プロローグ <2>
遠くに大きな入道雲が浮かんでいる。見上げると、視界は青空一色になり、清々しい空を飛行機雲が横切っていた。
糸城に関する記憶を振り返る。
彼女とは入学した日から隣同士の席だった。けど、静かに授業を受けている様子と、読書をしている姿しか思い浮かばなかった。登下校の姿も記憶になかった。いつの間にか学校にいて、いつの間にかいなくなる。僕にとって、その程度の存在感だった。
入学したてのころは、珍しい苗字であることを口実に話しかける生徒もいた。しかし、ついぞ彼女と友達になれた生徒はいなかった。彼女が緊張して困った様子になってしまい、会話が弾まなかったからだろう。声をかけた人がやんわりと話を切り上げて去っていく。そういう場面を何度か見たことがある。
ただ一度だけ、彼女の存在を気にとめたことがあった。
先月の昼休み、まだ制服が冬服だったころ、教室内で男子同士の喧嘩が起きた。後に小耳にはさんだことだが、どうやら女絡みらしい。胸ぐらをつかんだり殴りあったりで、最終的に数名の教師が止めにはいるほどの騒ぎになった。喧嘩の最中、図書室に移動しようと席を立ったのだが、他のクラスから来た野次馬のせいで教室の出入口は塞がれていた。仕方なく座り直して、左手にある窓越しに空を見上げた。
その場にいる人間の行動は三タイプに分類できた。野次を飛ばして煽る者たち、楽しげに観戦する者たち、恐々としつつも喧嘩の行方を見守る者たち。ただ、僕と糸城は違った。前の方の生徒が立ち上がって、僕と糸城の机の間を通って教室の後ろへ避難した。窓ガラスに映り込んだその人影に気をとられて視線を向けると、いつもの様子で静かに読書をたしなむ糸城の横姿が映ったのだ。僕は教室の方に向きをかえて、喧嘩を観戦する振りをして彼女を観察した。文字を追うその瞳は儚げで、本の世界に没入していた。
窓から差し込む斜光の穂先が糸のように細まって。それが色白の頬を伝う涙のようで。小さな指先が慈しむようにページの端をつまむと、風に揺れる花びらのように白い紙がめくれて——。
つまりだ、周囲の状況に無関心な振る舞いが、僕の内面的な波長と共鳴したのである。
だから、このときの糸城を覚えていたのだ。
ちょうどパンを食べ終わってコーヒーも飲み干したときだった。塔屋から飛び降りた糸城が、僕のすぐそばにふわりと現れた。そんな風に見えたのは、落下時の風圧のせいで膨らんだプリーツスカートのせいだろう。着地時の音は、目と一緒に耳も奪われてしまったせいか記憶にない。両膝のバネをつかったしなやかな着地だった。
振り返った彼女は、教室や廊下で見かけるときの俯き加減な姿勢のまま、まっすぐドアの方に向かった。緑色のスカーフが、弱った蝶の羽根みたいにしおれている。すぐそばで壁を背にあぐらをかいている僕のことは、気にしていないように見えたのだが。
「……あのっ!」
ドアの前で立ち止まった彼女が、喉の奥から声を出した。普段、木琴を優しく叩いたような声色の彼女からは想像しにくい声量だった。意表をつかれてしまった僕は、不覚にも少しのけぞってしまった。
「……誰にも、言わないで……ほしいの……」
こちらを向き直り、消え入りそうな声を絞り出す糸城。僕は話を聞くことにして立ち上がった。こうして向き合って改めて思ったが、彼女の身長は僕より頭ひとつ分も低かった。身長百七十センチの僕に対して、彼女は百五十センチってとこだろう。妹より少し高いくらいかな。
僕からの返事を待つ彼女は伏し目がちで、やや目が泳いでいた。握った片手を胸にあてながら、小動物のような浅い呼吸をしている。クラスメイトに話しかけられたときや、先生に指されたときと同じ、緊張した様子である。
そんな彼女の平常心の乱れを気にしつつ、「大丈夫、誰にも言わないよ。鴉のことも、パンツのことも」と、安心させることにした。できるだけ穏やかな口調で言ったつもりだ。
しかし彼女はプルプルと小刻みに震えだし、顔が少しずつ赤くなっていった。
「パ、パ……ち、違うわよ! バカ!」
目を尖らせて、両手でスカートを抑えながら彼女が叫んだ。もう一度、記憶を振り返る。鴉を食べていたこと、ふわりとめくれたスカート。他に、都合の悪い場面はあっただろうか。
「……なにが違うんだ?」
「いやっ、違わないから! 言わないで!」
彼女はスカートをおさえたり顔から煙をだしたり、手をブンブンと振ったりして、忙しそうだった。
「だから、大丈夫だよ。秘密にするから」
手のひらを彼女に向けて落ち着くように促すと、彼女はやっと安堵の息をついて胸を撫でおろした。
「でももし、僕が約束をやぶったら?」
好奇心に従って尋ねた。別段、意図があったわけではないのだが、途端に彼女が無表情になってしまった。
光を知らないような目を僕に向けている。
——もし誰かに話したら……アナタヲ、タベルワ——
糸のような細い声に重力のような圧を感じた。塔屋の上で見た彼女のシルエットがフラッシュバックする。ブラックホールのような禍々しい瞳から発せられる何かが、身体にまとわりついて離さない。まるで水飴の海に落ちてしまったような、重たくて粘性のある息苦しい感触に、意識と身体が侵食されていく。
糸を弾くような繊細な音が聞こえてくる。雀の鳴き声だと気づいたのと同時に、僕の意識が、屋上に立っている自分の身体に戻ってきた。
思わず両の手のひらをじっと見る。手足は自由だった。全身がやや汗ばんでいる。一瞬だけ、こことは異なる空間にいたような気がする。僕の脳は、おぞましい化け物に喰われることを悟って諦めていた。そんな記憶の輪郭だけが、かすかに残っている。
幻覚? 気のせい? なにもわからないのに、確かに知っているのだ。
視線を戻すと、目と唇を少し尖らせて、ほのかに頬を膨らませた少女がいた。そうだ、僕はいま糸城と話しているのだった。スカートの前で握った両手がぷるぷると震えている。子兎が立ち上がって威嚇をしたら、こんな感じかもしれない。
糸城のおもしろい様子を見ているうちに困惑した気持ちが落ち着ついて、ふと、頭に意地悪な発想が浮かんだ。
それは他人と関わらない僕が、普段は意識しない感情だった。
「そうだな……約束を守るかわりに、なにかリターンがほしいな」
糸城のことを、少し困らせてみたくなったのだ。
「……なにが望みなの?」
彼女は両手で胸のリボンを隠すように体を庇い、目を狭めてそう言った。その防御的な仕草が、僕の悪戯心を更に刺激する。
「じゃあ……僕と付き合え」
彼女の目が驚いた猫のように丸くなった。
「……あ、あなたの彼女になれってこと?」
腕を組んで余裕を見せる。
「そういうことだな」
表情は薄笑いのままでいいだろう。
本気ではない。ただ、秘密を守り続ける労力に値する見返りはほしいと思う。そうでなければ不公平だろう。僕は偶発的に彼女の秘密を知ってしまった立場なのに、喋ったら殺される脅しをかけられたのだ。彼女が僕を食べるために殺しにくる姿は一ミクロンも想像できないけど、塔屋の上で見た光景は紛れもない非現実。だからこそ彼女の脅しには真実味がある。他人に吹聴するつもりはさらさらないが、薄水色のパンツが見れたというだけでは釣り合わない。
即答で断られるかと思ったが、予想に反して、うーん……と考え込んでしまった。顔文字みたいな糸目になった彼女の顔に、少しずつ影がかかる。制服から覗かせるくっきりした鎖骨の間に、小さな顎がくっつきそうになる。このままだと、また頭の天辺から煙が出るかもしれないな。
沈黙の間に気分が落ち着いた。糸城の困った顔が見られたことで、心に潜むイジワル妖精も満足したようだった。
代案を考えつつ、冗談だよ、と爽やかに言おうとしたそのとき——彼女が手を下ろして言った。
「……いいわよ」
え?
「……あなたの彼女になるわ」
少しだけ顔を上げた彼女の前髪——その影から、物語の中にいるときの、あの儚い瞳が覗いていた。取引を持ちかけたのは僕自身なのに、想定外の返答をされてしまい、僕は言葉を飲み込んだ。
昼休みが残り十分になり、校内放送のスピーカーから生徒がリクエストした音楽が流れてきた。いつもは流行りのJPOPだが、この日流れてきた曲は、ベートーヴェンの交響曲第五番『運命』だった。