第3章
柔らかな感触で、意識が現実へと引き戻される。
最後に感じたのは、全てを飲み込む光と、身体が原子レベルで分解されるような不快な浮遊感だったはずだ。
てっきり、硬いアスファルトの上に叩きつけられているものかと身構えていたが、背中に当たるのは羽毛のように滑らかな絨毯の感触だった。
ゆっくりと目を開ける。
最初に飛び込んできたのは、色、色、色。
暴力的なまでの色彩の洪水だった。
天井から吊り下げられた、数千、いや数万の水晶片で構成された巨大なシャンデリアが、プリズムのように光を乱反射させている。
壁一面に広がる巨大なステンドグラスには、黄金の鎧を纏った英雄たちが、おぞましい竜や悪魔を討ち滅ぼす様が描かれていた。
床は鏡のように磨き上げられた純白の大理石で、俺たちの姿をぼんやりと映している。
空気はひんやりと澄み渡り、どこか甘い香木と、古い羊皮紙のような匂いが混じり合っていた。
「……レン、これ、夢じゃ…ないよな?」
隣で、同じように呆然と目を覚ました陽翔が、掠れた声で呟いた。
俺たちの着ている、見慣れた高校の制服だけが、この荘厳すぎる空間の中で異物のように浮いている。
ここは、俺たちの知る世界の、どの法則の上にも成り立っていない場所だった。
「――目覚めたかね、異世界の勇者たちよ」
凛と張りのある、それでいて地の底から響くような深い声が、広間にこだました。
声のした方へ視線を向ける。
広間の最奥、数段高くなった壇上に、巨大な玉座が鎮座していた。
そしてそこに、一人の老人が腰かけている。
純白のローブには金糸で緻密な刺繍が施され、頭には目も眩むような宝石が散りばめられた王冠。
雪のように白い髭は完璧に整えられ、威厳に満ちたその姿は、まさしく「王様」という概念そのものだった。
だが、その目は笑っていなかった。
俺たちを品定めするように、鋭く、冷徹に観察している。
「歓迎しよう。余はヴァルハイム王国が国王、アルキメデス・フォン・ヴァルハイム三世である」
国王アルキメデスを名乗った老人は、俺たちにゆっくりと語り始めた。
ここが「クロノス大陸」と呼ばれる世界であること。
強大な力を持つ魔王が、大陸の東から侵攻し、世界が滅びの危機にあること。
そして俺たちが、古の預言に基づき、世界を救う「勇者」として召喚された存在であること。
話の内容は、あまりに荒唐無稽だった。
まるで、さっき陽翔が熱っぽく語っていたVRMMOの世界に迷い込んでしまったかのようだ。
だが、肌で感じるこの空気も、目の前の王の圧倒的な存在感も、全てがこれが紛れもない現実だと告げていた。
「さて、勇者たちよ。その資格を神託の水晶に見せてもらおうか」
国王の言葉と共に、侍従たちが車輪のついた豪奢な台座を押してくる。
その上には、人の頭ほどの大きさの、完全な球形の水晶が安置されていた。
内部には、銀河のような光の粒子が渦巻いている。
陽翔がごくりと喉を鳴らして一歩前に出る。
彼は一瞬だけ不安そうに俺を振り返ったが、意を決して水晶にそっと手を触れた。
その瞬間。
水晶が、爆ぜた。
眩い黄金の光が津波のように謁見の間を満たし、俺は思わず腕で顔を覆う。
光が収まった時、陽翔の目の前に、半透明の青いウィンドウが出現していた。
ゲームのステータス画面そっくりなそれに、文字が浮かび上がる。
`名前:ヒナタ・ヨウト`
`職業:光の勇者`
`称号:神に愛されし者、太陽の化身`
`HP:9999/9999`
`MP:9999/9999`
`スキル:【聖剣術:SSS】【光魔法:SSS】【カリスマ:EX】【限界突破:S】`
「おおお!」
「これぞまさしく勇者様だ!」
静寂を破ったのは、貴族たちの熱狂的な歓声だった。
彼らは涙を流さんばかりの勢いで陽翔を称え、その神々しいステータスにひれ伏している。
陽翔は、その異常なまでの賞賛の渦に戸惑いながらも、その顔には満更でもない、誇らしげな笑みが浮かんでいた。
やっぱりな。俺は、どこか冷静な頭でそう思った。
たとえ世界が変わろうと、こいつが主役であることに変わりはないのだ。
「次の者」
国王の冷ややかな声に、俺はびくりと肩を震わせる。
貴族たちの視線が、一斉に俺に突き刺さる。
期待、好奇心、そして値踏みするような目。
陽翔がアレなら、もう一人もさぞや、と。
重い足を引きずり、水晶の前へ。
心臓が、嫌な音を立てて脈打っている。
震える手で、ひんやりとした水晶の表面に触れた。
しん、と静まり返った謁見の間に、俺の結果が表示される。
水晶は、まるで電池切れの豆電球のように、ちか、ちかと弱々しい灰色の光を数回点滅させただけで、すぐに沈黙した。
そして、目の前に現れたウィンドウ。
`名前:カザマ・レン`
`職業:なし`
`称号:なし`
`HP:85/85`
`MP:30/30`
`スキル:なし`
……。
時が、止まった。
先ほどまでの熱狂が、嘘のように消え失せる。
代わりに謁見の間を支配するのは、気まずい沈黙。
そして、すぐにそれは、侮蔑と嘲笑の囁きへと変わった。
「なんだ、あれは」
「なんと情けないステータスだ……我が国の衛兵見習いのほうが、まだマシであろう」
突き刺さる視線が、痛い。
肌を焼くような、無慈悲な視線。
俺の価値を「ゼロ」だと断定する、絶対的な評価。
俺は、顔から血の気が引いていくのを感じた。
助けを求めようと陽翔の方を見るが、彼は貴族たちに囲まれ、俺のいる場所からあまりに遠い。
その顔には、俺に向けられたものと同じ、困惑と、そして――憐憫の色が浮かんでいた。
ああ、そうか。
俺は、ここでも「影」ですらない。
勇者の隣に、間違って召喚されてしまった、ただのゴミなのだ。