本当の神様を自分は知っていると。
バグジーはいつも嘘だらけだ。でも、その嘘は本当の嘘だと思っていた。それが作られた嘘ならば寂しい気もする。
バグジーはクルクル踊る。
何かの音に合わせて。
聞こえない音が、本当に流れていればいいのに。