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空を泳ぐクジラ


 俺は君に惚れている。

 だから、君も俺に惚れてくれ。


 闇を貫き、海を割り、空を焼き、大地を砕き、幾千億の敵を薙ぎ払ってみせよう。

 君が愛してくれるなら、俺は神にもなれるだろう。

 だが、俺は神にはなりたくない。


 君の恋人になりたい。






 1.

 醒歴二〇五九年、春。

 クジラが空を泳いでいる。

 洗い立てのシーツをぴんと張り、両端を洗濯ばさみで止めてから、薄膜のような白い雲の果てをゆったりと進む巨体を仰ぎ見る。

「クジラさん、おはよう。今日もいい天気だねっ!」

 空色のエプロンドレス姿の少女、(みなもと)こころは朗らかな笑顔を浮かべながら、空っぽになった洗濯カゴを抱えた。

「いつか、クジラさんと一緒に空を泳いでみたいなぁ」

 澄み切った青空で白い雲を掻き分けたら、さぞや気持ちいいだろう。

 物心付いた頃から、ずっと胸に抱いている願い事だ。

「今日の朝ごはんは何にしようかなぁ」

 エプロンドレスの裾を翻しながら、こころは郵便受けから朝刊を取った。

 肩まで伸びた栗色の髪は色艶が良く、健康的に日焼けした肌は少女にしか許されない瑞々しさを持ち、卵型の顔には黒目がちな大きな目と整った形の鼻、花びらのような薄い唇がバランスよく収まっている。小柄な体は発展途上で、エプロンの胸元は控えめに膨らんでいる程度だ。裾が広がるたびに、黒のニーハイソックスがちらちらと覗いた。

「新鮮な卵をオムレツにしてもいいし、ごはんを炊いて卵掛けごはんにしてもいいし、昨日焼いたパンに浸してフレンチトーストもいいなぁ」

 でも、やっぱり一番好きなのは――

「メレンゲたっぷりのふわっふわなパンケーキ! この前作った野イチゴのジャムを掛けてもいいけど、バターだけでもおいしいし、甘さ控えめにしてサンドイッチにしてもいいし、ああっ悩んじゃう!」

 森に囲まれたログハウスの裏口から入り、こころはキッチンに向かった。薪ストーブの天板に載せておいたポットは、湯気を噴いている。キッチンの戸棚を開け、パンケーキの材料を取り出した。小麦粉と卵、砂糖とミルク、塩とバニラオイルをほんの少し。

 卵を二つ割って白身と黄味に分け、白身に砂糖を少し加えてメレンゲを泡立てていると、ドアがノックされた。

「はぁーいっ」

 朝早くからお客さんが来るなんて珍しいなぁ、もしかしてギル爺ちゃんかなぁ、と、こころは期待しつつドアを開けた。

「どちらさまですか?」

 そこにいたのは、銀色の滑らかな外装を帯びたロボットだった。

 こころの倍近い身の丈があり、威圧的だ。こころは思わず後退る。流線形の頭部に力強い胸部装甲と逞しい腹筋、それらを支えている両足には推進用のブースターが備わっていた。頭部から生えたツノは、カジキマグロを思わせるフォルムだ。

「ミナモト・ココロだな?」

 朝日を半身に浴びたロボットは、横一線のゴーグルを瞬かせる。

「はい、そうですけど……? どちらさまですか?」

「俺に惚れろ」

「へひっ!?」

 思い掛けない言葉を投げ付けられ、こころはひどく動揺した。

 これって告白ってやつだよねでも初対面だしロボットだしだけどでもああちょっと格好良いかもだけどでもっ、と感情の奔流がこころの胸中を駆け巡り、そして。

 ――――ロボットが爆発した。




 地球。衛星軌道上、某所。

「ヲ式人工知能、精密作業用人型汎用機、超高濃度感情量子発生源・呂号ろごうとの接触を確認。予定通り、第一次作戦〈二人の出会いは突然に!〉を遂行しました。行動は事前の打ち合わせ通りでしたが、使用した単語は呂号に想定以上の刺激を与えた模様です。ヲ式人工知能の判断によるものであると思われます」

「作戦開始から十二秒後、超高濃度感情量子発生源・呂号の感情量子が活性化、それにより精密作業用人型汎用機は爆砕しました」

「超高濃度感情量子発生源・呂号は精神負荷が増大したため、付近一体に避難勧告を発令。確認出来ただけでも、七十八台の一般車両のエンジンが暴走、爆発した模様。非常事態宣言を発令しますか?」

「ヲ式人工知能に、精密作業用人型汎用機が爆砕したことによるダメージのフィードバックを確認。負荷は極めて軽微。人工情報処理神経回路、超電磁シナプス、量子コンピューター、艦載動力炉、機体、いずれも損傷は認められません。尚、爆砕する寸前に人型汎用機が呂号のエネルギーを吸収し、量子テレポートにてアマツカミ級無尽戦艦スサノヲの感情量子融合炉に転送した模様」

「スサノヲ、エネルギー充填率が二割を越えました。射程距離は限定されますが、荷電粒子砲の発射が可能になりました」

「呂号の隔離地域の周辺地区への災害派遣要請を承認。直ちに出動要請を行います」

「第二次作戦に移行しますか?」

 女性オペレーターが振り返り、司令室の中央に立つ総司令官に指示を仰いだ。国際連合宇宙軍総司令官、ギルベルト・ベルガーは、モニターに次々に表示されるヲ式人工知能の数値変動を見つめながら思案していた。前頭部が綺麗に禿げ上がり、濃い茶髪は白髪交じりでグレー掛かった青い瞳を持つ、がっしりとした体躯のオーストリア人である。

 監視衛星が捉えた映像がリアルタイムで映し出されており、空色のエプロンドレス姿の少女が呆然と座り込んでいた。

「こころの容態は?」

「呂号、外傷は見受けられません。センサーで走査しますか」

「容態、と言ったのだが」

「……申し訳ありません。では、改めて報告いたします。呂号は活性化した際にエネルギーフィールドを無意識に形成し、人型汎用機と自身の間に展開したため、無傷です。現在、呂号の精神は極めて高ぶっており、その影響で脈拍が著しく変動し、顔面の紅潮、発汗を観測、いえ、確認しております」

「今日は月に一度の補給日だ。直に会って様子を見た上で対処する」

「ですが、総司令官。呂号の精神変動が収まるまでには、最低でも十五時間は掛かります。呂号覚醒中の接近は、生体汚染の危険を伴います」

「娘に会いに行くだけだ。そう気負うことはない。それと、あの子には私が付けてやった名前があるんだ、出来ればその名で呼んでやってくれ」

 一時間後に降下する、シャトルを用意してくれ、と部下達に命令を下してから、ベルガーは司令室を後にした。オペレーターが早々に命令を伝えてくれたのだろう、シャトルのパイロットがカタパルト側の通路から現れた。

「降下ルートはどういたしますか、総司令官」

「太平洋側から降下し、旧東京の国際空港跡地に降りてくれ。そのルートで向かえば、隔離地区から機影が見えるから、こころも少しは落ち着くだろう」

「敵影だと認識されてしまいませんか」

「こころには、敵だの味方だのという概念はない。そういう育て方をしたのは我々だ。さて、どうやって埋め合わせをしたものか」

 ベルガーは通路の壁を軽く蹴り、前進した。

 国連宇宙軍の地上観測基地である宇宙ステーションは、人工衛星と同様、およそ一時間半で地球を一周する。本日七回目の朝を迎えると、地球を一望出来る展望デッキに巨体の影が差し掛かった。全長二〇〇〇キロのアマツカミ級無尽戦艦は太陽光を切り取り、地球に大きな影を落としていた。

 それは、シロナガスクジラによく似ていた。



 最悪の朝になってしまった。

「泣いてもどうにもならないけど、でも、ちょっと落ち込んでからじゃないと立ち直れそうにない……」

 粉々に砕け散ったロボットの前にへたり込んでいたこころは、目元を拭う。

「片付け、しなくちゃ」

 こころは気を取り直して立ち上がり、薪ストーブの天板に置きっぱなしになっていたフライパンに卵を落とそうとするが、バターが焦げ付いていた。だったらメレンゲと黄味を混ぜて野菜スープに入れて、と卵の入ったボウルを手にするが、その中にはロボットの破片が突き刺さっていた。虹色に輝く機械油が浮いていたので、食べられるわけがない。

「ひどい、ひどすぎる」

 踏んだり蹴ったり。

 だが、感情を荒立てては気持ちのいい朝が台無しになってしまう。

「そっ、そうだよ、パンケーキは昨日も食べたもん。だから、今日は別の料理を朝御飯にすればいいんだもん!」

 こころは精一杯強がり、手で頬を持ち上げて笑顔を作った。玄関の片付けをするのは、お腹一杯になってからだ。必死に笑顔を保ちながら、こころは一人分の朝食を作った。鍋で炊いた熱々の白飯とジャガイモの味噌汁、茹で卵。

 それを食べ終えてから、こころは今朝の朝刊を広げた。変わり映えのしない内容の記事を読んでいると、窓の向こうで光が過ぎった。

 朝の流れ星だ。

「わあっ! 願い事、願い事しなきゃ!」

 こころは胸の前で両手を組み、早口で捲し立てた。

「ギル爺ちゃんに会えますようにギル爺ちゃんに会えますようにギル爺ちゃんに会えますように!」

 だが、三回言い終える前に流れ星は消えてしまい、こころは落胆した。

「寂しい……わけがないよ、寂しくないんだから!」

 自分で言ったことを否定し、こころは拳を固めた。

 ギル爺ちゃんとは、月に一度こころの家を訪れる唯一の人間であり、生活用品も運んできてくれる人であり、こころに独り暮らしのやり方を教えてくれた恩人だ。たまに勉強も教えてもらったが、それはあまり捗らなかった。

「よおし、今日も一日頑張ろう!」

 忙しくしていれば、寂しいと思わずに済む。

 まずは、謎のロボットの残骸をどうにかしなければ。



 太平洋側から降下したシャトルは、旧東京地区の羽田空港に着陸した。

 滑走路の端では、部下が運転してきたジープが待機している。

 タラップから降りたベルガーは、服装を整えた。洗い晒しのシャツとサスペンダー付きのズボンに使い古した長靴を履き、農耕機具メーカーの帽子を被っている。軍服が公務の正装であるならば、彼女に会う場合にはこれが正装なのだ。

「総司令官、お待ちしておりました」

 ベルガーを出迎えたのは、紺色のツナギを着た若い女性だった。彼女は背筋をぴんと伸ばして敬礼していたが、敬礼を解いて言い直す。

「けど、今はこっちの方がいいですかね。ギル爺さん」

「どっちでも構わんさ、中嶋少尉」

 ベルガーはシャトルから運び出した段ボール箱を荷台に積んでから、ジープの後部座席に乗り込んだ。

「ブライアン、あんたはどうする? 乗っけていこうか?」

 レイチェル・中嶋(なかじま)はシャトルに呼びかけると、パイロットのブライアン・ワーウィックが顔を出して答えた。

「俺はシャトルの調整をしてから、レイチェルの店に行かせてもらうよ。この辺一帯で休めそうな場所といったら、そこしかないからな」

「どうせなら、うちの店で車を直して金を落としてくれりゃいいのに」

「その車を持ってないんだ、無理言うな。欲しいとも思わないしな」

「どうしてこう車の魅力が解らないかな、これだから飛行機乗りは」

 ブライアンと軽口を叩き合いつつ、レイチェルは愛車の運転席に乗り込み、シートベルトを締めた。

「良い子に動いてちょうだい、私の可愛いフォードちゃん」

 どるん、と景気良くエンジンが始動し、車体が震え始めた。良い子良い子、と彼女は満面の笑みでハンドルを撫でてからアクセルを踏み込んだ。

「いつも通り、買い出しをなさるんですよね? だから、ハンググライダーじゃなくて車で来たんですが」

「そうだ。火星経由で手に入れた物資もいくらか持ってきたが、やはり現地調達が一番だ。輸送コストも掛からんしな」

「それじゃ、旧川崎区に向かいますね。で、いつも通り、お送りするのは隔離地域の入り口まででいいんですよね」

「ああ、そうだ。そこから先は、私一人で充分だ」

「呂号、じゃなくて、あの子の家まで直線距離でも二〇キロはありますけど」

「見くびられては困るな。これでも熱量は二十代と変わっていないんだがね」

「いえ、そんなつもりでは」

 取り繕うレイチェルを横目に、ベルガーは荒れ果てた羽田空港を見渡した。

 十五年前、この空港はテロ組織〈石油の民ペトロニアン〉に占拠された後に放火され、大規模な火災に見舞われた。滑走路はひび割れ、三日三晩炎に包まれたターミナルビルは倒壊し、停留していた航空機も同様だった。だが、瓦礫の除去はおろか滑走路の修復工事も行われていないため、当時の痛ましい情景が焼き付いたままになっていた。

「成田を宇宙港にしちゃったから、羽田にまで手が回らなかったんでしょうね」

 レイチェルはハンドルを大きく切ると、〈INNOVATION〉と書かれているひしゃげた看板を避けた。「空港の親会社が」

「単純に、空港を閉鎖する手間と解体工事の経費を渋ったからかもしれんぞ」

「だとしても、何のために?」

「他に経費を回すべき事案があったからだ」

 そう言ってベルガーが示したのは、東京湾に浮かぶ広大な埋立地であり、その上に横たわる巨壁だった。横からでは平面にしか見えないが、上から見下ろすと完全な円形になっている。それがベルガーの目的地である、超高濃度感情量子発生源・呂号専用隔離地域である。円の直径は五〇キロ、壁の全高は二〇〇メートルにも及ぶ。その壁にも、〈INNOVATION〉と仰々しい文字が躍っていた。

「言えてますね」

「だろう?」

 苦笑いしたレイチェルに返してから、ベルガーは手帳を取り出し、一〇ページにわたる買い物リストを確認した。



「うーん……」

 こころは金属片の山を見下ろし、唸った。ホウキとチリトリでロボットの破片を掻き集めたはいいが、処分に困ってしまう。

「埋めちゃおうかなぁ。でも、変な油とかが漏れてくるから、下手なところに埋めると畑がダメになっちゃうし。かといって、燃えるとは思えないしなぁ。どうしようかなぁ」

 困ったなぁ困ったなぁ、と言いながらも、こころは家事をこなしていた。朝食の後片付けをしてからログハウスの中を掃除し、布団を干し、畑に出向いて雑草を抜き、作物を収穫し、休憩を兼ねて昼食を摂り、風呂や煮炊きのために使う薪を割り、夕食の足しにするために、畑の水源でもある川へと釣りに出掛けた。

「ま、いいか。あのお客さんをどうするかは、後で考えようっと」

 こころは気持ちを切り替え、さらさらと流れる川に釣り糸を垂らした。

 りぃりぃりぃ、と草むらでコオロギが鳴き、ちちちちっ、と小鳥がさえずっている。風で枝葉が擦られる音、背中を温める日差し、やわらかな土の匂い。

 その居心地の良さに、こころは眠気を催した。家事は終わっていないのだから、寝てはいけないと頑張ろうとするが、とうとう瞼が下りきった。

 不意に生暖かい風が通り抜け、こころの前髪を舞い上げた。

 こんな風が吹く時は、確か――

「お嬢さん、糸が引いておりますよ」

「はっ!」

 背後から声を掛けられ、こころは我に返った。確かに釣り竿の尖端が曲がっていて、ウキも沈んでいる。こころはすかさず釣り竿を掴み、水面下をぐるぐると回る魚が弱ってきた頃合いを見計らって引き上げた。

「まずは一匹」

 濡れた銀色のウロコを煌めかせながら跳ね回る魚の下顎を持ち、釣り針を外してから、水中に浸してある魚カゴに入れた。

「ありがとう、ギル爺ちゃん」

 こころは声の主に礼を述べると、野良着姿の老人、ギルは目を細めた。

 あの暖かい風が吹くと、ギルが必ず現れるのだ。

「いや、なんのなんの」

 願い事が叶った。こころは胸の奥が熱くなり、にんまりする。

「それじゃ、ギル爺ちゃんの分の夕飯も釣っちゃおう!」

「それぐらいは自分で釣るさ」

「いいっていいって、お客さんなんだもん」

 こころは釣り針にミミズを付けようとしたが、自分の言葉にぎくりとした。「おきゃくさん……」

 今、そのお客さんの残骸が玄関脇で山積みになっている。土と枯れ葉を軽く被せて隠してあるが、それで証拠隠滅出来たわけではない。

「どうかしたのか、こころ」

 ギルはこころの隣に腰を下ろすと、自前の釣り竿を振って川面に釣り針を投げ込んだ。

「いや、その、うん、なんでもないの」

「本当にか?」

「うん!」

「そうか、だったらいいんだが。今日は、こころが欲しがっていたものを持ってきてやったから、後で中身を確かめるといい」

「お塩とお砂糖と紅茶の葉と調味料と小麦粉とお米とバターとミルクとオリーブオイルとフルーツとランチョンミートとイワシの缶詰と野菜の種と新しい服と新品のお鍋とノートと本と色鉛筆!?」

「随分と大荷物になったが、それだけ喜んでもらえれば何よりだ」

「わぁーいっ! ありがとうギル爺ちゃん、大好き!」

 大はしゃぎしたこころは、ギルに飛びついた。ギルはこころを難なく受け止めると、大きく肌の硬い手でこころを撫でてくれた。それから二人は他愛もない話をしながら釣りを楽しみ、四匹のニジマスを手に入れた。

 夕方、帰宅したこころを出迎えてくれたのは、荷物が満載のリヤカーだった。

 塩と砂糖が五キロずつ、紅茶の葉が一キロ、小麦粉が一五キロ、米が一〇キロ、一斗缶入りのバターと濃縮ミルクが一つずつ、オリーブオイルは二リットル入りの大瓶が五本、七種類の調味料、各種果物とランチョンミートとイワシの缶詰は合計四五個、野菜の種は六種類、色違いのエプロンドレスと寝間着に最適なゆったりしたワンピースが三着ずつ、新品の下着と靴下とタオルがたっぷり、ぴかぴか光る真新しい片手鍋、真っ新なノートが一〇冊、図鑑と小説が合わせて二〇冊、そして36色セットの色鉛筆、各種日用品。

「うわぁ……!」

 山積みの物資を見上げ、こころは感激した。

「これだけあれば、しばらく持つだろう」

「うん、うんっ! ご苦労様、ギル爺ちゃん!」

「今回もハンググライダーは持ってこなくてもよかったんだな?」

「うん。前にもらったやつは、すぐに壊れちゃったし。近付いただけで急に舞い上がっちゃって、乗る以前の問題だったんだもん」

「それなら仕方ないな」

「んじゃ、すぐに御夕飯作るね!」

 こころはダンスのようなステップを踏みながら、ニジマスの入った魚カゴを抱えてログハウスに戻り、薄暗い室内に明かりを灯すためにロウソクの芯をきゅっとつまんだ。即座に火が付き、まろやかな光が広がる。

「ちょっと冷えてきたから、暖炉も付けようっと」

 焚き付けにする枯葉を握り締めると、めらめらと燃え出したので、こころは枯葉を暖炉に投げ込んだ。程なくして薪にも火が回り、程よい暖かさが居間を満たした。

 それから、こころは腕によりをかけて夕食を作り、ギルに振舞った。

 ニジマスのムニエル、ジャガイモのスープ、作り置きのパン。デザートには、野イチゴのジャムを添えたパンケーキがテーブルに並ぶ。

「おいしい?」

「ああ、おいしいよ」

 こころがテーブル越しに夕食の感想を求めると、ギルは快く応じた。

「おいしいんなら、よかった」

 こころは皿を片付けてから、紅茶を淹れた。優しい香りのダージリンを自分のものとギルのマグカップに注いでから、差し出した。

「今夜は泊まっていくの?」

 こころはマグカップで手を温めながら、期待を込めて言った。

「そのつもりだよ」

「それじゃ、ギル爺ちゃんの寝床、用意しておくね」と、こころが腰を浮かせると、ギルはこころを引き止めた。「こころ。今朝、流れ星を見たね?」

「うん。クジラさんの後に」

「その流れ星に願い事をしたかい?」

「うん、ギル爺ちゃんに会えますようにって。そしたら、叶っちゃった」

「他に何か、願い事はあるかい?」

「んー……。急に言われても困っちゃうけど、そうだなぁ……」

 こころは目を動かし、手狭なリビングの本棚に入っている一冊の本を窺った。それは、何年も前にギルが持ってきてくれた恋愛小説だった。

 華やかな赤いバラの表紙の本で、とてもロマンチックな内容だった。愛らしいヒロインに格好いいヒーロー、煌びやかで幻想的な剣と魔法と王侯貴族の世界。もしも願いが叶うなら、素敵な恋がしてみたい。

「恋人、とか……? でっだっ、で、でも、ちょっと言ってみただけだから、ただの願望だから、ちょっとした理想だから、本気にしちゃわないでね!」

 こころは自分の発言に赤面して全力で否定した。

 が、ギルは茶化しもせずに穏やかに言った。

「その願いは、遠からず叶うよ」

 ――それは、つまり。


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