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水着

「──なんか、難しい顔してるね」


 現れたのは、小さな白いバッグを手にした五十嵐さんだった。着替えの時はあまり塗る時間が無かったらしく、改めて日焼け止めを塗りに行っていたのだ。


「別にそんなことは……なっ、ない、よ」


 声の主は五十嵐さんだと分かっていた。

 だが、その姿を目にした瞬間、明らかに声が上ずる。

 昼食の時に彼女の上半身を包んでいたパーカーが、取り払われていたからだ。


「顔赤いけど、大丈夫?」


 前かがみになって僕を覗き込む五十嵐さん。

 一刻も早く目を逸らしたかったが、そうするとまた何か疑われてしまいそうだという思い込みが、それを阻止した。


 透き通るようにきめ細やかな白い肌。

 主張し過ぎずに確かな存在感を放つ胸部。

 スラッと伸びる健康的な脚。

 海風に揺れる長く綺麗な髪。


 その全てが、狂わせるように僕をドギマギさせた。小城さん、許すまじ。


「日に焼けちゃったのかもね」


 適当にそう返すと、五十嵐さんも「そっか」と適当に返し、そのままルタ達のところへ──行ってほしかった。


「よっこいしょ、と」


 あろうことか、彼女は隣に座った。

 えっ? 遊びに行かれないのですか?


 少し動けば、肩と肩が触れてしまいそうな距離感。相変わらずのいい匂いが、鼻腔から僕を殺そうとしてくる。


「皆、楽しそうにしてるね」


 湧き上がる煩悩をかき消すように、何でもいいから話題を振った。


「だよね。ルタちゃん達は初めてなんでしょ?」


「うん、そうだよ」


「すごいよね。どれだけ新鮮に感じられたんだろう」


 そう語る五十嵐さんは、とても嬉しそうだった。

 自分では気づいていないような、無意識のうちに浮かべたであろう笑顔が、友達思いの彼女の優しさを物語っていた。


「五十嵐さんも、楽しそうだね」


 それはもう、つい口にしてしまうほどに。


「皆と海に来られたんだもん。楽しいに決まってるよ」


 五十嵐さんはこちらに顔を向けて、まっさらな笑顔を見せた。あまりにも距離が近くて、つい顔が熱くなる。


「石海くんは、楽しい?」


「……えっ?」


 微笑んだまま問われる。

 想定していなかった質問を、僕は思わず聞き返してしまった。


「石海くんも楽しんでるのかなって」


 膝を抱えた姿勢の彼女は、顔を埋めるように頭を傾けた。

 鼓動が加速する。心を覗かれているようなその視線、その整った顔立ちが見せる可愛らしい表情によって。


 僕は今、楽しいのかどうかよく分からなかった。

 分からないということは、楽しいと感じていないということなのかもしれないけど。


 人生に絶望したあの日から、いろんな感情を片付けてきた。

 何もかも諦めてただ死ぬのを待つには、悲しいとか嬉しいとか、そういう余計な気持ちは邪魔になるから。


 そんな生き方は数年ですっかり染み付いてしまい、以前の僕がどんな人間だったのか、今はもうあまり覚えていない。


 この半年で、忘れていた感情を少しずつ取り戻した。でも悲しかったり、苦しかったり、怒ったり、辛かったり、悔しかったりで、ポジティブな感情は少なかった。

 暗いネガティブな性格になってしまった結果、同様の感情は抱きやすかったのだろう。生き方を変えた弊害はこんなところに出てしまった。


 だから、周りの人が楽しそうなら自分も楽しいと思える五十嵐さんが少し不思議だったし、僕はどうすれば楽しいと感じるんだろうと疑問に思った。


 あれこれと思案していると、五十嵐さんは怪訝そうな顔でこちらを見つめていた。それに気づいて、急に答えを焦る。


「いやっ、そうだな……楽しくないわけじゃないんだよ? けど、その、楽しいっていうのがよく分からないっていうか」


 この気持ちを上手く言葉に変換することができず、しどろもどろになってしまう。そして最終的に、諦めた。


「……多分、楽しめてないんだよ」


 無性に、末尾に「ごめん」と付け足したくなった。

 せっかく遊びに来たのにそれはないだろ、と直前で本能がストップをかけたのだ。


「──じゃあ、私が石海くんを楽しませてもいい?」


 しかし、膝を抱えて俯く僕になお、彼女は笑顔を向けた。

 そして、バッグにゴソゴソと手を突っ込んで、何かチラシのような紙を取り出した。


 上半身裸の少年が太い木の棒を掲げているイラスト。振り下ろそうとするその先には、緑色に黒の線が入った球体──


「これ、出てみない?」


 チラシを僕に見せる彼女の瞳は、太陽に照らされた海面の煌めきのようだった。


「スイカ割り……大会?」







『二人一組で協力して優勝を目指せ!』


 チラシの上部にカラフルなフォントでそう書かれていた。どうやら、この海で毎年開かれている定番イベントらしい。


「二人のうち一人は目隠ししてスイカ割り担当、もう一人は道中の様々な障害物を回避するための指示担当……」


 下部の説明文を声に出して読んでみる。なるほど、通常のスイカ割りとは少し異なるようだ。


「これに、僕と五十嵐さんで……?」


 不安と、もう一つのよく分からない感情が混じった声で訊く。五十嵐さんはこくりと頷いた。


「優勝した組は特大スイカが2つもらえるんだって」


「スイカ割ってスイカもらうのか……」


 あまり嬉しくない優勝賞品はさておき、どうしたものか。正直な感想を述べるなら、楽しそうだった。


 けど、「楽しそう」と「楽しい」は同じではない。実際にやってみたとして、僕が十分にそれを楽しめる自信がそれほどない。それもまた、正直な感想だった。


 人が聞けば、「何をスイカ割りごときで」と思われるかもしれない。だが、楽しい場所でうまく楽しめないことを、僕は重罪のように思っていた。


「どうする? まだ申し込みはしてないし、無理にとは言わないけど。その、身体のこともあるし……」


 ふと五十嵐さんの表情が曇ってしまう。気を遣わせてしまった。

 楽しむべき場所で、僕のせいで他の誰かが楽しくない気持ちになるのは、僕が楽しめないこと以上の大罪だ。


 やってみなきゃ、わからないよな。楽しいかどうかなんて。


「……うん。やろう。指示役、よろしくね。頼りにしてるから」


 急にやる気を出した僕に若干驚きつつも、すぐに眩しい笑顔に戻り、彼女は立ち上がった。


「申し込み、行ってくるね」


 五十嵐さんは日向に出て、足早に駆けていった。「僕も一緒に行くよ」と言う間もなく。

 彼女の姿が見えなくなり、僕は抱えていた膝をだらりと伸ばし、小さく息を吐いた。


 何だか、今日は胸の鼓動が速い。

 楽しむことに対する悩みで頭がいっぱいなのは、分かっている。小城さんに変なことを吹き込まれたせいで気持ちが動揺しているのも、分かっている。


 だけど、それだけじゃない。それが何なのかなんて僕には分からない。

 でも、それは確かに存在していた。この胸の中に、僕の(あずか)り知らぬ何かがいる。

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