避難訓練
正午のニュースです。
本日、飯塚山田川村小学校で、野生の熊が校庭に侵入したという想定で避難訓練が行われました。着ぐるみの熊が校庭に現れると、担任の教諭が児童を校舎に誘導します。熊のリアルな姿に泣き出す児童もおり、避難行動の難しさが浮き彫りになりました。
「さて」
担任の女教諭が児童を校舎に避難させ終え、扉にガチャリと鍵を掛ける。校舎の扉は児童の安全を考え、十TNT換算トンの爆発にも耐えるよう設計されている。鍵さえ閉めてしまえば、熊如きに破れる代物ではない。担任は振り向き、熊に鋭い怒りの視線を向けた。
「私の児童を泣かせた罪、軽いものではないぞ」
熊は後ろ足で立ち上がり、威嚇するように牙を剥いた。全高は二メートルを超え、その巨躯が陽光を遮る。担任はひるむ様子もなく、ゆっくりと熊に近付いた。めきめきと筋肉が盛り上がり、瞳が鮮血を思わせる赤に染まる。調子を確かめるようにその場で数度跳躍し、担任は一気に熊との距離を詰めた。
――グォアァァァーーーーッ
熊が大気を揺るがす咆哮を上げ、丸太のような前足を振り下ろす。担任は身体をひねってそれをかわした。前足が地面を打ち、ズンと校庭を揺らす。担任は左足を軸に回転し、右足の踵で熊のこめかみを狙った。熊は右前足で防ぐ。毛皮の分厚い感触が担任の蹴りを弾いた。熊が牙を剥きだし首を伸ばす。担任は身を屈め、立ち上がる勢いと共に右の掌底で熊の顎を打った。
――グォアァァァーーーーッ
苦痛を叫び、熊がよろけるように後ろに下がる。勢いのまま担任は拳を固め、的確に熊の腹部の急所を打ち据える。熊がたまりかねたように身体を折り曲げ、その無防備な顔を晒した。担任の目が猛禽の光を帯び、熊の鼻面に拳を突き立てようとした、その瞬間――
――熊が、笑った。
死角から放たれた地を這うような一撃が、カウンター気味に担任の脇腹を抉る。担任の身体が浮き、数メートル吹き飛ばされて地面を転がった。校舎の窓から見ていた児童たちから悲鳴が上がる。担任は地面に横たわったまま、身体をくの字に曲げて激しく咳き込んだ。口から赤いものが溢れる。
熊はゆっくりと担任に近付く。担任は、動けない。熊は担任の傍らに二本足で立ち、敗者を冷酷に見下ろした。
担任が強く奥歯を噛む。熊が右前足を振り上げる。児童が校舎の窓を叩く。熊の爪が陽光を反射し――
――タン
乾いた銃声が校庭に響き渡った。
銃弾は熊の左のこめかみを正確に撃ち抜き、熊の身体はぐらりと揺れ、どうと地面に倒れた。痛みに呻きを上げ、担任は半身を起こした。校舎の影に狙撃銃を構えた人物を捉え、担任は驚きに目を見張った。
「教頭、先生――」
教頭は銃を降ろし、担任に近付く。
「貴女は反省しなければならない」
教頭は冷たく担任を見下ろした。
「我々教師は、いついかなる時も、児童を守らねばなりません。熊が児童を襲うなら、熊から児童を守る。犯罪者が襲い来るなら犯罪者から、テロリストが来ればテロリストから。地震、雷、火災、戦争。児童を脅かすものは無数にある。相手が何者であろうとも、我々が児童を守るという責任を免れることはない」
「だからこそ――」
反論を試み、担任は激痛に口を閉ざした。教頭は首を横に振る。
「我々の義務は、今日終わるものでも、明日終わるものでもない。はるか未来まで続くものです。今日、熊を退けて貴女が斃れたら、明日誰が児童を守るのですか? 熊を倒したのだから許せとでも言うおつもりですか? 馬鹿を言ってはいけない。貴女は担任です。一年間、児童を守り続けるのが貴方の責任です」
担任はうつむき、唇を噛む。
「貴女は反省しなければならない。勝てぬ戦いに身を投じたことを。校舎に入ってやり過ごせば、熊と無理に戦う必要はなかった」
担任は目を閉じ、かすれた声で答えた。
「……魂に、刻みます」
教頭はうなずき、少しだけ表情を緩めた。
「気持ちは、痛いほど分かります。私も海外協力隊の一員として海外に赴任した当時、児童を人質にしようと反政府ゲリラが襲ってきたとき、怒りに身を任せて彼らを壊滅させたことがあります」
若かったのだと、教頭は苦い笑いを浮かべる。
「児童のために怒ることができる。それは紛れもなく、貴女の教師としての美徳です。未熟さを恥じながら、そのままにお進みなさい」
教頭は担任に手を差し伸べる。教頭の手を取り、
「……はい」
担任は立ち上がった。
熊役を引き受けてくださった校長先生に、皆さま、盛大な拍手を!




