温泉卵
温泉卵、という料理を初めて聞いたとき、私はなにかの、冗談だと思っていた。
まさか温泉に卵を本当に漬け込む料理があるか、と。
その古い、古い、とじが外れてページの束になってしまった料理本もまた、低温のお湯で卵を温めるという話で、昔は本当に温泉で暖めていたんだよ、とコラムのように書いてあっただけだったからである。
気になってAIにも聞いてみた。
まだ幼かった私は、なんでも正解を言ってくれるし、聞くだけなら何も害はない、と無邪気に思っていた。その恐ろしさを身をもって知らされる、だいぶ前の話である。
「基本的には避けるべきです。温泉に卵を直接漬ける行為は、衛生・安全・環境の観点から多くの温泉地で禁止または制限されています。 理由
1. 衛生上の問題
•温泉は入浴用に管理されており、食品を扱う前提ではありません。
•卵の殻にはサルモネラ菌などが付着している可能性があり、温泉水を汚染する恐れがあります。
•他の入浴客への衛生的配慮からも不適切です。
2. 温泉成分による影響
•源泉の温度や成分(硫黄、酸性度など)によっては、卵が破裂したり、硫化水素ガスを発生させる危険もあります。
•金属や岩を腐食させる温泉では、卵殻が溶け出して湯質に悪影響を与えることもあります。
3. 環境・施設保全の観点
•温泉の湯は地域資源であり、観光客や地元住民が共同で利用しています。
•卵の殻が湯に残ると配管詰まりや濾過装置の故障の原因になるため、多くの施設が禁止しています。」
こう、しごく当たり前なことをべらべらと長ったらしく返してくるばかりで、かつての日本には、火山大国らしく本当に温泉に卵を漬け込む料理があったのか、それとも沸騰はしていないが温水に卵を漬け込んで加熱する料理を、湯船と温泉の風流さになぞらえてそう呼んだのか、といった私の興味には、全然答えてくれなかった。
子供心に、たいへん疑問に思ったものである。
今思ってみれば、本当にそのような料理がかつてはありました、と出力されてしまえば、公共の福祉を害するものであったのかもしれない。げんに私は、卵を温泉に持っていくまではしたけれど、実際に漬けてみる勇気までは出なかったのだから。
だから、いま私はとても興奮している。
えぇ、目の前にはもくもくと立ち上る温泉の中、湯の花がたっぷりついた四角い“浴槽”があって、その中には、たっぷりのレトルトカレーが漬け込まれているのである。
「ね、この温泉で加熱するってなると、限られるでしょ」
アリアは何か、袋のようなものをぶら下げながら言った。
それは古びたビニール袋のようで、若干汚れて、よれていた。
「あ、これ4年前のやつ」
「何が四年前?」
そう言ってから、電灯の明かりを透かしてよく見てみれば、かすれて消えかけた字で「グリーンカレー」と書いてあるではないか。
「4年前に来た時に持ってきたレトルトカレーのパッケージ。」
「いまもまだ、大事に使われてる」
「密閉できて熱に強いって、すごく貴重。洗って干して、調理具にして。だって、直接温泉に漬け込むのって、だめでしょ?いろいろと」
「生分解性プラスチックじゃないプラスチック包装なんて、まだあったんだ」
「毎回、そうじゃないのを選んで持ってきてるの。だってこの町には、ごみじゃないから」
「そっか。袋に入れないで加熱したら、これじゃ硫黄臭くなるもんね」
「でもケイ、前言ってなかった?日本には直接温泉に卵をぶち込むワイルドな料理があった!って」
「ホントなのかな~、あれ。だってあれ、「やってみた」系の記述だったよ?」
私は暗闇の中で、ちょっとはにかんだ。
するとアリアは、私より頭二つほど高い背をグイっとかがめて、耳元で囁く。
「実は卵、持ってきてみたんだけど」
そういってコンテナの下段を開けると、あろうことか、卵が100個ほど梱包されていた。
「だからって100個持ってこなくても」
私はつい、余計なことを口走ってしまった。
「えっ!?だって自分の分だけなかったら、悲しいでしょ?」
そう、アリアはからからと笑った。
これはいい、これは悪いなどといちいち言ってくるAIは、ここにはいない。
未開の植民市にデータサーバーはなく、情報は周回遅れか、“蒸留”されて残った搾りかす。高酸素の大気は、火を使うことすらもが危険とし、電力インフラすらままならない町において、電子は無力である。
この世界の果て、人類の最前線で、私たちは丸裸になりながら、過去を焼き直している。
地下室に籠る湯気がじっとりと、前髪を濡らす。
寒冷な気候に合わせた長そでは、汗にじっとりと沈んだ。
目の前に滴がぽたぽたと垂れはじめるまで、そうはかからなかった。




