4 決めた
観光客達はそれぞれの会話に夢中であり、またアンナ達とは少し離れていたり船の運航する音のせいで、アンナ達の話し声は聞かれていない。
「アンジェ様のお気に召したようで良かったです」
アンナのそばに立つエリスが言う。アンジェとはアンナの偽名である。アンナがちょっとだけ考えて、すぐに簡単に名付けた偽名だった。
そのせいだろう、アンナは一瞬誰のことか分かっていないように、きょとんとした顔をエリスに向けた。
「?」
「…………」
エリスがアンナに耳打ちする。
「アンナ様のいまの偽名のことです」
「あ、あぁ、そう、そうだったわねっ。そうよ、私がアンジェよっ」
腰に手を当てて、えっへんと言いたそうにアンナが自己紹介した。エリスもじいやもやれやれと溜め息をついた。
じいやが真面目な顔で言う。
「アンジェ様、ご自分のお名前をお忘れにならないでください。幸い、いまは他の方々から離れていますからよかったものの」
「わ、分かってるわよっ。これからは気を付けるからっ」
「……やれやれ」
「やれやれしないでっ」
……これは帰ったら少し名前呼びの練習が必要かもしれませんな……、そう心のなかで嘆息するじいやであった。
気を取り直したように、アンナが再び海のほうを見る。太陽光を反射して、きらきらと光って見えた。
「……でも、本当に綺麗よねぇ……この海も、この町も、私、気に入っちゃった」
「それは何よりです」
相槌を打ったエリスにアンナが振り返る。そしてエリスとじいやに言った。
「決めたわ。私、この町で働くことにする」
「「……⁉」」
エリスとじいやが同時に目を見開いた。二人とも寝耳に水といった様子であり、慌ててエリスが口を開く。
「あ、アンジェ様⁉ いったいどういうことですか⁉ 働くとは……⁉」
「そのままの意味よ。私はこの町で働くことにするわ。具体的にどんな仕事にするかまではまだ考えてないけど」
「……っ⁉」
続けてなにか言おうとするエリスより先に、じいやが努めて冷静な様子で言った。
「アンジェ様、本気ですか? アンジェ様ほどの高貴な身分の方が、庶民と同じように働くなど……」
びしぃっ!という擬音が聞こえてきそうなくらい、アンジェが人差し指をじいやに向けた。
「それ! その考え方はいけないと思うわっ」
「……っ」
「そもそも、私はもう死んだも同然の身よ。いつまでもあの屋敷に引き籠って、吸血鬼みたいに陽の目を見ない生活を続けるわけにはいかないでしょ? いつかは外に出て、働いて、自分でお金を稼げるようにしなくちゃ」
「ですが……アンジェ様のお父上やお母上、それに兄上であらせられるカイル様が何と仰られるか……」
「だいじょぶだいじょぶ、お父様もお母様もカイル兄さんも、私がちゃんと説得してみせるから。トラルセン王家だって、いつまでも死者の面倒を見てられるほど寛容でも余裕があるわけでもないしね」
エリスが口を挟んだ。
「お言葉ですがアンジェ様。アンジェ様のご家系の財産は、人一人を数十年匿えるくらいには余裕がありますが……」
「こらそこっ、余計なこと言わないっ」
「アンジェ様の方がトラルセン王家などという余計なことを仰っておりますが……」
さっとエリスが周囲に視線を飛ばす。依然、他の観光客や乗組員は離れた場所にいて、三人の話を耳にしている様子はなかった。




