大きい虫も、小さい虫も、そうはいない ≪登場古生物: ゴキブリに似て非なる昆虫(ローチオイド)≫
朝っぱらから風呂に入ったせいで、一日がもう終わってしまいそうな気がした。
しかし、ここからである。
空はもう、真っ青。
1.2倍多い大気がなす空は、分厚いガラスを、断面から見たみたい。
そこに、擦れた雲が、糸くずみたいに散らばった。
宿を出て、大きく伸びをする。
硫黄の臭いには、もう慣れた。
鉄さびと石灰と、あとほんのすこしの泥炭の混じった、この町のにおい。
ここの空気は、胸を内側から、押してくる。ねばついたように、のどに絡む。
頬をなでる風も、どこか、質量をもっていた。
話す声も、どこか鈍く、こもって聞こえる。そんな気がした。
息苦しい、というわけではない。
酸素が多いから、というわけでもない。
パラーの空気は、ふつうだったから。
むしろ――漂う独特の香りのせい。
もしくは、寧ろ私の、内面的なものに起因する重みなのだろう。
コンクリートを、角切りにしたみたいな町なみ。
壁は滑稽なくらい分厚くて、ところどころ、ちょっと角が崩れ始めていた。
スケール感が、こわれている。
精度の足りないミニチュアの街に、滑り込んでいるような気がした。
この町は――とりあえず人を収納するための、収納箱みたいだ。
城壁みたいな壁にあいた、銃眼みたいな窓。
プレーリードッグみたいにひょいと顔が飛び出す。
昨日とはうってかわって、人の気配は、そこらじゅうに。
窓伝いに掲げられたロープに、洗濯物を干していく人。
街角で身振り手振りを交えながら雑談する人。
湯気のたちのぼる、道端の水路に足を浸す人。
今日は、休日なのである。
ふと振り返れば、アリアはドローンを飛ばしながら、街を撮って回っていた。
1.5mほどは有りそうな報道用のドローンが、バリバリと音を立てながら上昇する。
そして高度を上げると、不思議なくらい、静かになった。
ガトリング砲みたいに束ねられたカメラの束が、周囲をぐるりと見渡す。
誰かがかけた音楽が、窓から漏れて、やわりと拡散して、とろけていった。
だいぶ前に流行した曲だった。
アリアが通りを歩くと、締まっていたドアがひとつ、またひとつと開いた。
家族だったり、おやじひとりだったり。
ともかく、人々がすっと外に出てきた。
彼女はそうした人々と笑いながら写真を撮って回っている。
「動画にも出していい?」
そう聞かれると、ほとんどだれもが、ぜひぜひ、と快諾していた。
ふと見れば、子供にたかられている。
「恐竜の話して!」と聞かれると、アリアはしゃがみ込んで目線を合わせて、フィールドで出会った様々なエピソードを語る。むろん、子供たちは大喜びである。
あぁいうことは、私にはできないだろう。
私は、そんな様子を片目に見ながら、ひたす仕掛けておいたFITを順にチェックしていた。生け捕り用のボックスを、標本用の保存液ボトルに置き換えていく。
これを、昼の12時までに終わらせなければならない。
…調子に乗って、かけすぎた。
というかかけた本人は、いま町で撮影しているわけだけど。
成果は、乏しい。
ぽつり、ぽつりと、かかっているくらいである。
見かけも、いま見るものとそうは変わらなかった。
多くは、鮮やかな黄緑色の、ゴキブリに似た昆虫だ。
むしろバッタのようにも見えて、いまのゴキブリのイメージからするとだいぶ違和感がある。
現在もこういう黄緑色のゴキブリが色々いるけれど――おそらく、樹幹を跳ね回っているのだろう。樹冠にかけたものがとくに成果が多かった。
敏捷性に関していえば、現在のゴキブリとは比べ物にならないほど鈍重だった。
いかにも速く動きそうな見た目をして遅いものだから、ついつい動きを予測して出した手が、オーバーシュートしてしまった。
石炭紀の昆虫というと、大きい、というイメージがある。
しかし、これらの昆虫は台所によく出るクロゴキブリに比べると、だいぶ小さい。
だいたい、翅長は2~3センチ。
ちょうど熱帯地方に出て、餌用に飼育されたりもするトルキスタンゴキブリ(レッドローチ)くらいの大きさである。
翅の色調や足の模様には幾らかの個体差が見受けられ、おそらく複数種をあらわすのだろう。翅脈に関しては、標本にしてから再検討するほか、あるまい。
さて、この“ゴキブリ“だが、厳密な意味でのゴキブリではなかった。
尾部を見れば、鋭くとがった産卵管がついている。ちょうど、小型のキリギリスの仲間にみられる産卵管によく似ており、おそらく植物を刺したり、隙間にねじ込むように卵を産むらしかった。
体も軽く、翅に対して著しく小さい。
ぱっと手から飛び降りると、そのまま何メートルも滑空するように飛んで行ってしまって、追いかけるにも手を焼いた。
おそらくだが、樹上から飛び跳ねて、そのまま長距離滑空することによって木から木へと飛び移っているのではなかろうか。
さて――バタバタしながらも、夥しい数のFITの回収と換装も、あとわずかだ。
結局入っていたのは、ゴキブリのような昆虫と、どこかカンタンを思わせる原直翅類が1匹、くらい。
しかし1トラップ当たり平均して0.5匹という昆虫密度で、はたしてよいデータが得られるのだろうか?という点に関しては、やや疑問だった。
空の容器を見るたび、世界がしん、と静まり返ったような気がした。
なにせ、現代の地球でFITなんてやったら、捕れ過ぎて当たり前なのだから。
少ない原因は、2つ考えられる。
ひとつは、小さい昆虫を捕獲できていないこと。FITで落下したとしても、“賽銭箱状”の生け捕り用ボックスではうまく中に流れない。
もうひとつは、小さい昆虫が本当にいないこと――
その時だった。5㎜ほどの、ごく小さなハエのような昆虫が入っていた。
どのグループに入るのか、いまいち見当がつかない。
しかし――これはおそらく、蛹というステージをもつ、完全変態昆虫だ。
翅が4枚…膜翅類か?
しかし、現代の地球では「翅が2枚のハエ状=双翅類(ハエや蚊など)、翅が4枚なら膜翅類じゃないか」といったことを言える。
しかし、この時代では全く、そんなことは言えない。ハエとハチとは、結構遠いようなのだ。
3億年前ともなると、第二第三の「ハエもどき」がいても、全くもっておかしくはない。
というより、ハエのような形態が完全変態昆虫の祖先形質だったとしても、私は驚かない。
「君は誰?」
私はもう、その煌めく翅と、その小さく精巧な脚をうっとりと眺めるほかなかった。
心臓の高鳴りが手に伝わって、ケースが少し、揺れた。
それは翅を震わせると、生け捕り用のケースから飛び出そうとして
――待ち構えていた私の吸虫管に、ひょうとすいこまれることとなった。




