第2章
陽翔と別れ、一人になった帰り道は、いつも少しだけ寂しく、そして酷く安らかだった。
さっきまで耳元で鳴り響いていた親友の快活な声と、ファストフード店の喧騒が嘘のように遠ざかっていく。
代わりに世界を支配するのは、静寂。
自分のスニーカーがアスファルトを蹴る音と、時折遠くで響く電車の通過音だけが、俺がこの世界に存在していることを証明してくれていた。
ひんやりとした夜気が、ジャンクフードで火照った頬を優しく撫でていく。
昼間の熱をまだ微かに宿したアスファルトの匂いと、どこかの家の夕食の匂い、そして街路樹の葉が擦れる青臭い香りが混じり合って、俺が「日常」と呼んでいるものの輪郭をゆっくりと形作っていた。
等間隔に並んだ街灯が、頼りないオレンジ色の光で足元を照らし、俺の影を長く、長く引き伸ばしている。
陽翔という強烈な光から解放された、薄ぼんやりとした、俺だけの影。
この影と二人きりになるこの時間が、俺は嫌いではなかった。
さっきの陽翔の言葉を思い出す。
『レンは俺の一番の理解者だからな!』
あの言葉に嘘はないのだろう。
だが、それは俺が陽翔の全てを理解しているという意味ではない。
逆だ。俺が、陽翔の輝かしい物語を邪魔しない、都合のいい傍観者でいることを、あいつ自身が一番よく理解している、という意味だ。
それでいい。それが俺たちの最適解なのだから。
「――なあ、レン」
思考の海に沈みかけていた俺の意識を、聞き慣れた声が引き上げた。
振り返ると、角を曲がった先でとっくに別れたはずの陽翔が、少しバツが悪そうな顔で小走りにこちらへやってくる。
「陽翔? 忘れ物でもしたのか?」
「いや、ちげーけど……なんか、さっきの俺、自分の話ばっかしてたなって思ってさ。お前、退屈だったろ」
「別に。いつものことだろ」
「それが良くねえっつーの」
そう言って俺の隣に並んだ陽翔は、ポリポリと頭を掻く。
こういう繊細なところに、ふと気づける優しさも、こいつが誰からも好かれる所以なのだろう。
まったく、どこまで完璧超人なんだ、お前は。
「で、言い忘れたこと思い出した!」
彼は急に顔を上げ、指をパチンと鳴らした。
その目は、新しいおもちゃの遊び方を発見した子供のように、好奇心でキラキラと輝いている。
「最近出たVRMMO、マジで面白いらしいぜ!『エターナル・ファンタジア』ってやつ。βテストの時のトップランカーの配信、見たか? スキルエフェクトとか、魔法の詠唱とか、マジでヤバいんだよ。もう現実と区別つかねえの。今度の週末、一緒にやろうぜ。な?」
「また勇者様ごっこかよ。お前、本当に好きだよな、そういうの」
俺が呆れたように、しかしどこか楽しんでいる自分を感じながら言うと、陽翔は待ってましたとばかりに胸を張った。
「当たり前だろ! 俺の職業は、もちろん聖剣使いの勇者な! んで、レンは俺を後ろから癒す神官だ。回復魔法と支援魔法マシマシのやつ。決定!」
「なんで俺の職業までお前が勝手に決めるんだよ」
「いーじゃんかよ、それくらい! 俺が前線でガンガン敵を薙ぎ倒して、レンが鉄壁の守りでサポートする。それが最強のコンビだろ?」
最強のコンビ、か。
その言葉は、まるで俺たちの現実の関係をトレースしているかのようで、俺は思わず苦笑した。
ゲームの世界でまで、俺はこいつの影に徹しろというわけだ。
だが、不思議と嫌な気はしなかった。
むしろ、その役割が酷くしっくりくるような気さえした。
俺の居場所は、きっとそこなのだろう。
「まあ、いいけど。お前が調子に乗って突っ込んで、回復が間に合わなくて死んでも、俺のせいにすんなよ」
「へへっ、任せとけって! 俺、絶対死なねえから!」
陽翔は自信満々に笑い、親愛の証として俺の背中をバシンと力強く叩いた。
その瞬間だった。
世界から、音が消えた。
いや、違う。全ての音が、甲高い金属音のような、一つの不協和音に捻じ曲げられ、収束していく。
キーン、と耳の奥が、いや、脳の中心が直接痛くなるほどの高周波。
街灯の光が激しく明滅し、俺たちの足元のアスファルトに、この世のものとは思えないものが浮かび上がった。
青白い光の線。
まるで見えないペンで地面に直接描き込まれたかのように、複雑怪奇な幾何学模様を形成していく。
それはコンピューターの基盤のようでもあり、古代文明の壁画のようでもあった。
光の回路は生き物のように脈動しながら、瞬く間に交差点全体を覆う巨大な魔法陣を完成させた。
「なんだよ、これ……?」
俺の喉から、か細く、掠れた声が漏れる。
隣を見ると、陽翔も顔を真っ青にさせ、目の前の光景に釘付けになっている。
その事実が、この状況がただの悪戯やイベントではないことを、何よりも雄弁に物語っていた。
魔法陣の輝きが、爆発的に増す。
空気がプラズマのように灼けつき、ビリビリとした静電気が肌を刺す。
髪が総立ちになるほどの濃密なエネルギーが渦を巻くのが、痛いほど肌で感じられた。
ぐにゃり、と空間そのものが歪む。
視界の端の電柱が、建物の輪郭が、まるで熱せられた飴のようにぐにゃりと溶けていく。
轟音。
今まで聞こえていた耳鳴りが、何百倍にも増幅されたような爆発音が鼓膜を突き破り、思考を白く塗りつぶす。
世界が、光に喰われた。白。ただひたすらに、全てを消し去り、無に還す純白の暴力。
抗う間もなく、身体がふわりと浮き上がる。
内臓が逆さまになるような不快な浮遊感。
落ちているのか、昇っているのかも分からない、全能感と無力感が同居した奇妙な感覚。
隣にいるはずの陽翔の姿も、もはや認識できない。
ただ、同じ恐怖を共有しているという、最後の繋がりだけをお互いの震えで感じながら。
俺の意識は、張り詰めていた糸が焼き切れるように、ぷつりと途切れた。