Rain
昔から、雨は好きじゃなかった。
強制的に憂鬱な気分にさせられているようで、好きじゃなかった。
だから、6月はどうも苦手だ。
薄暗い曇り空も、雨露に濡れる紫陽花も、あまり好みではない。
けど、あの人はそうでもないらしい。
梅雨寒で身体が冷える朝も、少し晴れ間が雲の間から顔を覗かせる昼も、再び曇天になる夕方も、ずっとあの人は窓の外を安らかな顔で眺めている。
何を考えているのかは分からないけど、多分先生の話は耳に入っていないんだろう。
休み時間にだって五月雨を見ながらわずかに微笑んでいる彼は、不思議とこの時期がよく似合う。
雨蛙の合唱が鳴り響くその日も、朝の晴天が嘘のように昼からずっと強い雨が降っていた。
今日の私は一層憂鬱な気分だった。
あれだけ天気予報を確認していたのに、傘を忘れてしまったのだ。
こんな日は何一つ上手くいかない。
いつも満点の小テストだって、凡ミスを繰り返す。
おまけに今日は放課後、校内に残って済ませなければならない用事もある。「夕方からはさらに強い雨が降るでしょう」と話していた気象予報士の姿を思い出して、頭を抱えてしまいそうになる。
ようやく用事が済んだ頃、蒸し暑さと湿気でベタベタした空気感を一日を通して引きずっていた私は、ひどく疲れていた。
窓枠に降り落ちてきた雨粒は、私の元気を奪うように不規則にはしゃぎ回る。誰かに傘を借りようにも、もう皆帰ってしまっているだろう。
この雨で傘もささずに帰れば風邪を引くことは間違いない。仕方ない、親に迎えに来てもらうか。
諦めたようにそう決めた私は、教室の戸締りをするために職員室で鍵を借り、その足で教室に向かった。
涙を流す廊下の窓を横目に教室に入ると、彼は机に突っ伏して気持ちよさそうに眠っていた。
どうしてこんなところで……この雨じゃ、いつものように街を歩くこともできないから?
何にせよ、最終下校時刻も迫っているし、起こさないわけにはいかない。帰り支度を済ませた私は、教室の奥、窓際の席の彼に近づいた。
あの気だるげで無気力な表情からは想像もつかないような、無邪気な子供のような寝顔を浮かべている。
「石海くん、起きて」
申し訳ないと思いながらも、彼の肩を揺すって起こした。寝ぼけまなこを擦りながら彼はそっと身体を持ち上げた。
「五十嵐……さん。ごめん、もう帰る時間か」
おもむろに机の横に引っかけてあった鞄を取り出すと、彼は急いで帰り支度を始めた。
その薄さから教科書がろくに入っていないことが容易に分かってしまったが、口には出さない。
だが彼は突然、斜角で窓に打ち付ける激しい雨を見ながら、その動きを止めた。
「どうかした?」
不思議に思いそう尋ねた私に、彼は苦笑しながら答えた。
「傘、忘れちゃった……」
同じミスを犯した私たちは、靴箱で靴を履き替えた後、そこに立ち尽くしていた。
一歩でも前に足を出そうものなら、神様の涙の餌食になってしまう。
涙を拭くハンカチを持っていない私たちに残された最後の手段は、泣き止むのをひたすら待ち続けることだけであった。
彼はふいにしゃがみ込んだ。
潰されたように薄っぺらい鞄を持つ白い手が少し眩しい。
「──ごめん」
雨音とともに妙に湿ったその言葉は私の耳に届けられた。私もスカートを押さえながら彼と同じ高さまで縮んだ。
「急にどうしたの?」
「まだ謝れてなかったから……いっぱい迷惑かけたこと。怖い思いもさせたし、傷つけてしまった。だから、ごめんなさい」
すぐ目の前の水たまりに二人の顔が歪んで映る。悲しい顔をしている。
雨が一つ二つと落ちる度に波紋が広がって、元の表情が分からなくなる。
彼が戦い始めるより前、私と彼は揉めたことがある。私のおせっかいが原因だった。
彼に拒絶された私は、それ以来ずっと避けられていた。
私もずっと気まずかった。けど、ずっと謝りたかった。
彼の秘密を知って再び接点ができたことで、謝る機会を伺っていた。
なのに、彼が犯した罪をこの目で見て、彼が弱くなって、それでも段々変わっていくところを見て、また私は何も言えなくなった。
私だけが守られてばかりで、成長しなくて、力になれなかった。
だから、私は今度こそ彼の力になりたい。
彼の心中の雨を止ませる、心の傘になりたい。
「石海くんは雨、好き?」
突然の謎めいた質問に戸惑いながらも、彼は真剣に答えてくれた。
「うん……別に嫌いじゃないよ。嫌なこととか隠したいこととか、全部有耶無耶にしてくれそうで」
彼は右腕を伸ばして、雨粒をその手に受けた。半袖の隙間から痛々しい大きな傷が見え隠れしている。
何だか哀しくなってきて、押し潰すように奥歯を噛み締めた。
彼にとって嫌なことが起きたのは、まさにこんな雨の日だったじゃないか。
それでいて「嫌いじゃない」なんて……そんなの嘘だ。
「私は……私は何も有耶無耶にしたくない。本当の気持ちも、隠したくない。だから言わせてもらうね」
かしこまっていきなり真剣な顔つきになる私に、彼は明らかにたじろいでいた。
余計なお世話かもしれない。
また避けられてしまうかもしれない。
けど、言いたいことを私は言う。決意を胸に、私は彼の手をとった。
「怖い思いをさせたのも私を傷つけたのも石海くんじゃないでしょ? 石海くんは自分のために、皆のために戦ってくれただけなんだから。一人でいろいろ抱え込まないで、もっと頼っていいんだよ? って、私じゃ頼りになるか分からないけど……」
飛び出していったくせに急に自信を無くしてしまった。
私なんかが本当に彼の力になれるのか。
やっぱり余計なお世話じゃなかったのか。
そんな心配事が頭の中をぐるぐると回り続けた。
それでも私は信じたかった。
私がこうすることで、ほんの少しでも彼が私を必要としてくれることを。
「……本当におせっかいだね、五十嵐さんは」
「ごっ、ごめん。でも!」
ああ、いらぬ心配だったんだ。
少し意地悪な笑みを浮かべた彼が私の手を優しく包み込んだ時、そう確信した。
一見頼りなさげだけど、彼はこんなにも優しくて強い。私が彼の力になれるだなんて、おこがましかったのかもしれない。
「──本当は謝るより先に、ありがとうって言いたかった。嬉しかったんだ、ひとりじゃないって言ってくれて。だから、ありがとう」
どこか儚げなその瞳が私の姿を捉えている。
申し訳なさそうに私の手を離した彼には、私はどう見えているのだろう。
激しい雨の足音が、彼と私の間の何もかもを有耶無耶にしてしまう気がした。
「僕、こんなだし頼りないからさ……ダメダメな時は『大丈夫!』って言ってくれると助かるよ。……ていうか、これまでもずっと助けてもらってたんだよ。だから、これからも……よろしく」
──どうやら私は勘違いをしていたようだ。
照れ臭さを誤魔化すように頬を搔く彼の笑顔は、まさに雲の隙間から差し込む温かな光だった。
「……うん、任せて!」
私はもう、彼の傘になれていた、のかもしれない。
そのちっぽけな確信が得られただけで、自然と私の顔にも晴れ間が訪れた。
とんでもないことばかり目の前で繰り広げられて、時には強い雨も降り続いていた。
けど、どんな雨だっていつかは止む。
どんな曇天もいつかは晴れる。
ドラマとかでよく聞く言葉、本当だったんだ。
思いがけず心温まった私であったが、依然として雨は降り続けている。
油断するなよ、現実は厳しいぞ。神様からそんなお告げが聞こえてきそうだ。
夏目前だというのに異様に気温も低い。
屋根の下なので濡れることはないが、それでも長時間ここにいるのは身体に悪そうだ。
それこそ、彼に何かあれば一大事になりかねない。
こんな時にどうして私は傘を忘れてしまったんだ……。
「おーい! お二人さーん!」
そんな時、薄暗い雨の中から闇を切り裂くように明るい声が響いた。
立ち上がって目をこらすと、親友が何だか楽しそうに手を振っていた。その手には二本の傘が。
「帰ろう、石海くん」
私が差し出した左手を彼は遠慮せず掴んでくれた。
水色の傘を受け取っていざ屋根の外へ出ると、ぬかるんだ足元がその歩みを妨害してくる。頭上で弾ける雨音は、しっかりと全身に染み渡っていった。
「二人して傘忘れちゃうんだから~。私が気づいてなかったらどうなってたことか」
ぷっくりと可愛く頬を膨らませる彼女に私たちはお叱りを受けた。「ごめんなさい」と同じタイミングで頭を下げたのが妙におかしくて、私と彼は顔を見合わせてつい噴き出してしまった。
「あれ? 私、なんか面白い事言った?」
「いっ、いや、何でもないよ! ありがとう、ルタちゃん」
「うむ! それで良し!」
「何様だ、お前は」
一歩一歩、淀んだ地面を踏みしめる度に雨水が舞い上がり、靴を静かに濡らしていく。
水たまり、少しでも着地に失敗しようものなら明日は代わりの靴を履くことになるだろう。
けど、構わない。どれだけ汚れたって気にしない。
飽き飽きするような雨音も、不快な効果音と化した足音も、小さくて温かな空気に包まれている今は何一つ聞こえないから。
君が教えてくれた。止まない雨はないんだって。
その通り、それまでの天候が嘘のように翌日から清々しい晴れが続いた。
深緑の葉を爽やかに濡らす露もいつしか乾いて、一年で一番太陽が頑張る季節がいよいよ私たちの前に現れた。
今年も夏が、やってきた!





