<石炭紀紀行> MUD RACE II
ファンファーレ。
号砲が空気を裂く。四つの機体が一斉に水しぶきを上げた。
飛沫の壁が、観客席の手すりを白く湿らせる。
まず飛び出したのは、やはり《パラー海警隊》。
細長い艇体をわずかに傾け、一本スクリューが水を切り裂くように推進する。スキッドが左右に微妙な角度で伸び、水面を滑るように曲がっていく。
まるで水上バイクと戦闘艇を融合させたような操舵。
操舵手が肩越しに手投げの有線ドローンを「ひゅっ」と投げ上げた。
ケーブルコネクタをひねって——投棄。
地図さえ作れば、もう用済み。パラーの操縦士は一度も振り返らず、水上コースをゴールへの最近接点に向けて、一気に突き抜けていく。
左スキッドは40mm突き出し、角度+1.0°。右は水面からリフトアウト。
後を追うのは、深紅の《アンデス航空整備隊》。
やや遅れての加速だったが、進み出せば異次元だった。
サスペンションが強烈な水しぶきをものともせずに吸収し、双スクリューは航空機のフロートのように**泥水の上を“滑る”**ように走る。
どこまでも安定し、どこまでも滑らか。泥濘の上に、まっすぐな水線が一筋、残っていく。
その後方、泥水の跳ね返りと格闘していたのが《クロウラー》。
完全陸上戦仕様の四本スクリューは、まるでオフロードトライアル車。
コースに差し掛かると、そのまま落ちるように落下、そのまま前進を続け、泥をかぶりながら立ち上がる。後方に丸められた粗朶が、泥底を押し――立ち上がった船体が、泥しぶきを巻き上げながらがばっ、と倒れこむ。
そして、出遅れたはずの《イリノイ漁師連合》が、地味に、だが確実に順位を上げていた。クラシカルな2スクリューは地味ながらも安定性が高く、経験と勘に支えられた操舵は、目立たずとも無駄がない。
潮の引き方、日射の強さ、干潟の起伏。それらすべてを読むようにして、わずかな傾斜をついてショートカット。――うまい。
パラーはスキッド角を+1.8°まで上げて一本スクリューの癖を相殺、針路を糸のように通す。アンデスは推進角を一定に、後方重心が効率を押し上げる。イリノイは境界線を踏まずに縁舐め。クロウラーは排水が増えて少し遅れる——はず、だった。
しかし、干潟の奥に進むにつれ、コースは、なくなった。
ゴール前の泥干潟、それが最後の関門であり、一番の見どころだ。
そこはもう、もはや「水」ではない。ただの泥ですら、ない。
はじめは、平坦な泥にしか見えなかった。しかしその上を踏み抜くと、突然割れて泥に沈む。藍藻がストロマトライトを作り始めている、というわけか。その下にあるのは、粘りと硬さを増した、濃厚な泥。
進入した艇はどれも、急激に速度を落とし始めた。
「来たぞ……得意地形だ」
クロウラーの機関士の叫びと共に、船体がさらに前傾姿勢を取り、スクリューが前輪駆動のように泥をかき出す。
粗朶ロールが泥の上に広がり、船体は“陸”を這うように前進。
他艇が泥に取られ、姿勢を乱す中、クロウラーだけが一直線に進む。
ついに、アンデス航空整備隊の横を抜き去った。
「嘘だろ……陸しか走らないはずの”ボート”に、抜かれた?」
操縦士が呟くが、それも無理はない。
このゾーンでは、水に浮かぶ構造こそが仇となる。
アンデスの長いスクリューは浮力で持ち上がりすぎて泥を掴まず、後部が振られ始めていた。
「重心、後方に移動。エンジン止めて流します」
「滑走状態を……解除だ」
隊長が短く指示を出すと、サスペンションが沈み、船体がようやく泥に触れる。
ゆっくりと、再加速を始めた。
その隙に、さらに迫る影が一つ。
——《イリノイ漁師連合》だった。
長年の経験と勘を頼りに、水路の脇にうっすら残る乾きかけの裂け目を見つけていた。本来なら足を取られるべき泥の裂け目が、ちょうど船体ちょうどほどの幅で、硬化していたのだ。
「ここだ……突っ込め!」
2本のスクリューが左右で水を跳ね上げる。
泥のクラックをなぞるように走るイリノイの艇は、再びクロウラーの後方に迫っていた。
その時――先頭を走り続けていたパラーが――突然、折れた。
漆黒の船体が突然、泥の中に落ち、トルクで船体が破断。
右舷が消え、一本スクリューが空を掻いてきぃんと鳴いた。
「擱座」実況が短く言う。モニターに赤い×。
「ピットフォールってやつだな、日ごろの行いがさぞかし悪いらしい」
海進で水没した古い塩原、塩が地下で溶けて空洞ができる。表面は塩泥クラストで平らに見えるが、下は蜂の巣。荷重がかかると、突然落ちる。
クロウラーは賭けに出る。後ろの粗朶を二巻同時に投下、網が解けて前方に橋のように展開する。ぼこぼこと気泡が上がる。
一拍——艇尾がふわりと浮き、次の拍でぐらり。
箱部に水が入る音が、観客席まで伝わった気がした。
ポンプは全開だが、追いつかない。泥で目詰まりしたらしく、バケツリレーだ。
しかし間に合わない。ストロボが点滅し、乗員がちゃぷと飛び出す。
「擱座」実況が短く言う。モニターに赤い×。
アンデスは外側の弧を描いて回避を選ぶ。
だが塩泥クラストの上はグリップが薄く、推進は空転に近い。
派手な飛沫だけが遠くへ飛んで、速度が削られていく。
操舵手が息を吐く。「逆相、ブリップ——」
一瞬だけ逆回転でヨーを殺し、ダンパの再圧で荷重を後方に集め直す。
フロート兼用の中空スクリューが浮力を立ち上げ、空転音がぐっと低くなる。
前身と交代を繰り返し、あがく。
急ぐ必要はない――残りは、全滅だから。
イリノイは止まらない。
艇底に伝わる振動が鈍るところを、ひとつずつマーキングして避ける。潮の匂いがわずかに変わる。硬化帯と薄水の境界だけを、ジグザグに縫う。
「ここで突っ込めば、持ってかれる」操縦手が小さく言い、相棒が頷く。
カチン。DZUSピンが外れ、座席ユニットがレールから滑り出る。
折りたたみスキーを展開、短尺ラダーがかりっと噛む。ラッシングで台座を固定、牽引索を前後に取る。乗員は座席に固定されたまま、二人で引く。
観客席がざわめく。実況も一瞬、言葉を失う。
乾いた塩風の中、二人の呼吸音だけが近い。
「角、五度外へ」後ろ手が言う。牽引角がわずかに変わり、座席はぐらと傾きを戻す。
ゴールの二本の棒が、すぐそこに大きくなる。内側面を舐めるように——
ぴっ。
光学センサーが短く鳴った。
歓声が一瞬吸い込まれ、爆発する。
アンデスは、もう急いでいなかった。残りは――全滅だ。
拍手とともに、悠々とゴールイン。
「……あれで、いいんですか」
「いちおう、座席がゴール条件だからな」
「優勝、イリノイ漁師連合。準優勝、および完走賞、アンデス航空整備隊!」
沸騰した観衆を載せた海上座席は、ゆっくりと桟橋につこうとしていた。
――5時間が、たとうとしている。
宇宙にもまれた疲れも、臭いも、気づけば忘れてしまっていた。
「じゃ坊や、また会おうな!」
おっさんが手を振る。
「また…」
「また会おう兄弟!とでも言ってやればいいのよ!」
アリアが頭をシャリシャリ、となでる。
「あたまなでんな」
いいじゃないもう、と笑うアリアを、私はじろっと見上げた。
――子供じゃないって、あんたはよく知ってるでしょ。




