磯香(1)
青空を胸いっぱいに吸い込めば、強烈な磯臭さが鼻を衝く。
波は静か、しかし香りはもうひと波、押し寄せる。
キュウリの様な青臭さに、ほんの少し、石油にも似た、ケミカルな匂い。
硫化水素も少し、混じっているだろうか?
3億年前、イリノイ州。北米を満たした大陸中央海のにおいは、強烈だった。
しかし、この強烈さを楽しめるのも、今だけなのだろう――ひとの馴化は、残酷なほどに、知覚も感性すらも奪っていってしまうから。
パラーで嗅いだ臭いとは全然違う――それを知り、考えられる瞬間は、いまくらいのものであるように思った。失った処女体験は戻っては来ない。
はじめて見るものをはじめてのものと感じる瞬間に備え、日々知識を蓄え、研鑽するのである――世界をもっと、面白くするために。
すうっと息を吸い込んで、ベンチから立ち上がった。
足の痺れは、もうすっかり消えていた。
コンクリートに照り付ける太陽が、髪の毛をちりちりに焼いてしまいそう。
海に飛ぶものの姿はない。
3億年前の海には勿論鳥もコウモリもいないし、巨大昆虫だって海は嫌いと見えた。
ただ打ち付ける波はひたすらに静かだったが、黒々とした魚の群れが、暗雲のように右へ左へと揺らぐのが、影となって見えた。
そして、問うた。
そもそも磯臭さとは、なにか。
磯臭さなるものは、命の総体である――というのでは、軽すぎて答えになっていなかった。自明のことかのようである。しかし命のない海の臭いは、想像できなかったし、命の総体という抽象的な概念で世界を語ったことにしてしまうのは、人生を損しているような気がしてならなかった。
ただ、その匂いが海域によって少し違うことの説明にはいちおう、なっていた。
異なる地を訪れれば、そこの香りがあり、味がある。
その観点で言えば、この地の強烈な磯臭さに相当するものは、現代のどの海にすらなかったし、その香りをかぐだけで、この海が私の慣れ親しんできた地球の海とはまるで異なる生態系の上に成り立っていることを、よくあらわしていた。
磯臭さとは、何をもってそういうのだろう。
砂漠に面し、沿岸に潮の砂浜が広がるパラーの海―Itaituba-Piaui sea―では、私は磯臭さなるものを、感じなかったのである。海であるにもかかわらず、覗いてもなお、どこかどうにも海という感触の実感が持てず、どこか巨大な湖のように思ってしまっていたことは、ナチュラリストとしてあまりに恥ずかしいことこの上ない。
しかるに、磯臭さなるものが、おそらく特定の生物の一団の存在を嗅覚によって知覚し、それが海というイメージや磯というイメージと刷り込まれたからこそ、磯臭さと感じているのではなかろうか?
――そのとき、大学の気象学の講義が頭に浮かんだ。
「生物の浸透圧調整に使われるジメチルスルホニオプロピオネートが、ガンマプロテオバクテリアによって分解されてジメチルスルフィドになり、それがエアロゾルになり、凝結核になって雨を降らすのです、ジメチルスルフィドというのは所謂、磯の臭いであって、アオサ汁を飲むたび私は、ああこれが雨を降らせているんですなあ、と思うんですね・・・」
そんな一節が、ふと頭にリプレイされたのである。
海のサンゴやプランクトンが、じつは降雨に関係している、という内容であった。




