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石炭紀紀行(鱗木SF・改)  作者: 夢幻考路 Powered by IV-7
凍てつく地でも、採集を。
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「苔のむすまで」≪登場古生物: コケ植物≫

湯けむりで、もやのかかった空気の中で。

立ち並ぶ人気のない建物は、まるで幽霊みたいだった。

活気は、ない。

煤けた、かつて真っ白であったであろう外壁は、すっかり灰色になって、曇天の空に溶けていってしまいそうだった。

石畳――ではない、コンクリートブロックの上を踏みしめると、湿った、重く硬い感触が、足の裏に鈍く響いた。

バクテリアマットのへばりついた温泉水路は、音もなく湯気だけをたて、その周囲に生えるものといえば、コケ植物ただそれだけであった。

私は這いつくばって、探す。

コケ植物というのは、配偶体と胞子体からできている。

足元に茂っている、一見草のミニチュアのようなものは、すべて配偶体であるはずだ――この植物が、本当にコケ植物であるのならば。

配偶体というのは、染色体数は半分しかない。

人間では、染色体が半分な細胞は卵と精子しかないから、イメージがつかみにくい。

正しい説明ではないのだが、こんな仮想実験をしてみてほしい。

もし、人間の卵と精子が、受精せずにそのまま育ったら、ということである。

卵から育った“卵女”はと精子から育った“精男”(それぞれ1倍体)は、それぞれ自身の細胞の中から、卵と精子を作る、と考える。

その受精によって、受精卵ができ、男女(それぞれ2倍体)が生まれる、と仮想しよう。

これが、維管束植物における世代交代である。

ここで私が仮想的に、“卵女“とか”精男“と呼んだ存在が雌雄の配偶体(1倍体)で、雄の胞子から育った雄配偶体と、雌の胞子から育った雌配偶体がある。

両者は造卵器、および造精器をもっており、受精して胞子体ができる。

コケ植物の場合、配偶体が非常によく発達していて、胞子体は胞子を作るための“支え“かのように退化して雌配偶体に寄生している。


ひと握りのコケのかたまりでも、拡大してみると樹海のようだ。

見ていると、時折、それが少し動いた。

葉の上の小さな点のようなものだったり、ときには、コケそのものがごそごそと動いたり。

じっと覗けば、そこを行く、さまざまな節足動物がいる。

トビムシや、ヤスデといったものたちは、オルドビス紀からシルル紀に陸上植物が上陸してからの、幼馴染みたいなものだ。

むしろ彼らからすれば、コケ植物というのは最近やってきた、ヘンなやつら、と思われているのかもしれない。

配偶体探しだけしているわけにもいかないので、見かけたものは片っ端から吸虫管で回収して回った。

温泉の影響が強いから数は少ないかと思いきや、そこそこな種と量がいるのは、ちょっと驚きだった。さらに――すべてが新種の可能性が高い。

この地域から知られる微小な土壌性節足動物の化石は、皆無だ。

勿論、そんな地味なものを調べて回っている先輩研究者も、おそらくいないはずである。


さて――そうやって、目を凝らしていると、ようやく、見つけた。

コケ植物の茂みの中から、ぴょんぴょんと棒状のものが突き出している。

恐らくこれが、誰も見たことがない、この時代なりのコケ植物の胞子体なのだろう。

マッチ棒のような形状で、すこし、ある種のキノコにも似ている。

いままで見てきた胞子体の中でも、まったく同じものを見たことはなかった。

カメラを撮りつつ、這いつくばりながら撮影していく。


さて、ようやく一種めだ。

ここに見られるコケ植物には、葉が細く鋭くとがったもの、より丸みを帯びたもの、さらに、葉がねじれるようなもの、の少なくとも3種が居そうだ。

それぞれ胞子体と配偶体、できれば雌雄のセットが欲しいのである。


さて、それぞれがいったい何の仲間に近縁なのかは、一見したところではよくわからない。現在のコケ植物においてすら、外見からの種同定は困難を極める。

セン類なのかタイ類なのかすら、うっかりしていると間違いそうになるくらいだ。

非常に恥ずかしいことだが――種レベルともなると、研究室で遺伝子を調べてようやく、ということが多い。

さらに、ここに生えているコケ植物が本当に石炭紀のものなのかどうかも、調べられる必要があるだろう。

そしてなにせ、ここには人間が植民している。

何か資材に引っ付いてきたコケ植物が生えてしまった、としても、見た目上ではほとんど気づきようはない。

なにせたとえば、ギンゴケは南極基地でも見つかるという。

コケ植物のフロンティア精神はすさまじく、たとえ時空旅行に出かけたとしても、人がいる限りそこには可能性があり続ける。


そんな危険性を踏まえたうえでも、コケ植物との出会いという物自体が、私には心底嬉しくてならなかった。

なにせ、石炭紀におけるコケ植物は、もしかするとご当地限定かもしれないからだ。

コケ植物というのはなんとなく、とても原始的なものだと思われがちだ。

しかしながらその化石記録はおそろしく少なく、中生代以前の化石記録というだけでもう激減する。石炭紀のユーラメリカ熱帯域の泥炭林やコールボール(植物をときに細胞内小器官レベルまで異常に良く保存する、石炭紀~ペルム紀にしか見られない特殊なノジュール)は、おそらくすべての時代の植物の中でもっともよく研究されている。それにもかかわらず、コケ植物というものは見つかったことがいまだにない。

どうも、当時の熱帯雨林にはコケという概念そのものがなかったかもしれないのだ。


そのかわりに、石炭紀~ペルム紀のコケ植物の化石は南米パラナ盆地のDwykeaやアルゼンチンのMuscitesをはじめとして、主に極地のゴンドワナ氷床沿いから産出している。どれも現在のセン類にそっくりで、しかも細かい情報を保存していない。

しかし、たしかにコケがいて、寒冷なゴンドワナ氷床沿いのツンドラを構成する重要な要素であった、ということがうかがえる。

もしかするとだが――コケの多様性もまた、氷河期のたまものだったのかもしれないし、化石記録のあまりの少なさから見て、現在もまた、新生代の寒冷化や、更新世氷河期の影響でコケが身近な世界なのかもしれない。

そういうことから考えると、いま訪れている石炭紀ゴンドワナでのコケ植物の発見と観察は、いくら現在のものそっくりでも極めて価値あるものなのだ。

地球のどこにでも苔のむすまでには、思ったより、長い時間がかかったのかもしれない。

――それにしても、2種目と3種目の胞子体、見つからないな…

あがいているうちに、あるものを見つけた。

苔の合間から屹立する、鮮やかな緑色の、Y。

二分岐を繰り返す、えらく単純なその植物は、目が慣れていなさ過ぎて、むしろ人工物かのように思えてならなかった。

――なんだこれ、時代を間違えたクックソニアか?

私はつい、そんなことを思ってしまった。

しかしいまは石炭紀、クックソニアの時代から、もう1億年ほどが経っている。


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