<石炭紀紀行> 紳士もどき
「はい、これ」
目の前には、真っ黒い布があった。
ぴしっと整えられて、ハンガーにかかっている。
きちっとした折り目が目立ち、黒に近い紺色の繊維が、わずかに光った。
――服だ。しかも、結構正式なやつ。
触れたことないし、よくわからないけど。
「これも。インナーね」
今度は、几帳面に折りたたまれた、真っ白のシャツ。
――本当に、いつの間に?
ハンガーを持ち上げると、見かけ以上の、ずっしりとした重量感。
袖を通すと、肌に触れる、ひんやりとした密着感。
どこか身を守ってくれそうな、ちょっと硬い質感。恐ろしいくらいぴったりはまって、直線的な体形にすっとフィットした。
採寸は、完璧。だけど――腕や足がどうも、ちょっと曲げづらい。
いや、そもそもいつもぶかぶかの服を着ているせいで、体のラインにフィットした服というものに慣れていなかった。
鏡を見ると、小さな紳士が、そこにいた。
――うん。紳士。
…レディ、として振る舞うよりは、私にはよほど楽だろうという、気遣い…か。
こん、こん、とノック。
「もう大丈夫そう?」
ドアを開けると、2人が待っていた。
――リリィはすっかりおしゃれしていて、一見誰だか分らなかった。
髪型も違うし、ふわり、とした優雅な身のこなし。
私には…むりだな。
「もうすぐ、船が来るわ」
「船?」
「そう、ディナーは船上なのよ」
――屋形船、的なものだろうか。
「いつから?」
「開始時刻:30分前。実際の到着予定:……たぶん、あと30分後。」
アリアは、掲示板でも読むように肩をすくめて言った。
そもそも、着替えを渡されたのは10分前。
「…ルーズだね」
「がんばればがんばるほど、遅れる!それがこっちの“おもてなし”なの!
開始1時間遅れ?普通普通〜。気にしたら負けよ!」
とリリィがいうと、身振りに合わせてフリルがひらひらと揺れた。
「…」
それでよくロケット飛ばせるな、と口をついて出そうになった。
と思っていると、2人は
「そういやさっきのアレ、何とかなりそう?」
「かけあってみる、って話だったわ。それでちょっと…遅れてるのかもね」
と話していた。何のことかは知らないが、何か準備をしてくれてはいるらしい。
準備してくれた、といえば。
「あ、あの…この服…ありがとうございます。こういうの、着たことなくて…」
私にとってこういうフォーマル(?)な場はほとんど初めてだったから、2人がしっかりとファッションを決めていること自体が結構、緊張の原因になっていた。
「いいのいいの!地球からのロケット代に比べちゃ、なんてことないわ!」
――なんて言うかと思ったけれど、アリアの反応はちょっと違った。
「胸張って!その恰好なら文句なし、ばっちり似合ってる。――流石、私のセンスね。でもね、そのままオドオドしてたら台無し。気にしないでいいの、お礼なんて。だけど――ナメられるのは、絶対ダメ。」
――なめられないこと。大事。
するとリリィが
「私たち、すっごく距離感が近いのよ!“近づいてもいいよ〜”って雰囲気出すと、本当に物理的に近づいてきちゃうの。触ってくるのはあいさつ代わりね、断らないと“あら歓迎されてるのね”ってぐいぐい来ちゃう。ごめんね、そういう国民性なの!」
と言う。
――そういうのはもう足りてるんだよな、と思いながらアリアを見上げると、
アリアの目が、笑ってなかった。
「ハハハ、私も最初に来た時、“おさわりコーナー“に…しかもデカいビア樽おっさん。むぎゅっ、とされてそのままキス。悪気はないんだけど、ないんだけど、ね…ハハ…」
――始まる前から、びびらせないでくれるかな。
というかアリアからみてでかいおっさんって…私にとってはもう、タイタンだよ。
――肩をなでる、背中をなでる、ハグ、さらには頬キスあたりまでもが…
ここではどうやら「挨拶」の範疇らしいのだ。
そう思うと、バクバクと心臓が脈打ち始めた。
――それにしても、なぜ船上なんだろう。




