夜明け
明け方の赤紫色の空が、空をかすめ、ゆく雲が青紫の帯となって、横切っていく。
寝袋にくるまる。
ライトトラップは、ただ静まり返っていた。
日付の変わる22時45分に集まった虫を全て回収してからというものの、新規の来客はまるでなかった。
低温ゆえか。
もし、これが熱帯域であれば、明け方のピークに沸き、数刻の仮眠をとるなど許されざる失態であったであろう。
先ほど捕獲したMegarachneが封をしたバケツの中でガサガサと騒いでいるのがやけに耳についた。
寝る時にパッと眠れるというのはなんと素晴らしい才能だろう、アリアは5秒とたたず、すっかり寝静まっている。
眉毛に霜がおりそうなくらいに凍てつく空気、赤みを帯びつつある、紫色の雲。そこに、煙突みたいに、吐息が白く立ち消えていく。
のであろうか、である。思われる。
私の頭の中では、そんな文言がくるくると巡って、ただ目をつぶっていた。あと、話し過ぎて喉の奥がちょっと、痛くなった。
それでも、全く眠らないよりは遥かにマシである。
日がすっかりのぼった頃、物音がした。
目を開けるとライトトラップはすっかり片付けられていて、アリアは出発の準備を整えていた。
寝袋を出ると、つんとした寒さと共に、日の照りつけがシャワシャワと、肌を痺れさせるような感覚である。
さっと荷物をまとめると、今日の、ひとつめの観察へと向かう。
この町に滞在するのは、今日が最終日だ。
飛行機で、ひとっ飛びして、次に向かうのは熱帯の海である。
ただその前に、ロドリゲス氏の鱗木農園を取材して、かけておいた大量のトラップを回収せねばなるまい。――両立、できるのか?
そんな疑念が、ふと浮かんだ。
ボロ宿に戻ると、入り口の前に人影があった。
二人だ。
一人は、私たちの戻りを待っていた、リリィだ。
しかしもう一人、老人がいる。
「ロドリゲスさんよね、あってる?」
そう、アリアに聞かれたけれど、私は人を見分けるのが得意ではない。
「たぶん、そうだと思う」
としか言えなかった。
白髪の老人ではあるが、かくしゃくとして、身のこなしは軽かった。
「昨日はとても面白かった。老体ながらもまだまだ学ばねばなぁと、そう思わされましたなぁ」
そう、ロドリゲス氏は手を差し出した。
土の香りがした。
「いえいえ、こちらこそ。まさか古生代の植物を、実際に育てている人がいらっしゃるとは」
「他にもやってる奴はいてな、そいつらは大きい粒だけタネみたいに撒けば良い、つうんだがどうも上手くいかん、同じようなもんだと思って何度も苗床をダメにしてきた、バカだったなぁ」
と、ロドリゲス氏はがらがら、と渇いた笑いをして、咳払いした。
――というのも、氏は大胞子を種子かのように扱って、律儀にも大胞子だけを苗床に蒔いて、いつまでたっても芽が出ないと嘆いていたのであった。
昨日聞いたときは、大胞子をその大きさから種子と勘違いして蒔いたか、小胞子を単に未熟な大胞子と勘違いしたのか、と思っていたが――
「他にやってる…それはその、熱帯の方です?」
「おうよ。さすが専門家、よく知っていらっしゃる。彼らの取り組みも、もうご存知だったのかね」
「まったくの初耳で。ただ、熱帯のリンボク類なら、大胞子が樹上で"受粉"したりしたようですから」
「なるほど、なるほど! そういう理屈か。彼らにも連絡を打っておかにゃならんなぁ。……あそこの下っ端の連中なら、昨日からたまたまこの町に来とるがね。あんたたちと、同じ宿じゃろ」
…なるほど。
露天風呂で出くわした2人か。
結局――私の体を気味悪がられるだけで、ほとんど一言も交わせていなかったっけ。
「あまりいい印象は、抱かれていなかったような気がしますね、その…」
「下っ端はそんなもんだろうな。生き物になんて欠片も興味なかろう。所詮は、ただのエンジン屋の使い走りよ」
「その…エンジン屋がなぜ鱗木なんかを?」
「そりゃ燃料にする、らしいが、何をどうやったらアレが燃料になるのかねぇ。前に聞いたときゃ、「そりゃ社外秘だな」ってなぁ、ははは」
「じゃあ取材しても何も出ないんじゃ」
「それがあの胡散臭い社長、今年中には発表するから楽しみにしてくれと連絡をよこしてきた。申し込んでみる価値はあるんでねぇの」
すると、横で聞いていたアリアが素早く話に割り込んだ。
「その会社って、首都のパラーにあるんですか? ってなると、私たちの旅程的に最終日にしか訪問のスケジュールを置けないわ。その方向で、アポの話を通していただくことってできます?」
「あいつのことだ、メディアの取材と聞けばむしろ喜んで出向いてきて、自慢げに演説するだろうさ。……いいか? 胡散臭いやつだから、口車を真に受けんじゃねぇぞ? お前さんたち、容赦なく理詰めで詰問しそうだからな」
「……気をつけます」
私が苦笑すると、ロドリゲス氏はからからと大口を開けて笑った。
「それにしてもですなぁ!同じ鱗木というてもそんなに違うとは思ってなかったですわい!」
私たちがそんな談笑をしていると、リリィが私たちの重い荷物を持ち上げながら言った。
「機材の片づけとかは私がやっておくから、二人は農園の取材、楽しんできて」
彼女はそう言い残して、一人で宿へと戻ってしまった。
専属ガイドとして雇われているのだから仕方ない、という面もあるのかもしれない。しかし、基本すべてを自分で行う過酷な一人旅しかしてこなかった私にとっては、何から何まで彼女に世話を焼いてもらっているような気がして、ひどく居心地が悪く、気まずかった。
そうこう歩いているうちに、居住区の街並みから外れた方向へと向かう、一本の細い土の道が見えてきた。
入り口には、『Keep Out』と書かれた古びたロープが張られている。
「おととい、この道の向こう側は見られていないので、今日は何が出るか本当に楽しみです」
私が素直な期待を白状すると、ロドリゲス氏は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「前もって聞いてくりゃあ、開けておいたんですがな。ただいかんせん、外から来た旅人さんがどういう輩なのか、知る手段がないものですからな。荒らされちゃあ敵わん」
――たしかに、得体の知れないよそ者として警戒されてもごもっともだ。
「いえいえ、特別に開けておいてほしかったとかじゃなくて、純粋にこの先の生態系が楽しみなんですよ」
「そうかいそうかい。んじゃ、わしの畑の雑草でも虫でも、なんでも好きなだけ見てってくれや」
道はしばらく続いていた。
ノトラコプテリス(Nothorhacopteris)を中心にしたシダ種子植物の、どこかウルシの若木に似た低木林がしばらく続くと、今度はコルダイテス類の、昨日湿原で見たものとは異なる、より葉が細長いものがポツポツと目につき始めた。
「これも……お爺さんが植えているもので?」
「いやいや、これは昔からここに元々生えてる木だけどよ。他にはたしかに、もうこの辺りには残ってない気がするわなぁ」
私が一本の枝を手に取って観察してみると、幅広の葉がつく部分と、針状の細い葉がつく部分が、茎に沿って交互に段々のようになっている。
「これは……厳しい冬の間も、葉が残るんですか?」
「あぁ。冬の葉は針のよう、夏の葉はベルトのように広くなる。昔はここらにも沢山あったんだがな、家の建材にするのに材質が良いってんで乱伐されて、わしが個人的に保護しとるこの区画にしか、もう残っとらんのじゃよ」
梢を見上げ、特徴的な雌雄の穂を確認すると、やはりコルダイテスの類の一種であった。
それは昨日湿原で同定したノエゲラティオプシスとは明らかに別の種であったが――それに相応する学名が何なのか、私の記憶の引き出しからはすぐには出てこなかった。




