最果てアフタヌーンティー
がらがらと宿の扉を開けると、背後から喧噪がどっと押し寄せてきた。
泥だらけの子供たちの群れ、笑い声、そして土の匂い。その真ん中に揉みくちゃにされながら、私は巨大なリュックを背負って帰還した。
埃っぽいロビーに目を向けると、そこには似つかわしくない華やかな香りが漂っていた。
アリアとリリィ、そしてフロントの「おやっさん」までもが、立派なティーセットを囲んで優雅にお茶の時間を楽しんでいるところだった。
「これ……もらっちゃった。生で食べられる……んだって」
私は背負っていた大根より一回り太いくらいの奇妙な丸太――ミニ鱗木の幹を、どすんと床に下ろした。
「すごいんだよ! なんでも知ってるの!」
「ほら、これの名前も教えてくれた!」
「地球のこととか、宇宙の話とか、ぜ〜んぶ!」
子供たちの無邪気な賞賛が、次から次へと私に降り注ぐ。
そのたびに、私の顔色はますます赤くなっていった。アリアやリリィといった大人たちにまじまじと見つめられながら褒めそやされるのは、どうにも居心地が悪くて仕方がない。小さく肩をすくめ、引きつった笑顔のまま、目線は逃げ場を探すように宙を彷徨っていた。穴があったら入りたい、とはまさにこのことだ。
アリアが身をかがめ、子供たちと目線を合わせた。
「ね、私にも教えて? これ、どうやって食べるの?」
「切って、皮剥いて、それからパクっと!」
「今食べても、いい?」
「うん!」
「そ、そんな高級品、ほんとに貰っていいの!?」
ティーカップを持ったまま、リリィが目をぱちくりさせていた。
私は気まずそうに弁明する。
「……なんか、すごく高級品らしいから最初は断って気が引けたんだけど……」
「そりゃあ、もう、すっごい高級品よ!」
リリィが思わず声を上げた。
「一本で、この宿代の一週間分くらいにはなるかもしれないわ」
アリアが目を丸くする。
「えっ、なんでそんなに?」
「生えてるの、巨大な沼の奥地なのよ。地元の人でもそう簡単には入れない危険な場所。しかも、育つのに何年もかかるの。こうして生で食べられる若い株は、特に高級品よ」
リリィはさらりと説明してから、ふと子供たちに視線を向けた。
「ねえ……あなたたち、これを食べたことがあるの?」
子供たちは一斉に声を上げる。
「うん!」
「じっちゃんが作った!」
「畑仕事のときに、みんなでちょっとずつ食べた!」
「そのじっちゃんって?」
「ロドリゲスさんだよ、知らないの?」
リリィは内心、目を丸くしているようだった。ロドリゲス爺さん。たしかに、少し変わった発明家として町では有名だが、いつの間に沼地で古代植物の農業なんて始めていたのだろう、と。
一方、ティーテーブルの端では早くも子供たちによる切り分けが始まっていた。
鱗木の幹を真っ二つに割る。
下の方の幹は周皮が分厚く硬化していて、包丁の刃がまったく入らない。
「根本は煮て食べられるけど、すっごく酸っぱいよ! 先っぽの方が甘くておいしい!」
一人の子供が言うと、他の子供たちも「このあたり!」と上のほうを指差した。
私は子供たちの横にしゃがみ込み、手振りを交えながら口を開く。
大人相手の世間話はてんで駄目だが、純粋な好奇心を向けてくる子供の相手なら、いくらかマシに立ち回れる。
「葉っぱの形が変わるところの十センチ下で切って、その上が一番美味しいって、ロドリゲスさんが言ってたよ」
「ほうしのう、っていうんだっけ?」一人の子供が、私の顔を見て首を傾げた。
「そう。葉っぱが短くなってる部分があるよね? その付け根をめくると、そこに丸いものがある。これが胞子嚢だよ。中に詰まってるのが、胞子」
私はナイフの先でそっとめくって見せた。
「胞子って?」と他の子供が質問する。
私は少し考えてから、できるだけ噛み砕いて答える。
「そうだね、お花のタネみたいなものだね。でも、雄と雌があるんだ。大きい胞子が雌で、小さい胞子が雄。普通のタネと違って、雄と雌を一緒に泥に蒔かないと、新しい芽が出ないんだよ」
「じっちゃん、がっくりしてたよね。だから今まで種苗が作れなかったんだ……って」
「小さい雄の胞子は、未熟な雌の胞子とすごく紛らわしいからね。お爺さんが間違えちゃうのも無理もないよ」
私が深く頷くと、「なんで葉っぱの形が違うの?」と別の子供が聞いてきた。
「下の方の長い葉っぱは、光を受けて光合成をするためのものなんだよ。短いより、細長い方がたくさん光を受けられるよね?」
「じゃあ、もっと幅広にしたら?」と子供が鋭い疑問を呈した。
「それがね、この仲間の植物は、葉っぱの中に芯になる軸(葉脈)が一本しか作れないんだよ。それなのに葉っぱだけを横に広げたら、どうなると思う?」
「折れる!」子供たちが口々に答える。
「その通り!」私は笑いながら頷いた。
「上の短い葉っぱは、大切な胞子嚢をガードするために短く、そして幅広になってるんだよね」
「鱗みたい」と子供の一人が感心して言った。
「そう。胞子嚢を抱きかかえるように葉っぱが立ち上がり、九十度上に向かって曲がって、しっかりガードしてるんだ」
「へえー、虫に食べられちゃわないように、かな?」
「寒さから守るんじゃない?」
「うん、どっちも正解かもしれないね。あとはこの構造、もともとは熟した葉っぱごとポロっと外れて、胞子嚢を乗せたまま笹船みたいに水の上を漂うんじゃないかな」
石炭紀の熱帯林に生えていた巨大なレピドデンドロンの場合は、そうやって水流で分布を広げる性質がある。この極地の未記載種も、もしかしたらそうかもしれない。
「あっ! 雨がたくさん降って地面がビチャビチャになると発芽が始まるって、じっちゃんも言ってた!」
謎が解けたように、子供たちの声が弾んだ。
柵状に切られたリンボク類が、優雅なティーセットの隣の皿に並ぶさまは、なんともシュールだった。
まさか古代の鱗木を食うことになるなんて、と皿の上を見ながら私はあらためて思う。
緑のうろこ状の葉枕で覆われた分厚い周皮は、まるでパイナップルのようだ。
「皮は食べるとおなか壊すから、ナイフで剥いてね」
「真ん中の芯をくわえて、パクって! 硬い筋は芯にくっつけて残して」
子供たちの言う通り、食べてみる。
中心には硬い芯がある。この芯の部分だけが、鱗木の本当の木質部だ。
維管束はここに集中しており、髄を中心にして主に仮道管からなる木部が柱状の芯を為している。芯の断面を見ると、仮道管の直径の大きさに驚かされる。肉眼でも穴が開いているのが容易に見て取れるほどだ。道管の間違いじゃないか、と思ってしまう。(イワヒバには道管があるから、あり得ない話ではないが)。
その芯と周皮の間、つまり「一次皮層」と呼ばれる部分が、幹の中で最も広い体積を占めていた。
ここが柔らかく、そして――可食部である。
この層は、空気をよく含んでいてふかふかしている。
芯から外側の葉へと放射状に伸びる維管束の筋を除けば、食感や見た目はまるで瑞々しい果物のようだった。
そして、口に含む。
……濃厚な甘さと、爽やかな酸味。
初めて食べるはずなのに、どこかに強烈な既視感がある。
――これは、あれに似ている。
グラパラリーフ(Graptopetalum paraguayense)という、現代の多肉植物系のマイナーな野菜がある。その味は、まるで甘みを削除した青リンゴだ。少し砂糖や蜜をかけるとよく合って、ちょっとしたデザートになる。
この鱗木の食感と味は、まさに「蜜をたっぷり掛けた時のグラパラリーフ」にそっくりなのだ。
この甘さの理由は、すぐに察しがついた。
それは――凍結に耐えるためだ。
細胞内に糖を蓄積して凝固点を下げ、不凍液として機能させているのだ。あの巨大な仮道管では、内部が凍結すればあっという間に塞栓が発生して枯れてしまうだろう。氷河期に隣接する極地では、夏と言えどもいつ何時凍るかわからない。
そして、口に広がるこの独特な酸味――植物生理学的には、それこそがより重要だった。
おそらく、この一次皮層にはリンゴ酸などの有機酸として、大量の二酸化炭素が蓄えられている。
二酸化炭素が極端に不足し、逆に酸素が過剰な石炭紀の大気では、通常の光合成では光呼吸ばかりが優位になってしまい、成長効率が著しく低下する。
この植物は、そうした過酷な環境を克服するために――CAM(ベンケイソウ型有機酸代謝)型光合成というアプローチを取っているのだ。
二十一世紀に提唱された仮説は、どうやら当たっていそうだ。
現代では、砂漠や水中の植物に見られる光合成の形態である。乾燥地では昼間に気孔を開くと水分が失われ、水中では二酸化炭素の拡散速度が遅すぎて効率的な光合成ができない。
だからこそ、彼らは夜間のうちに気孔を開いて二酸化炭素を吸収し、リンゴ酸に変えて体内に蓄える。昼間はその蓄えた酸を使って光合成を進め、成長する。
この化学プロセスの副産物として、植物体に独特の「酸味」が生まれるのだ。グラパラリーフが酸っぱいのと同じ理屈である。
リンボク類は、酸素濃度が高すぎ、二酸化炭素が少なすぎる環境で効率よく光合成するために、このシステムを使っていたのかもしれない、と言われてはいた。しかし化石の同位体比の解析だけでは肯定的な証拠がなかなか得られず、実際に生きた株を採集、栽培して調べられねば、と密かに思っていたテーマであった。
ビチャビチャした沼地に根を張り、土壌の分解過程で発生した二酸化炭素を根から一次皮層に蓄え、転流させながら光合成効率を保つのではなかろうか。そして、部位によって味が違うのは、凍結耐性を持たせたい頂芽(生長点)に糖分が集中するため、相対的に酸味が抑えられて甘くなるからだろう。
味わいながら歯でしごくと、維管束の硬い筋がずるりと取れた。
自転車のスポークのように中心の木部から突出し、一次皮層を貫いて表面の葉へと繋がっている組織だ。
そして綺麗に剥き残された、分厚い皮。
二次皮層で構成されるこの外装は、しなやかだが、強く曲げても全然折れない。板バネのような異常な剛強さを持っていた。リンボク以外の植物には見られない、特殊な高分子ポリマーで構成されているらしいという説もある。
「皮は絶対食べるなって」
子供が言うのも当然だ。数億年後の二十一世紀まで石炭として形を残すくらいなのだから。もちろん人間ごときの胃酸に消化できるはずがない。
残ったパイナップルのような皮が、テーブルの上に置かれている。
「ケイ、この植物、結局……何なの?」アリアが尋ねてきた。
「それがね……ミニ鱗木のブンブデンドロンによく似てるんだけど、サイズが規格外に大きすぎるんだよ」
アリアが眉をひそめる。
「じゃあ、ブラジロデンドロン(Brasilodendron)?」
「それも違う。ブラジロデンドロンは……こっちのほうだね」
私はそう言って、巨大なリュックサックの中からもう一本の丸太を取り出した。リュックの底には、さらに三本ほどの重たいサンプルが転がっている。
「ちょっと、そんなに貰ってきたの?」
「もしかすると全くの未記載種か、もしくはロドリゲスさんの農業の条件が良くて巨大化した栽培品種なのか……。そんな話をしたら、爺さんが面白がって、研究の標本にどうぞって」
一方その頃、テーブルでは切り分けられたおやつの消費がどんどん進んでいた。
子供たちの手際は見事なものだ。皮をすたすたと切り落として、あっという間に果肉の柵にしてしまう。
「まさか、古代の植物が生でこんなに美味しく食べられるなんて……」
リリィは感嘆しながら、大切そうに一切れずつ口に運んでいる。
アリアは動画を撮影しながらも、慣れない鱗木の構造に苦戦していた。
「うまっ!」
「もっと食べていいの!?」
子供たちは、まるでおやつのフルーツバイキングのような勢いでぱくぱくと平らげていく。
これはいけない、と私は内心で焦った。
学術的に極めて貴重な生体サンプルが、目を離したらただのデザートとして消滅してしまう。
私は慌てて、解剖と保存用に絶対必要な分だけの丸太を手元に確保し、リュックの奥深くへ押し込んだ。
この旅を振り返って旅行記をまとめるにあたり、さすがに何もかもを完璧に覚えているわけにはいかないという事実を痛感させられた。
記憶を補完するため、私はアリアが撮りためていた大量の動画データの中から、当時の情景や使えるシーンをピックアップして見返している。そのたび、自分の覚え違いや、すっかり忘れてしまっていた些細な出来事の多さに気づかされる。
しかし、他人の回しっぱなしの映像記録を漁っていると、時に変なものに出くわすこともある。
――見てよかったのだろうか、これ。というような代物に。
その動画ファイルのタイムスタンプは、私が一人で湿原の奥へ赴き、子供たちに捕まってあの「巨大なミニ鱗木」を貰う少し前の時間帯だった。
カメラは宿のロビーのテーブルの端に置かれ、回しっぱなしになっていたらしい。というか、アリアは生態記録とVlogのために、ほぼ二十四時間カメラを回しているのだ。
『収録、おっつかれさまーっ! ほんっとうにありがとう! ──はいこれ! 本物の紅茶ね! 前のリクエスト!』
画面の中でアリアが声を張り上げると、ボロ宿の天井から埃がはらりと落ちたのが映像越しにもわかった。
『まずは道具からね! 割れ物だから、けっこう梱包が大変だったのよ〜』
アリアが手際よく梱包を解くと、立派なティーセットが姿を現した。埃がかったこの宿には似つかわしくない、色艶の良いティーカップが四客に、ティーポットが一つ。
『ねぇねぇ、このポット包んでるやつ、セーターみたい! これ何??』
『ティーコージーっていうの。お茶が冷めないように包むカバーね。ま、見た目も役目もセーターみたいなもんよ』
アリアが魔法瓶のふたを開けると、白い湯気がふっと立ち上る。それをティーポットに注ぐと、画面越しにも華やかな香りが漂ってきそうな気がした。
『いい香り……! これ、なんて言えばいいのかな。甘くて、ちょっと焦げたような……香水みたい。でも、もっと優しくてあったかい』
『地球ではそれ、花の香りみたい、って言うの。でも、特別な香りって思ってくれればいいかなって!』
『もしかして……香水の香りも、紅茶から来てるの??』
リリィが興味津々に身を乗り出している。
『いやいや、香水が花の香りを模してるの! あなたの名前も、花の名前なのよ。大きな白い花がふわっと咲いて、甘い香りが広がって、でも静かで──それでいて、しなやかで倒れない。そんな強くて美しい花』
『花って、こんなに綺麗な香りなのね……。絵でしか知らなかった。花も、私の名前も』
リリィの声が少し震えていた。
無理もない。この石炭紀の植民市の人々は、本物の花というものを知らないのだ。もちろん、フルーツという甘い概念もない。
『さ、注ぐわよ』
琥珀色の液体が、三つのティーカップを満たしていく。
『ミルクとお砂糖は、お好みで!』
『ミルクって……ほんとに、牛の……あれ? え、それって……』
リリィはぷつんと口をつぐんで、自分の胸のあたりを覗き込んだ。画面の中でもわかるくらい、顔が真っ赤になっている。
『あれって……言い方! ミルクはミルク、牛の乳に決まってるでしょ?』
酪農もない環境で育てば、そう勘違いするのも仕方がないのかもしれない。私はモニターの前で少し吹き出しそうになった。
映像の中では、フロントにいたおやっさんもカップを受け取っていた。
『懐かしいねぇ……』と目を細めるおやっさんに、リリィが『おやっさん、地球にいた頃は紅茶党だったんだって』とそっと耳打ちしている。
テーブルの上のカップは一つ、空のままだ。
『ケイは来ないって。少しでも時間があれば、採集したいらしいの』
アリアの言葉に、私は少し申し訳ない気分になった。
画面の中でリリィが紅茶を一口含むと、口元がふっと緩んだ。
『なにこれ……すごい……。香りが、口のなかでふわーって広がって……飲んでるのに、吸い込んでるみたい』
『これすごい! 渋くないし、鉄っぽくもないし、酸っぱくもない!』
――それ、単に普段飲んでる泥炭コーヒーの品質問題では。と画面に向かってツッコミそうになったが、黙って見守ることにする。
『そうそう、お茶菓子も持ってきたの! ビスケットとマカロンくらいだけど……いる?』
リリィがそっとビスケットを手に取る。指先で割ると、カメラのマイクがかすかにサクッという音を拾った。
一片を口に運んだ瞬間、リリィの目がぱっと見開かれる。
『なにこれ……すごい……! 香ばしさが口いっぱいに広がって……しかも、この歯ざわり! パリパリって……どうやったら、こんな風になるの?』
『たぶん、ココナッツ? それか……ショートニングってやつかも』
サクッ、という軽快な音が再び響く。
『なんか、音までおいしいって感じ! ねえ、こっちでも作れないかな? こんな食べ物があるなんて知ったら、みんなびっくりするわ!』
『こっちの食べ物って、どういう味だと思ってたの?』
『……団子の、小さくておしゃれなやつ、みたいな……?』
リリィの照れくさそうな答えに、アリアが苦笑している。
『こっちの団子って、味ないもんね……味のないタピオカ、みたいな』
カメラは固定されたままだが、二人のくつろいだ空気が画面から伝わってくる。
『今日の撮影、ほんと楽しかった』とリリィが微笑む。
『私、アフタヌーンティーって憧れだったの。映画や本の中に出てくる、遠い星の、遠いお話……って感じ。いつかできたらな、って』
『じゃあ、リリィにとっても、とっておきの旅行?』
『ええ』
紅茶の香りが静かにたゆたうような、穏やかな時間が流れていた。
私はそろそろ再生を止めて別のファイルに移ろうかと思ったが、映像の中のリリィがふと、いつもより少しトーンを落とした声で尋ねたのが聞こえて、クリックしようとした指が止まった。
『……なんか、アリアっていま、ちょっと無理してるように思うの。……気のせい?』
アリアはカップを口元に運び、少しだけ笑った。
『まあね。年々立場も責任も重くなってるし。ラボのこと、論文、配信……学生の頃みたいにはいかないのよ、まったく』
『そっかぁ。大人になった、ってことね。配信ももう、ビジネスよね?』
『もうビジネスよ、完全に。動画一本撮るだけで、旅に何回か出られるくらいの金が動くようになっちゃった。もう下手なこともできないってプレッシャーだし、ボスも最近、研究室に人が集まるようなバズる動画を撮れー!って圧力かけてくるし。やってらんないわよ』
アリアの愚痴に、私は少しハッとした。
日頃の彼女の豪快な立ち振る舞いの裏に、そんな重圧があったとは。
『……お疲れ様。でも、今のアリアは、ちゃんと昔のアリアに見えるわ』
『そ! リフレッシュできたし、リリィと話してると昔を思い出せるみたいで』
リリィはカップを両手で抱えたまま、目を逸らして、ひと呼吸置いた。
『……アリア、ケイさんのこと……どう思ってるの?』
心臓が、どくっと跳ねた。
私は慌てて端末を閉じようとしたが、指がうまく動かず、画面の中の会話は無慈悲に続いていく。
アリアはすぐには答えず、紅茶をそっと一口飲んだ。
口元に、かすかな笑みが浮かんでいる。
『……どうって、どういうこと?』
『だってアリア、ずっと様子が不安定だったのに。この宿に来たとたん、急に……昔のアリアに戻った気がしたの。ちょうど、ケイさんと離れた、その時から』
アリアはカップの縁にそっと指を添えた。返事は遅かった。
『そりゃあ、まあ……意識は、しないとは言えないよね』
『優秀な後輩ってこと? それとも……そういう、意味?』
『──ねぇ、ケイって、何歳なの?』
『えっ?』
唐突なリリィの質問に、アリアは吹き出しそうになるのを堪えてカップを置いた。
『大学で知り合ったのよ。同級生』
『えっ、大学!? 飛び級どころの話じゃないでしょ!?』
『身分証を提示してるのに、アルコールを買ったら通報されちゃったよって、何度も泣きつかれたわ』
『……もしかしてだけど……まさか、年上?』
『うん。リリィよりたぶん二つか三つ上。びっくりでしょ?』
画面の前の私は、頭を抱えたくなっていた。
やめてくれ。
『うっそ……でも、あの博識っぷりなら納得。大学の先生とか、そういう人でしょ?』
『シーッ。それ、地雷なの。年齢よりこっちのほうがずっと根深いから』
『えっ、じゃあ……学者さんですらないの?』
『本人は「私は学者なんて高尚なもんじゃない、そのなり損ないだ」って言うわね。学問じゃ食ってけないって割り切ったくせに、その選択をずっと……恨んでるみたい』
痛いところを正確に抉られて、私は息を止めた。
『実際どうなの? 学者って。そんなに報われないの?』
『からっきし。ケイの言うことも、すごくまっとうなのよ』
アリアは一度紅茶を見つめてから、ぽつりと続けた。
『でも……うちのラボのボスは、どうしてもケイが欲しいみたい』
リリィはその表情をしげしげと覗き込んでいる。
『ねぇアリア、本当に……それだけ? 今朝、ケイが髪切っただけで、見るなりピタッと動きが止まったり……』
アリアはむくれて紅茶をすすった。
『だってさ、いきなりばっさり切るから。びっくりしただけよ』
『ふーん? それだけ?』
『……それだけよ』
『なら、いまその「それだけ」のことを思い出して、なんで顔が赤いのかな?』
リリィがいたずらっぽく笑う。
『~~っ、リリィ!』
画面の中のアリアは、少し赤くなった顔を伏せて、しばらく考え込んでいた。
そして、誰に言うでもなく、静かに口を開いた。
『……私はきっと、ケイを珍しい生き物のように見てしまってるの』
『珍しい生き物?』
『人と話したり群れたりすることより、純粋に世界を知ることにしか興味がないところとか、そういう不器用なところ全部ひっくるめて、愛おしいとすら思ってる』
『アリア……』
『うちのラボが欲しがっているのも、そういう能力よ。ボスが言ってたわ。「ああいう人は今どき滅多にいないから、絶対に手元に置いておきなさい」って。……私がケイを意識するようになってしまったのは、それからだわ』
アリアはそこで、ぶんぶんと強く頭を振った。
『いいや。確保とか、ラボの思惑とか。そんなの、どうだっていいじゃない。全部を取っ払って……私はただ、純粋にケイと一緒に旅がしたかったの』
『……ほんと、大丈夫?』
『えぇ、大丈夫よ』
画面の中のアリアが、残りの紅茶をぐいと飲み干した。
その時だ。
映像の中から、がらがらと扉が開く音がして、子供たちの喧騒と、土の匂いが押し寄せてきた。
『これ……もらっちゃった。食べられる……んだって』
画面の端に、巨大な丸太を抱えた気まずそうな私の姿が見切れて入ってくる。
私はそこでようやく、パタン、と端末のカバーを閉じた。
自室は静寂に包まれていたが、自分の心臓の音だけがやけにうるさく耳の奥で鳴っていた。
私は、とんでもないものを見てしまったらしい。




