第8章
俺は、冷たい床に座り込んでいた。
右眼に宿った、この忌まわしい『災厄の赤眼』。その脈動が、まるで新しい心臓のように、俺の頭蓋骨の内側でドクン、ドクンと響いている。
憎悪、憎悪、憎悪。
ヴェルナー。国王。そして、陽翔。
あいつらを殺す。この手で、この眼で、八つ裂きにして殺す。
それ以外の思考は、もはや俺の精神には存在しなかった。
俺は、復讐という名の衝動だけを燃料に、かろうじて生命活動を維持しているだけの、抜け殻だった。
その時だった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ!!!
地鳴り。
施設全体が、まるで巨大な獣に揺さぶられたかのように、激しく震動した。
天井から埃や瓦礫が降り注ぎ、壁に備え付けられていた魔法の照明が火花を散らして砕け散る。
けたたましい警報音が、鼓膜を突き破らんばかりに鳴り響いた。
『緊急事態! 緊急事態! 第3セクター、障壁大破! 敵性存在、侵入!』
無機質なアナウンス音声が、研究員たちの悲鳴に掻き消される。
次の瞬間、俺の目の前の壁が、轟音と共に内側から爆散した。
粉塵の向こうから現れたのは、人間ではなかった。
牛の頭を持つ、身の丈3メートルはあろうかという巨体の戦士。
鋭い鎌を持った、カマキリのような姿の暗殺者。
全身を黒い甲殻で覆った、巨大な蟻の兵士。
およそ、まともな人間の想像力が生み出せる範疇を超えた、悪夢の具現。
魔王軍。その言葉が、頭の片隅をよぎった。
「ひぃっ! ま、魔族だ! 魔王軍の襲撃だ!」
「な、なぜここが…!? 対魔法結界はどうした!」
昨日まで俺を虫けらのように扱っていた白衣の研究員たちが、今は自分たちが虫けらになったかのように、無様に叫びながら逃げ惑う。
王国の兵士たちが剣を抜き、魔法を放つが、魔族の戦士たちの前ではまるで子供の玩具のようだ。
牛頭の戦士の振るう巨大な斧が、兵士を鎧ごと豆腐のように両断する。
カマキリの暗殺者の鎌が、研究員の首を雑作もなく刈り取る。
血飛沫が舞い、肉の断裂する生々しい音が響き、阿鼻叫喚の地獄絵図が、俺の目の前で繰り広げられていく。
俺は、その光景を、ただ、見ていた。
新しく得たこの右眼は、世界の全てを血のような深紅色に染め上げていた。
その赤いフィルター越しに見る地獄は、まるで出来の悪い演劇のようで、何の感慨も湧いてこなかった。
俺をいたぶった研究員が、死ぬ。
俺を嘲笑った兵士が、死ぬ。
だが、俺の心は、凪いだ水面のように静かだった。
喜びも、憐れみも、何もない。
俺の憎悪は、もっと巨大で、もっと個人的なもののために、その全てが取って置かれているのだ。
その、カオスと殺戮のど真ん中を。
ふわり、と。
まるで一枚の黒い羽根が舞い降りるかのように、一人の女が、音もなく俺の前に着地した。
長い、長い、漆黒の髪。
それはまるで、夜そのものを溶かして紡いだかのようで、周囲の乱戦の風を浴びても、静かに揺らめいているだけだった。
肌は、月に照らされた雪原のように、人間離れした白さ。
その白い肌に、黒と赤を基調とした、魔力を帯びた豪奢なドレスがよく映えている。
首元には、まるで誰かの血を固めて作ったかのような、深紅の魔法石が妖しく輝いていた。
そして、その瞳。
切れ長の瞳は、夕暮れの空の色を映したかのような、紫紅色。
その瞳には、一切の感情が浮かんでいない。
ただ、目の前の光景を、現象として認識しているだけの、絶対的な強者のそれだ。
美しかった。
この世のどんな芸術品よりも、どんな生命よりも、完成された、冷たい美しさ。
彼女は、周囲で繰り広げられる死闘など、まるで存在しないかのように、俺だけを見つめていた。
その優雅な歩みを止めようと、数人の王国騎士が、決死の形相で彼女に斬りかかる。
騎士たちの剣が、彼女の白い首筋に迫る。
だが、彼女は彼らに視線すら向けなかった。
ただ、俺から目を離さないまま、白魚のような指を、パチン、と軽く鳴らした。
その瞬間。
騎士たちの足元の影が、まるで生き物のように蠢き、黒い杭となって彼らの身体を串刺しにした。
いや、違う。
影から、燃え上がったのだ。
音もなく、熱もなく、ただ空間を黒く塗りつぶす、漆黒の炎が。
騎士たちは悲鳴を上げる間もなく、その黒い炎に包まれ、鎧も、剣も、肉体も、存在そのものが「消去」されていく。
後には、灰一つ残らなかった。
俺は、その光景に、息を呑んだ。
憎悪に染まりきっていた俺の心に、初めて、別の感情が割り込んでくる。
それは、畏怖。
神や悪魔といった、人智を超えた存在を前にした時に抱く、原始的な恐怖と、そして――抗いがたいほどの、魅力。
女は俺の目の前で足を止めると、ゆっくりと屈み込み、その紫紅色の瞳を、俺の顔の高さに合わせた。
ふわり、と夜に咲く花のような、冷たく甘い香りがした。
彼女の視線が、俺の姿を、まるで珍しい標本でも鑑定するかのように、ゆっくりと舐め上げていく。
絶望の色をした白銀の髪を。
呪いの紋様のように刻まれた魔法回路を。
そして最後に、俺の右眼――赤黒い渦を巻く『災厄の赤眼』を、じっと、見つめた。
その瞳には、憐憫も、嫌悪も、何もない。
ただ、純粋な、科学者のような、知的な好奇心だけが、妖しく揺らめいていた。