第5章
部屋を支配していた重苦しい沈黙は、重厚な扉がノックされる音で唐突に破られた。
俺と陽翔が同時にドアに視線を向けると、侍女が恭しく扉を開け、一人の男が悠然と中に入ってくる。
ヴァルハイム王国国王、アルキメデス。
その後ろには、全身を鋼の鎧で固めた衛兵が二人、機械のような正確さで付き従っている。
国王の入室。その事実だけで、部屋の空気が一瞬で凍りついた。
彼の存在そのものが、有無を言わせぬ絶対的な権力を発している。
「勇者殿、少しは落ち着かれたかな?」
国王は、ソファに縮こまっている俺のことなどまるで視界に入っていないかのように、陽翔にだけ慈愛に満ちた笑みを向けた。
だが、その目は笑っていない。
獲物にした蛇のように、冷たく相手の価値を測る目だ。
「は、はい、陛下」
「うむ。今日はゆっくり休むがよい。だがその前に、君に渡しておきたいものがある」
国王が指を鳴らすと、控えていた侍従たちがビロードの布がかけられた盆を運んでくる。
布が取り払われると、そこに現れたのは――神々しいまでの輝きを放つ、一振りの剣と一揃いの鎧だった。
剣は、刀身そのものが光で編まれたかのように白銀に輝き、柄には巨大な蒼い宝石が埋め込まれている。
鎧もまた、純白の金属に金の装飾が施された、まさしく伝説の勇者が身につけるに相応しい代物だった。
「聖剣アルムスヴァートと、光輝の鎧だ。古の英雄が身につけ、魔王を討ち払ったとされる我が国の至宝。これらは今日から、君のものだ」
陽翔の目が、見たこともないほどに輝いていた。
彼はまるで聖遺物に触れるかのように、震える指で聖剣の柄にそっと触れる。
その瞬間、剣は陽翔の魔力に共鳴し、まばゆい光を放った。
栄光、名誉、そして誰もがひれ伏す絶対的な力。
その甘美な毒が、今まさに陽翔の魂を蝕んでいくのが、俺にははっきりと分かった。
ああ、もうこいつはダメだ。
もう、俺の知っている陽翔じゃない。
「この剣で魔を討ち、この鎧で民を守るのだ。そして君は、この世界の救世主として、その名を歴史に永遠に刻むことになる」
国王は、うっとりとした表情で剣を握る陽翔に満足げに頷くと、ようやく、まるで床の染みでも見つけたかのように、俺に視線を向けた。
「さて、勇者殿。一つ、問題があってな」
その声の温度は、先ほどまで陽翔に向けられていたものとは比較にならないほど低く、冷え切っていた。
国王は、顎で俺をしゃくる。
「輝かしい光の隣に、このようなゴミがあっては、どうにも見栄えが悪い」
ゴミ――。
俺は、自分の存在が、その一言で定義されたことに愕然とした。
「君には、勇者殿とは別の形で、この国の礎となってもらうことにした」
淡々と、決定事項を告げるかのように。
その声には、一片の情も、ためらいもなかった。
声にならない悲鳴が、喉から漏れた。
「陽翔! 助けてくれ!」
俺はソファから転がり落ちるようにして、親友に手を伸ばした。
その場の全員の視線が、陽翔に突き刺さる。
国王は、面白い見世物でも見るかのように、楽しげに口元を歪めている。
衛兵たちは、石像のように無表情のままだ。
陽翔の顔が、見る見るうちに青ざめていく。
彼は俺の必死の形相と、目の前に置かれた輝かしい英雄の証と、そして絶対権力者である国王の顔を、交互に見比べている。
その顔には、苦悩と、罪悪感と、そして――捨てがたい野心とが、醜く混ざり合っていた。
「……っ」
陽翔の唇が、何かを言おうとわずかに開く。
俺は、祈るような気持ちで、その言葉を待った。
いつものように、「大丈夫だ」と言ってくれるのを。
俺の前に、立ちはだかってくれるのを。
だが。
陽翔は、ゆっくりと、ゆっくりと、顔を逸らした。
俺の伸ばした手から、必死の形相から、全てから逃げるように。
彼は、俺のいる現実から目を背け、窓の外の、自分を称える民衆の歓声へと救いを求めたのだ。
その沈黙は、どんな罵詈雑言よりも、雄弁だった。
その沈黙は、どんな拒絶の言葉よりも、残酷だった。
その沈黙は、俺たちの友情に、完全な死を宣告した。
「連れて行け」
国王の満足げな声が響く。
次の瞬間、鋼の感触が俺の両腕を鷲掴みにした。
衛兵たちの、人の体温を感じさせないガントレットだ。
「やめろ! 離せ! 陽翔! 陽翔ッ!!」
俺は必死に抵抗し、親友の名前を叫んだ。
喉が張り裂けるほどに。
だが、引きずられていく俺の目に映る陽翔は、ただ固く拳を握りしめ、バルコニーの外を見つめているだけ。
こちらを、一度も見ようとはしなかった。
「なんでだよ! 嘘だろ! 陽翔ォォォッ!!」
重厚な扉が、無慈悲に閉まっていく。
最後に聞こえたのは、俺自身の絶叫と、陽翔が誰にも聞こえない声で呟いた、「ごめん、レン」という、裏切り者の懺悔の言葉だった。
その声は、俺には届かない。
扉が閉まる。
光が消える。
俺の世界は、完全な暗闇と絶望に突き落とされた。