トラップ回収
――長く、濃い二泊三日だった。
ロドリゲス爺さんに見送られて、鱗木農園をあとにする。冷たい風が容赦なく頬を撫で、霧を孕んだ湿った空気が、肌をじっとりと湿らせていく。
「ねえケイ、わりと……急がないとまずいかも」
アリアの声が、私の頭上から降ってきた。
「まあ、あれだけの数のトラップを仕掛けたもんね」
アリアが今回の調査のために設置したトラップの総数は、空中を飛ぶ虫を狙う衝突板トラップ(FIT)やマレーズトラップ、そして地表を這う虫を捕らえる落とし穴トラップ(ピットフォールトラップ)を合わせて、三桁には達しているはずだった。
「ボトルに回収するタイプは時間が来れば自動で閉じるようにしてあるから、データの精度としてはシビアじゃないけど、ピットフォールのほうは手作業で急いで回収しないと飛行機に間に合わなくなるわ」
アリアが焦る理由は、調査の定量性の確保というより、もっと物理的な問題だった。
「いや、単純にその数を一人で回収して回ってたら、普通に便を逃すでしょ」
帰りの飛行機の出発時刻は、もうすぐそこまで迫っているはずなのだ。しかしアリアは悪戯っぽく微笑んで耳打ちした。
「平気平気。だって今回の便に乗るの、私たちだけだし。……あ、これ内緒ね」
私は彼女の長い歩幅に置いていかれないよう、ちょこちょこと半ば小走りになりながらついて行く。脚の長さの差というのは、時に残酷なものだ。そうこう思っているうちに、ようやくトラップを仕掛けておいた町の周縁道路が見えてきた。
「ケイはピットフォールをお願い。私はマレーズとFITを畳むから」
アリアは手短に言うと、宿に走って、回収コンテナの入ったカートを引っ張ってきた。
――えーっと、どこにかけたっけ。
そんなことにならないように、落とし穴トラップ((ピットフォールトラップ)
をかけた場所には、赤いフラッグを立てておいたのだった。
落とし穴に、人が落ちないようにするためではない。
あくまで、回収の時に見つけられるようにである。
落とし穴、といってもプラスチックコップを少し埋めただけ。
目印がなければ、簡単に見落としてしまう。
そして、構造が単純なだけに――ずっと昆虫が落ちることになる。
異臭がするので何事かと思ったら、先客が回収を忘れたトラップに大量の絶滅危惧のオサムシが折り重なるように死んでいた――というのは、現代地球のフィールドでわりとよく見る話だ。
そうならないように、数と順番をノートに記録しておき、順番に回収する。
さらに、設置時刻から回収するまでの時刻をトラップの採集物ごとに書き込んでいけば、一時間当たり何が、何匹かかったのかを知ることもできるだろう。
いたいた。
やはり、かかっている。
鎧のような分厚い外骨格に身を包んだ、大きなワレイタムシは、オニグモくらいの大きさがあって、わしわしと音を立ててコップの底を叩いていた。
コップには、ゴキブリ様昆虫の緑色の翅が散らばっている。トラップにかかってから食われたのか、それとも、食べ歩きしているさなか、うっかり落ちてしまったのか。
次のトラップに現れたのは、小さな、サソリだ。
この地方から報告は、まだない。
そもそも、冬には氷点下を遥かに下回るゴンドワナ氷床沿いで、生き残れているということの方が不思議だった。いったい、どうやって冬を越すのだろう?気になってならなかった。
そして、いくつか、特筆すべきほど立派なものは何もかかっていない容器が続いた。
いやーー実際に重要なものは、おそらくこういうものの中に入っているのだけど。
ごく小さな、コムシのようなものなどは、まあまず間違いなくこの時代から新産だろうし、勿論新種だろう。もし仮に人間活動が持ち込んだ時空外来種でも、報文が一本書けることは間違いなし。そういった、静かで地味なものもまた、落とさないように丁寧に、液浸標本にしていった。
次のトラップは――何やらうるさい。
かさかさかさかさかさ。
見てみれば、足が多くて長いものが入っていた。
現在のものそっくりな、ゲジだ。大きな複眼が、きらきらとラメみたいに光を反射した。顔をよく見ると、結構かわいい。ムカデと違って、結構ビジュアル系である。
――あ、いや、それは視覚に頼るビジュアル系ハンターだって意味なんだけど。
これらはどうも、現在の豊かな熱帯を思い起こさせるものがあった。
やはり地熱の影響ではあるのだろうか。
それとも、古いタイプの生き物が今は熱帯にしか残っていないのだろうか。
しかし、観察する余裕も、スケッチする余裕もなかった。
カメラのシャッターを切る時間すらも憚られ、時計をちらちら見ながらひたすら、鼻腔を灼き脳天に響くような固定液に放り込む作業が続く。
トラップから一瞬解放された虫たちが、ひくつきながら沈んでいくのを見るので、精いっぱいであった。
目から出たのが、保存液の粘膜刺激性ゆえか、それ以外のものによるか、わからなかった。
採集とは、しばしばこういうものである。
トラップの山をコンテナに詰め込み、サンプルを鞄いっぱいに詰め込めば、足がずんと、大地に沈み込む気がした。
湯足元から湯気が這い上がる道の向こう。
振り返れば、町の人々が思い思いの服を着て家から出てきて、こちらに向かって大きく手を振っていた。
「みんな、ありがとーー!」
アリアが大きく手を振り返し、満面の笑みを浮かべた。
彼女は見送ってくれる彼ら彼女らの姿をカメラに収めながら、この愛すべき開拓の町を、あらためて愛おしそうに撮り直していた。
ふいに、そのレンズが私のほうを向いた。
不意打ちで向けられたカメラに、つい戸惑いの混じった笑みがこぼれてしまったところを、しっかり撮られていた。
今回は熱帯性要素らしき節足動物を出してみた。
何が出るかに関しては、完全に創作です。
石炭紀の土壌生物、ワレイタムシに著しく偏るです…外骨格が極めて厚いから保存バイアスじゃないかと思います。




