色香
石臭いぼろ宿。
灰色の郷愁が、ふっと包んだ。
あの、化石クリーニング場に足を踏み入れたときの、鼻をざらりと包むにおい。
地質古生物研にも、よく顔を出したものである。
出元は、打ちっぱなしのポルトランドセメント。
そりゃそう、かもしれない。
ポルトランドセメントは、化石になった生物、つまり石灰岩から作るのだから。
化石となった生き物の香りが、そんな記憶を宿しているのだろう。
いやいや、単純に水酸化カルシウムなんだろうな。
現役のものを嗅ぐことも、私には物珍しかった。
溶けて、鍾乳洞になった姿は東京の地下でよく見たけれど。
私たちにとってポルトランドセメントは、千年前の街を作っていた物質である。
植民都市では、急造のために多用されているので驚いた。
百年後、どうするんだ。
足元をみやれば、冷たさが、ぬらぬらとよじ登り始めている。
氷河期の放射冷却は、夏と言えども夜を凍てつかせる。
あの宴会から帰るやいなや、アリアは寝袋にすっと入って、溶けるように寝てしまった。
「ライトトラップやるって、言ってたじゃないか。」
私はそんな言葉を、飲み込んだ。
石炭紀まで来て酒飲んで寝るなんて。
勿体ないったら、ありゃしない。
それでいて、話していた内容も、地球でだってできるものばかりじゃないか。
少々、苛立ちが混ざっていた。
すぐに、リリィもあとに続く。
あの席ではずいぶん濃密なディスカッションをしていたようだし、今日も交渉に飛び回っていた。
そりゃあ、疲れも出るだろう。おやすみ。明日もよろしくお願いします。
ふたつの寝息と、僅かに残ったアルコール、あとほんの少しの理髪料か香水か。
灰色の臭いの中に、ふわふわと、甘く漂っていた。
要塞みたいに分厚い壁の内張りに手をかけ、落ちくぼんだ窓から外をのぞけば、窓からちらつく、夜空の星と同じくらいちっぽけな灯が、ぽつり、ぽつりと散らばるのみ。
月明かりだけが、寝静まった町を照らす。
その豆腐みたいな直方体は、沈黙する暗闇の中で、えもいえず美しかった。
…そのとき、急に、黒いものが覆う。
わたしの、前髪だった。
頭を軽くシェイクして、振り払う。
――あぁ、忘れていた。
ぱちり、と洗面所の電気をつければ、
ぼんやりとした室内灯が、洗面台をぼうっと、照らしている。
光っているのに、ただでさえ暗い部屋の雰囲気は、さらに暗くなった。
水垢で、ちょっとくすんだ鏡。
前に立てば、いつの間にやら、髪はだいぶ伸びていた。
眉を越えて目にかかっているし、耳は上半分が、埋没していた。
はさみを取り出せば、ちっ――とつたわる、金属の冷たさ。
触れれば、髪越しにその硬さが伝わった。
ちゃくっ、という微かな音とともに、
視界をちょっとかすめていた前髪が、ぱさり、と散る。
髪束は、落ちながらばらけ、洗面代にぶつかって、砕けた。
視界がふっと、明るくなった。
しかし、鏡を見た、その瞬間。
胸のあたりに、きゅう、と痛みに似た感触が走った。
世界が青白くなる。
速くなる、鼓動。
前髪が短くなったぶん、切り残された耳まわりが、みょうに主張する。
思わず横を向けば、頭から首にかけて、滑らかで丸みを帯びた、柔らかなラインを描いていた。
違和感の正体に気づいて、また、背中を何か、毛のようなものが走る。
鏡に映っている女を、私だと認識することを、私が拒んでいるのだ。
さっきの宴会。
冗談半分で脇の下を持たれてひっくりかえされた感触は、まだうっすら残っている。
あの瞬間、あのおっさんは確実に、私の性を察しただろう。
その瞬間、私自身もなにか、意識してしまったのかもしれない。
あんな男を相手にすることはない、と思いつつも、あの触覚が、持続時間を越えて生きていた。
――そうじゃない。
息がますます、速くなる。
がむしゃらになって全体を小さく切りそろえたあと、私はふっと息をついた。
頭がすっと、軽くなったような気分。
鏡を見ても、何も起きなかった。
虎刈りになった髪を、ちまちまと整える。ここからはもう、慣れ親しんだ手の動き。
ただの、毎月の心和む作業にすぎなかった。
そして、私にとって心和むとは、思考に耽れる、という意味である。
私は、先ほど経験した奇妙な出来事について、思いを馳せた。
髪というのは、意識を強く帯びている。
げんに私は、ただ、髪が数センチ長いか短いかというだけに、あんなにもかき乱された。
髪というのは、人らしいのだ。
チンパンジーにもゴリラにも、髪などというものはない。
異常に長く伸び続ける髪と髭は、私たちにとって、何か特別の意味を仮定しなければ、説明しえないだろう。
かの、白髪とこれでもかという髭を蓄えたダーウィンは、ひげや髪を、クジャクの羽のようなディスプレイだと考えた。
これは、たしかに理にはかなっている。
しかし、それではなぜ、人は髪を切ったり、結ったりするのだろうか。
そして、なぜ社会的にこんなにも、髪が性と、結びついているのだろうか。
この旅の道中、私は何度か、嗅がれた。
アリアが嗅いでくるのはいつものことだが――耳元で話すときに、ふんふんとそれとなしに首すじを嗅ぐのである。
火星人の奇特な習慣と思ってやり過ごしていた。
まぁ、私に親密にかまう人などアリアくらいなので、世間の人はみんな、くんくん嗅がれているのかもしれないが。
しかし、この星の人々は距離が近い。
そして、髪の臭いを嗅ぐ習性についても何度も経験した。
まったく驚かされる。
……体臭がするだけですよ。
そして、彼らはきまって、耳やうなじを嗅ぐのである。
いま私が恐怖したのは、耳から襟足にかけて連続した、髪のかたまりだった。
そういえば、耳と襟足、両方が全く露出した髪型は、そう多くない。
これははたして、偶然で片づけられるだろうか。
女性と同室だと――理髪料や香水の甘い香りに、驚かされる。
これだけの香りを人為的に充満させるのだから、知覚可能な体臭とにおい付けによって、人類は性的コミュニケーションをとってきた可能性が高い。
……となると、それを拡散させ、発散させるためのデザインが性的アピールに有効であったのかもしれない。
知覚すらできないフェロモンなどというものを前提にするより、ただ体臭と人為的につけられた香りを使ったとする方が、よほど合理的だ。
知覚できないことを求めることは、困難だ。それに人と文化の結びつきは人においてはひどく後天的で、社会によって慣習づけられたものであると、マルセル・モースもそう述べている。
だから、一般性があるとすれば、むしろ無意識的になぜかそうなっている面に目を向けるほうが適しているのかもしれない。
部屋は、真っ暗だった。
――となると、ヒトの毛が陰部と髪に残った理由も、体臭の保持という一点にまとめられるのではないか?そして、簡単に捲って確かめられる構造が――性の確認には望ましく、雄を誘うのであろう。
スカートや腰布ですら、深層では同じではなかろうか。
……楽しくてならなかった。
散らばった髪をまとめて寝床につくと、あっという間に、日が昇った。
「髪、さっぱりしたね」
アリアの声は、なんだか妙にモノトーンだった。
「え、一人で切ったからわからないけど、ヘン?」
「いいえ」
――やっぱり棒読みだ。
「いや、ヘンでしょその反応」
「いつもに戻ったなーって、そんな感じ」
「戻ったなら、いいじゃん。そんなカチコチにならなくても」
そんな、ぎこちない会話から一日が始まった。
外を仰げば、毒々しいまでの赤紫色。
木星みたいな雲の縞が、ひゅぅっと、青紫色に影を落とす。
「二人とも、温泉、いかない?」
リリィの声で、ふっと我に返る。
温泉。
この宿には、露天風呂がある。
セキュリティにはやや問題があるが、ちょうどよく荒れていそうだった。
そして、もしかするとそこで、ちょっとした採集ができるかも。
よし、やるか。
採集道具を準備し始めたら、さっきのことは全部頭から吹っ飛んでしまった。
宿の主人は、朝からフロントに出張って、タブレット端末をいじっていた。
指と一緒に、頭がうんうんと動いている。
飲みかけのピート・コーヒーが、埃をかぶった書類の上に置かれたまま。
テレビの画面にはニュースらしき放送が流れっぱなしである。
「お湯、お借りしていい?」
リリィが声をかけると、わずかに眉を顰め、ひょいと目を上げる。
「構わずいつでも、好きに使っとくれ」
そういって、すぐ画面に戻った。
You lose!と書かれたゲームの画面がちらりと見えた。
いつもあんな感じ?と直接聞くのもどうかとは思ったけれど。
まあ、干渉されないくらいがちょうどいいというところではあるのだろう。
ただ、一日中、まったく何もやっていないというわけでもなさそうだ。
荷物を運ぶカート群は、昨日来た時とちょっと配置が変わっていた。
採集道具を詰めこんだ肩の荷が、ずっしりと沈む。
昨晩は結局、ライトトラップをやれなかった。
2人とも夕食の後ぐっすり寝てしまって、一人で勝手に設営するわけにもいかなかった。
とにかく、採集できるタイミングを逃さないよう、サンプルを回収していかねば。
そういう焦りが、肩にのしかかっていた。
更衣室には、煤けた、ごてごてとポケットのついた服が2着、無造作にかけられていた。
「ほかに客がいる、こんな朝っぱらから」
「朝だし、出勤の方ね。めずらしいことでもないわ」
「大丈夫かな」
そう言って、私たちは顔を見合わせた。
「アリア、心配しすぎ」
リリィはあっけらかんと笑ったが、アリアのほうはこわばったままだった。
*作中の造語。実際に古生物を過去に採集しに行くものに対し、化石を研究する者の差別化のためつけられた名。2025年現在の区分としては「地質・古生物」だが、これを一語にまとめている。
お待たせしました。
次回から古生物編に戻ります。




