温もり
すぅ、すぅ、と立てる寝息だけが、エンジン音と風切り音に混じっていた。
隙間風が立てるような、甲高く、聞くだけで寒気を催す音の中。
意識を保っているのは、もはや私だけのようである。
闇夜のつくる、ぼんやりとした白黒の世界。
もこもことした、分厚い防寒着にくるまった人々が、雪だるまみたいだった。
感度が上がってノイズだらけになった視界に、ぼんやりとした白い影を浮かばせる。
足元にルビーみたいに鈍く光るのは、ほんのなけなしの足元灯。
それもあまりにも暗くて、何かを照らし出すことすら、まるでなかった。
――まるで、敵地に乗り込むための、灯火管制じゃないか。
そう思ったけれど、そもそもこの長い夜間フライトの中。
起きている客の存在自体、想定されていないのかもしれない。
息を吸い込むごとに、のどが痛い。
乾いた空気を吸い込んだ鼻には、痛みをまとった膜がへばりついたよう。
地上で感じた金属や油の臭いも、もはや何も感じられなかった。
砂漠の夜はよく冷える、というが、そういうことであろうか。
どうにも、この空飛ぶ金属の塊に断熱性という概念があるのかどうか、やや怪しかった。
若干、与圧がちゃんと効いているのかどうかも怪しい気がする。
明るいうちに見る限り、雲を越えることすらなかったし、離陸の際には妙に耳に、違和感があったし、離陸してしばらくは妙に頭痛があった。皆ここまですっと寝てしまうのも――低酸素のせいじゃなかろうか、と思うと、ちょっとまったく、笑えなかった。
窓を覗いても、なにもない。
パラーを過ぎると、機窓に映るものは、なにひとつ、ない。
人の明かりがない世界が、こんなに、闇に覆われているなんて。
ぼんやりとした山々の白い影が、うっすらと見えることはある。
しかし、それももやのような、かたちのない物で、形あるものが何かあるといえば、星空のみである。
その星空ですらも、妙に霞んでいるような気がして、そんなに美しいものではなかった。
そもそも、機体の窓の透明度と、凍った結露の問題であるらしい。
ちくり、と冷たい窓枠に触れれば、一瞬、指先がくっついた。
あわてて離すと、指の腹がじんじんと痺れる。
氷河地帯を過ぎてなお、機内はやはり、冷凍庫であった。
もう、亜熱帯の上空であるはずにもかかわらず。
この真っ暗な空の中、リリィは今頃、計器だけを信じてこの機体を操っているのだろう。
何も見えない世界、数字だけの世界。そこを、何人もの客の命をのせて飛ぶ。
――私にはとても、できそうにない。
そこに何かがあるということ、というより、自らが存在するということすらも、闇夜の中では溶けてしまいそうに思った。いったい何を頼りに、何を信じて、この空を飛ぶのだろう。
あるいはそういう恐怖心すらももう、克服しているのだろうか。
あとで聞いてみるのも悪くない――が、返事によっては帰りのフライトが不安になるかもしれない。
――ああ、もう限界だ。
きんと冷えた機内、石みたいに硬い座席。
ありったけの防寒具を着込んで、背中に背負ったパラシュートに身をゆだね。
瞼を閉じれば。
たちまち意識は滴り落ちて、ひと柱のつららになったかのように、凍り固まった。
何時間後だろうか。
暖かく、どっしりと重い…
身体の芯が圧迫されるような、鈍い痛み。
まぶたの裏に、鈍く、重い赤を感じて、ゆっくりとひらいていく。
もう、朝の5時くらいだろうか。
機窓からは、暖かなオレンジ色の陽が、床に丸い列をなしていた。
私の前には、1つの影しかなかった。そう、私の影は――押しつぶされていた。
――痛みの原因はもう、明らかだった。
隣の席で寝ていたアリアが、寝相を崩してのしかかっている。
アリアは170㎝台後半はあるだろう――私より30㎝は、背が高い。
私の体幹に荷重制限がかかるのは、いうまでもない。
普段ですら、アリアの肩は、私の頭の、はるか上にある。
抱きしめられたり、頭をポンポン撫でられたりする。
でもそれは常に一方的だった。
先ほどのフライトでも、私は気づけばアリアの膝の上で寝息を立てていた。
きっと――こう、もたれかかって寝ていたんだろうな、と思う。
私はそっと身をよじると、肩にもたれかかっていた彼女の体を、そっと誘導した。
ずっしりとした重さと柔らかさとともに、それはゆっくりとさらに倒れこんできて
――巨大な上半身が、膝の上に納まった。
そのとき一種の、自分でもよくわからない優越感に浸った。
いつも見上げてばかりだが、今日は見下ろす番だ。
重さに足がややきしむが、とりあえず、温かい。
いい湯たんぽを得たと思うことにした。
そっと両腕を肩から胸に乗せれば、しっとりと、温い。
その寝息を立てる顔立ちは、思っていたより細くて、繊細だった。
こんなに近くでまじまじと見るのは、初めてかもしれない。
あんなに遠く上にあったのに、今は膝の上で、掌に収まりそうなくらい小さい。
骨格からして、全然違う。
大きな目にかかった、くるりと長いまつげに、霜がつきかけて、さらに輝きを増していた。
すっと伸びた鼻に、薄い、鮮やかな唇。
ええい、ともあれ。
実は素顔すら全然知らなかったな、などと、今更ながら思う。
――下から見上げることしか、なかったから。
写真やせするよね、と思っていたが、歪んでいたのはどうも、私の視界のほうだった。
見上げるばかりで、なんというかひどく――視点のせいで、上下に圧縮されていた。
そっと身をよじって窓をみやれば、朝焼けに照らされた大地が目に入る。
雪も氷も、どこにもない。
そこにあったのは、砂と岩石が支配する荒野であった。




