<石炭紀紀行> COMPASS―N極は南を向く―
海上基地のデッキが、柔らかな太陽光に照らされている。
石炭紀の海風は、涼しいというより、むしろ寒かった。
しかし風向きが変わると、一気に熱くなる。
気温がどうこうというより、それを感じるほうが壊れてしまっているのかもしれない。
宇宙に慣れ親しんでしまった体は、まだ大地に順応していないようだ。
外を歩いていても、なんというか、海風に「煽られる」ような気がしてしまう。
自分の臭いと慣れない石炭紀の、青臭くて鉄臭い異常な潮風にやられ、くらくらと吐き気がしてきてしまう。
――屈辱的なことだが、せっかく、石炭紀の地球を前にしているのに。
非力な私はデッキに置かれたベンチに腰掛けて、ただ外を眺めているしかなかった。いつもなら世界の大きさを感じさせられて不愉快になる背もたれが、今日だけは、心地よく抱いてくれる気がした。
「迎えのボートまでしばらくあるし、しばらく待ってようか」
アリアは澄ました顔でいう。
「苦しくなったら袋に吐いて。みんな通る道よ」
そう聞くと、ふと舌の付け根が巻くような感触が、緩むのを感じた。
「…大丈夫、だと思う。ここからの予定は?」
「30分ほど、ここで待機、9時に来るボートでパラ郊外の軌道杯みて、見終わるころにちょうど5時間たつから、インナーを脱いで着替えて、リリィと合流。で、パラのホテルに泊まっておしまい。まあたぶん、パラに入るところでトラブるんだけど。」
――軌道杯、というのは、超時空ゲートの開口と物資ロケットの到着を祝う祭りだ。
真っ青な空に、シュッ、と、流れ星。
再突入する、宇宙船だろう。
――ああやって、来たんだな。
そう思うと、あの星の高さから降りてきたということに、足の裏がむずむずする。
まあ、私たちのような旅人も祝われる対象なのかもしれない。
「軌道杯ってとくに、何もすることないよね」
「まあ――奇祭を見て面白がるくらいね。終わるころには、体も慣れてるから」
「奇祭?」
「ま。見てのお楽しみ」
「それにしても、アリア、本当に平気だよね。それも火星生まれだから?それとも、旅慣れでどうにかなるの?」
アリアはぶんぶん、と首を振る。――今私がやったら、確実に吐くな。
「はじめのころは全然。最初なんてしっかり吐いたよ、上陸なんて余裕余裕って直前に食べてから降りちゃったから。リリィに心配させちゃって…。いまでも「ゲロ吐いてるやつ」のイメージがついちゃってるんじゃないかって。」
なんというか、虚空を見つめて、昔の話をしてるみたいだった。
空は妙に鮮やかで、時の流れが溶けているみたいだった。
鳥ひとついないし、虫一匹飛んでいない。
――静かだ。
「その…リリィって例の…ガイドさん? 水上機操縦できる、とかいう。」
アリアは眉を上げて言う。
「そうそう! 15年近く付き合いがあるから、古い友人みたいなものね。最初に会ったころなんて、まだヨチヨチ歩きだったんだから」
「15年前って…まだ10歳くらいの頃?」
「ま、だいたいそうよ。リリィも5歳くらいだったから…「大丈夫?宇宙から来た人、死んじゃうの?」って。」
「・・・私より前からの友達、ね。」
――何言ってるんだ、私。
アリアはニコッと笑った。
「えっ、もしかして今、羨ましいって?」
「いや。会う前の前情報、として。」
私は平静を装おうとして、帰って怪しい口調になったのに気づく。
「ふぅ~ん」
そういうアリアは、妙に嬉しそうだった。
「ところでだけど、吐き気も取れてきたし、海、見ていい?せっかく石炭紀に来たんだし。何も見ないのは勿体なさすぎるよ」
するとアリアは小さく指をクロスさせた。。
「だーめ。まだ足腰、あぶないから。」
「洋上基地で転落事故とか笑えないし、そう言うと思った」
「本当にいるのよ――過去の世界にきた~!っていって、ふらふらーっと海見に行って、そのまま落ちるやつ。起立性低血圧で海に倒れこんだやつなんて、研究室では笑い種だったけど――よく生きてたなって」
「・・・気を付ける。」
「そ。海を覗くのは、救命胴衣を着て、人手がたくさんあるパラ市街に入ってからね。本格的に海を覗くのは3日目以降。人間の体性感覚のズレは、数日間は治らないから」
「しばらくは体が言うことを聞かないと思え、ってね、はい…」
――どうも、石炭紀の自然を見るには、まだまだ時間がいる、ということらしい。
アリアはふと、端末を出した。
「ところで、マップの南北は調整した?」
「おっと、してなかった」
ああ、そうだったと思い出す。
この時代の地球の磁場は、現在からみて逆転しているのだ。
設定を開く。設定の入り方にしてもまどろっこしいし、地図アプリの南北設定を変ええてしまうなんて、もし現代の地球でやったら自殺行為なので、そこに踏み込んでいくだけでも緊張する。もしほかの、重要な部分を変更してしまったら…と指先を震わせながらも、「N=南」と設定を変更。
<本当に変更しますか?>という警告が、三回。
まるで地球の常識に縛りつけようとする門番のようだ。
ちょっとくどくて、苦笑いする。
<再起動してください>
「あぶなかったよ、だってどこにも、「南北が逆です!」なんて、書いてないじゃん」
アリアは軽くため息をつく。
「ふつう、旅人が訪れるような場所には、口酸っぱく「この星ではN極は南をさします」って、書いてあるんだけどね…」
77万4000年前に地球の地磁気が今の向きになってから、人間はついつい、N極は北を、S極は南をいつでもさすと、思い込み続けている。
そうではない、ということを頭で知っていたとしても、やはり、頭の中のコンパスは、地球基準で回ってしまうのだ。
「まあふつうは、書くよね…。しかもどっちがN極かって、結構紛らわしい。超時空ゲートが開通可能なタイミングの分布よりも地磁気の逆転のほうが頻回になっちゃうから…やっぱりゲートごとに「どっちがN極!」って、書いてもらわないと困るよね」
地磁気は、金属を中心とする地球の核が流体として回転し、発電機のように磁場を発生する、と言われている。そして、えらく気まぐれだ。
毎年方向がふらつくし、強度もばらばらだ。
「って言っておいて、帰ってくるときには地球の磁場も逆転してたりして」
ちょうど時空共通暦52年現在の地球においても、地磁気が消滅するのではないかというくらい弱くなってしまっていて――このままでは逆転してしまうのでは、といううわさが真剣に取りざたされているのだ。
「いやな冗談、やめてちょうだい。人死にが大勢出るわ」
「少なくとも、その瞬間に飛行機にだけは乗りたくないなあ。」
だいいち、千年前から「千年後には地磁気がなくなってしまうぞ!」と言われ続けて、いまだに何も対策を講じていないのが悪い。
もし起きたら。航法装置と滑走路番号がめちゃくちゃになって電離層にも影響が出て通信が通じず…悪夢だ。
もしその瞬間、飛行機に乗っていたら――運がなかった、ということである。
アリアはやれやれ、とたしなめる。
「おきませんように、でしょ、そこは」
「ま、そうだね…」
「ふと思ったけど、どこにも「どちらが北です」って書いてないのって、石炭紀後期に来るような手練れにとって、キアマン・スーパークロンは常識だからかな。」
キアマン逆磁極スーパークロン。
そもそもその前に、おさらいしておきたい――地磁気が本当に、「安定」して向きが決まる時代は、地質上ごくわずかしかない。超時空ゲートで抜けた先の詳細な年代測定がいまいち精度が悪い以上、そこでのN極が北を向くのか南を向くのかは、実際実験してみるまでよくわからない、ということになる。
そんな中に、数少ない例外がある。
――キアマン逆磁極スーパークロン(キアマンスーパークロン)だ。
石炭紀後期からペルム紀前期にかけて、地球の磁場はほとんど安定して現在と逆だった。「安定している」こと自体が、むしろ異常なのだ。原因には諸説ある。
つまり、石炭紀後期というだけで、N極はほぼ、南を向いているものなのだ。
もちろん、現代の地球で設計された地図アプリにはそんな「常識」などインストールされていない。
アリアは軽く首をかしげる。
「・・・いや単純に、外から来る人がいないから、じゃないかしら」
壁に貼られた案内図。
南北ではなく方位磁針の赤と白だけで表示されているものもあって、いったいどちらが南でどちらが北なのか、わからなくなってしまう。
ほんとうに、アンフレンドリーだ。
むしろ――ここの人々は南北表示を変更しないまま、赤と白で方位を判断しているのかもしれない。
「・・・もしかしてだけど・・・ここの人たち、どっちが北か南か、意識してない・・・?」
「そうね。赤いほう、と、白いほうって彼らは答えるわ」
人には、磁場を感じる器官がない。
ものすごい磁場をかけられても、影響を受けるどころか、感じることすらできないのだ。地上に這いつくばり、電子機器に頼らない限り――磁場の向きがどうこう、ということは、何の影響も及ぼさない。
しかし、そんな、見えない、なにも感じないような変化を可視化して考えることこそ、人の強みであって、ほかの生き物とは違うものだと思いたい。
その針がどちらを指すかにかかわらず――方位磁針とは、そういうものだ。




