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太陽が一足先に眠りにつき始めた頃、僕は水平線に沈みゆくそれを車の中から眺めていた。
あれだけの喧騒を包んでいた海が寂しげなオレンジ色に染め上げられていて、少し切ない気持ちになる。
大盛り上がりで幕を閉じたスイカ割り大会。優勝チームには特大スイカがもらえるとのことだったが、その特大スイカは今、この車の最後部にある。
──15点満点。
なんと大会初の満点を叩き出して、『ストーンマリン・フィフティーストーム』は優勝した。
審査員によると、遅くとも確実に壁を打ち砕く姿勢や倒れても立ち上がる様が高評価だったんだとか。
それなりの結果を出せればいいとは思っていたけど、優勝は想定外だった。そういうわけで、喜びよりも驚きの方が強い。
と思いきや、こうして振り返ってみるとやっぱり嬉しくなってくる。
今まで何かの賞をもらったりしたことなどなかったので、なおさらだった。それがスイカ割りであっても。
僕も皆と同じように楽しめて、皆と素敵な思い出を作ることができた。優勝できたことよりも、そっちの方が嬉しかったりして。
そんなこんなで一同は夕方まで遊び尽くし、こうして帰路についていた。
取材で疲れたのか、お酒で酔っ払ったのか、小城さんは早くも助手席で夢の中だ。
バックミラー越しに見える味田親子もうつらうつらとしており、放っておけばすぐに寝てしまいそう。
エコーはその隣で、しみじみと右手に見える海を眺めていた。
「今日は本当に楽しかったです! 正義先輩、ありがとうございました!」
弾けるような笑顔のヒスイは仰々しく深々と頭を下げた。
「僕は何もしてないよ。お礼なら大和さんと小城さんに言ってくれ」
僕がしたことと言えば声をかけたくらいで、実際に海に連れてきてくれたのは宝南社の二人だ。
「そ、そうですね。お二人とも、本当にありがとうございました」
今度はバックミラーに向かって頭を下げたヒスイ。熟睡中の小城さんに代わって大和さんがミラー越しに小さく手を振った。
「いえいえ。またこうやって皆で遊びに行けるといいね」
行き帰りの運転に加えて一日中取材をしていたというのに、疲れの一切見えない微笑みを見せる大和さん。ヒスイも屈託のない笑顔でそれに応えた。
高速道路の長いトンネルに入り、次に出た時にはもう海は見えなくなっていた。一日の半分にも満たない時間しか離れていないのに、なぜか山に囲まれた道路を懐かしく感じてしまう。
楽しい時間はあっという間とよく言うけれど、僕はまさに今それを強く実感していた。
ついさっきまであそこではしゃいでいたのに、今はもう遠く離れてしまって。持続的な『楽しい』という気持ちが『楽しかった』に変わり、その余韻も覚めた頃に『思い出』に変わるのだろう。
本当に不安だったけど、僕は皆と楽しむことができた。
とても嬉しかったし、きっと──いや、絶対に忘れない。
それなのに、僕の心の中にはしこりのようなものが依然として残っていた。
周りが雲がかっているようで、その正体は全く︎分からないけど。
楽しむことへの恐怖心みたいなものは消えたはずなのに、この気持ちは、一体何なんだ?
分からないことをとことん考えてしまう悪い癖をまた発動してしまった。
いかんいかんと振り切っていると、ふと右肩に少しの重みを感じた。
何だかすご〜く、いい匂いがする。嫌な予感もする。
恐る恐る目線を右にずらしていくと……
「……すぅ……すぅ……」
人間には決して知られてはいけない森を守る女神のように神秘的な寝顔が、僕の右肩にあった。
……くぉれはまずいぞ!
このまま放置しておけば、五十嵐さんが目覚めた時に気まずい雰囲気になることは間違いない。
かと言って、下手に動かしてしまえばその眠りを妨げてしまう可能性だってある。そもそも動かすということはその御顔に我が汚らわしき手を触れさせるということだ。
神様、そんなのできっ子ありません!
結論。僕は少しも動くことが出来ない。
至近距離で直視し続けることに罪悪感っぽい何かを感じて正面に視線を戻した。
すると、バックミラーにはいやらしいニヤニヤ笑顔が。
何なんだあのおっさんは!
あんたさっきまで寝てただろ!
僕はこんなにも鼓動を高鳴らせているというのに、何がそんなに楽しいんだ!
小城さんにむかっ腹を立てたところで、状況好転の策など出てくるはずもない。
最終的に、間違っても右に頭が傾かないよう細心の注意を払いつつ、僕も眠りにつくことにした。
「──んぱい、……てください。正義先輩!」
身体を揺さぶられながら耳元で名前を呼ばれ、ようやく僕は目を覚ました。
完全に夜になった窓の外にはいつもの祖父の家。目の前には呆れたような顔のヒスイ。
「どれだけ遊び疲れたんですか。ほら、お家着きましたよ」
「笑っちゃうくらい気持ちよさそうに寝てたぜ? 奈乃ちゃんも隣で寝てたからかもな」
「……寝起きのところをからかうって、本当に何なんですか……」
シートに押し付けられていた後頭部を掻きながらあくびを一つ。
気づけば車内には、僕とヒスイ、前列の記者二人しかいなかった。他の皆は無事に帰宅したようだ。
スライドドアを開けて外に出た。涼しい夜風とすれ違い、心地よい気分になる。
大和さんがトランクから僕達の荷物を取り出し、それを受け取った。
家のドアにふと目をやる。今朝、慌ただしくここを出たのがもう何年も前のことのように感じられた。
そしてじわじわと実感が湧く。帰ってきたんだと。
「今日一日、本当にお世話になりました。ありがとうございました」
深くお辞儀をして大和さんにお礼を述べた。ヒスイも僕に続く。
「俺も楽しかったよ、ありがとう。次はプライベートでどこか行きたいね」
「その時はまた、よろしくお願いします」
「任せてくれ。それじゃあね」
善人の鑑、とでも言うべき柔和な笑みを浮かべたまま大和さんは運転席に乗り込んだ。
僕とヒスイはもう一度お辞儀をして、家のドアを開けようとした。
「正義ちゃん」
助手席の窓から小城さんが僕を手招いている。
また何かからかってくるのだろうか。すっかり小城さん=からかいおじさんという印象になってしまった。
「先に入っててくれ」
ヒスイにそう伝えて荷物を預けてから、小城さんのもとに駆け寄った。
「何ですか? ……言っときますけど、もう五十嵐さん関連で僕をからかうのはやめてくださいね」
冗談とも本気とも分からない微妙な声音で言うと、小城さんは少し複雑な表情になった。
もしかして何か気に障っただろうか。
「……いろいろ悪かったな、今日は」
予想外の返答だった。
いつもの調子で冗談めかして言われれば、そんな風には受け取らなかっただろう。
だが今の小城さんの表情には、明らかに罪悪感が滲み出ていたのだ。
「実を言うとさ、今日のこれ、正義ちゃんのためでもあったんだ」
ドア越しの小城さんの表情は真剣そのもので、僕も自然と身体が強ばった。
「僕の……ため?」
「ああ。せっかくいっぱい友達が出来たのに、どうせろくに遊んでないんだろうなってふと思いついてな。で、奈乃ちゃんに軽い気持ちで相談したんだよ」
事実だけど断定されていたことにちょっぴり落胆しつつ、話の続きを聞く。
「そしたら奈乃ちゃん、こう言ったんだよ。『私達にとっては大したことじゃない、けど石海くんにとってはとても重要なこと。それで悩んでるんじゃないか』って。……すげぇよな。今日の正義ちゃん見てる限り、正解だもんな」
僕がずっと触れてこなかった、楽しむということ。それに対する諦めやトラウマ的な恐怖。
確かに僕以外の人間にとっては大したことじゃないのだろう。実際に五十嵐さんはそれをふわっと掴んでいた。
「何とかしてやりたいって思ったんだよ。高校三年生の夏休みなんて、人生の全夏休みの中でもダントツで貴重だ。何もしないなんてもったいないし、寂しすぎるだろ? だからちょうど海での仕事があった今日、皆も連れていくことにしたんだ」
小城さんの喋りは何だか段々と熱を帯びていっている気がした。裏でそんなことがあったなど全く知らない僕はただ黙っている。
「奈乃ちゃんはきっと正義ちゃんを上手く楽しませてくれる。だから俺も自分なりにもっと楽しむことに積極的になってもらおうとしたんだ。けどまあ、空回りというか、おっさんと現役高校生はやっぱり違うというか……ただ困らせちまっただけみたいだったな」
へろっとしてるが芯は通っているいつもと違い、その芯も曲がったかのようなふにゃっとした申し訳なさげな顔の小城さん。
確かに、ちょっと怖いくらいにからかってきてたし、価値観の違いとかはよくわからないけど今日の小城さんはいつもより野次馬根性丸出しの「おじさん感」が強かった。
恥ずかしかったりイラッときたりはしたが、特段本気で困ったというわけではない。
ていうか、そんなことより。
そんなことよりも、だ。
「……僕のために、いろいろ考えてくれてたんですね」
照れ臭そうに小城さんは鼻を掻き、僕から目線を逸らした。
僕は心に増殖する温かな気持ちを落ち着いて言葉にしていく。
「昔──と言っても2年くらい前ですけど、五十嵐さんと僕の間でちょっとしたいざこざがあったんです。その時からずっと五十嵐さんに苦手意識みたいなのがあって、向こうもきっと気まずかったと思います」
「そ、そうなのか……。けど、今はとてもそんな風には」
「そうなんですよ!」
言葉の通り道に横入りした僕があまりに食い気味だったため、小城さんは困惑混じりに驚いた。
「ど、どういうことよ」
窓枠に手をかけ、訝しげに訊いてくる小城さん。
「小城さんに言われてから今日一日ずっと五十嵐さんのことを意識してて、段々分かってきたんです」
「何が?」
「五十嵐さんって、もしかしたらめちゃくちゃ良い人なんじゃないかって」
世紀の大発見でもしたかのようなテンションで僕は言う。
至極真面目な発言のつもりだったが、どうやら小城さんの笑いのツボを刺激したらしい。
「うははははっ! 確かにあの子の思いやり力というかお節介パワーというか、本当にすごいもんな。んで? 苦手意識はなくなったってこと?」
「ハッキリとはまだ分からないです。けど少なくとも、もっと五十嵐さんと積極的に、堂々と接してもいいのかなとは思いました」
苦手意識なのか何なのかよく分からない、モヤモヤした気持ちはある。
でも五十嵐さんは情けない僕の気持ちを思慮して、そして忘れていた──もしくは新たな──世界に導いてくれた。
彼女の誠実な態度に僕も真摯に向き合わないといけない。そう思った。
「そう思えたことがすごく嬉しいし、それは……小城さんのおかげです。だから、ありがとうございました」
そして、そのことに気づかせてくれた小城さん。彼に特別その意図はなく、ただ単純に僕を楽しませようとしていたのだろう。
それでも僕は嬉しかった。
意図せずとも、僕の凝り固まった考えを溶かしてくれたことが。
「なっ…………い、いや、バカヤロ! そ、そんなお礼なんか言われても、なななななな何も出ねえぞ!」
明らかに、誰が見ても分かるくらい動揺している。
よっぽど面と向かって感謝されることに慣れていないのだろうか。
「……記者の仕事って、そんなに人様に喜ばれないものなんですか?」
「ぐっ……! 正義ちゃん、なかなか言うようになったな……」
照れ隠しなのか、やけに大げさなリアクションを取りながら、弾くように親指で鼻を掠めた。
出来の悪い人形のようなぎこちないその動きに、僕は思わず笑ってしまう。
「ま、迷惑じゃなかったならそれでいいよ。んじゃ、またな」
それをさらに隠すようにあっさりと窓を閉め、改めてお礼を言う間もなく車は走り去っていった。
「……楽しかったな」
寂しくそう呟いてしまうほど、今日一日は僕にとって特別な一日であり、眩い稲光のごとき一瞬の衝撃で、煌めく波飛沫のごとき切ない輝きだった。
陳腐な比喩なんて幾らでも出てくる。
それほどまでに僕の胸に強く刻み込まれ、強烈な記憶として脳に焼き付けられ、そして大切な思い出として心に残り続ける。
そう確信してやまない。
また夜風に吹かれ、昼間溜め込んだ熱が身体から放出されていくのを感じた。
早く中に入らないと風邪を引きそうだ。
ドアノブに手をかけてから、後ろに誰もいないのに振り返った。遥か遠くで光る星を眺めてキュッと胸が締め付けられた。
どうしてこんなに切ないんだろう。
何のせいで、こんなに胸が苦しいんだろう。
ずっとこんな気持ちを抱えている。
本当、なんだろう。
ああもう、考えても分かんないや。疲れたし早く風呂に入って寝よう。
手をかけただけのドアノブを思い切り捻ってようやく僕は帰宅した。靴を脱いでいると、ポケットに突っ込んでいたスマホが震えていることに気づく。
振動が短かったのでメールだろう。
「……小城さんだ。なんだろ」
メッセージをタップすると、二枚の写真が送られてきていた。文章は何もない。
一枚目は帰り際、海をバックに撮った集合写真だ。
通りすがりの人に撮影を頼んだので、漏れなく全員写っている。
うわー皆はっちゃけてるな。ルタなんてこれ2メートルくらいジャンプしてるんじゃないか。
僕の笑顔だけどこかぎこちない。もっと自然に笑えるように努力しよう。
何も考えずにホーム画面に設定しようとして、やめた。電源入れる度に自分の不自然な笑顔と対面するのはちょっとやだな。
そっと写真フォルダに保存するに留めておいた。
さて、二枚目は……えっ?
な、なななっ!?
「あんなに気をつけてたのに……なっ、何をしてんだ僕は!!」
写真に写る人物は二人。
肩を縮こませて恥ずかしそうに俯いている五十嵐さん。
そして──その肩に頭を乗せて天国にでもいるかのような表情で快眠している僕。
ああああああああああああああ!
ずるい! ずるいよ!
お互い知らないままにしておけば良かったのに、なんで僕にだけ知らせるかなぁ!!
なんで僕だけ余計に気まずい思いしなきゃいけないのかなぁ!!
僕は勢いに任せて返信してそのまま風呂場に飛び込んでいった。
『前言撤回! やっぱり大迷惑です!』





