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石炭紀紀行(鱗木SF・改)  作者: 夢幻考路 Powered by IV-7
南の寒い大地から(ゴンドワナ採集編Day2)
74/198

変わらぬものたち / ―描写を支える科学的背景― カブトエビ伝説―本当に「生きた化石」か?

どうやら、先ほどまで歩いていたのは、川岸に沿って形成された自然堤防の上だったようだ。

木道の板が新しく張り替えられた箇所からは足元の白っぽい砂が垣間見え、立ち並ぶ木々の隙間からは、大河の雄大な川面が平行に伸びているのがちらりと見えた。


散歩道は、ひたすらその先へと続いている。

しかし、途中から急に木道が朽ちかけた古い区画に至り、その少し手前で、真新しい板材で分岐した別の道が伸びていた。

「こっちよ」

「向こうの古い道は?」

「あっち側は整備が追い付いてないから」

分岐した新しい道を少し下ると、視界が一気に開け、広大な湿原に出た。

柱のような植物が立ち並ぶ見渡す限りの湿原を縫うように、木道が一本の白い折れ線を描いてどこまでも伸びている。

足元の板には頑丈なフロートが取り付けられており、ひたひたの水面に直接浮かぶ構造になっていた。

気温は低く寒いはずなのに、じわり、と嫌な汗が背中に広がる。

先ほど、腐りかけて泥に沈んだ古い木道がまとめて打ち捨てられているのを森の中で見た直後だったからだ。

ただ、おそるおそる近寄って踏み込んでみると、真新しい白木が頼もしく光っていた。


「事故があっちゃいけないって、先月一気に整備したのよ、村のみんなで」

――この旅のために、いったいどのくらいの金と人が動いているのだろう、と思って、くらりとした。

この私たちの個人的な旅のために、いったいどれだけの莫大な金と人が動いているのだろう。想像しただけで、足元とは別の理由で頭がくらりとした。

水に浮いた木道に、体重を乗せてみる。

ふらりと少し水面を滑るように流れ、内臓がひゅぅと宙に置いていかれるような浮遊感があった。


「ただのイカダだと思えば、怖くはないわ」

そう言って、アリアは揺れる足場も気にせずすたすたと歩いていき、一面に広がる湿原の風景をレンズに収め始めた。


イカダの上からしゃがみ込んで下を見下ろせば、焦げ茶色に濁った水の中を、勢いよく泳ぎ回る影がある。

オタマジャクシか何かかと思ってよく目を凝らすと、カブトエビだった。

水温計を差し込んでみると、9度。

たったの、一桁である。

さすがは永久凍土の上に広がる湿原だ。

pHは、意外にも高い7.2。

泥炭層を流れる焦げ茶色の水からすればちょっと信じがたい中性よりの数値なので、器械の故障を疑って何度か測り直してしまった。

「ここ…海抜何メートルだっけ」

「町でおおよそ、30m。」

なるほど。

ここもまた、間氷期には完全に海没していた土地なのだろう。

土壌に石灰分などの海成堆積物が含まれているからこそ、この水質が保たれているのだ、と思う。


キンキンに冷えた水から網で掬い上げたカブトエビは、現代の日本の水田で見かけるものとほとんど姿が変わっていないように見えた。その立派だが著しく軟弱な甲皮の質感に関しても同様である。

「いつの時代に来てもカブトエビはカブトエビだよね、さすが、生きた化石」

私は呟きながら、ルーペを取り出した。

いや、まったく同じというわけでもない。よく観察すれば少しだけ違う。

甲皮後面の切れ込みの深さや、現生種よりやや剛強に感じられる無数の脚。もっとも目立つ違いは、胸部第一付属肢がセンサー用のアンテナ状に細長く伸長しておらず、すべての付属肢が泥の掘削のみに特化して用いられるように見える点だった。

おそらくこれは、現在のカブトエビと過去のカブトエビの進化的な違いというよりも、この時代・この地域に適応した未記載種の特徴と捉えたほうが妥当な代物だろう。


水中には、群れを成して泳ぐ別の生き物もいる。

半透明で細長い体と、二つの黒い複眼を持つ生き物が、整然と並びながら泳いでいる。時折そこにカブトエビが重戦車のように突入すると、群れがパッと散り、またすぐにふわふわと集まってくる。

ホウネンエビの仲間だった。

この時代には確実に存在する生き物であるが、化石として保存されたことはほとんどない。

そして、ふわふわと泳ぐカイエビ類が…

あれ、これ、現在のツンドラの生態系とあまりにも変わらない。


違う点を考えてみよう。

まず、だ。ユスリカがいない。フサカ類もいない。ミジンコもいない。

それらすべてが、ホウネンエビやカイエビ、カブトエビといった大型鰓脚類によって代替されている、と捉えられるのかもしれない。

そんなことを考えている時だった。

なにか水生昆虫の幼虫のような奇妙なものが、視界の端を横切った。

素早く網で捉えて手元へ引き寄せてみれば、先ほど森の泥濘で見た、あの作画崩壊したような謎の節足動物、ユーシカルシノイド類だった。

この水場で見かけた、現生の生態系と明らかに異質で似たもののない生き物は、こいつだけである。

――逆に言えば、この湿地の生態系は三億年後の現在のツンドラに至るまで、その構造をほとんど変えずに維持し続けてきたということになる。まさしく、驚異的な保守性であった。


空を見上げても、当然ながら鳥のような飛ぶものは何もない。

時折、湿原に立ち並ぶ柱のような植物の間を、何らかの昆虫の翅がちらつくだけである。網を構えて気づいた頃には、もう音もなく姿を消してしまっていた。

石炭紀の極地は、じつに静かで、動くもののない場所だった。

柱みたいな植物と、スギナみたいな植物がひたすら茂る、灰色を帯びた湿地。

柱みたいな植物と、スギナみたいな植物がひたすら茂る、灰色を帯びた湿地。

「この湿地、すごくない? まるで石炭林のミニチュア模型のジオラマみたい」

アリアが、銃口にも似た奇妙な形状のカメラを足元のコケに這わせながら言った。


その機関砲みたいなカメラは、プローブレンズと呼ばれる特殊な魚眼レンズを介して、ミクロの世界をマクロな大迫力で撮るための特注品らしかった。先端は内視鏡ファイバーの要領でグネグネと動き、手元のモニターを見ながら指で方向を指示して撮るのだという。


「どんな絵が撮れてる?」

横からモニターを覗き込んでみれば、たしかに圧巻だった。

数ミリに満たないコケの葉の一枚一枚が手のひらほどの巨大なシダのように見え、そびえ立つトクサの柱廊が天空を串刺しにしている。そして、地表を時折這い回る三ミリほどしかない微小な内顎類の虫たちもまた、あたかも堂々とした巨大昆虫であるかのように映し出されていた。

あのワレイタムシに至っては、もう完全に怪獣である。

その恐ろしげな牙がカメラのレンズの上をくぐる様子など、まさに大怪獣映画のワンシーンで、足元のミクロの世界の出来事だとは全く感じられなかった。

「凄いね、それ」

「いいでしょ。今回の旅のために特別に工面したの」

アリアはモニターから目を離さずにそう言った。

「今回のために?」

「そうよ。だって、ケイと行くんだったら小さい生き物も綺麗に撮らないといけないし。小さいからこそ、環境ごと撮るのが難しいのよ。スキルもイチから磨く必要があって、プロに教わったり実地訓練したり、結構大変だったんだから」

「さすが……日々の調査の傍らで、そんな練習までしてたんだ」

「うちのラボでこの機材を五機納入して、これは私自前のやつ。実は、直前の白亜紀の調査ロケにも持ってきたんだけど……」

「けど?」

「これのモニターを覗き込んでると、周囲の気配が警戒できないっていう致命的な弱点に気づいて、向こうで使うのはやめたの」

「あぁ……白亜紀の森で人間が無防備に立ち止まるのは……」

「そう、最悪の自殺行為。肉食恐竜のランチになりたくなきゃね。こうやって腰を落ち着けて小さな世界の撮影に集中できるのは、大型捕食者がいないペルム紀以前の特権ね。まるでバカンスしてる気分」

「寒いけどね。」

「暑さ寒さとバカンスの質は、全然別よ」

「でもこのカメラ、いまのいままで全然使わなかったのは何故?」

さっき森の中で小さな土壌動物を熱心に撮っていた時すら、この素晴らしいカメラは一切出番がなかったのだ。

「あぁ、これ? 構造上、暗いところに極端に弱いのよ。先端の補助ランプを使うにしても、懐中電灯で不自然に照らしてるみたいな絵になっちゃうから、仕上がりが微妙なの。今日みたいな、よく晴れた開けた場所の自然光専用ね」


「すごい! あんな遠くまでくっきり見える。地平線の果てまで……」

ふと振り向けば、アリアが一旦イカダの上に手放した普通の望遠カメラを、リリィが双眼鏡のように顔に当てて覗き込んでいた。

「ほら、ケイも観て。これ、すごくない?」

手渡されてファインダーを覗いてみれば、遥か遠く、木々の間から少しだけ覗く大河の川面に、昨日見た貨物船の頭の部分がバッチリと捉えられていた。ほとんど地平線の先と言っていい距離だ。

「凄いけど……リリィ、これ肉眼でそもそもよく見つけたね」

「こういう遠くを見つけるのは得意なのよ。ほら、あそこ。十センチくらいの虫が飛んでる。三匹が追いかけっこしてるけど……つがいと、それを追いかける雄かな? 一匹だけ、ちょっと模様が違うわ」


背後から、リリィの柔らかい手が私の頬にそっと触れた。

彼女の手によって私の頭の向きがすっと調整され、「ほら、あそこ」と耳元で囁かれる。

しかし、言われた方角へいくら目を凝らしても、灰色の空と湿原が広がるだけで、私の視力では結局何も見つからなかった。


「あ、今とまった。やはりつがいね」

リリィはそう言うと、手元のカメラのシャッターを的確に切った。

あとでカメラの画像データを拡大して確認してみれば、たしかに、極限までデジタルズームされたせいでごく小さなモザイクみたいに荒れてしまってはいたが、何かしらの、トンボにシルエットが似た巨大な昆虫が三匹、空中で空高く絡み合っている姿が写っていた。


―描写を支える科学的背景― カブトエビ伝説―本当に「生きた化石」か?

「エビ伝説」を楽しんだことのある方は多いだろう。

容器に砂みたいなものをほんの少し入れて、水をそそぐと小さな卵が孵化し、うまくいけば餌をモリモリ食べながら2~3週間で成長していく。自前でカブトエビを育てようとすると案外難しいので、たいへんよくできた飼育キットである。

さてこのカブトエビだが、しばしば「1億年以上現生種がいる」という話がしばしば記されており、かつてはヨーロッパカブトエビが地球史上最古の種とみなされてきた。これは三畳紀からヨーロッパカブトエビの化石が見つかるという話で、ドイツの後期三畳紀(1)、フランスの前期三畳紀(2)、アメリカ合衆国バージニア州の後期三畳紀(3)から報告があるものの、これらは現在ではTriops属との違いが指摘されている(4)。さらに、分子時計からも、現生のカブトエビ属TriopsとヘラオカブトエビLepidurusがかなり近縁であり、両属が分岐したのはおそらく新生代であろう、とする結果が出ている(5)。不思議なことに、ヘラオカブトエビ属Lepidurusでは大型の肛上板が「ヘラオ」の語源となっているが、肛上板が発達したヘラオカブトエビ風のカブトエビ類と肛上板が発達しないカブトエビ風のカブトエビ類がペルム紀以降幾つも確認されている。これは肛上板が発達することが繰り返し起こったため、と考えざるを得ない(5)。

ただそれでもカブトエビ類(鰓脚綱背甲目)は極めて形態的に保守的であり、後期デボンファメニアンに見られるStrudopsから外見上はほとんど変化していない。(Strudopsを背甲目と言い切れるかどうかには諸説あるが、見た目上はカブトエビそのものである。)(6)Strudopsが出ているベルギーのStrud石切り場からは言うまでもなく最初期の四足動物であるイクチオステガ類(7)や、最初期の種子植物であるMoresnetiaや最初の木本であるArchaeopterisなどの植物相(8)が産出している。これら最初の種子植物や陸上四足動物からすれば、カブトエビの形態が極めて古風であるということは言うまでもない。

さて、石炭紀からのカブトエビ類は石炭紀末期からのThuringiopsが知られている。これもかつて最古のTriops属と呼ばれていたものである(9)。

さて、ステムグループ・カブトエビ類に現生種とは異なる突飛なものがいなかったのかと言われれば、Kazacharthra目が挙げられる。これはカブトエビを含む背甲目NotostracaとともにCalmanostracaを構成するもので、基本的に大型で甲皮は幅広ないし前後に短く胴体が非常に長い傾向があり、しばしば甲皮に装飾が認められ、かつより硬質な背甲をもち、尾節は団扇状に広がることが殆どである。このグループはおもに、三畳紀から知られている。

2億年以上生きた単一種としての「伝説」は失ってしまったが、それでも今なお、カブトエビは「生きた化石」であり続けているといえるだろう。また、化石カブトエビ類は現在記載ラッシュで、ここ数年はほぼ毎年、数種が新種記載されている。

(1)Trusheim, F. 1938. Triopsiden (Crust. Phyll.) aus dem Keuper Frankens. Paläontologische Zeitschrift, 19, 198–216.

(2)Guthörl, P. 1934. Die Arthropoden aus dem Carbon und Perm des Saar-Nahe-Pfalz-Gebietes. Abhandlungen der preußischen Geologischen Landes-Anstalt, N. F., 164, 1–219.

(3)Gore, P. J. W. 1986. Triassic notostracans in the Newark Supergroup, Culpeper Basin, northern Virginia, with a contribution on the palynology by Alfred Traverse. Journal of Paleontology, 60, 1086–1096.

(4)Geyer, G., Hegna, T. A., & Kelber, K. P. (2024). The end of the ‘living fossil’tale? A new look at Triassic specimens assigned to the tadpole shrimp Triops cancriformis (Notostraca) and associated phyllopods from the Vosges region (eastern France). Papers in Palaeontology, 10(5), e1589.

(5)Vanschoenwinkel, B., Pinceel, T., Vanhove, M. P., Denis, C., Jocque, M., Timms, B. V., & Brendonck, L. (2012). Toward a global phylogeny of the “living fossil" crustacean order of the Notostraca. PLoS One, 7(4), e34998.

(6)Lagebro, L., Gueriau, P., Hegna, T. A., Rabet, N., Butler, A. D., & Budd, G. E. (2015). The oldest notostracan (U pper D evonian S trud locality, B elgium). Palaeontology, 58(3), 497-509.

(7)Clément, G., Ahlberg, P. E., Blieck, A., Blom, H., Clack, J. A., Poty, E., Thorez, J. and Janvier, P. 2004. Palaeogeography: devonian tetrapod from western Europe. Nature, 427 (6973), 412–413.

(8)Prestianni, C., Streel, M., Thorez, J., & Gerrienne, P. (2007). Strud: old quarry, new discoveries. Preliminary report. Carnets de Géologie/Notebooks on Geology, (M01/07), 43-47.

(9)Werneburg, R., & Schneider, J. W. (2022). New branchiopod crustaceans from the late Carboniferous and early Permian of the Thuringian Forest Basin, Germany, with a review of Permian notostracans from the Lodève basin, France. Semana, 37, 57-103.



今年も白亜紀からカブトエビ の新種が記載されていますね。


Wang, W., Ren, D., & Zhao, Z. (2025). New fossil notostracans (Branchiopoda, Notostraca) from the Lower Cretaceous of Inner Mongolia, China. Cretaceous Research, 106216.



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