1 白い結婚
アンナは目の前の光景に唖然としていた。もしくは呆然と事態を眺めていた。
「申し訳ないが、僕は君を愛していない。僕がこの世で愛しているのは彼女だけだ」
婚約者である彼……イワンに呼び出されて彼の自宅の離れに来てみれば、そこにいたのは彼と見知らぬ女性だった。
女性はアンナと同年代で、美しかった。
「はっきり言って、君との婚約は親同士が決めた政略結婚だ。君は確かに王女だが王位は君の兄が継承する、だから君は隣国の王子である僕の元へと嫁ぐことになったのだから」
イワンの言う通りだった。アンナの国では兄が王位を継ぐ。そのため事実上、継承権のなくなったアンナを隣国の王子であるイワンの婚約者として、彼女の立場と権威を保障したのである。
……そのはずだった。
「だが僕は君との婚約には、最初から乗り気じゃなかったんだ。親が勝手に決めた婚約者、いままで会ったことも話したこともない相手、好きでもない相手とどうして結婚しなくちゃいけないのかと、ずっと思っていた。たとえそれがどんなに美しい相手だったとしても」
アンナは離れに置いてあるソファに腰かけている。イワンと女性はその前に立っていて、アンナのことを見下ろすように見ている。
「そんなときに、彼女と社交パーティーで出会ったんだ。紹介が遅れたが、彼女の名はベアトリス、僕はべティと呼んでいる。ああ、君までそう呼ぶ必要はない」
ならなんでわざわざ愛称を言ったの?とアンナは思った。
「彼女は僕の国の公爵家の令嬢でね。悩んでいる僕に優しく寄り添って、ずっと励ましてくれていたんだ。そんな彼女のことを僕は好きになり、愛するようになった。僕が本当に結婚したいのは、べティなんだ」
アンナはベアトリスに目を向ける。ベアトリスは一見すると申し訳なさそうに顔を伏せていたが……その口元がかすかに緩んでいることにアンナは気づいた。
ベアトリスの勝利を確信した笑みだった。イワンは気づいていない。
「だが王族である親同士が決めた結婚であり、破棄することは叶わない。だから僕は決めたんだ。アンナ、君との結婚はあくまで表面的なもので、俗的に言えば白い結婚ということにする。そして僕としては不本意ではあるが、べティを側室に迎えることにした」
「……そう……ですか……」
なにか文句を言いたいはずなのに、言わなければいけないはずなのに、アンナの口から絞り出すようにこぼれた言葉は、それだけだった。
なにを言うべきかが分からなかった。理由も分からなかった。分かったのは、早くこの場から離れたいことと、この人達のそばにいたくないということだけだった。
「話はこれで終わりだ。出ていってくれ、アンナ。いま迎えの者を呼ぶ」
「……いえ……その必要はありません……」
アンナはふらふらと立ち上がると、覚束ない足取りでドアまで向かっていく。
イワンもベアトリスも、ただ黙ってアンナのことを見送っていた。体調が悪そうな彼女を心配する言葉をかけることすらなかった。
離れから出て、ドアを閉めたアンナの耳に、ドア越しに二人のうれしそうな声が聞こえてきた。
「べティ、これで僕は君だけのものだよ」
「嬉しいわ、イワン。あの方がいると息が詰まりそうだったの」
「すまなかったね。本当は君を本妻に迎えたかったんだけど」
「別に構わないわ。私は貴方と一緒にいられるだけで幸せだもの」
「僕も君といられて幸せだよ、べティ」
アンナはもはや怒る気力すら湧いてこなかった。勝手にすればいい、好きにすればいいと思った。
そしてアンナはドアから離れ、庭に面している通路を進み……白い結婚相手の屋敷をあとにした。
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