第1章
チャイムの音が、初夏の気怠さを引きずった午後の空気に溶けていく。
その音を合図に、死んだように静かだった教室は息を吹き返した。
椅子を引く甲高い音、教科書やノートを乱暴に鞄に詰め込む音、そして解放感に満ちた生徒たちのとりとめのないお喋り。
それら全てが混じり合って、心地よい喧騒の渦が生まれる。
俺、風間レンは読んでいた文庫本のページにゆっくりと栞を挟み、顔を上げた。
窓際の一番後ろ。そこが俺の定位置。特等席だ。
開け放たれた窓から吹き込む風が、埃っぽいチョークの匂いとグラウンドの土の匂いを運んでくる。
目の前のカーテンがふわりと舞い、視界の端で白く揺れていた。
俺は、この世界から数センチだけ浮遊しているような、穏やかな孤独が好きだった。
「レン、帰るぞ!」
その静寂を、太陽みたいな声が貫いた。
声の主は、日向陽翔。
教室のど真ん中。男女問わず、常に人の輪の中心にいる男だ。
少し茶色がかった、陽の光をそのまま閉じ込めたような髪が、西日に照らされてキラキラと光っている。
全国レベルのサッカー部でエースストライカーを務める身体は、制服の上からでも分かるほどしなやかに引き締まっていた。
対する俺は、平凡を煮詰めて固めたような存在だ。
クラスメイトの半分は、俺の名前すら覚えていないかもしれない。
陽翔のようにラフに着崩すこともなく、制服の第一ボタンまで律儀に留めているのが、俺という人間の個性の全てだった。
「陽翔、昨日の試合見たよー!最後のシュート、マジ神!」
女子たちが甲高い声を上げ、男子たちが羨望の眼差しを向ける。
陽翔はその全てを浴びながら、嫌味なく笑って受け答えをしている。
天性の才能と、それを裏付ける努力、そして何より、人を惹きつけてやまない圧倒的なカリスマ。
俺の、たった一人の親友。俺の、ヒーロー。
そして、俺の、どうしようもない劣等感の源。
陽翔が人の輪からするりと抜け出し、まっすぐにこちらへ歩いてくる。
その短い移動ですら、映画のワンシーンのようにクラス中の視線を集めている。
「お前、またそんな難しそうな本読んで。よく飽きないな」
俺の机の前に立った陽翔が、俺の手元にある文庫本を覗き込んで言う。
海外の古典ミステリー。複雑な人間関係と、緻密なトリックが魅力の。
「別に。面白いよ、これは」
「ふーん。俺にはサッパリだわ」
陽翔には、この静かな興奮は一生分からないだろう。
それでいい。こいつには、光の当たるグラウンドと、熱狂的な歓声こそが相応しい。
「ほら、行くぞ。腹減った。今日はマックな」
「はいはい」
陽翔はごく自然に俺の肩に腕を回し、ぐいっと引き寄せる。
その強引さと、汗の匂いが混じった体温が、俺たちの距離を証明していた。
◇
「でさー、昨日の試合! 後半ロスタイムで、相手が二人もつめてきたんだけど、俺、完全にゾーン入っててさ。世界の全てがスローモーションに見えたわ。キーパーの重心がどっちに傾いてるか、ミリ単位で見えたんだよ。で、その逆サイドのネットに、バチーン!って!」
油の香ばしい匂いと、ポテトの塩気が漂うファストフード店。
その喧騒の中で、陽翔は目を爛々と輝かせ、まるで昨日のゴールの再現VTRを見せるかのように、両手を激しく動かして熱弁している。
その口の周りには、ケチャップが僅かに付いていた。
俺はそんな陽翔を眺めながら、ストローでバニラシェイクをすする。
脳が痺れるような冷たさと甘さが、喉をゆっくりと滑り落ちていく。
「まあ、すごかったよ。お前がいなかったら、間違いなく負けてた」
事実だ。昨日、俺はスタンドの隅で、その奇跡的なゴールを目の当たりにしていた。
「だろ!? なのにあのクソ監督、『お前のプレイはチームを無視した独善的なものだ』とか説教してきてさー。勝てば官軍だろうがよ、マジうぜえ」
口を尖らせる陽翔に、俺は黙って自分のポテトのLサイズをトレイごと押しやる。
陽翔は「お、サンキュ!」とすぐに機嫌を直し、子供のようにポテトに手を伸ばした。
こいつはそういう奴だ。単純で、素直で、誰よりも真っ直ぐで。
自分の感情を隠すこともしない。
だからこそ、人は眩しさを感じ、惹きつけられる。
そして俺は、そんな陽翔の姿を見ているのが、本当に好きだった。
「お前もさ、なんか部活やればいいのに。帰宅部とか勿体ねえって」
「俺はいいんだよ。お前の活躍見てるのが、一番面白いから」
口から出た言葉に、嘘はなかった。半分は。
陽翔という最高のエンターテイメントを、誰よりも近い特等席で眺めている。
それは、俺の退屈な高校生活における、唯一の誇りだった。
だけど、残りの半分は、臆病な俺が作り出した言い訳だ。
――お前の隣で、俺が輝ける場所なんて、どこにもない。
同じ土俵に上がって、その圧倒的な差をまざまざと見せつけられるのが怖いだけだ。
光の隣に立てば、自分がどれだけ色褪せた影なのか、嫌でも自覚させられてしまうから。
「そっか。まあ、レンは俺の一番の理解者だからな!」
陽翔は、俺の心の澱になど全く気づいていない様子で、満面の笑みを向ける。
その笑顔が、俺の胸に突き刺さる。
チクリとした、もう慣れっこになったはずの痛み。
親友の「一番」であるという、歪んだ優越感。
そして、その立場に安住している自分への、静かな自己嫌悪。
それが、俺と陽翔の関係の全てだった。
窓の外では、夕日が街を茜色に染め上げている。
俺はこの、平凡で、退屈で、だけどどうしようもなく満たされた日常が、明日も、明後日も、永遠に続けばいいと、本気でそう願っていた。