「夜霧」
かの喧騒と興奮に満ちたディナーが終わり、舟から下りると――外はもうっとした、夜霧に包まれていた。
空気はつん、と、冷たく、街の明かりは指先くらいの綿あめみたいに、ぽぅっ、ぽぅっと灯っているのみである。
霧の立ち込める砂漠の海に浮かび上がるその灯は、えも言えぬ美しさがあった。
砂漠のそばなのに、こんなに真っ白――ナミブ砂漠にしても、やりすぎだ。
アリアはそそくさとホテルに帰ってしまったが、私はこの幻想的な光景を、ただぼおっと見つめて、立ち尽くしていた。
「――お疲れさま!」
振り返ると、リリィが朗らかな笑みを浮かべていた。
「やっぱり、こういうの、苦手かなって思ってたのよ。ごめんね、止めなくて」
私は、少し考えてから首を振った。
「でも、楽しかったよ。ちょっと疲れただけ」
「うん、それならよかった」
そう言って、リリィは肩をすくめてみせた。
「…この星の人たち、距離感、近すぎるってよく言われるの。コロニー時代から何世代もずっと狭いところで暮らして、この星に降りてからもずっと一緒だから、たぶん…無意識に、ぴったりくっついて安心しようとしてるのかも」
「…でも、それにしても」
「触りすぎ?」
笑って、リリィはケイの顔を覗き込む。
「文化って難しいね。悪気はないの、ほんと。…たまに、『うちの星、うるさすぎ!』って他所から来た人に言われるの。ちょっと反省してるんだけど…みんな、嬉しくなると騒いじゃうのよね。嫌だったら、ちゃんと言っていいんだよ。わたしも、止めればよかった…」
「舟の上でディナーをとる習慣って、普通なの?妙にディナー会場として整備されてたし、厨房まであって」
リリィはきょとん、とした。
「あぁ、それね…!ちょっと心配しすぎたかも。夜はみんなで集まって食べる習慣なのよ!」
「・・・毎晩、あんなお祭り騒ぎ?」
「ふふ、あれは特別よ!あそこまで賑やかなのは、ほんとに誰かの誕生日か、新顔の歓迎会くらい」
「…でも、なんで舟?」
「なんでって……夜中に各家庭で火を焚いたら、火事のリスクが上がるでしょ?」
「まあ、そうだけど…」
「それにね、昔の名残でもあるの。コロニー時代、居住区がすごく狭くて。だから、食事は『コミュニティキッチン』で、っていうのが当たり前だったのよ」
「今も、ちょっとだけそれが残ってる。で、その『キッチン』が、舟に乗ったわけ」
「舟に?」
「うん。煙も熱も逃がしやすいし、もしものときも周囲に燃え広がらない。ほら、火事になっても海の上なら安心でしょ?」
「……なるほど。だから、あんなに設備が整ってたんだ」
リリィは、ふと声を落とした。
「……でもね。ほんとのところは――みんな、ちょっとだけ、怖いのよ」
「……怖い?」
「この星で、何が起きるか。誰にも分からないから」
「だから、夜はみんなで集まって、一緒にいたいの。明るくして、にぎやかにして……たぶん、それで、怖さをごまかしてるんだと思う」
その声は、今までのリリィからは少し想像できないほど、真剣だった。
――たしかに。
古生物の情報は、この星にはほとんど伝わっていない。
ヘリコプリオン科を「イルカ」と言い張るくらいだ。
かつて人類が積み上げてきた知識の多くが、長い停滞の中で風化し、こぼれ落ちてしまったから。古生物学も、まともなのは古書の山を探してようやく見つかる断片だけ。他に伝わる情報は…俗説と誤謬だらけ、子供ウケを目的とした、恐怖と危険をあおるコピーアンドペーストばかり。
――みんな、不安なんだ。
「それ――知ったら、不安は和らぐのかな。」
――ぎぃ、とドアのあく音。
“ホテル“の玄関から、ぼわっと暖色の光が零れた。
こつ、こつ、こつ、と、足音がした。
霧の帳の奥から響く声は、英語訛りの普遍共通語で――
「過去の世界に、油断は禁物。過去は想像を超えてくる。私たちが化石から予想しうるのは、何億分の一という化石に残った断片だけ。私たちもまた――何も知らないのよ」
アリアだった。
「だからね、新種はいくらでもありうるのよ!さっきのヘリコプリオン科、未記載種の可能性が高いみたい!――Marvelous!」
霧の中からぬっと突き出た、笑顔が光った。




