人間タッチプール――触れる歓待、逃げ場なし
ようやく舟が来たことは、見るまでもなく分かった。
舟内の熱気とざわめきが、壁の隙間からもしみ込もうとしていたからだ。
ベランダに出ると、喧噪とともにガラス窓からぼうっ、と暖色の明かりが揺れていた。舟全体が、じんわりと熱を帯びていた。
窓からちらつく、歓談し、ときにダンスを舞うような、人々の姿。
――この中に、入れるだろうか。
一歩、足を踏み入れた瞬間。
空気が、ぐっと濃くなった。
嗅いだことのない酒類…酒類なのだろうか?の甘い香り。
妙に日本語にちょっとだけ似ているようないないような、母音のはっきりした声調が耳に響き渡るかと思いきや、唐突に混じる巻き舌に違和感を覚える。
――まあ普遍共通語を話している人もいるが、少数派だ。
会話の内容は、3割くらいしか聞き取れない。
そのとき、誰かが両腕を広げてまっすぐ歩いてきて、
「……あっ」
私は、ふわりと両肩を抱きしめられていた。
**
大皿のある円卓に着く頃には、すっかり囲まれていた。
テーブルに着くなり、隣に座った女の人が、いきなり私の頬に両手を添えた。
「まぁ~!この子、目がすっごくまっすぐ。ちゃんと見てお話ししてるのね。偉い偉い」そう言って、まるで猫を撫でるみたいに、前髪をふわっと撫でてきた。
――目を見てお話しするも何も、顔をホールドされてるじゃないか。
笑い声が絶えない。みんな陽気で――そして、とにかく近い。
――なぜ、話しかけるときに毎回毎回、顔がほとんど目の前に来るほどまで詰め寄って、体に接触しなければならぬのだ。
もう少し体が大きければ、少しはましだったろう、しかししゃがみ込まれて視線を合わせながら、
「うちの坊やなんてこれくらいのとき、ぜんっぜんこんなにお利口じゃなかったわよ〜ね、うちの坊やね、・・・(中略)」と話されながらほっぺたにタッチされたり、
テーブルに座ってからもまじまじと覗き込まれながら「ママに会いたくなってない?」とか言われたり、「食べてる?大丈夫?」とどんどん皿におかずを盛られたり。
背後でも
「この子、目がすごくまっすぐ。育ちがいいってわかるわ〜」
「うちの孫に紹介したいくらい!」
などと聞こえてきて、ちょっと目を離すと「笑って笑って〜、ほら」
と言って、そのまま、まるで写真撮影のときみたいなノリで、両手の指で口角を持ち上げられそうになる。
がらにもなく微笑を浮かべたら、髪をさわさわ撫でられつつ
「髪の毛ふわっふわ!何使ってるの?」と…。
長旅の後でシャワーはいちど浴びただけ、どっちかというとべたッとしてるんじゃないか、と思うのだけど。
さらに誰かが顔を近づけて――ふわっと、私の髪に鼻を寄せた。
ぞくり、とした。――たぶんちょっと、臭いですよ。
と思いつつも、「ほら、笑って!そんなキリッとしないで〜」
頬を人差し指でちょいちょい。
それはこの文化では歓迎のしるしなのかもしれないし、
実際、他意はなさそうだった。
ただ、私にとっては――どうしても、耐えられるものでは、なかった。
笑顔は満点、悪意ゼロ――だから、怒れない。
――というか、笑っている人に怒るほど、私は非常識でありたくない。
そこまでは、堕ちないでいたいから。
「ほら、全然足りないわよ」
二の腕の太さをそっと確かめられたと思ったら、手にしていた突き棒(串状のカトラリー)で、勝手に料理を取って、どっさり私の皿に乗せてきた。
――え、セルフサービスじゃなかったっけ。
「いいのいいの。若い子は気にせずお世話されときなさいな」
うわ、手が…まだ乗ってる。
それでも何も言えずにいたそのとき。
「ごめん、ちょっといい?」
その声は、私のすぐ頭上から、空気を切るように――ぴしゃりと、落ちてきた。
アリアだった。
彼女の笑みは柔らかく、それでいて、絶対に踏み込ませないという意思を感じた。
何気ない様子で、私の肩に腕をまわす。
その瞬間、まるで水を打ったように、周囲の空気が変わったのがわかった。
「この子、あんまり触られるの苦手なの。―ね、ケイ?」
私はうなずいた。ほっとする気持ちが、喉を塞いでいた。
「あらやだ、そうだったの?」「わるいわね〜」「可愛いからつい!」
などと言いながら(もう内容は覚えていない)周囲は笑いながら、すんなりと手を引いた。
「ね、こっちの席来ましょ?隣なら、手出しはされないと思うわ」
そう言って、アリアはぐいぐいと私の手を引っ張った。
「あ、すみません、悪気はないのはわかってるんです…」
そうぼそぼそと言いながら、皿を持ったまま引きずられた。
・・・ガードされてる。
完全にガードされてる。
こういう場が苦手なのはそうだし助かるのだけれど、なんというか…アリアの、所有物にされてる気がした。――というか左腕、ずっと乗ってる。
「これ以上は触らせない」という領有権の主張。
「リリィさんは…?」
「さっきサプライズの用意のため出ていったわ」
救いは、ないらしい。
さっき盛りに盛られたおかずの山を見て、改めて唖然とする。
――食べきれるかな。
するとアリアが「それ、まだ前菜よ」とひとこと。
――えぇ…。私はちょっと冷汗を浮かべた。
今盛られている食事だけで、朝夕はすませられそうだったからだ。
「メインディッシュはこれからだし…ちょっと手伝う?」
そう言って、食べかけの私の皿から、幾つか食べてしまった。
そして出てきたメインディッシュは――過去の旅に本当に来てしまったのだと思わせるに、十分すぎるものだった。




