知の灯 1 ー何が、見えてるの?ー
紅色の空が澄み渡った赤紫色へと変わり、やがてゆっくりと青黒く沈んでいく。
港の水面は青、赤、紫が複雑に入り混じり、紺色に染まりゆく山々を背にして、天然の巨大なタペストリーと化していた。
空をゆくは、羽虫の群飛。
はたはたと体を上下に揺らしながら、水面すれすれを無数に飛んでいく。
そして水面には、同心円状の波紋が、大きな雨滴が落ちたみたいにあちこちで広がっていた。
――ライズか。
三億年後の現代地球の渓流で、カワマスが羽化するカゲロウを追い回して水面を割っているのと、まったく同じ構図であった。
港のコンクリートに支柱が組まれ、白い布がぱっと広げられる。
白布の前に機材をセッティングして……夜のライトトラップの、始まりだ。
陽が落ちていくのとは逆向きに、私たちの前に小さな太陽が灯った。
「本物の昆虫用ランプなんて、初めて使ったよ。」
私はその強烈な光を前に、ついつい貧乏くさい本音を呟いてしまった。
大学時代は予算がなくて、市販の安価な電撃殺虫器を買ってきては電熱線を自力で外し、無理やり採集灯を自作していたからだ。
「ラボの予算に、感謝!」
アリアはぐっと親指を立てて笑った。
「たかがランプ一球なのにこの値段?って感じだよね。この電球一つで、地球での私の日収の三日分は飛ぶよ」
私がため息交じりに言うと、アリアは両腕を目一杯に振り上げてみせた。
「うちのラボに来れば、こんなの使いたい放題よ! ねぇ、ケイもうちに来ない?」
紺色の空には早くも星が瞬き始め、地上で太陽みたいに光るHIDランプの灯りには、さっそく無数の虫たちが花吹雪みたいに飛び交って集まってきていた。
ランプを背にしたアリアの表情は、強烈な逆光のせいでよく見えなかったけれど――そのシルエットは、ひどく眩しかった。
「悪くは……ないかも」
「でしょ! いろんな時代へ行って、新種採集して、名前をつけて……!」
アリアの大きな瞳が、暗がりの中でキラキラと眩しく光っていて――私は、つい目を背けてしまった。
「そう……だね」
「ケイ、私にまた同じことを言わせる気?」
「また?」
「Waste of talent. そんな言い訳ばっかりして、いつまでも現代の地球で腐ってて、いいってわけ?」
アリアの声が、一段低くなった。
地球を出発する前を思い出した。あの時の、鬼気迫るような、叱責にも似た熱烈な誘いを。
思い返せば、あの時すでに私に「この旅に行かない」という選択肢は用意されていなかったのだ。
でも――それ以上の選択肢なんて地球にはなかったし、この旅に来て、色々な目に遭ったけれど。
――後悔はしていない。
「そうだね。考えてみるよ」
私はつい、そう口走ってしまった。
その言葉の重さや、相手に与えるニュアンスを、深く考えもしないまま。
「ほんと!?ね、前向いて!私、ずっと思ってたの、ケイとなら、世界をとれるって!ね、テーマは何やりたい?」
「…世界、ねぇ。」
「そう、世界!本気で、とりにいかない?うちで」
ただでさえ大きなアリアの影がさらに大きくなって、私をすっぽりと包み込んでしまいそうだった。
しかし、自分でも不思議なくらい、私はその場から動かなかった。後ずさりもしなかった。
「そんなのは、アレクサンダーにでもやらせときゃいいんだよ」
照れ隠しに、ひどく乾いた言葉が口から漏れた。
するとアリアは、食い入るように私の顔を覗き込んできた。
「なにそのアレクサンダーって。現代の有名な研究者?」
私は少し目を逸らしつつ、
「紀元前四世紀の、世界征服が大好きなマケドニアの王様」
と、ぼそぼそと棒読みで答えた。
「いやービックリした。てっきり、ケイの同業のライバルの話かと思った〜。そんな凄いやつが地球にいるの?って」
――ギャグが通じないときって、つらいよ。
しかしアリアは、そんな私の内心のダメージなどお構いなしに畳み掛けてくる。
「恐竜の調査してるとさ、いろんな虫とか、葉っぱとか…みんな、今と違ってて、時代によっても違ってて。もし――見えたら、どんなに面白いだろうって。」
「そう…だね。」
アリアが一歩、こちらへ近づいた。
強烈なライトの光が彼女の長身で遮られ、私は完全に彼女の影の中に落ちた。
眩しさが消え、間近に迫った琥珀色の瞳だけが、暗闇の中で熱を帯びて輝いている。
「ねぇ、ケイには……何が見えてるの?」
その低い声が、ぐっと糖度を増しているのを感じた。
哲学回です。1/4
*作中の登場人物が正しいことを言っている保証はまるでないことに留意すること。




