10.夜の主
「…食われた?」
一瞬静まり返った中、そこには――ちゃんと、いた。
咄嗟に拾い上げたとたん、第二波がきた。
「あっぶねぇ…。」
「ほんっとに危ないから。さっきの、「サメ」。腕食いちぎられるよ?」
「え、はやく言ってよそれ」
ヘッドランプに照らされた水中に、ユニコーンみたいな一本の角を持つ影が映った。
ナマズにサメの頭をつけて一角獣にしたような、ゼナカンサスXenacanthusの仲間の――たしかに、「さめ」だった。オルタカンサスに少し似ているが、既知の種のフォルムとはやや違っていた。
あれは――近々、捕獲作戦を練らねばなるまい。
ともあれ私の手には、いま、ロブスターサイズの昆虫が握られている。
「ケイ?どうしたの?持ったままぽかーん、として」
それが昆虫であること、それを掴んでいるというということ。
それらがどうにもこうにも、信じられなかった。
筋肉が動くたびに感じる、ずっしりとした重み。
昆虫がこんなに重くていいのか。
というか、この重さで、飛ぶのか。
そして、絶妙に温い。
腹部はひくひくと絶えずポンピングしていて、動くたびに温かい体液が循環するのを感じる。
腹部に並んだ気門も化け物みたいに大きくて、動くたびに昆虫の吐息を感じる。
トゲだらけの、一本一本がオオカマキリの鎌くらいある脚が手に食い込んで、軽く流血した。
胸は異常に前傾していて、それでいて足はといえば後方に長く伸びている。
トンボというか…トンボを少し押しつぶしつつ、キリギリスの脚をつけたみたいな。
胸の大きさは、現在のトンボに比べるとかなり控えめだ。これでどうやってあの巨大な翅を高速で羽ばたかせているのか、不思議でならない。
現在のトンボの胸は気嚢でスカスカだけれど…それがみっしり詰まっていたら、それこそ発熱を抑え込めないのではないか?
本当に目の前に飛んでいるのに、設計が不安に思えてきてしまう。
うっすらと赤く光る眼は頭の大部分を占めていて、トンボそっくりだ。
それはもう黒くて、捕まえた直後のようにピンクからオレンジのまばゆい光を放ってはいない。
早速、明るさに慣れてきたのだろう。しかし、どうやって…?
沿う観察していると、頭をぐりぐり動かして、噛もうとしてくる。
こいつに噛まれるのは――絶対に避けたい。
観察に集中すると、ようやく、手足に感覚が戻ってきた。
いる。私はここに、いる。
クラクラとした酩酊感が遅れて、どっと襲った。
視界が歪むような、なんというか…手に掴まれたメガネウラ(暫定)が動き、羽ばたく翅が扇風機みたいだ。少し耳垢のにおいが混じったような風を受けて、目が覚める。
その一瞬の違いを、嗅ぎつけたらしい。
「記念撮影!」
アリアがカメラを構えて、まっすぐに私を見つめていた。
私がそいつを突き出したら、ようやく、そいつの翼開長が、なんと私の肩幅よりも広いことに気づく。
ぷっ、と、不意に吹きだしてしまった。
「ほら、やっぱり!」
「メガネウラとも限らないよ、まぁとにかく、持ち帰って、翅脈を確認しないと」
「そうじゃなくて!」
「ものすごくデカい、とか?」
「いま、すごくいい顔してた」
「あ、ボクのことね。それはまぁ、いいから」
するとアリアは、ぷぅと頬を膨らませるのだった。
そうこうしていると、またヘッドランプに誘われた虫が飛んできた。
前胸部がやたら長い。ゲラルスあたりの原直翅類だろうか。
それが高度を上げたとたん、私たちのカヤックのすぐ真横から突っ込んでくるものがあった。
一瞬風圧を感じるとともに、そいつは急上昇して、犠牲者をかっさらっていった。
「近かった…」
「急降下じゃないね。急降下+上昇…予想は、はずれだ」
私は、想定していた狩りのモデルがだいぶ違っていたことに気づく。
恐らくだが――上空から舞い降りるところまでは正しい。
しかし、ハヤブサのように速度を生かして轢くのではなく、降下して速度を上げつつ低空を滑走して、獲物が“上”に見えたときに、のこった運動エネルギーを位置エネルギーに変換して急上昇し、とらえるのである。
「なんで上に上昇して捕まえるんだろう?」
と不用意なことを呟いたら、
「そりゃ、暗闇で下より上の方がよく見えるからじゃない?」
とそっけない答えが返ってきてしまった。それはそうである。
レーダーと同じで、対地モードではノイズに混じった獲物を見出せないのだろう。
戦利品を大きな袋に入れ、大事に抱きかかえながら来た道を帰る。
桟橋が見えたころには、毒々しいほどに赤く、少し黄色みがかったもやのついた朝焼けが、空を染め上げていた。
「火を運ぶとか言ってたけど、もしかして山火事に集まったりとか、しないかな」
「まさか、そんな…」
「確かに一理あるとは思うんだよね。アレトプテリスの森だったじゃん?あそこ」
「うん」
「あの仲間の多く産出する地層は、灰を多く含むんだ。油分を多く含んでほかの木ごと燃やす戦略だったんじゃないか、って推測まである」
「ってことは、火を運ぶって伝承もほんとうかも、って?」
「山火事になると、虫が慌てて飛び立つから…そういう性質は本当にあるのかも、って思ってみた」
そう言って空を見上げたら、本流の川面の上空にはなにか、点のようなものが飛んでいた。
「…なんだ、いるんじゃん」
でかい。
今抱きかかえているモンスターほどではないかもしれないが、やはり大きい。
少なくとも私の肩幅以上、40センチは越えていそうだった。
昼間はいちどもみなかったような大きさのそれらが、明け方の空を飛び交っていた。
その数は十数匹はいるというところで――
しかし、捕まえるすべは、どこにもなかった。
<メガネウラ編 完>
コラム 夜行性のトンボもどき
メガネウラ夜行性説は歴史のある説だが、描かれているのを見たことがない。
飛行時の体温上昇が激しく、全力で飛ぶなら夜間だろう、というのが論拠である。
さらに能動的な体液移動による冷却も考慮されねばならない。これに関しての考察はいずれすることとする。
しかし、夜に行動する巨大な目のハンターというものが不自然に感じられる方もいると思われるので、現生種における例を一つあげておきたい。
オオツノトンボである。トンボそっくりな外見で、街灯に集まる姿を時々見かける(おまけに独特な耳垢を煮詰めたような臭いがある)本種だが、真夜中に飛行して視覚情報をもとに昆虫をとらえるハンターだ。そして、頭のほとんどを占めるトンボそっくりな目には反射板があり、目が黒いのに中が燃えるように独特の光沢を放つという奇妙な見え方をする。つかまえてもほとんど飛ぶ気配がないこの種がどう捕食行動を行うかは以前から疑問に思っていた。この種の捕食行動については殆ど記述されていないが、小松貴「裏山の奇人」に行動の観察例があり、今回の描写の参考とした。
また同時に、私が今まで見てきたオオツノトンボは、もしかすると眩しすぎる光のせいで動けなくなった個体だったのかもしれないと思わされた。




