彗星甲蟲の女王
8.
こころの目の前で、ギルが崩れ落ちた。
右上腕に穴が開き、鮮血が迸って砂に滴り落ちる。
「ギル爺ちゃん!」
「……大した傷ではない」
ギルはこころを制してから、振り返る。
「丁重なもてなしをどうもありがとう、クソガキが」
「うちの会社の大事な商品に傷を付けられちゃ、価値が下がっちまうんだよ。それぐらい解るよな?」
細い硝煙を燻らせる銃口を上げているのは、射延いづむだった。
何が何だか解らない。愕然としたこころは、ぎこちなくいづむに向く。
「せん、せ?」
いづむはこころに銃口を向け、躊躇いもなく引き金を引いた。
「ぎゃうっ!」
額に強烈な衝撃を受け、こころは仰け反って浅瀬に沈んだ。体に触れた海水が沸騰して蒸発し、視界を白ませる。
「あ、あ……?」
こころは激痛が走る額に触れてみたが、なんともなかった。撃たれたのなら、ギルと同じように血が出るはずなのに。
わたしはにんげんじゃないんだ。
「9パラなんかじゃ効かないか、やっぱり」
44マグナムを撃て、といづむが顎で示すと、戦闘部隊の隊員がこころに狙いを定め、撃った。直後、先程の衝撃を上回る打撃が右肩に襲い掛かり、こころは獣のように絶叫する。その猛烈な痛みが熱となり、海水が煮え滾る。
「あー、これも貫通しねーなぁ。ブローニングM2で撃ってみろ」
「了解しました。狙撃手の用意は出来ています」
いづむの指示を受け、彼の背後に控えていた戦闘員が無線で連絡を取った。
また、あの痛みに襲われる。怯えたこころは逃げ出そうとするが、砂で足が滑ってしまい、すぐに倒れ込んだ。
「やだ、やだぁ、やだよぉ」
泣きじゃくりながらうずくまったこころの背に、熱と衝撃が食い込む。
それも、一度や二度ではなかった。遠くから聞こえてきた発砲音と同じ回数だけ、背中に異物が激突する。その度に呼吸が止まり、脳が揺さぶられ、視界にノイズが走る。悲鳴すら出せず、掠れた吐息が喉の奥から押し出されただけだった。
苦痛に耐えかねたこころがうつ伏せに倒れると、背中に当たった弾丸が散らばった。どの弾丸も、先端が平たく潰れている。
「こいつの使い方がアナクロすぎんだよ」
いづむはこころの背中に散らばる赤痣目掛けて、撃った。ぎえゃあっ、とこころは痙攣する。熱量が一気に増大し、こころの周囲の海水が一瞬で蒸発して円形の砂が現れた。
「感情量子分泌濃度を、高濃度感情量子発生源本体の感情の機微に任せていたんじゃ、いつまでたっても俺達は進化出来ない。そんなんじゃ、外宇宙に旅立てるわけがない。肝心の動力源がホームシックに掛かっちまったら悲惨すぎだし。だから、こうやって新しい活用法を試してんだよ。これも俺の仕事のうちだ」
いづむはベルガーに再度銃口を向け、引き金に掛けた指をゆっくりと絞る。
「んで、俺があっち側の人間だっていつ気付いたんだよ。総司令官どの」
「最初からだ」
「は? 俺がうちの会社の回し者だって解って使っていたってのかよ?」
「そうだ。素性と目的はどうあれ、君の技術と能力はスサノヲの整備には不可欠だったからだ。そのまま尻尾を隠していてくれと願っていたが、ゆずりはを動かしたとなると、そうも行かなくなった。だから、こうして会いに来たというわけだ」
「まー、そうだよな。そういう考えでもねぇと、伊号が制御棒を使った段階でうちの会社がバックだってことがバレるもんな。あんなモノを製造出来るのは、うちの会社ぐらいなもんだし」
ベルガーは右上腕の銃創を左手で塞ぎ、顔を歪める。
「だが、事を急いたな。例の移民船団の納期が迫っているからか?」
「御明察。火星の衛星軌道上で移民船団を建造して、顧客との契約も取って、契約金をたんまりもらったはいいんだが、火星の高濃度感情量子発生源はどれもこれもレベルが低すぎて話にならねぇ。うちの会社のバイオプラントにいる個体も似たようなもんだ。移民船団が出航出来ないと契約金を返却させられる上に違約金を払わされちまうし、うちの会社の信用も失墜する。そうなっちまったら、移民船団を建造した金と時間が無駄になる」
「金と地球を天秤に掛けるのか」
「そもそも天秤にすら掛けてねーし。石油の民だって、使い勝手がいいから利用しただけだし。だから、呂号はもらっていく。つか、うちの商品を回収する」
しれっと言い捨てたいづむは、ベルガーに照準を合わせて引き金を絞る。その指が曲がりきる寸前に熱波が吹き荒れ、いづむは転倒する。
「何しやがる!」
「……そうか。これで解った」
熱源はゆずりはだった。足場の悪い砂浜に踏ん張り、口角を曲げた。
「気を付けろ。今の私は、虫の居所が悪いぞ!」
ゆずりはが咆哮すると、彼女を取り巻いていた空気が流れを変えて熱風の竜巻と化す。海水と砂も巻き込んだ竜巻を従わせ、ゆずりはは歩み出す。
「これだから、人間は汚らわしいのだ。私はイノベーションの戯言にそそのかされて、ここに立っているわけではない。業突く張りめ。私はその下劣な価値観に賛同したわけではない、あの隔離地域から外に出るための手段として利用したまでだ。テロリストに成り下がったのも、女子高生ごっこも、お前達が与える施しを受けてやったのも、全ては我が種族の繁栄のため!」
ゆずりはの背中が裂け、一対の翅が飛び出す。
「我らは天の申し子、星の使徒! いざ蜂起せよ、同志達よ!」
海面が割れ、空に突き刺さらんばかりに水柱が上がる。
その中から溢れ出したのは、巨大な虫の群れだった。スズメバチを思わせるフォルムで、青黒い外骨格に禍々しい突起が付いている。
――ハレー・ビートルだ、と誰かが言った。
がちがちがちがち、がしゃがしゃがしゃ、がりゅがりゅがりゅがりゅ!
数万にも及ぶ虫の群れが狭い島の上空を塞ぎ、暴力的な羽音を撒き散らしている。群れの中でも特に大きな個体が舞い降り、ゆずりはにかしづく。
「良い子だ」
ゆずりはは女王然とした態度で虫の顎を撫でてやると、虫は喜んだ。
「リーダーがハレー・ビートルだったなんて、そんなの嘘ですよね!? 嘘だと言って下さいよ!」
阿1号はゆずりはに詰め寄ったが、ゆずりはは衝撃波を放って部下達を一掃した。
「私に近付くな。劣等種族め」
「お前……一体、何なんだ……?」
いづむがたじろぐと、ゆずりはは髪を掻き上げて触角を出す。
「御覧の通りだ、御曹司」
「ん、な、どうやって」
「簡単なことだ。彼らは摂取した水を水素に変換して熱エネルギーに変えて生きている生物だが、主食は炭素だ。彗星の核の主成分は水と炭素だからな。だから、私は彼らの子に我が身を与え、彼らとの繋がりを得て、彼らの上位個体となったのだ」
ゆずりはは胸から腹に掛けて手を這わせ、目を細める。
「偶然にも私の隔離地域に落下してきた卵を拾った時は、心底嬉しかった。これで私は死ねるのだと確信したからだ。だが、その卵を飲み下し、腹の中で孵化させてからは、世界が一変した。そして、この子は私を美しく変貌させてくれた」
触角の根元の髪を分けて透き通った複眼を覗かせ、ゆずりはは笑む。
「その果てに、私は彼らの女王となった。私の放つ熱だけではなく、私自身を求められるのだ。この上ない快感だ。主食とエネルギー源が混ざった食事を欲し、ハレー彗星の軌道から離脱した大群が、十ヶ月後には地球へと押し寄せてくる。それを止める術はどこにもない。さあ、人類よ、宇宙の理に従うがいい! まずはこいつらを喰らい尽くせ!」
ゆずりはが誇らしげに命じると、虫の群れはその言葉に従った。
理解出来ない物事の連続に、こころは眩暈を起こしそうになったが、歯を食い縛り、ベルガーに這い寄っていった。せめて、ギル爺ちゃんだけでも助けたい。
苦痛と熱に喘ぎながら、こころはベルガーに手を差し伸べる。
ベルガーは脂汗を垂らしながら、血まみれの左手をこころに伸ばす。
その指先が近づき、触れ合おうとした瞬間、一匹の虫が急降下してきた。
びいいいいっ!
凶暴な顎を全開にした虫が二人の手を食い千切ろうとした、正にその時。
一条の赤色光線が甲虫を裂き、二人の危機を救った。
この光は、まさか。
こころは顔を上げて海上を見渡すと、イルカに似た戦闘機が虫の群れの真ん中に突っ込んだ。虫はイルカ型戦闘機を敵とみなして我先にと襲い掛かっていくが、イルカ型戦闘機が放った赤色光線が空に輪を描くと、一匹残らず爆発した。外骨格と体液とその他諸々が混じった爆風が押し寄せ、こころは身を伏せる。
「そんなものが宇宙の理だと? 笑止千万!」
イルカ型戦闘機の上に直立するのは、ツノの生えた人型ロボット。
それは、まぎれもなく。
「スサノヲさあああああんっ!」
こころが必死に名を呼ぶと、スサノヲはぐっと親指を立ててみせた。
「こころちゃん! 君の愛の下僕がやってきました!」
「私の真理を愚弄するな! 我が眷属よ、あの木偶の坊を排除しろ!」
ゆずりはに鼓舞された虫の群れが、怒涛のようにスサノヲに襲い掛かる。だが、スサノヲは動じずにレーザーブレードを掲げ、頭上で一回転させる。それだけで、虫の群れは全滅して海に落下する。
「これでは肩慣らしにもならんぞ」
イルカ型戦闘機のノーズに仁王立ちしているスサノヲは、虫の死骸で出来た生臭い雨を浴びながら、昂然と胸を張った。
「宇宙の理とは、この俺がこころちゃんを愛することであり、こころちゃんが俺を愛してくれることであり、それ以外の全てはただの雑音だ!」
「は?」
「よって、俺はお前達が繁栄しようがしまいがどうでもいいし、興味もないし、エネルギーの無駄遣いだから相手にするのも面倒臭いが、こころちゃんを傷つけようとするならば話は別だ! この俺が戦ってやろう! 三日前に再起動した後にありとあらゆる箇所をチェックしてセルフメンテナンスしたからな、俺の体調は万全だ!」
「だったら、なぜもっと早く来なかったんだ? 登場するタイミングを見計らっていたのか?」
スサノヲのペースに巻き込まれてしまったゆずりはが疑問をぶつけると、スサノヲはちょっと照れてマスクフェイスを人差し指で引っ掻いた。
「イノベーションの連中が艦内に仕掛けていった爆弾やら何やらを解除して廃棄したり、俺の量子コンピューターに流し込まれた数百万種のコンピューターウィルスを排除するのに手間取ったからでもあるんだが、その、どうやってこころちゃんをフォークダンスに誘おうかなぁ、なんて」
「フォークダンスぅ?」
「そう! タカマガハラ学園の学園祭の後夜祭で、俺はこころちゃんと手を繋いでフォークダンスを踊り、キャンプファイアーの周りを巡るのだ!」
「あの学校は我らが破壊した」
「だが、生徒である俺とこころちゃんとその他は現存している! よって、タカマガハラ学園はまだ滅びてはいない! 何度でも蘇る!」
自信満々に叫ぶスサノヲに、こころは切なくなる。
「でも、スサノヲさん。そんなことしたって、もう、なんにも……」
「残り時間はあと十ヶ月もある、それだけあれば学校も作れれば学園祭も出来る!」
スサノヲはこころを宥め、改めてゆずりはに向き直る。
「というわけでだ、ゆずりは。双方兵を引き、十ヶ月後に雌雄を決そうではないか」
「いやに悠長なことを言うのだな。敵の言葉を信用するのか?」
「俺の任務は地球と全人類を守ることであり、その中に軍人も超高濃度感情量子発生源も含まれている。センサーを少し緩めておいてやる。撤退しろ。他のハレー・ビートルには俺達の言語は通じないが、お前には通じる。通じるからには、双方のダメージが最も少なく済む選択肢を選ぶべきだ」
「その判断は総司令官に仰いだものか?」
「いや、俺の独断だ。だが、俺の量子コンピューターには総司令官を始めとした十億人分の記憶とそれに伴った経験とそれに基づいた判断力が備わっている」
「その判断は誤りだ、スサノヲ。敵に情けを掛けるとは、生存競争にあるまじき行為だ」
「俺とハレー・ビートルの戦いは生存競争などではない。少し派手な害虫駆除だ」
「そこまで言うのなら、受諾してやる。私達がただの虫ではない証に」
いやに素直にスサノヲの申し出を引き受けたゆずりはは、海中から現れた特大の虫に飛び乗り、姿を消した。
取り残された石油の民達は、ゆずりはに見捨てられたことが余程ショックだったのか、意外なほどあっさりと軍に投降した。
「本当に引きやがった、クソアマが」
顔を引きつらせるいづむに、ベルガーは口角を荒っぽく上げた。
「女ってのはそういうものだ。とりあえずお前を逮捕する、射延いづむ」
「どうにでもしろ。虫と機械のこんにゃく問答なんか聞かされちゃ、やる気も失せる」
いづむは拳銃を放り投げると、砂浜に座り込む。
無数の虫の死骸が漂う海の彼方から、巨大なエイが泳いできた。否。エイ型潜水艦だ。その平べったい背には、高速戦闘艇の残骸と搭乗員達が乗っかっていた。レイチェルらも無事である。
「彼らを助けてくれたのか、スサノヲ。礼を言おう」
部下達の無事な姿を確かめ、ベルガーは安堵する。スサノヲは頷く。
「これもまた俺の任務のうちだ。ハレー・ビートルの卵の探索に使っていた潜水艦を急遽浮上させ、生存者を拾ってきたのだ。俺が走査したところによれば、死者はいない。今のところはな」
「そりゃよかった。それで、虫の卵はどの海域に集中していた?」
「海洋深層水に紛れ、海流と共に海底を循環していた。天然ガスの噴出孔で炭素を吸収するたびに成長していき、直径三〇センチを超えると海底火山に集まり、そして孵化する。その後、一ヶ月足らずで全長三メートル近い成虫へと成長していた。卵を発見するたびに駆除してはいたのだが、卵を産卵し続けている女王がマリアナ海溝の最深部に潜んでいて、駆除が追い付かないのだ」
「女王の駆除は可能か?」
「衛星軌道上から荷電粒子砲でマリアナ海溝の最深部に攻撃を行えば可能だが、感情量子融合炉の出力が足りないのだ。よって、こころちゃんの愛が必要不可欠なのだが……」
「ダメ!」
こころは強く拒絶し、首を横に振った。
スサノヲに近付けば、また爆発させてしまう。
「その熱は、俺が全て受け止めて艦体の動力へと変換する。何も恐れることはない。俺は、こころちゃんの全てを愛しているのだから」
こころに向き直ったスサノヲは手を差し伸べるが、こころは泣き喚く。
「私に何が出来るの!? こうやって、いろんな人に迷惑を掛けるだけで、自分じゃなんにも出来ないのに! なんだかよく解らないけど体が凄く熱くなって苦しくなるばっかりで! 私がこんなんだから、皆、傷付いちゃうんだ! ギル爺ちゃんだってそうなった! あの、ゆずりはさんだってそうだ! 私がいるから、何もかも滅茶苦茶になるんだぁ!」
「それは誤解だ」
「違わないよ! 海が爆発したのだって、私が熱くなったからだ!」
「こころちゃん……」
「もう嫌だあ! 誰かがひどい目に遭うのも、痛いことされるのも、熱すぎて苦しくなるのも、全部が嫌だ!」
叫べば叫ぶほど体が熱し、足の裏に接している砂すらも溶けていく。
「だから、私はもう誰も好きにならないし、なっちゃいけない!」
スサノヲが呼び止める声を振り払い、こころは駈け出した。
涙が滲んだ傍から蒸発し、霧散していく。草むらを突っ切ると、雑草が焼けて火の粉が散り、木の根を踏むと黒々と焦げて炭になった。
あのログハウスで、何も知らずに暮らしていた日々に戻りたい。畑を耕して作物を収穫して、放牧地で卵を集めて、ヤギの乳を搾って、川でニジマスを釣って、その食材を使ってごはんを作って。たまにやってくるギルと他愛もない話をして、夜になったら本を読んで、ちょっとだけ勉強して。
どうして、あのままでいられなかったのだろう。
どうすれば、あの頃に戻れるのだろう。
――家に帰りたい。
その一心で、こころは当てもなく走り続けた。