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月に抱かれ太陽は輝く~新たな物語へ~

 

 ~決戦~




 樹海の樹々や異常な瘴気の高まりに狂暴化した魔獣に行く手を阻まれながら、ヴィンスロットはそれらを薙ぎ払い、ただひたすら迷うことなく駆け抜けていく。ゼフィールが『闇魔王』に捕らえられて、どのくらいの時間が経っただろう。こうして気配をたどれるということは、まだゼフィールが『闇魔王』に完全には取り込まれていないという証拠だが、それもいつまで持ちこたえることができるか…。

(ゼフィール、頼む。俺が行くまで、どうか耐えていてくれ…!)

 深い樹海の中にいては、目的地であるザルア山の姿を見ることはできない。ゼルノアの魔術もついえた今、ヴィンスロットがこうして迷わずに樹海の中を駆けることができるのは、ゼフィールの気配を掴めているからに他ならない。ここで気配を見失えば、ゼフィールの位置を把握することが困難になり、その分愛しい半身の命を危険に晒すことになる。弟の危機に何もできなかった10年前の恐怖と悔恨が、ヴィンスロットの心と体を1秒でも早くと突き動かし続けた。


 リュカ達と別れてどれだけ駆けたのか、ヴィンスロットは走る自分の足元が、土ではなく硬い石の感触に変化してきたことに気付いた。ザルア山は、周囲を取り囲む樹海とは異なり、それ自体は植物が生えない岩山だ。その昔、そんなザルア山を「まるで大地が作った岩の牢獄だな。」と称したのは、大地の守護を受ける隣国の友人だった。まだお互い子供同士だったが、それを聞いて冷たい印象のザルア山にぴったりの表現だと、自分も思ったのを覚えている。だからこそ、足元が岩場になってきたということは、もうザルア山は目前であるという証拠だとヴィンスロットは確信できた。

 その時、行く手を遮っていた木々が突如として途切れ、ヴィンスロットの視界がいきなり開けた。樹海を抜けたのだ。そして彼の目の前に現れたのは…何もない大地と冷たい岩の壁だった。樹々の生い茂っていた樹海とは、まるで線引きされたかのように異なる荒涼とした風景。およそ生命の息吹など、どこにも感じられないこの空間が、命溢れる樹海の中に存在している違和感に、ヴィンスロットは確信する。こここそが自分の目的地であり、弟が攫われたであろう場所……そう、“生”を拒んだザルア山の岩牢の領域に、ついに足を踏み入れたのだ。

 だがここまで来てもなお、ヴィンスロットはゼフィールの気配を確かには掴めずにいた。近くまで来ていることは感じるのに、何か靄のようなものがヴィンスロットの視界を濁らせ、ゼフィールの姿を曖昧にしてしまっているかのような感覚だ。

(手間取ればその分あの子の危険は増すというのに…!)

 一瞬でも早く、弟の無事を確認しこの手の中に取り戻したい。焦りで苛立つ気持ちをどうにか抑え、微かな気配を辿ろうと必死に自らの気を集中させる。とその時、

(…!)

 その冷たく荒涼とした風景の中に、ヴィンスロットは求めていた後姿をついに見つけた。

「ゼフィール!」

 矢も楯もたまらずその名を呼んで駆け寄り、ヴィンスロットはその小さな肩をしっかりと掴んだ。

「よかった、無事か?なぜここに立って……⁉」

 弟の無事に安堵の声を出したヴィンスロットだったが、振り向かせたゼフィールの顔を確認した途端、全身が凍りついてしまった。その顔は確かに愛しい半身のものではあるのだが……。

「……ゼ、ゼフィー…ル…?」

「ほう、それがこの器の名か。」

 そう呟いた声は冷たく、愛らしい唇が妖艶な笑みを形作る。そしてヴィンスロットを見上げる瞳は、いつもの晴れ渡った夜空の色ではなく、今は禍々しい赤い色に煌めいていた。

 ヴィンスロットは咄嗟に掴んだ手を放し、()()()()()()()()から飛び退く。

(まさか……?)

 脳裏に浮かんだ答えに、心臓が早鐘のように鳴り響き、ヴィンスロットは全身から一気に冷たい汗が噴き出るのを感じた。目の前にいるのは、確かにゼフィールだ。『月の御子』が纏う銀色のオーラは変わらない…だが、そのオーラからあの優しく静かな癒しの力を感じられない。自分の良く知る半身とは全く違う『月の御子』の気配…、つまり自分の前にいるのは…

(『闇魔王』…!)

 その結論に、ヴィンスロットは愕然とする。これが……この目の前にいる()()()()()()姿()()()()()()が『闇魔王』であるのならば……

 ――ソンナ…!――

 間に合わなかったのか、また自分は愛しい半身を救うことができなかったのか。信じていると、言ってくれていたあの子を。

 ナゼ、ナゼオレハ、ナゼ――!

 怒り、悲しみ、恐怖、絶望、狂おしいまでの凍てついた感情が巨大な金鎚となり、ヴィンスロットの精神を粉々に破壊するかのように激しく穿ち続ける。思考は停止し、受け入れがたい現実に体が内側から冷たくなっていく。

 そんなヴィンスロットを、何の感情も映さない赤い瞳をしたゼフィール…『闇魔王』は、まるで観察でもしているかのようにただじっと見据えていたのだが、ふいに

「ヴィー兄様。」

 と口にした。

 その言葉に、ヴィンスロットはヒュッ、と喉の奥で息を呑み、さらにその身体を強張らせた。

 なぜ…なぜその呼び名を口にする。ゼフィールにしか許していない、その呼び名を。愛しい半身である弟の声なのに、耳に届いた強烈な違和感がヴィンスロットの頭で警鐘を鳴らし続ける。混乱と緊張。そんなヴィンスロットの様子に、『闇魔王』は妖しく禍々しい笑みを深くして、あぁ…と一人納得したように言葉を続けた。

「そうかお前が…器の執着か。」

 くくっ…とくぐもった含み笑いをしながら、さも面白そうにヴィンスロットに向かい

「我の中に沈める寸前まで、器はお前にしがみついておったぞ。どんな奴かと思っていたが…」

 そう言った瞬間、真っ白な光が爆発した。

『闇魔王』の瘴気で暗く澱んでいた空間は、一瞬にして光の渦に呑み込まれ祓われる。視界を奪う残光が消えた時、そこはまた様子を一変させていた。そびえたっていたザルア山の岩壁は大きく削られ崩れ、背後にあった樹海は数十メートル先へとその境を後退させていた。

「……ほぅ。太陽の光か。」

 そう呟いたのは、もちろん『闇魔王』だ。その体の周りには、バチバチと小さな雷光を帯びた瘴気の渦が取り巻いている。破邪の光が爆発した瞬間、己の身体を瘴気の壁で覆いその衝撃を跳ね返したのだ。すっと立っているその姿に、ダメージを負っている様子は微塵もない。

 そして、爆発を起こした張本人であるヴィンスロットもまた、その体に光の残滓と雷光を纏っていた。その表情は怒りに歪み、いつも覇気に満ち輝く黄金の瞳は、今は狂気に澱んだ仄暗い炎を宿している。

「ふふ…、全てを照らし闇を祓う太陽の者が、なんとも良い眼をしているではないか。やはり人は闇、だというになぜそれを認めず光に縋るのか……なぁ、()()()()()。」

「その名を…呼ぶなぁぁっ‼」

 地の底から響くような咆哮と共に、大地を蹴り手にした太陽の剣をゼフィールの姿をした『闇魔王』に向け振り下ろした。強大な太陽の力を帯びた剣だ。たとえ掠っただけであっても、受けたものを全て焼き祓い消滅させる力を持っている。それを―――

 ガキィィッ!

 太陽の御子が渾身の力で打ち込んだ剣が、強い瘴気を纏う漆黒の剣に受け止められた。まだ小さく華奢な少年が、太陽の御子の剛剣を止めたのだ。にわかには信じられない光景だったが、さらにゼフィール、いや『闇魔王』は漆黒の剣を返し、ヴィンスロットごとその攻撃を跳ね返してみせた。

 だが、今のヴィンスロットにとって、それは驚愕を呼び覚ますようなことではなかった。怒りに我を忘れている彼にとって、今目の前にいるのはゼフィールではなく、屠るべき『闇魔王』でしかない。飛ばされながらも瞬時に体をひねり、大地に叩きつけられる衝撃を最小限に抑えた。そしてすぐさま体勢を立て直し大地を蹴り、太陽の気の鋭い一閃を『闇魔王』に放つ。『闇魔王』もそれに反応し、邪気の剣で浄化の一閃をかわしたが、僅かにその白い頬に赤い線を残した。だがそれを気にするそぶりもなく、今度は『闇魔王』の剣が唸りをあげる。漆黒の剣から放たれた瘴気の斬撃は、今まさに体勢を立て直したヴィンスロットによって受け止められ、弾き返された。

 “太陽”と“闇”、2つの巨大な力のぶつかり合いは、周囲の全てを激震させ、ザルアを囲む結界にも強烈な衝撃を与えた。もしも6大国の最高峰である魔導士たちが創った強力な結界でなければ一瞬にして破壊され、その影響はオルディリア皇帝たちが懸念した通り、世界に大きな災厄をもたらしただろう。

 そんな激しい攻防であるにも関わらず、ゼフィールの姿をした『闇魔王』は終始楽しそうだ。ヴィンスロットが放つ怒り、憎しみといった暗い気が深ければ深いほどそれは甘く、自らの糧となっていく。つまりこの状況は、『闇魔王』の力をさらに強大にするエネルギーを、『闇魔王』と呼ばれる自分に注ぎ続けていることに他ならないのだ。しかしそのことに、我を忘れているヴィンスロットが思い至るはずもない。ただただ、己の激情のまま剣を振り下ろしていた。

 そしてその姿は、『闇魔王』に遥か昔の光景を――ある男の姿を思い起こさせた。


≪お前は、私の手で…私と共に消えねばならんのだ。≫

 そうだ、あの日そう言って自分の首に手をかけた、父と名乗るあの男も同じだった。太陽の輝きを禍々しく染めたその感情が、自分の…『闇魔王』の力を満たしていることにも気づかずに……。


「…お前はあの男に少し似ているな。…だが、お前の闇の方が格段に甘美だ。……おぉ、そうだ。お前も“器”と同じく我の中に取り込んでやろう。輝く太陽の気を闇で染め上げ、全てを我に捧げるがいい。」

 そんなおぞましい『闇魔王』の言葉など、ヴィンスロットの耳には音としてすら認識されなかった。怒りと憎しみに意識を支配され、まるで手負いの獣がごとく、目の前のものを攻撃し屠ることしか頭にない。ギリリと奥歯を嚙み締め、再び剣をふるおうとしたその瞬間、『闇魔王』の声すら届かなかったヴィンスロットの耳に突如、

 リンッ…

 小さいが涼やかで透き通った音が響いた。と同時に、胸の奥からまるで何かを訴えるかのように、暖かい光が輝き始める。その現象に、我を忘れていたヴィンスロットの意識が現実へと少し引き戻され、まさに攻撃を仕掛けようとしていた動きを止めた。

<……だめだよ……>

 音が、今度は言葉となってヴィンスロットの頭に響く。その時、ヴィンスロットの眼にようやく、目の前にある弟の顔が映った。そして、その白い頬に赤い線が一筋、傷付いていることも。

「‼」

 ヴィンスロットは一瞬にして、今まさに討たんとしていた『闇魔王』から飛び退き距離をとった。

 今…自分は何をしようとしていたのだ?…そう…殺そうとしていた……誰を?…目の前の『闇魔王』を……弟の姿をしたこの目の前の少年を……?…俺は……

 ――コロセ、テキヲコロセ、ヤミマオウヲ――マモラネバ、オトウトヲ、オレノハンシンヲ――

<呼んであげて。>

 混乱するヴィンスロットの頭に、また女の子とも男の子ともつかない澄んだ声が響いた。

<呼んで、あなたの半身の名前を。……わたしは呼べないから。>

 名前を…呼ぶ…?…俺の半身…ゼフィールを…?だけど、もう届かないかもしれないのに…?

<大丈夫、呼んであげて。きっと…あなたを待ってる。>

 待っている…?俺を…?

<わたしたちは名前を持たないから…。だからあなたが呼んで、半身の名前を。()()()()()()()()()って。>

 どこか悲しみを秘めた静かな声が、ヴィンスロットの闇に沈みかけた心を引き戻していく。

「…ゼフィール…」

 促されるように口から、愛する半身であり弟である少年の名前がこぼれた。それが引き金になったかのように、ヴィンスロットの脳裏には誕生から3歳まで月の神殿で過ごしていた幼い弟との思い出が、そして10年の時を経てようやく再開できた時の輝く弟の笑顔が、強い意志に煌めいていた濃紺の瞳が、次々と溢れ出ていっぱいになる。

「ゼフィール…!」

 そうだ、あの子が負けるはずはない。自分と一緒に生きて幸せになると言ったのだ。その約束を…太陽の御子である自分の半身である月の御子のあの子が、違えることなどないはずじゃないか。

「ゼフィール―――ッ‼」

 ―会いたい―

 ヴィンスロットは全身から声を絞り出し、弟の名前を全力で叫んでいた。




 ――……起きて…起きるのです――

 ――我らが月の御子よ――

 ――…御子様、ゼフィール様…――

 たくさんの声が、自分の名前を呼んでいる。そのどれもが、優しくて懐かしい…そんな声だ。でも……体が重くて動かない。まるで漆黒の深海へと誘われるかのように、自然と意識が深い眠りへとどんどん落ちていこうとする。その感覚は、決して不快なものではなかった。このまま身を任せて気持ちよく眠ってしまいたい……。

 ――起きるのよ、愛しい子。戻っていらっしゃい。――

 誰かが優しく、とても優しく頬に触れた。あぁ、知っている。暖かい温もりを伝えてくる、自分はこの手を知っている。

(…誰…?)

 暖かい手の感触をもっと感じれば、誰だか思い出せるだろうか。でもその手は、すでに離れてしまった。

(待って…待って、行かないで。)

 もう一度温もりを感じようと、闇の中に沈もうとしていた手を必死に伸ばした。とその時、

(!)

 優しい手の感触が残る右の頬に、突然焼け付くような痛みが走った。その衝撃で、今度こそゼフィールの意識は完全に覚醒した。慌ててあたりを見渡すと、そこはただ闇が広がるだけの空間だった。

(ここは…どこ?僕はどうして、こんなところに?)

 瞬間、自分が置かれている状況が呑み込めず混乱してしまったが、すぐに自分が『闇魔王』に連れてこられ、先ほどまで対峙していたことを思い出した。そして、抗ってはいたが途中で力尽きてしまったことも…。

 いったい、あれから自分はどうなってしまったのだろう?兄様は…ヴィンスロット兄様はご無事だろうか?そう思ったとたん、ズキンッと頬が再び痛み始めた。反射的に頬に手をやったゼフィールは、そこから伝わってきた波動にビクッと体を震わせた。

(これ…兄様の太陽の気だ!)

 でも、それはゼフィールがよく知るヴィンスロット本来の気とは、全く異なるものだった。頬の傷から伝わってくるのは、怒りや憎しみ、絶望といった負のオーラ。あの生命力に満ちた気高い太陽が、まるで狂気の炎を放っているようだ。その瞬間、ゼフィールは今起きている状況を、ほぼ正確に理解した。

(…兄様、『闇魔王』と闘っているんだ!僕の身体を乗っ取った、僕の姿をした『闇魔王』と。だから、僕が死んだと…そう思って…!)

 傷から流れてくるヴィンスロットの気が、愛する者を失った狂おしいまでの悲しみを伝えてくる。そんなヴィンスロットの想いに触れて、不甲斐ない自分に申し訳ない気持ちが溢れると同時に、こんなにも自分は兄から愛されているのだと嬉しくも思ってしまう。

 でも…でも、これはダメだ。だって、この僅かに流れ込んできた気だけで、ゼフィールのいる闇の空間はさっきよりも濃さを増している。このまま戦い続ければ……憎悪と絶望に突き動かされるだけの戦いを続ければ、闇はどんどん深くなる。太陽の御子の力が強ければ強いほど、『闇魔王』の力を増幅させる結果にしかならないのだ。

(ダメだよ、ヴィー兄様!このままじゃダメ!)

 このままではきっと、いずれ『闇魔王』の力に呑み込まれそして……ヴィンスロットは死を迎えてしまう。そんなこと…そんな事絶対にさせない!

(兄様、僕は生きてる!ここにいる!)

 力の限り叫んでみても、声は闇の空間に吸い込まれるだけで、ヴィンスロットに届いている気配すらない。何とかこの空間から抜け出してヴィンスロットの元へ行きたいが、四方八方闇の中でどこへどう進めばいいのかもわからない。いったいどうしたら……、焦りと憔悴で途方に暮れかけたゼフィールの耳に、今度は静かな老人の声が語り掛けてきた。

 ――太陽と月は引き合うもの。声を探しなさい。それがあなたを、半身の元へ導くでしょう――

 その声を聴いたゼフィールの脳裏に、異界から戻ったあの日のことが蘇った。あの日、あの夜、自分の頭に響いたのは

≪俺を呼べ!ゼフィール!≫

 というヴィンスロットの声だった。それに従い兄の名を叫んだ直後、夜空に光の歪みが生じそこから兄が…自分の半身が目の前に現れた。

(そうか…!もしかしたら、“声”が僕に兄様の位置を示してくれる鍵なのかも!)

 そう確信したゼフィールは、兄に届けと念じながら

(ヴィー兄様、お願い僕を呼んで!ヴィー――‼)

 と全身全霊でヴィンスロットに呼びかけ、兄の返答を…その声を掴もうと必死に聞き耳を立てた。その時、

<…ール…>

 微かだが、切望した音をゼフィールの耳が捉えた。ハッとしてその音がしたと思われる方へ顔を向けると、何もなかった闇の空間に、ポツンと小さな光が現れたのに気付いた。その光は徐々に大きさを増していき、それに従って音ははっきりと意味をもって、空間いっぱいに響き渡った。

<ゼフィール――‼>

「兄様!」

 間違いない、あの光の向こうに半身である兄、太陽の御子ヴィンスロットはいる。ゼフィールが光に向かって走り出そうとした時、ふいにロウダの甘い香りがフワッと鼻を掠めた。

(…?…)

 不思議に思い、足を止め後ろを振り返った。そこには―――

(!)

 そこには、複数の人たちが立っていた。皆ゼフィールの方を見て、穏やかに微笑んでいる。その人たちを……ゼフィールはよく知っていた。

(…神官長様……ラアナ!…)

 それは10年前、月の神殿で自分を守り逝ってしまった人たちだった。可愛がってくれた女官のラアナ、優しかったウォンラット神官長、いつも笑顔で接してくれていた神官たち……そして、その中心には

(母様‼)

 思わず駆け寄ろうとするゼフィールに、コーデリア皇妃は軽く手を上げることで制すると、微笑みながら優しい声でこう告げた。

 ――オルディリアの聖樹と守護幻獣に感謝を。…さぁ行きなさい、私の愛しい子。兄様の、ヴィンスロットの元へ。そして伝えて、私は…私たちはいつまでもあなた方を愛し、幸せと願っていると。――

 慈愛に満ちた母の姿に、ゼフィールの瞳からはポロポロと涙が自然と流れる。本当は、その胸に飛び込んで優しく抱きしめてもらいたい。会いたかったと、そう叫んで縋りつきたい。ごめんなさいと…謝りたい。けれどそれが、今もなお自分を案じ背中を押してくれている母たちの想いに沿うものではないことも、ゼフィールはよく理解していた。

 グイっと涙を拭くと、佇む母たちに真直ぐ瞳を向け、力強くうなずいた。そして、その目にもう一度母たちの姿を焼き付けると踵を返し、今度こそ光に向かって走り出した。



「ゼフィール―――ッ‼」

 胸の奥から絞り出すようなヴィンスロットの絶叫に、『闇魔王』はわずかに眉をしかめ不快そうな表情をした。器の名を呼ぶその声が、どういうわけか癇に障る。

(これはなんだ…?)

 まるで小さな火種が爆ぜるような苛立ちに、じりじりとした不愉快さが突き上げられる。その昔、このザルア山へ封じられた時も怒りに震え屈辱に身もだえしたが、今感じている締め付けられるような不快感は、それとはまた違うものだった。

「忌まわしい、厭わしい…!お前の声は何故こんなにも我を乱すのか。不愉快だ…不愉快だ!もうよい、さっさと我の一部になるがいい!」

『闇魔王』はその掌に闇の力を集中させ、ヴィンスロットを屠るべく巨大な瘴気の塊を顕現させようとした。が――

(…っ⁉)

『闇魔王』の胸、ちょうど心臓あたりが突如として銀色に輝きだした。その輝きは見る間に強さを増していき、『闇魔王』の身体を包み込んでいく。

「なん…だ!これは…!」

 一瞬前まで『闇魔王』が纏っていた濃い瘴気が、銀の光に触れることでまるで蒸発するように薄まっていく。ヴィンスロットに放たんとしていた掌の瘴気も、形を崩し霧散しかけている。突然の事態に驚愕しつつも打開せんと『闇魔王』は再び闇の力を高めようとあがいたが、銀の光はそれを許さなかった。

「…ぐぅ……おのれぇ……我の…我の器でしかない分際で…!」

 まるで獣の唸り声のような苦悶の言葉を吐き出す『闇魔王』の姿に、ヴィンスロットもまた驚きを隠せなかった。『闇魔王』を包みその闇の力を縛っている銀色の光…その光の正体をヴィンスロットは誰よりも知っている。

「ゼフィール!」

 そうだ、あの子だ。全てを癒し浄化する清浄なる銀色の光、月の御子ゼフィールの力に間違いない。やはりあの子は生きていてくれたのだ。安堵と喜びにともすれば力が抜けそうになっていたヴィンスロットの耳に、切望していた愛しい半身の声が響いた。

<…ヴィー、…壊して…!>

「ゼフィール!壊すって…何をだ!」

<『闇魔王』の…核……千年前に、封じることしかできなかった……命の欠片…>

 ゼフィールの声を『闇魔王』の絶叫が遮った。

「やめよ!我は……我は世界を闇とするのだ…っ!……()()()()()()()()()()()……それを…それだけをぉ……!…おぉぉ…邪魔をするな…許さぬ…許さぬぅ…!」

 もはやその声はゼフィールのものではなく、低くしゃがれた老人のようであり、手負いの獣が発する最後の威嚇のようでもあった。そして銀色の光の中苦悶する『闇魔王』の白い額に、まるで血を固めたような赤黒く光る石が浮かび上がってきた。

 その石こそ、ゼフィールの言う『闇魔王』の命の欠片…核だということを、ヴィンスロットは瞬時に理解した。それを破壊すれば、『闇魔王』を完全に消滅させることができる。この戦いを集結させ、千年続いた遺恨を晴らすことができる。だが――

(あの石は、ゼフィールの額に埋まっている…!)

 石を壊すために剣を振るったとして、ゼフィールはどうなる?石と共にゼフィールまで、傷付けてしまうことになるのではないか…?最悪自分の手で、弟を殺してしまうことになるやも…。太陽の御子として、オルディリアの皇太子として、『闇魔王』を滅することは悲願であり責務だ。それはわかっている。けれど、弟を…自分の半身を自らの手で亡き者としてしまうかもしれない恐怖に、ヴィンスロットはどうしても体を動かすことができずにいた。

<迷わないで!今を…逃さないで!>

 躊躇してしまったヴィンスロットに向かい、叱責するかのようなゼフィールの声が飛んだ。

<僕らはオルディリアの太陽と月、僕は兄様を信じています。だから、だからヴィーも僕を信じて!核を壊すんです!>

 強い覚悟を持ったゼフィールの言葉に、ヴィンスロットも腹を括った。ここで弟の想いに応えられないようであれば、同じ、いやそれ以上の覚悟が持てないようであれば、兄として、息子として、友として、国の皇太子として、自分を信じてくれている全ての人を裏切ることになる。

 フゥ…、と一つ息を吐き出すと、手にしている剣を構え、太陽の気を極限まで込めるため集中を高める。腰を落とし脚に力を溜め、ゼフィールの額で鈍く輝く深紅の邪石だけをその瞳に捕らえ、そして―――

「…やめ、ろぉ……許さぬぅ……やぁめぇろぉおぉぉっ…!…」

 地面を蹴った。

 キイィィィ………ンッ!

 黄金の一閃が微かな残像を残し消えた後、額にあった『闇魔王』の核たる邪石がゆっくりと音もなく砕け散った。その瞬間、爆発的に起きた強い閃光が、ヴィンスロットもゼフィールも呑み込んでいった。







 ~安寧~





 ザルア樹海の外では、オルディリア側とダリオン側に分かれ、6大国の術者たちが堅固な結界を維持することに奮闘していた。中の様子を伺い知ることはできないが、強大な力と力のぶつかり合いで起こる激しい衝撃波を受けるたび、ザルア山で展開されている戦いが熾烈極まりないものであることは容易に想像することができた。もし今結界が崩れ、この強大な力がザルアの外へ放出されてしまったら……。そのとてつもない災厄がもたらす悲劇を考えただけで、ジュリアスは背筋が凍る思いがした。

(そのようなことには…絶対にさせない。中で戦う2人のためにも…!)

 その想いは、そこにいる誰しもが等しく持つものだった。皆、己が持つ力を極限まで高め、結界を張り続けることに死力を尽くしていた。だがその時、結界内でこれまでで一番大きな力の爆発が起きた。

「きゃあぁぁっ!」

 その轟くような衝撃に、竜の聖女オルフェーリアが吹き飛ばされたように後ろへと体勢を崩した。気付いたライオッドが彼女を抱きとめ、床に叩きつけられるのを体を張って阻止する。咄嗟に状況を把握しようと周囲に視線を巡らすと、大勢の術者たちが地面に伏しているのが目に入ってきた。

(しまった!これでは結界が…!)

 ライオッドがそう思ったと同時に、大神官ジュードを支えていたジュリアスの切迫した声が響いた。

「皆しっかりしろ!立つんだ!もう一度結界を、」

「待て、ジュリアス。」

 とその声を、静かだがきっぱりとしたジュードの声が遮った。

「なっ…⁉」

 今の衝撃で結界は崩れてしまっている。体勢を立て直し少しでも早く結界を張り、瘴気の放出を防がなければならないのに、いったいジュードは何を言っているのか。だがジュードは、焦るジュリアスには視線を向けずに

「あれを見よ。」

 とだけ告げた。その言葉に困惑しながらも、ジュードが向けている視線の先にジュリアスも視線を向けた。そして――その光景に、驚愕した。

 ジュードの視線の先――樹海の上空に、まるで空に穴が開いたかのように、光の輪が出現していたのだ。そしてその輪の中から、2つの影が樹海へと舞い降りていくのを見た。2つの影…、それはジュリアスも、そしてライオッドもよく知るものだったのだ。




「…う…」

 軽い声とともに、ヴィンスロットは自分の意識がはっきりしてくるのを感じた。邪石を砕いた時に起こった衝撃に当てられ、どうやら意識を手放していたようだ。のろのろと体を起こしながらゆっくりと眼を開けると、そこは何もない真っ白な空間だった。これはどういうことだろう。『闇魔王』は……『闇魔王』の核を壊すことが、自分にはできたのだろうか。

(!)

 そう思い至った瞬間、心臓がギュッと締め付けられた。

「ゼフィール…ゼフィールは?」

 慌てて周囲を見渡すと、その視界にすぐ近くでうつぶせに倒れている弟の姿を捕えた。

「っゼフィール!ゼフィール、しっかりしろ!ゼフィール!」

 慌てて駆け寄ってその小さな体を抱き起すと、瞳を閉じぐったりしている弟に向かって、必死にその名を呼び掛ける。するとヴィンスロットの腕の中で、ゼフィールが小さく身じろぎ、ゆっくりと瞳を開いた。その瞳の色は、先ほどまで対峙していた、『闇魔王』であった時の真紅ではない。穏やかに晴れ渡った夜空のような煌めく濃紺の、いつものゼフィールの美しい瞳だった。そしてその瞳には、今にも泣きそうな顔をしているヴィンスロットの顔が映っている。

「…にい、さま…」

 愛らしい唇から小さく自分を呼ぶ声が漏れたとたん、ヴィンスロットは全身でその存在を確かめるように、ゼフィールを力いっぱい抱きしめた。

 怖かった。またこの存在をなくしてしまうのではないかと、怖くてたまらなかった。

 安堵と喜びに目頭が熱くなり、今さらながら体が震えるのを抑えられないでいる自分に気付く。そんなヴィンスロットの腕の中で兄の体温を感じながら、ゼフィールもまた自分が半身である兄の元に戻ってこれたのだと実感し、涙が溢れてくるのを留められずにいた。お互いの無事に喜びを分かち合っていたその時、

(…くすん……ひっく……うぇ…っく…)

 幼い子供がしゃくりあげる声がした。気付いた二人は声のする方へ顔を向けると…そこに、黒い髪をした小さな男の子がうずくまって泣いている姿を見つけた。小さな体を震わせながら静かに泣きじゃくっているその姿からは、言葉に出来ない切ないまでの悲しみが伝わってくる。だけど、自分たちの周囲には子供などいなかったはずだ。ではこの子はいったい……。

「まさか……『闇魔王』…なのか?」

 ヴィンスロットが呟いたその疑問は、ゼフィールも同じく思うところだった。遥か昔に体をなくしているはずの『闇魔王』が、ゼフィールという器の身体ではなく実態を持った…?

(でも…あの瘴気が感じられない。)

『闇魔王』が放っていた濃い瘴気が、目の前でうずくまる子供からは感じられないのだ。その代わりに感じられるのは……ゼフィールと同じ穏やかで静かな月の気配。困惑し、ただただ子供を凝視する二人の耳に今度は、

 ――リンッ…――

 涼やかな鈴のような音が響いた。

 その音は、先ほどヴィンスロットが狂気に呑まれかけた時に聞いたものだった。と同時に、自分の胸が熱を帯び、何かが外へ出ようとしているのをヴィンスロットは感じた。

「ヴィー兄様……この光は…?」

 ゼフィールも兄の変化に気付き、少し自分の身体を離し輝き始めたヴィンスロットの胸元に驚きの目を向けた。すると、ヴィンスロットの胸から明るく輝く小さな光の玉がスゥ…と抜け出てきた。その光球からは、純粋な太陽の気しか感じられない。

(キレイ…。)

 不思議な光球に目を奪われているゼフィールの横で、ヴィンスロットはその光の正体とこれから起こるであろうことに思い当たり、胸が高鳴るのを止められなかった。そうだ、ヴィンスロットは知っていた。この光球は太陽の守護幻獣である煌牙輝が、あの夜

≪それをお前に預ける。『闇魔王』と対峙した時に必要となるからな。≫

 そう言って自分の胸へと差し入れた、太陽の気でできた光の玉だ。あの時はこの光の正体がわからなかった。でも今は……

<…連れて行って…お願い、あの子の元へ…行きたい。>

「兄様…この声って…。」

 光の声はヴィンスロットだけではなく、ゼフィールにも聞こえているようだ。不思議そうに尋ねてくるその表情には、少しの不安も浮かんでいる。それを見て取ったヴィンスロットは、弟を安心させるように微笑みながら

「あぁ。…連れて行ってやろう。俺たちでこの光を、あの子供のところへ。」

 そう言ってくしゃっと、ゼフィールの頭を一つ撫でた。

 兄の穏やかで優しい仕草に、ゼフィールも信頼の眼差しを向けコクリ、と一つ頷く。正直言えば、今の状況がどうなっているのかわからず、混乱している部分はある。今瘴気を感じないとしても、もしこの子が『闇魔王』だったらまた自分を…、そう考えると足が竦みそうになる。でも兄が…半身である太陽の御子が隣で一緒にいてくれる。ならば自分が恐れることなど何もないのだと、揺るがない自信がゼフィールにはあった。

 ヴィンスロットはその両手に光球をそっと包むと、ゆっくりと立ち上がり未だうずくまっている子供へと歩を進めた。ゼフィールもそんな兄に倣い、兄の隣を寄り添うように歩く。そして子供の近くまで来ると二人は足を止め、ヴィンスロットは手の中にあった光球を、そっと子供に向けて送り出した。

 光はふわふわと子供の周りを飛び交うが、何故か子供はうずくまったままで光の存在に気付いていないようだった。ただただしゃくりあげながら、小声で何事かを呟き続けている。

(何も…ない…ひっく…闇は、我で…うぇ…みんな…闇…なのに…)

 やはりこの子は…『闇魔王』なのか。子供の途切れ途切れに聞こえる言葉に、ヴィンスロットはそう確信した。ゼフィールも同じだったようで、その手がヴィンスロットの腕をギュッと掴んでくる。だが二人とも、もはやその子供に脅威を感じることはなかった。その姿から感じるのは…胸が苦しくなるような、悲哀と渇望。そしてこの感覚は、ヴィンスロットとゼフィールもよく知るものと似ていた。

 うずくまり泣き続ける子供と、寄り添うように浮遊し続ける光球…。その姿に、ゼフィールは白夜姫から聞いた千年前に起こった、太陽と月の御子の悲劇を思い出した。双子として生を受けたが、先に生まれた月の御子に集まる瘴気の濃さに驚いた人たちの無知により、生まれることができなかった太陽の御子。闇の力を引き寄せる呪われた存在として、塔に閉じ込められたうえ実の父に殺められようとした月の御子。誰にも祝福されず、名前すら与えられなかった2人の御子…。

(…もしかして、この光って生まれなかった太陽の御子…?)

 そう思い当たったゼフィールだったが、でもそうだとすると何かおかしい気がする。二人が半身であるならば、互いに意思疎通ができていないような、こんな状態になることはないはずだ。現に自分たちは、異界に離れていてもお互いの存在を感じることができたのに。

 と、そこまで考えて、はたとゼフィールはあることに気付いた。

(!…名前…、もしかして、互いを呼ぶ名前がないから、なの?)

『闇魔王』と対峙し意識を奪われていた時、あの闇の中で互いの名前を呼ぶ声こそ、互いを引き寄せるカギとなることを知った。だからこそ、自分は半身である兄の元へ戻れたのだ。

「ゼフィール?」

 掴んでいたヴィンスロットの腕を離し、ゼフィールは子供の元へ駆け寄るとその小さな体を抱きしめた。弟の行動に一瞬驚きはしたヴィンスロットだったが、それを止めることはしなかった。

「…寂しかったね、悲しかったよね。でも…誰も君に、それが悲しいとか寂しいとかいう気持ちだって、教えてくれなかったから…、知らなかったんだよね。……ごめんね…ごめん。」

 ゼフィールは腕の中の子供に、優しく語り掛けた。

「だけど、もう終わりにしよう。悲しいのも、寂しいのも。君が本当は何を求めているのか…僕は知ってる。僕も…僕も君と同じだから。だから呼ぼう、自分の半身を。」

(……はん、しん…?…我の…)

 ずっと顔を伏せていた子供が、ゆっくりとゼフィールの方へ顔を上げた。涙に濡れた赤い瞳には、何かを期待するような輝きが宿っている。その瞳を、ゼフィールの晴れた夜空のようにきらめく濃紺の瞳が、優しく見つめ返した。

「そうだよ。世界に夜と昼があるように、僕らには半身がいるんだ。その人があってやっと自分が自分でいられるような…そんな大切な存在が。だって僕らは…『オルディリアの月の御子』なのだから。」

 ゼフィールの言葉に、子供のそばで浮遊していた光球が、何か問いたげに明滅する。すると今度はヴィンスロットが、その光にそっと手を添わせ語り掛けた。

「親から与えられた名はなくとも、俺達には生を与えられた瞬間から授けられた名がある。俺たちは、『オルディリアの太陽の御子』だ。呼んでやれ、お前の月を。」

「君は『闇魔王』なんかじゃない。きっと聞こえるはずだよ、半身の太陽の声が。」

 次の瞬間、ヴィンスロットの手にあった太陽の光球が、ひときわ強く輝いた。そして―――

<わたしの月。わたしを呼んで、わたしの月。>

 先程よりしっかりとした声が響いた。するとこの声に初めて、かつて『闇魔王』と呼ばれた子供が反応し、ゼフィールの腕の中からゆっくりと離れ光球へと近づいていく。

(……太陽?…我の…我だけの、半身…。)

 おずおずと発せられたその声に反応し、さらに増した光が徐々に子供の姿を形作った。キラキラと輝く金色の子供は、もう一人の子供にその小さな手を差し出す。赤い瞳をした子供もゆっくりと手を出し……そして二人の手が触れた。

<ずっと…ずっと待ってた!あの日、あなたのそばに行けなくなったあの日からずっと。でも信じてたよ、また一緒にいられる日が来るって。>

 暖かく、喜びに満ちた声。これまで…こんな感情を向けられたことはなかった。でも知っている、この声を、この気配を自分は知っていると赤い瞳の子供は思った。ずっと一人で塔に閉じ込められ、闇と暗い感情だけに囲まれていた日々に、こんな気配はなかったはずなのに…。

(でも…確かに知っている。)

 そして唐突に子供は悟った。これまで、なぜ闇を集めても集めても満たされなかったのか、なぜ太陽の青年の声にあれほどまでの苛立ちを、狂おしいほどの感情を掻き立てられたのかを。

(あぁ…、今ならわかる。我はずっと求めていたのだ、欠けてしまった半身を…。)

<わたしの月。>

 この声だ。この気配だ。どれだけ闇を濃くしても、どれだけ人を闇に染めても、決して得られなかったものが今目の前にある。本当に欲してやまなかったものが、確かにここにいる。

(我の太陽。)

 手を取り合い、額と額をくっつけて、千年の時を超えた再会を果たした二人の御子は、お互いの存在を確かめ合う。喜びの涙に濡れた4つの瞳には、一切の曇りはなく穏やかで温かい輝きが溢れている。そして…太陽の気で金色に輝く子供の隣で、かつて『闇魔王』と呼ばれていた子供は、月の気である銀色の光を放つようになっていた。

 ――あるべき場所へ還る時が来た、我らが御子よ――

 その声に、ヴィンスロットとゼフィールは頭上を見上げた。その視線の先に見つけたのは、いつの間にか現れていた光の輪の中からこちらに舞い降りてくる、オルディリアの幻獣たちの姿だった。

 2頭は小さな子供たちに優しく寄り添うと、何かを促すようにクルルル……と優しく声をかけた。すると、2人の子供の姿は輪郭をなくしていき、金色と銀色の光になってスゥ…とゆっくり光の輪に向かって上昇し始めた。

<ようやく、千年の後悔に終止符が打てる。感謝するぞヴィンスロット、我が太陽の御子。>

「…煌牙輝。」

<ありがとう、我が御子。あなたたちのおかげで、見失ってしまったものを取り戻せた。これで歪みは正され、あの子たちを安寧の地へ…命の源へと導くことができます。>

「白夜姫…。」

 幻獣たちはそう言葉を残すと、上昇していく金と銀の光を守るように寄り添いながら、光の輪の中へと進んでいく。その姿が完全に光の中へ消えた後、白一色だった空間は色を取り戻した時、ヴィンスロットたちは元居た場所――ザルア山の麓に立っていた。



 戻った景色の中、ヴィンスロットとゼフィールは千年前の御子たちと幻獣たちが消えた空を、ただじっと見上げ続けていた。今その頭上に光の輪はなく、夕暮れの気配を帯び始めた澄んだ青空が広がっている。ザルア山を囲む樹海は静かで穏やかな空気が満ち、そこがほんの少し前まで暗い瘴気に満ちた禍々しい場所であったということが嘘のようだ。

「…兄様。僕たち、やり遂げられたんですね…。」

 繋いだ手をキュッと握りながら、ゼフィールはヴィンスロットにそう呟くように語り掛けた。

「あぁ…。そうだな…。」

 そう返したヴィンスロットの胸には、これまでの出来事が一気に去来していた。弟が生まれた日のこと、月の神殿で過ごした母たちとの穏やかな日々、引き離された時の絶望、再会した時の歓喜――

 胸を引き裂かれそうなほどの苦しみや悲しみも、心臓を締め付けるような愛しさや喜びも、全ての思いがここに繋がり昇華されていく。

「俺たちはオルディリアの御子として…母上の息子として、果たすべきことをやり遂げた。だがそれ以上に…お前がこうして俺の隣にいてくれる。それが何より嬉しい。共に生きて幸せになるという約束を守ってくれて、ありがとうゼフィール。」

「ヴィー…!僕も…僕の方こそ、ありがとうございます!」

 言葉には表しきれない熱い想いが溢れ、お互いの存在を、その体温をいま一度確かめるかのように、どちらからともなくお互いの身体を抱きしめた。どんなものよりも安心できる兄の太陽の気に包まれ、ゼフィールは半身と共にあることの幸福と充足感を実感していた。そして…その安らぎに満たされる喜びを知るからこそ、願わずにはいられなかった。

(どうか…あの子たちが、千年前の太陽と月が、安らかでありますように…。)

 ゼフィールの、癒しの月の御子の静かな祈りは、波動となってその体を抱くヴィンスロットにも伝わってきた。

 千年にも及んだ『闇魔王』による脅威は、ほんの小さな偶然から始まった。人々の無知が招いた僅かなひびが大きな亀裂となり、結果として世界を揺るがす巨大な“闇”を生んだのだ。

(ゼフィールと引き離された10年、再会を信じてはいても苦しかった。それが千年も……。)

 半身を奪われるあの例えようのない喪失感と計り知れない絶望は、闇を祓う太陽の御子であるヴィンスロットさえも、容易く狂気へと誘うものだった。愛も半身も得られなかった幼子が抱え込んだ狂気は、長い年月を経ても決して解けることのない鎖となって、その魂を“闇”に縛り付けていたのだろう。

 他者によって『闇魔王』にされてしまった『月の御子』に、同情すべき点は多いと言える。だが千年に渡り人々に恐怖や脅威を与え続けたのは、紛れもない事実であり決して許されるものではない。その罪の代償として、魂が消えてなお『闇魔王』という名は残り、人々の憎悪の対象としてあり続けるだろう。それでも…全てが終わったこの時に、ヴィンスロットもまた、再会に涙し喜びに輝いていた金と銀の小さな光に想いを馳せずにはいられなかった。

(煌牙輝たちが言っていた安寧の地で……ゆっくり眠れ。)

 再び空へと視線を向け、もう一組の太陽と月の御子へ心の中でそう語りかけた。



「ヴィンスロット!ヴィンスロット、そこにいるか⁉」

 御子たちの魂を見送った余韻に浸っていた2人の耳に、現実へと引き戻す声が樹海の方から響く。その声と共に樹海の茂みから姿を現したダリオンの王子リュカとその護衛である魔導騎士ゼルノアは、ヴィンスロットたちの姿を認めると真直ぐに駆け寄ってきた。

「ヴィンス!それにゼフィール殿!よかった、2人とも無事だな!」

「あぁ。リュカ、お前の方こそ大丈夫か?」

 ヴィンスロットの肩をガシッと掴み、喜びと心配が入り混じったような目で無事を確かめてきた親友は、ヴィンスロットに負けず劣らず土にまみれ、ボロボロになっているように見える。

「俺たちなら心配いらない。なに、お前たちの戦闘の余波で吹っ飛ばされたり、瘴気に当てられて暴走した魔獣たちに絡まれたくらいだ。」

「…そうか。」

 ニヤっと不敵に笑いながらそんな軽口を言うュカだったが、それがいかに困難なことだったかは、その姿を見れば一目瞭然だ。事実、強力な結界で密閉された樹海の中にいたのがリュカ達でなければ、決して無事でなどいられなかったほど、『闇魔王』との衝突での影響は大きかったのだろう。それをあえてたいしたことではないと明るく言う友人の気遣いに、なんだか申し訳ない気持ちが湧いてくる。

「そんな顔するな。別にお前を責めているわけじゃない。危険なことは承知の上で、俺はお前と共にザルアに入ったんだ。ダリオンの王子として果たすべきことも果たせたし、こうしてお互い元気にしている!何の問題もないさ。」

 リュカの言葉に、側にいたゼルノアも少し頷くことで同意の意を示す。

「ゼフィール殿も…よく頑張りましたね。ご無事で何より……ってあぁっ!」

 突然大声を上げたリュカは、その勢いでゼフィールの顔を挟み込むように掴んだ。あまりに唐突な行動にゼフィールは驚きの余り声も出せず、ヴィンスロットもフリーズしてしまう。

「頬に…顔に傷が!」

 え、顔?傷?…あ、もしかして頬っぺたの、かすり傷のこと…?

「なんてこった!ゼフィール殿の美しい顔に傷が…!ゼルノア、早く治癒を!」

「いえ、あの、殿下…!そんな、大袈裟です。」

 必死なリュカの様子に、ゼフィールも困惑しながら、それでも反論を試みた。

「僕よりも、皆さんの怪我の手当を…。」

 だがその反論は、リュカから指名を受けたゼルノアによって、静かに遮られてしまった。

「ゼフィール様、ザルア樹海は普段お過ごしの場所よりも、瘴気のとても濃い地なのです。小さな傷であっても、そこから瘴気が入り込み、後に大事となることもございます。ですので軽くお考えなさらず、私に傷の状態を確認させてください。」

 こんな怪我というのもおこがましいような小さな傷で、こんなに心配されてしまうのは正直ものすごい恥ずかしい。でも、まだこの世界のことをよく知らない自分の判断よりも、熟知しているゼルノアの進言の方が正しいことは明らかだ。

「…はい。すみません、お願いします。」

 ゼフィールの返答に、リュカはその位置をゼルノアに譲り、自分は傍でじっと立っていたヴィンスロットの隣に立った。

 実は先程から、リュカは秘かに不思議に思っていた。以前、初めてゼフィールと対面した時は、あれほど自分が弟に触ったり困らせたりすることに、過剰ともいえる反応を見せていた男が、なぜこうもおとなしくしているのだろう。

 ちらりと盗み見た親友の横顔は、視線を弟から離さないもののどこか気まずそうな、何とも言えない複雑そうな表情をしている。

(まぁ、心配が過ぎているだけかもしれんが…。)

 そんなことを考えていると、ゼフィールの傷を診ていたゼルノアが

「…痛みもないようですし、このままにして自然に癒えるのを待ちましょう。」

 とそう言った。それに驚いたのはリュカだ。ダリオンの誇る魔導騎士であるゼルノアは、戦闘に適した魔術だけでなく、命を守るために必要な治癒魔術も習得している。小さな傷程度ならば、痕も残さずすぐに治癒することができるはずだ。ゼルノア自身も言っていた通り、『闇魔王』の脅威は去ったとはいえ、ザルア樹海の中の瘴気は濃い。塞がっていない傷をそのままにして樹海に居るのは、好ましいことではないことはよくわかっているはずなのに…!

「ゼルノア!」

 抗議の声を上げたリュカに、ゼルノアは軽くため息をつきながら

「落ち着いてください。リュカ殿下。」

 とそう言うと、リュカの隣にいるヴィンスロットにちらりと視線を送り、再び話し始めた。

「ゼフィール殿下が申した通り、傷は浅く瘴気の影響もうけていませんので、心配はありません。ただ…この傷は太陽の破邪の力を帯びています。ゼフィール殿下は生来“闇”の属性もお持ちです。わたしの治癒術に反応し破邪の力が高まれば、余計に傷の治りを遅くする結果となる可能性も考えられるので、自然治癒に任せた方がよろしいかと。」

「太陽の…っ⁉」

 ゼルノアの返答にリュカは思いっきり、隣のヴィンスロットを振り返った。そうか!それでこいつはこんな顔をしているのか!

「あの…!本当に僕は、大丈夫ですから!このくらいの傷、友達と遊んでいていつも作ってましたし!」

 リュカと、その隣のヴィンスロットの表情を見て、ゼフィールは慌てて言いつのった。

「顔に傷をつけるとなんでか怒られましたけど、それくらい男だったら大したことないっておじさんも言ってましたし!おじいちゃんも舐めときゃ治るって、でもそうしたら「あんたたちと月夜ちゃんを一緒にするな!」っておばさんにおじさん達が怒られて……ってあれ?何言ってるんだろう、僕。」

 必死に弁明しているうちに、なんだか話が違う方向に向かってしまったことに気付き、耳まで真っ赤になってしまう。そんな一生懸命なゼフィールの愛らしすぎる姿は、言い合いが始まりそうだった2人の王子の勢いを止めるのに十分だった。

 妙な感じで場が和んだところで、軽くため息をついたゼルノアが

「…とにかく、もうだいぶ日も傾いてきましたし、早く樹海を離れましょう。さぁ、お三方とも、帰りますよ。」

 と帰還を促した。

「そ、そうだな。夜になる前に樹海を出なきゃな。外でみんなが待ってるだろうし。」

「あぁ。…いくぞ、ゼフィール。」

「…はい!」



 かくして千年に渡った一つの物語は終焉し、長きに亘った牢獄の役割をようやく終えたザルア山が、去っていく4人の後姿をただ静かに見送っていた。







 ~黎明~





「…ん…。」

 目を覚ましたゼフィールの視界に映ったのは、薄暗い見知らぬ部屋の天井だった。やわらかい寝具の感触に、どうやら自分はどこかの部屋のベッドで寝ていたのだと理解したが、寝起きの思考はまだぼんやりとしていて、ここがどこなのか、自分はどうしたのか、うまく状況を把握することができない。それでものそのそと体を起こすと、自分の傍らに薄暗い中でも鮮やかに輝く金色の頭が、ベッドに突っ伏している姿が目に入った。

(ヴィー兄様…。)

 すると、ゼフィールが起きだしたことに気付いたのか、眠っていたであろうヴィンスロットも伏せていた頭を上げ、弟の方へ顔を向けた。

「起きたのか、ゼフィール。」

 と、やさしく問いかけながら、ゼフィールの髪にそっと手をやった。

「どこか辛いところはないか?まだ眠ければ、眠っていていいんだぞ。」

「大丈夫です。…あの、兄様。…ここは、どこですか?」

 少し困惑したようなゼフィールの問いに、ヴィンスロットは軽く微笑みながら

「ここは、俺が最初に拠点としていた役所の一室だ。」

 そう答えると、これまでの経緯を語って聞かせた。


 ――全てが決着し、ザルア樹海の中を帰途についていたヴィンスロットたちだったが、最初は元気に歩いていたゼフィールの歩調が、次第にゆっくりになり足元が危うくなりはじめた。夜も明けきらないうちから、瘴気の枝や『闇魔王』といった、初陣としては厳しすぎる強大な力と闘い続けてきたのだ。その小さな体は、もう限界だったのだろう。

 そんな弟の様子を見たヴィンスロットは、立ち止まると自分の背に乗るように促した。兄に背負ってもらうなど負担になってしまうと、ゼフィールは逡巡した。だけど、このまま我を通したとしても、かえって兄やリュカ達に迷惑をかけてしまうのは目に見えている。申し訳なさはあったが、夜になる前に樹海を出るためにも、ここは素直に兄の申し出に従うことにした。

 ヴィンスロットたちが樹海を抜け、シリウスたちと合流できたのはちょうど日が沈もうとしている時だった。ヴィンスロットやリュカ達の無事な姿に、オルディリア、ダリオン双方の騎士たちは喜びの声を上げ彼らの元へと駆け寄っていったが、「しっ!」とリュカにそれを制されてしまう。困惑した騎士たちに、リュカは目線と仕草で、ヴィンスロットの方へ注目するように伝えた。それに促され騎士たちが目を向けたヴィンスロットの背には、安らかな寝息を立てぐっすりと眠っている、ゼフィールの姿があった。――


「早くお前を休ませたかったというのもあるが、正直俺やリュカも疲労困憊だったからな。一番近いここで一晩休んで、翌朝オルディリア王宮へ帰還すると、父上や叔父上たちに連絡を入れた。―父上も叔父上も、お前の無事をとても喜んでいたよ。」

 なんだか小さい子供のように、ヴィンスロットに背負われて爆睡している自分をシリウス騎士団長たちに見られていたかと思うと、なんだか恥ずかしいような気持が湧いてくる。

(どうせならもうちょっと…カッコよく帰ってきたかったなぁ。)

 そんな少年らしい後悔にちょっとへこんだけれど、父や叔父たちが喜んでくれているのは素直に嬉しい。くすぐったくて暖かい、そんな気持ちが優しくゼフィールを満たしていった。

 その時、ゼフィールの髪に触れていたヴィンスロットの手が、弟の小さい輪郭を辿るように白い右の頬に降りてきた。そしてまだうっすらと残る、切り傷の痕を親指でゆっくりと撫でる。

「……今度こそお前を守ると誓ったのに…、実際にはこの様だ。…あの時、お前に助けられなければ、俺自身が魔王となっていたかもしれない。俺は……ダメな兄だな。」

 その言葉と、慚愧に揺れるヴィンスロットの瞳に驚いたゼフィールは

「そんなことありません!」

 と語気強く兄の後悔を否定した。

「僕もあの時、兄様を待てずに闇に沈みかけてました。それを救ってくれたのが…この傷から流れ込んできたヴィーの気です!この傷がなかったら、ヴィーが僕を呼んでくれなかったら、僕こそ『闇魔王』になってました!」

 そう言うと、ヴィンスロットの手をしっかりと両手で掴み、そっと頬から離した。

「ヴィー兄様がいなかったら、僕を救おうとしてくれた多くの声にも気づくことなく、僕はあの闇の中に消えていました。生まれた時もそうですけど、僕が闇に呑まれそうになるのを助けてくれるのは、いつだってヴィー兄様なんです。カッコよくて強い…僕の大好きな半身が、ダメなわけないじゃないですか。」

 ヴィンスロットの黄金の瞳を、真直ぐに見つめてくるゼフィールの濃紺の瞳は、揺るぎない想いにキラキラと煌めいている。その輝きが、重く沈んだヴィンスロットの心を明るく照らし、静かに癒していく。あぁ、救われているのは……いつだって自分の方だ。自分の腕の中におさまってしまうまだ小さな弟に、心ごと抱きしめられ守られている。―――

「ねぇ、兄様。『闇魔王』の核…あの魔石は、深い闇に呪縛され囚われた『月の御子』そのものでした。千年の間、誰も…オルディリアにいたこれまでの『太陽の御子』達ですら砕けなかった魔石…それをヴィー兄様が壊した。その時ね、僕『オルディリアの伝承』の意味が分かったんです。僕たち『月の御子』を闇から救ってくれるのは、()()()()()『太陽の御子』の力だけなんだって。だから半身を持たなかった『太陽の御子』では、力が及ばなかったんだと思うんです。

 あの時の僕はほぼ『闇魔王』と同化していたから、僕を闇から救おうとした兄様の力が、結果として千年前の『月の御子』も救うことになった。ヴィーだったから…千年の悲しみを終わらせることができたんですよ。」

≪二つが並び立つとき、大いなる悲しみは癒される≫

 きっと、今ゼフィールが語ったことが、“伝承”が示す全ての真実なのだろう。

 ゼフィールが『闇魔王』に殺されたと思ったあの時、我を忘れたヴィンスロットはただ目の前の()()を滅ぼそうと太陽の力を暴走させた。だがその憎しみに満ちた力は、『闇魔王』を滅するどころか僅かにかすり傷を負わせる程度にとどまり、それどころか逆に『闇魔王』の力を増幅させる糧となったしまったのだ。これは確信に近い推測だが、これまで『闇魔王』に挑もうとしたであろう『太陽の御子』達も、同じ理由で滅することが叶わず封印し続けるしかなかったのではないだろうか。

(半身を…『月の御子』を守りたい、その強い想いこそ全ての闇を祓う太陽の力を正しく、そして最大限に発揮させることができる、唯一の鍵なのかもしれない。)

 つまり、今目の前で微笑む弟が…半身である『月の御子』がいなかったら、自分も『闇魔王』を打ち砕くことが叶わず、今もまだ世界は闇に支配される恐怖と隣り合わせだっただろう。“憎悪”ではなく“慈愛”、大切な人を救いたいという想いが、全ての悲しみを癒し千年の戦いを終結へと導いたのだ。

 胸がいっぱいで、悲しくもないのに泣けてきそうになる。そんなくすぐったいような気持ちのまま、ヴィンスロットはそっとゼフィールを抱きしめた。

「―お前を、俺に『月の御子』を授けてくれたオルディリアの聖樹に感謝を。―」

 ヴィンスロットのつぶやきが、大切な人からの言葉に重なった。あの暗い空間の中、微笑んで、自分を送り出してくれた大切な愛しい人たち――

「…兄様、僕ヴィー兄様に伝えたいことがあるんです。」

 暖かいヴィンスロットの体温に包まれ、大きな手でやさしく髪を撫でられていると、その心地よさにまた眠ってしまいそうだ。けれども、これだけは今絶対に伝えなければ。ゼフィールはゆっくりと“母からの伝言”を語り始めた。

「…あのね…」

 そんな二人を包む夜の闇は、どこまでも静かで穏やかだった。



 夜明けとともに、ヴィンスロットとゼフィール、そして太陽・月の騎士たちは拠点とした地方役所を出て、オルディリア王宮を目指すこととなった。だがリュカ達ダリオン組は、目的の一つだったゾルアド討伐結果を本国へ報告する必要があるため、ヴィンスロットたちに同行せずここで別れることとなった。

「本当に…いろいろ済まなかったな、リュカ。」

「何言ってるんだよ。俺は俺の成すべきことを、お前はお前の成すべきことをお互いしただけだ。」

 そう言って明るく笑うリュカに、ヴィンスロットは手を差し出した。リュカもその手をがっちりと握り返す。

「じゃあな。ヴィンス。」

「あぁ。ダリオン王にも感謝を伝えてくれ。」

 友人同士の短い言葉を交わすと、リュカは早々にヴィンスロットの手を離し、今度は兄の隣に立っていたゼフィールに向き直った。

「ゼフィール殿も、気を付けてお戻りください。」

「ありがとうございます、リュカ王太子殿下。あの、お体しっかり休めてくださいね。あと、ゼルノア様、ダリオンの騎士様たち、本当にありがとうございました。皆さんもどうぞ、お気をつけて…っ!」

 ゼフィールが全てを言い切る前に、リュカがガバッとゼフィールに抱き着いた。

「愛らしい!あぁもうこのままダリオンへご一緒しましょう!ってぐえっ!」

 リュカの襟首をひっつかみ、勢い良くゼフィールから引きはがしたのはもちろんヴィンスロットだ。

「貴様は何度言ったらわかる!驚かすのはやめろとあれほど…!」

「いいじゃないか!お前の弟なら俺にとっても弟!過保護すぎなんだよ!」

「なんだと!」

「あ、あの兄様、リュカ様もやめてください!」

 ぎゃいぎゃいと言い合うヴィンスロットとリュカ、その2人に挟まれておろおろとするゼフィール。

「……これを“平和の光景”、というのでしょうかね。」

 3人のやりとりを呆れたように一歩引いてみていたシリウスが、同じように静観していたゼルノアに向かって呟いた。まったく…その通りなのだろう。この地を目指した時、この光景を望んではいたがそれを実現できるかは半々だった。それを思えば、実現できたことには喜びと感謝しかないが、なぜこうまで力が抜けるような感じがするのだろう…。

「はぁ…。殿下方、いい加減にしてください。早く出立せねば、待ちくたびれた王たちの雷が落ちますが、それでもよろしいのですか。」

 ダリオンの誇る魔導騎士からの低く冷ややかな苦言に、皇子たちの子供じみたじゃれ合いは速やかに終了となった。


「2人とも、いずれダリオンにも遊びに来てくれ!その時は大いに歓待する!」

 そんな言葉を残し、リュカ達ダリオンの騎士たちは母国へ向かって出立し、ヴィンスロットたちも拠点とした地方役所を後にしオルディリア王宮へと向かった。

 王宮からザルア樹海へ向かった時とは打って変わって、この帰路は本当に穏やかなものだった。長距離での乗馬に慣れていないゼフィールは、お目付け役に任命されたロイドと共に馬車に乗っての移動となったのだが……終始初めてみるオルディリア郊外の風景に大興奮のゼフィールが、瞳を輝かせながらロイドを質問攻めにしそれはもう賑やかなことこのうえない。

「ロイド様!あれは何ですか?すごくきれいです!あっ、あれは?」

「ゼフィール!危ないからちゃんと座って!」

 窓から身を乗り出さんばかりにはしゃぐいとこは大変愛らしいが、同時に勢い余って落ちやしないかとロイドは気が気ではなかった。そんな馬車の中の様子が伝わり、馬上のヴィンスロットも口元が緩むのを禁じ得ない。それは周囲の騎士たちも同じだったようで、誰もが皆笑いをこらえるのに必死になっているのが手に取るようにわかった。

『月の御子』の奪還と『闇魔王』の討伐。2つの難題を誰一人欠けることなく達成できたことを、ヴィンスロットは改めて感謝し誇らしく思っていた。そんな明るく高揚した乗り手の気持ちが、騎乗している馬たちにも伝わるのだろうか。馬の足取りも軽やかに進んでいた一行がオルディリア王宮に到着したのは、予定よりも少し早い太陽の木の時刻(15時~17時)、日が少し傾きかけた頃だった。


 城内に入ったヴィンスロットやゼフィールは、今か今かと帰還を待ちかねていた王宮内の人々から大歓声に迎えられた。特にゼフィールの身を心配し続けていたフォリアとリュドミラ女官長は、その姿を確認すると勢いよく駆け寄り泣きながら少年の身体を抱きしめ続け、ゼフィール本人や周囲の人たちに宥められ、ようやく離れたくらいだ。あまりの歓迎度合に少々面喰いはしたものの、みんなが向けてくれる喜びや愛情が、暖かくて、嬉しくて……。そんな歓喜の渦の中を進んでいったその先には、誰よりも2人の帰還を待ち望んでいたであろう父、皇帝アルスロッドの待つ大広間への扉があった。

 大広間には、結界の作成に尽力してくれたルーシェン王国、シェーリア公国の魔導士たち、ジュリアス神官長をはじめとするオルディリアの重臣たちが集まっており、そして中央奥の玉座に坐する皇帝アルスロッドとその隣に控える皇弟ライオッドの姿があった。その部屋の雰囲気に圧倒され、一瞬で緊張してしまったゼフィールを見たヴィンスロットは、安心させるようにその肩に優しく手を置く。そしてそのまま部屋の中央を玉座に向かい進むよう、弟を促しながらともに歩を進めた。そして皇帝の前まで来ると、ヴィンスロットは跪き礼を取り、ゼフィールも兄に倣って同じく礼を取った。

「父上、ヴィンスロット・エルド・オルディリア、並びにゼフィール・エルド・オルディリア、只今ザルアより帰還いたしました。勅命賜りました『闇魔王』討伐の件、5大国のご助力を得て無事に成し得ました事、ここにご報告いたします。」

 ヴィンスロットの凛とした声が部屋に響く。

「オルディリアの太陽と月よ、大儀であった。千年に渡るオルディリア皇室の宿願を果たしたこと、皇帝として誠に喜ばしく思う。また、ここにお越しいただいたルーシェン、シェーリアはもちろん、他の国々の方々にも、心からの謝意を贈らせてほしい。世界に甚大な被害を及ぼすことなくことが成就できたのは、ひとえにそなたたちの助力があったればこそ。このアルスロッド、心より感謝申し上げる。」

 一国の皇帝としてアルスロッドは、大神官ジュードや聖女オルフェーリア達に向け謝意を述べた。ジュードたちも、軽く頭を垂れて皇帝からの謝意を受け取る。

「ゼフィール、こちらへおいで。」

 一つ息をつき、他国の魔導士たちから視線を息子たちに戻したアルスロッドは、そうゼフィールに声をかけた。先ほどより幾分和らいだその声は、一国の王ではなくただ一人の父親のものだ。ゼフィールは少し戸惑いはしたものの、その言葉に従って立ち上がり、ゆっくりとアルスロッドの元へと進んでいった。おずおずと近づいてくる我が子に向かい、玉座に座っていたアルスロッドは少し前傾し、その胸に招くように両手を広げる。それを目にした瞬間、周囲の目に感じていた緊張や羞恥が、ゼフィールの中から消え去ってしまう。そして気付けば、小走りに父の腕の中へ飛び込んでいた。アルスロッドも少年の華奢な身体を力いっぱい抱きしめながら、万感の思いを口にした。

「本当に…よく戻ってくれた。…ゼフィール、お前には寂しい思いも、辛い思いも多くさせてしまった。それも全て、この父が力及ばなかったせいだ。それでもお前はこんなに真直ぐに育ってくれ、“生きて幸せになる”という約束を守り、こうして余が再びお前を抱きしめることを許してくれている。余は…余はこの幸福をもたらした全てに感謝しよう。ゼフィール、そしてヴィンスロット、余は2人の息子を心から誇りに思うぞ。」

「…父様…!」

 もう、零れないと思っていた涙が、ゼフィールの瞳から溢れる。でもそれはゼフィールだけではない。そばにいたヴィンスロットはもちろん、ライオッドやジュリアス、その場にいた人々は皆、静かな感動に包まれていた。千年ぶりの『月の御子』誕生、月の神殿の悲劇、10年の別離、『闇魔王』との決戦……それは痛みや恐怖、慟哭、憎悪が多くあった茨の道だったが、そんな中にも喜びや楽しさなど、暖かい想いに包まれる日々も確かにあった。そしてそれらが全て『今』に繋がっている。

 ――全てに感謝しよう――

 アルスロッドのこの言葉こそ、皆の心を表す唯一の言葉だった。


「…さて、わしからもいいかの、オルディリアの皇帝陛下。」

 飄々とした声が、唐突に静けさを破って人々を現実へと引き戻した。前へと進み出たのは、とんがり帽子をかぶった小柄な老人、ルーシェン王国の大神官ジュードだ。ニコニコと人の好さそうな笑顔を浮かべ、トコトコとアルスロッドとゼフィールに近づいていく。

「ジュ、ジュード殿…?」

 唐突なジュードの行動に、玉座のアルスロッドはただその名を呟いただけにとどまってしまう。父の腕の中にいたゼフィールはもちろん、ヴィンスロットやライオッドも不意を突かれたように、ただ頭に「?」を浮かべるだけで反応することができない。

「なに、頑張った子供にはやはり褒美をやらねばならんじゃろう。」

 ジュードはそう言うと、ゼフィールの頭をやさしく撫でた。

「月の御子よ、我が腹心の友ウォンラットはそなたを信じ、幼きそなたに全てを賭けていた。正直わしは、それには懐疑的じゃった。封印されているとはいえ千年を経た魔物と、この世に生まれて間もない2人の幼子。果たしてそう上手くいくであろうかと、疑いたくもなるであろ?だがそなたは…そなたら兄弟は、見事に成し遂げて見せた。友の信念が正しかったと、わしに証明してくれた。」

 穏やかな光が宿った紫色の瞳が、いたずらっ子のように細められる。

「友の想いに報い、世界を救ってくれたそなたに……“父との時間”を褒美として与えようと思うのだが…いかがであろう。」

 ジュードの突拍子もない、そしてとてつもなく意外過ぎる“褒美の内容”に、その場にいた誰も理解が追い付かず、ただただジュードを見つめるだけで声も出ない。誰もが言葉を失う中、驚きすぎて涙も止まったゼフィールが

「あの……それは、どういう…?」

 と、途切れ途切れにではあるが、ようやく疑問を口にした。その問いに、ジュードはゼフィールの頭を撫でたまま、ホッホと軽く笑いながら機嫌よく答える。

「そなたの父はの、以前その身に受けた瘴気によって今も命を削られ続けている。奥深くまで食い込んだ瘴気はオルディリアの誰にも…大神官として長く生きるこのわしでさえ、取り除くことはできんかった。じゃがな、此度のことでそなたの…『月の御子』の真の力を見て、そなたであればアルスロッド殿の瘴気を除けると確信したのじゃ。」

 不安そうだったゼフィールの瞳が、その言葉の意味を受けて驚きと期待に輝きだす。それはヴィンスロットをはじめとする周囲の者達も同じだった。

「月の力は浄化に優れた力。その最高峰たる『月の御子』の浄化の力が比類なきものであることはもちろんじゃが、御子の力にはもう一つ特異な力…()()()()()()()()()()()が秘められていたのじゃ。ゼフィール殿、『月の御子』であるそなたであれば、その稀なる力を使って父の身体の深くに巣食う瘴気をその身に引き寄せ、浄化することができるであろう。」

 自分が病の父を治すことができる、その可能性を示されて嬉しくないわけはない。白い頬を上気させ、

「それは、それは本当ですか?僕が…本当に父様を治せるのですか!」

 そう勢いよく尋ねたゼフィールに、ちょっと困ったような表情をジュードは浮かべた。

「…そうじゃ、そなたの力ならそれが出来よう。じゃがな、よくお聞き。これまで瘴気に侵され続け傷んでしまった身体は、瘴気を消しても元に戻ることは残念じゃがない。そなたがもし完全な健康体にするという意味で“治す”と言っているのなら、それは違うとわしは言わねばならん。」

 期待に輝いていたゼフィールの瞳に、僅かな困惑が浮かぶ。

「じゃが、今そなたが浄化を行わずにおれば、父御の命は早晩尽きてしまうのもまた現実じゃ。のう、竜の聖女よ。」

 ルーシェンの大神官に話を向けられた竜の聖女オルフェーリアは、動じる様子もなく優雅な所作で一歩前に進み出た。

「はい。残念ですが、ジュード様のおっしゃる通りかと。」

 父の死を暗示する2人の言葉に、ゼフィールの表情がみるみる強張っていく。その様子を見たオルフェーリアは、ゼフィールを宥めるように美しい頬笑みを浮かべ、凛とした涼やかな声でこう続けた。

「ゼフィール様、あなた様は『月の御子』に課せられた重責を、まだ小さなそのお体で見事に果たされました。お辛いことも、お寂しいことも多かったことでしょう。そんなあなた様だからこそ、わたくしはぜひ此度のご褒美を受け、これまで叶わなかった父君との時間を、享受していただくべきと思っています。」

「そうじゃぞ、今瘴気を取り除けば、失われていた時間を取り戻すくらいはできようからの。」

「ま、待ってくれ、ジュード殿!オルフェーリア殿!」

 ジュードが悪戯っぽくオルフェーリアに追従したその時、これまで沈黙をしていたアルスロッドが、弾かれたように声を出した。

「確かに『月の御子』には、強力に闇を惹きつける力がある。それは認めよう。だがこの子はまだ力のコントロールが不安定だ。それなのに、そんな力を使うのは危険ではないのか?万が一暴走を引き起こせば、この子をまた傷付けるだけに…!」

「その心配は無用じゃ、アルスロッド殿。ほれそこに、()()()がおるではないか。」

 とんがり帽子の老人はそう言いながら、控えていたヴィンスロットに視線を送った。それにつられ、ゼフィールやアルスロッド、その場にいた誰もがヴィンスロットに注目する。

「万が一『月』が引き寄せた闇が暴走しようとも『太陽』がそれを祓い護るだろう。」

 ジュードの言葉を聞いたジュリアスの脳裏には、ゼフィールが生まれた日、あの部屋で起こったことをまざまざと蘇った。誕生したばかりの『月の御子』に引き寄せられた“闇”、当時の月の神殿最高位の神官長をもってしても退けられなかったあの“闇”を一瞬で跳ね除けたのは、まだ幼かった『太陽の御子』――。

 銀色の月の光に満たされた美しい光景は、今も目に焼き付いて離れない。そうだ、この2人ならば、どんなに暗い“闇”が押し寄せてきたとしても、きっと光ある方へと導いてくれるだろう。

「力の加減は、わしが補助してやるから心配に思うことはないぞ。それに、兄と共になら安心じゃろ?どうじゃ、やってみるか?」

 茶目っ気たっぷりにそう言うと、ジュードはゼフィールの頭をポンポンっと軽く叩き、返答を促した。ゼフィールとヴィンスロットは目を合わせ、言葉にならない会話を交わす。

 答えは、決まっていた。




 月の神殿にある広い中庭の芝生に、オルディリアの第2皇子にして月の御子であるゼフィールと、オルディリアの月の幻獣である白夜姫は、寄り添って座っていた。夜の森から吹き抜けてくる涼やかな風が、ゼフィールの黒髪を優しく揺らし、その心地よさに少年は自然と笑みを浮かべる。

「天気も良いし、気持ちいいね、白夜。」

 そう言って幻獣の柔らかい毛並みを撫でると、白夜姫も愛おしそうに目を細めて

<そうですね、我が御子。>

 と優しく答えた。


 ゼフィールたちがザルアから王宮に戻った日から、3週間という時が過ぎた。


 あの日、大神官ジュードとヴィンスロットのサポートを受け、ゼフィールは無事に父の体の奥深くに巣食っていた瘴気の浄化に成功した。アルスロッドからどす黒い瘴気がゼフィールの身体に取り込まれていく様は、周囲で見守る者たちを一瞬緊張させたが、彼等が目にしたのは不吉な闇ではなく、彼の身体から銀色と金色に煌めく流砂が上空へと立ち上っていく、それは美しく神秘的な光景。部屋中を満たした優しく暖かな空気に、その場にいた誰もが正しく浄化がなされたことを理解した。

 この瞬間、オルディリア皇帝アルスロッドの命を蝕む元凶は無くなり、目前に迫っていた死の危機は当面回避されたのだ。

 その翌日、この慶事に大きく貢献した大神官ジュードと竜の聖女オルフェーリアは、別れの挨拶と共に心からの感謝を伝えたゼフィールやヴィンスロットに

「せっかくじゃ、父君にいっぱい甘えて我儘を言うのじゃぞ。いずれ兄と共にルーシェンへ来るといい。歓迎するからの。」

「ええ、ぜひ我がシェーリアにもお越しください、ヴィンスロット様、ゼフィール様。またお会いできるのを、楽しみにしておりますわ。」

 と、それぞれ再会を願う言葉を残して帰国の途に就いていった。


 その後、ゼフィールはしばらく王宮に留まり父と兄のそばで暮らしていたが、より月の力を安定させ国のために貢献したいと願い、今は月の神殿に戻りジュリアスに付いて勉強をしながら神殿での仕事の手伝いなどをしている。学ぶことはたくさんあるが、大変だと思うことはない。

 一方ヴィンスロットは、危機は去ったとはいえまだ万全とは言えない皇帝を支えるため、皇太子として叔父と共に国政を行うなどこちらも忙しい日々を送っている。

 浄化後は体調が回復しつつある皇帝アルスロッドもまた、弱ってしまった体力を取り戻すリハビリに勤めながら、徐々に仕事への復帰を進めていた。

 全てが明るい方を向いていて、忙しいけれど穏やかな日々…。

 異界である日本からオルディリアに戻った当初は、こんな日々が訪れることを想像だにすることができなかった。10年間過ごしてきたものと全く違う生活習慣や食生活、周囲の人たちの容姿の違い、そして…自分が背負っていた過酷な現実。怒涛に流れる日々の中、それらを受け入れることが苦しく感じることも確かにあった。でも…

「ねぇ、白夜。僕さ、オルディリアに戻ってからまだ1年も経ってないんだよね。日本の神沢村で暮らした時間の方がずっと長いのに…不思議だね、()()()はもうここなんだ。」

<我が御子ゼフィール、それは不思議でも何でもありません。あなたが帰るべき、そしてあるべき場所はここ、オルディリアなのですから。>

 異界での10年、母のように、時に姉のように、幼い自分を愛しみ育ててくれた幻獣の優しい言葉に、心の奥がくすぐられ嬉しいけれど照れくさいような気持ちになり、自然と頬が緩んでくる。そんな温かい気持ちのまま、ゼフィールはギュッと白夜姫を抱きしめた。幻獣姿の白夜姫も、長い尾をゼフィールの背に回し、愛おしそうにぽんぽんと優しく叩く。

「ゼフィール、ここにいたか。」

 その時、ゼフィールの名を呼ぶ声が耳に届いた。声のする方へ顔を向けると、そこにはもう一頭の幻獣である煌牙輝を伴って、こちらへ近づいてくる太陽の御子ヴィンスロットの姿があった。

「ヴィー兄様!」

 兄の声に立ち上がり、幼いあの頃そのままに顔を輝かせ自分に向かって小走りに駆け寄ってきた弟を、ヴィンスロットも優しく抱き留める。

「いつこちらへ?お仕事ですか?」

「あぁ、この間のザルア視察の報告と変異種の経過を聞きに、な。お前は今日は、何をしていたんだ?」

「僕はさっきまで乗馬の稽古をしてました。今日はジュリアス叔父上がお忙しくて勉強はお休みなので、白夜とちょっとのんびりしてたところです。」

「そういえば、この前ハヤテがお前の乗馬は筋がいいと褒めていたぞ。」

「本当ですか!」

 嬉しそうに笑顔で答えるゼフィールを見て、ヴィンスロットの心も温かく柔らかな感情で満たされる。

 ―『闇魔王』による脅威は去り、オルディリアには平穏な日々を取り戻した。瘴気の被害も落ち着き、人々の生活もこれまで以上に活気を帯びてきたように感じる。それに何より、あれほど根強かった『月の御子』という存在に対する人々の偏見も、今回の件で徐々にではあるが確かに変わりつつあるのが、ヴィンスロットには本当にうれしかった。

 だが、そんな切望していた時が訪れたというのに、ヴィンスロットにはふと不安に襲われる瞬間がある。

 もしかしたらこれは全部夢で、目覚めた時また自分は半身を奪われているのではないか―。

「…どうしました?兄様。」

 怪訝そうに自分を覗き込んでいるゼフィールの視線に気づいたヴィンスロットは、自分の非現実的な思考を慌てて現実へと引き戻した。

「いや、何でもない。お前が一人で乗れるようになったら、馬で出かけるのも悪くないと思ったんだ。父上も誘って差し上げれば、きっと大喜びで鍛錬にもより一層励まれること間違いなしだ。」

 人の感情を読み取るのに敏感な弟にいらぬ心配をさせないよう、少し悪戯っぽく明るい話題を口にした。その提案に、探るようだったゼフィールの瞳もたちまちキラキラ輝きだし、

「僕も兄様と父様と遠乗りしたいです!絶対すぐに、乗りこなせるようになりますね!」

 と興奮気味にヴィンスロットに対し決意表明をした。

「あと、また街へも行ってみたいです。それに、兄様やロイド様、フォリア様みたいに視察や調査のお仕事にも行きたいですし、あっ!リュカ様に会いにダリオンや他の国にも行ってみたい!」

<あはははっ!やりたいことがいっぱいだな、月の御子。だが月の神殿から出れば、また怖いこともあるかもしれないぞ。大丈夫かっていだっ!>

 からかうように意地悪を言った煌牙輝の頭を、白夜姫が思いっきり殴りつけた。大型の肉食獣の姿をした幻獣の一撃は、同じ幻獣であっても相当な衝撃であったに違いない。

「うーん…でも、もし怖いことがあったとしても、きっと大丈夫だよ煌牙輝。僕には兄様がいる。半身と一緒なら、絶対に乗り越えられるから。そうだよね、ヴィー兄様。」

 確固たる信頼を眼差しに込め、ゼフィールは微笑みながらヴィンスロットにそう言った。

 その言葉が、ヴィンスロットの奥底で燻る暗い不安を、鮮やかに浄化していくのがわかる。

 あぁ、そうだ。あのザルアの戦いで、守るだけでなく守られてもいると実感したではないか。この子が…半身である弟が共にいてくれるのなら、どんな困難があったとしても自分は強くあれるだろう。

「その通りだ、ゼフィール。俺たちなら大丈夫だ。」

 半身と進む未来には、どんなことが待っているのだろう。希望に胸躍らせているゼフィールはもちろん、ヴィンスロットの胸にも未来への期待が溢れていた。



 千年の時を経てオルディリアに生まれた太陽の御子と月の御子。これから始まる新たな物語は、どんな景色をこの2人に見せるのだろうか。できるのであれば、その景色が美しいものであれば良い―。金色と濃紺の瞳を輝かせて未来を語る皇子たちを、幻獣たちは慈愛の眼差しで静かに見守っていた。



 ―完―

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