表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/5

月に抱かれ太陽は輝く~悲しみの果てに②~

 

 ~覚醒~



「ゼフィール、起きていますか?」

 部屋の扉をノックする音とともに、ジュリアス神官長の声がゼフィールの耳に届いた。

「はい。お入りください、ジュリアス叔父上様。」

 ゼフィールは扉を開くと、そこにいたジュリアスを招き入れた。朝だいぶ早い時間帯であったが、ゼフィールはすでに身支度を整えている。そんなゼフィールの姿を見て、すでに彼は今起きている異変を察知しているのだと、ジュリアスは悟った。

「もうお気付きとお見受けしますが、先ほどオルディア郊外で魔獣の出現がありました。……いよいよ始まります。覚悟は良いですね?」

 短い言葉に複雑な思いを込めて、まだあどけなさを残す目の前にいる少年に、ジュリアスは静かに言葉をかけた。

「もちろんです、叔父上様。」

 真直ぐに答えるゼフィールの瞳は、緊張をしてはいるもののしっかりとした意思を映し出している。その輝く濃紺の瞳を見ていると、どうしてもジュリアスの脳裏には10年前の()()()が蘇ってくる。愛しい姉と尊敬する前神官長を失ったあの日のことを。そして、彼らがその命を懸けて守った愛らしい幼子の姿を…。

 正直に言えば、この少年を強力な結界の中に閉じ込めて、10年前の姉たちと同じく『闇魔王』などに髪の毛一本たりとも触れさせないよう守りたい、というのが本音だ。だが……、

≪守られるだけじゃダメなんです!生きて、みんなで幸せになるために頑張るんです!≫

 あの朝皇帝の部屋でそう言い切った少年は、まぎれもなくオルディリア皇国の誇り高き皇子であり、生命の癒しを司る正統な『月の御子』だった。

≪僕は、叔父上様たちを信じます。≫

 あぁ、そうだ。まだ赤子に等しかった幼子は、もうどこにもいない。『月の御子』が自分の宿命にしっかりと向き合い、それに怯まずに我らを信じて立ち向かうと決めたのなら、我らも『月の御子』と『太陽の御子』を信じて共に進もう。

「…では、私はこれより神殿を離れます。あなたの護衛にはハヤテとフォリア様が付きますので、彼らが迎えに来るまではこの部屋にいてください。いいですか、行動は必ず彼らと共にし、決して一人で無茶なことをしてはいけませんよ。」

 そんなジュリアスの言葉に

「はい。叔父上様もどうぞお気を付けて。」

 と、ゼフィールは笑顔を向けて見せた。

 自分の苦言に対するゼフィールの素直な返答に、こんな時ではあるがつい口元が緩みそうになってしまう。これがもう一人なら、そうはいかない。きっと煩わしそうにおざなりな返答するだけだ。そんな兄の態度を、今後とも見習わずに育ってほしい。そう心密かに願ったと同時に、目の前の少年皇子から自分こそ勇気を得たことを、ジュリアスは誇らしく思った。

(絶対に、お前を失ったりしない。)

 思いを込めゼフィールの頭を優しく撫でると、ジュリアスはその場を後にした。



 ジュリアスがゼフィールのもとを離れた数刻後、ゼフィールの姿は月の神殿の正門近くにあった。そこは今、魔獣の襲撃を受けた村から避難してきた人々に対応するため、様々な準備で慌ただしく人が動いていた。食事の手配や備品の調達、負傷者の治療の準備など、忙しく働く神官たちに混ざってゼフィールも自分にできる手伝いをしていたのだが、その姿は以前オルディアの街を視察した時と同じ容姿を隠すためのフード姿だった。これには、些かの理由がある。

「ゼフィール殿下、正門で神官たちと共にあるのであれば、申し訳ありませんが視察の時と同様、お姿を隠すためフードを被ってください。今こちらに向かっている村人たちは、いきなり魔獣に襲撃され大変動揺しています。中には……遺憾ですが『月の御子』への恐怖心を再燃させている者もあるかもしれません。無用な混乱を起こす危険性がありますので、どうかお願いいたします。」

 神官たちと共に行動すると言ったゼフィールに、ハヤテがそう進言したのだ。

 オルディリア皇国の『月の御子』が『闇魔王』となって世界を混沌に貶めた、という伝承は、この国に住む住人であれば誰もが知っていることだ。それゆえに、『月の御子』と『闇魔王』は同じものだという認識が人々の中で根付いており、『月の御子』は恐怖の対象となってしまっていた。

 もちろん、ゼフィール本人やその身から放たれる“月の癒しの力”に触れた者は、それが誤解であることをすぐに理解できる。だが10年もの間異界に身を置き、つい最近オルディリアに戻ったゼフィールを正しく知る皇国の民は、正直多いとは言い難い。ゼフィールをその目で見る機会のある、公務に携わる者達からの情報で徐々に恐怖は薄れてきているようだが、未だ『月の御子』を訝しげに思っている者も少なくないだろう。まして今、魔獣に襲撃され混乱の中にいる人々の前に『月の御子』が現れれば……ゼフィールに対し“恐怖”や“憎悪”といった嫌悪の念が向けられてしまうかもしれない。もしそんなことになってしまったら、ゼフィールはどれほど傷付くだろう。ハヤテやフォリアをはじめ月の神殿に働く者すべてが、愛らしく心優しい皇子にそんな思いなどさせたくはなかったのだ。

 その事実はゼフィールにとって少し悲しいものであったが、ハヤテたちが自分のことを想って進言してくれていることに反論などなかった。むしろこれから始まる戦いを前に緊張していたゼフィールには、戦いをよく知るハヤテのその進言こそが心強くうれしいものだった。

(とにかく今は、なるべく迷惑にならないよう自分にできることをしていこう。)

 この状況に騎士団はもちろん、リュドミラ女官長を筆頭に王宮・神殿で働く者全てが、立ち向かうために動いている。彼らの想いとその働きを助けるのも、この国の皇子でありおそらくこの戦いのカギを握っている『月の御子』としての務めに違いない。そう考えを決めたゼフィールは、進言に従って動くことを了承したのだ。


「ハヤテ副団長!大変です!」

 慌ただしく準備を進める神殿入り口の喧騒の中、一人の月の騎士の切迫した声が響いた。

「すぐそこまで来ていた負傷者から、突然“瘴気の枝”が発生!至急応援をお願いします!」

 その言葉に、そこにいた誰もが凍り付き、緊張が一気に高まった。村からの避難者は、無事な者は太陽の騎士団に伴われ王都オルディアへ、負傷者とその付き添いは月の騎士団に伴われ月の神殿へと向かっていた。まさかその負傷者が、“瘴気の枝”の寄生木となってしまうとは…!

「騎士団はすぐに救援に向かえ!誰か、リュードルフ次席神官に、この事態を王宮に連絡をするように伝えるのだ!」

 ハヤテの号令に神殿に残っていた騎士や神官たちが弾かれたように動き出した。それを目視したハヤテは

「殿下、私も現場に向かいます。しばしおそばを離れますが、フォリア様と共にいてください。」

 と、そばにいて心配そうな眼をしたゼフィールにそう告げると、先に向かった騎士たちの後を追っていった。

「ゼフィール、大丈夫よ。さぁ、私たちはここで待ちましょう。」

 不安な表情を浮かべるゼフィールに、そばにいたフォリアが声をかけた。

「フォリア様……、でも“瘴気の枝”って…。」

 “瘴気の枝”、それは10年前に月の神殿を襲った悲劇の元凶に他ならなかった。ゼフィール付きの女官であったラアナも、“瘴気の枝”に寄生されたことで命を落としたと聞いている。

「大丈夫、“瘴気の枝”はハヤテ副団長たちに任せましょう。私たちはここで、無事な人たちを保護しなければ。」

 フォリアのその言葉に、動揺しかけたゼフィールも我を取り戻した。しっかりした瞳をフォリアに向け頷くゼフィールに、フォリアも力強く微笑み返す。その時、森の方から人々の声と聞きなれない音が近づいてきた。その音の方へ眼を向けたゼフィールの視界に飛び込んだのは、騎士たちに守られながらこちらに向かってくる村人たちの姿だった。そこには、小さな子供もいれば年寄りの姿もある。聞きなれないと思った音は、騎士たちの剣が迫る瘴気の枝と切り結んでいる音だった。

「押し返せ!瘴気の枝をこれ以上近づかせるな!」

 村人と瘴気の枝の間に立ったハヤテは、そう叫ぶと自らの剣を横一線に振るった。ハヤテの剣から放たれた銀の奔流は、迫りくる瘴気の枝を浄化し薙ぎ祓っていく。すると瘴気の闇が薄らいだその奥に、ゆらゆらと立つ人影が数体見えた。その表情には生気も意思も見えず、どこか人形じみている。

(瘴気の枝の本体か。)

 そこへ向かおうとハヤテが一歩踏み出したその瞬間、ハヤテの剣で祓われた瘴気が再び寄生木から溢れ出し、新たな瘴気の枝を形作った。

「早く!民を神殿へ避難させろ!そして結界で囲め!」

 ハヤテの指示に、待機していた神官たちが飛び出し村人たちに手を貸しながら、神殿の中への誘導を急いだ。ゼフィールも駆け出し、一人の子供に手を差し伸べた。

「もう大丈夫だよ。さぁ、行こう。」

 子供を連れて行こうとしたその時、小さな手がゼフィールの服をギュッと掴んで引っ張った。その予想外の行動に驚いたゼフィールに、その子は泣きながら

「父ちゃんが変になっちゃった!お願い、父ちゃんを助けて!」

 そう必死に訴えてきたのだ。その言葉にゼフィールは愕然とした。おそらくこの子供の父親は、瘴気の枝を発生させた負傷者の一人なのだろう。突然村が魔獣に襲われ父親が負傷しただでさえ不安で恐ろしかったろうに、さらにその父親が目の前で瘴気の寄生木にされたなんて……!

「ゼフィール!危ない!」

 立ち止まってしまったゼフィールたちに、1本の瘴気の枝が襲い掛かった。フォリアの声に気付いたゼフィールは、咄嗟に子供の体を自分の体で覆う様に抱きこむ。それと同時にフォリアは剣を抜き放ち、迫る枝を打ち払った。太陽の気が込められた剣の一閃は、瘴気の枝を炎で包み消滅させる。だがその手ごたえにフォリアは、僅かな違和感を覚えた。太陽の騎士になってから幾度か魔獣討伐に同行し、瘴気の浄化などにもあたってきたが、こんな違和感を感じたことはない。

(…なんだろう…手ごたえが、薄い…?)

 確かに瘴気を祓えているはずなのに、なぜかすっきりとしなかった。

「ゼフィール様!ご無事ですか?」

 事態を見て取ったハヤテも、素早くゼフィールのもとに駆け付けた。ゼフィールはその腕に子供を抱いたまま

「はい、僕らは大丈夫です。」

 そう答えた。

「ハヤテ副団長、これは…?」

 フォリアの戸惑ったような声に、ハヤテは油断なく視線を瘴気の枝を発生させている人影に向けたまま、軽く頷いた。

「あぁ。どこからか邪魔が入っていて、力が途中で吸収され寄生木から瘴気を浄化しきれない。このままでは…。」

(本体がもたない。)

 ゼフィールの腕にいる子供を見て、ハヤテはその言葉を飲み込んだ。寄生木とされた人が強い瘴気に侵され続ければ、生命力を削られいずれ命を落としてしまう。救うためには一刻も早く、体内に巣食っている瘴気を全て浄化・消滅させなければならないのだが、それがままならないのだ。もはや救えないかもしれない、だとしたら苦しみを長引かせるよりもいっそ剣で楽にしてやった方が…。

(だがそれを、この子には聞かせられない。ゼフィール様にも。)

 きっと寄生木となった人物の身内であろう子供と、戦いのない異界で育った心優しい少年にとって、その言葉がどれほど残酷なものなのかハヤテにもよくわかっていた。しかし現状、それ以外打つ手がないのも事実だ。いつも飄々としたハヤテには珍しく、その表情は焦りと葛藤で厳しさを増していた。そして…そんなハヤテの葛藤を、敏感に感じ取っていた人物が一人いた。


「…お兄ちゃん?」

 緊張感が高まる中、唐突に子供が戸惑ったように声を出した。これまで自分を庇う様に抱いていたゼフィールが、突然その体を離すと自分と目線が合わせられるよう、正面に屈みこんだからだ。困惑して自分を見つめてくる子供に、ゼフィールは微笑みかけながらこう言った。

「心配しないで。君も…君のお父さんも絶対に助けるから。それと……。」

 そのやりとりに気付いてゼフィールに視線を向けたハヤテとフォリアに、すっくと立ち上がったゼフィールは

「ハヤテさん、フォリア様。この子や皆を頼みます。」

 とそう言うと、ゼフィールはそのまま瘴気の枝を纏っている人影に向けて、走り出そうとした。さすがに驚いたハヤテが、咄嗟にその腕を掴んで引き留める。

「な…!何をする気です!ゼフィール様!」

「あの人たちから瘴気を取り除かなければならないのでしょう?だったら…『月の御子』である僕の力なら、それができるはずです!」

 そう言い放つと、被っていたフードを外しゼフィールはその姿をあらわにした。

「僕は『月の御子』でオルディリアの皇子です!僕は…僕の務めを果たします!ハヤテさんたちも…自分の務めを果たしてください!」

 まるで星空を映したかのように輝く濃紺の瞳は、ゼフィールの強い意志を如実に示している。そして、全身から鮮烈な銀色のオーラを放つその姿は、こんな時だというのに思わず見惚れてしまうほど美しかった。そのオーラに気圧され、腕を掴んでいたハヤテの手から僅かに力が抜けた隙を見逃さず、ゼフィールはハヤテの手をすり抜け、瘴気の枝を纏い人形のように生気のない哀れな村人たちと相対する位置に向かって今度こそ駆け出して行った。

『月の御子』であるゼフィールが発する覇気に、ハヤテもフォリアもその場から動くことができなかった。引き戻し守らねば、という思いはあるけれども、それを凌駕する銀色に輝く月のオーラに圧倒され、今はただ少年皇子の華奢な背中を黙って見守ることしかできない。その時、フォリアの袖を子供が引っ張り、何事かを伝えてきた。

「お姉ちゃん。あのね、あのお兄ちゃんが、お姉ちゃんにこれを渡せって…。」

 そう言ってフォリアの手に差し出したのは、黒い石が付いた見覚えのあるペンダントだった。

「…“夜の雫”!なんで…⁉」

 顔色をサッと青くしたフォリアの手に渡ったペンダントを見て、ハヤテの表情もさらに強張った。“夜の雫”…その魔石には不安定であったゼフィールの月の力を制御するとともに、『闇魔王』の眼から『月の御子』を隠す効果も持っていたというのに……!

「ハヤテ…あの子は、ゼフィールはいったい何をするつもりなの…?」

「フォリア様…。」

 恐らく、この魔石を手放したということは、ゼフィールは制御されていた『月の御子』の力を全て覚醒させ、その力で瘴気の枝に寄生された村人たちを救うつもりなのだろう。しかし力を覚醒させれば、同時に己の存在を『闇魔王』の前に晒すことにもなる。それがどれほど危険なことか、ゼフィール自身もよくわかっているはずだ。それでも、それで自分の身に降りかかる危険が大きくなろうとも、オルディリア皇国の皇子としてゼフィールは自国の民を救うことを選んだのだ。

 しかし、『月の御子』の真の力とはどれほどのものなのか、その答えを知る者は誰もいない。覚醒したその力を、ゼフィールが本当にコントロールできるのか、誰にも断言はできないのだ。無謀すぎる賭けにも思えた。だが今、どす黒い瘴気を前にして立つ少年皇子のまだ小さく華奢な背中には、この国の王族にふさわしい神々しささえ漂っている。

「……今は、ゼフィール殿下を信じましょう。」

 困惑と動揺に揺れるフォリアの瞳を真直ぐに受け止め、ハヤテは短くそう告げた。

 そうだ、今は彼を信じよう。そう腹を括ったハヤテは、万が一何か不測の事態が起こりでもしたら、その時はいつでも動けるよう剣を握る手と踏み出す足には油断なく力を込め、ゼフィールの姿をただじっと見守る。そのハヤテの様子を見たフォリアも、今は見守る覚悟を決めた。そして、傍らで不安そうに自分を見つめている子供をやさしく抱き寄せ

「大丈夫よ。きっと…大丈夫。」

 その子にも、そして自分にも言い聞かせるように、そう言葉を紡いだ。



 以前、ジュリアス神官長が言っていた。

≪あたたは、とても“闇”を引き寄せやすいのです。≫

『月の御子』であるゼフィールがこの世に生まれ落ちた瞬間、周囲に漂っていた“闇”が全て、まるで引き寄せられるかのようにゼフィールに向かって集まってきたと。

 このまま寄生木とされた人たちが“瘴気の枝”に浸食され続けたら、10年前のラアナたちのように命を落としてしまうだろう。一刻も早く寄生した瘴気を体から引き離し浄化しなければならないが、それが難しい状況であることをハヤテの様子が如実に物語っていた。その時、ゼフィールはジュリアスのした自分が生まれた時の話を思い出したのだ。誕生した『月の御子』に、次々と“闇”が引き寄せられた話を。それならば…それが『月の御子』が行使できる力の一つならば……。

(僕ならきっと、あの人たちから瘴気を引き離せるはずだ。)

 そう思いハヤテたちを振り切りこの場に立ったゼフィールだったが、あまりの瘴気の濃さに思わず足がすくむ。村人たちから出現している“瘴気の枝”は、まるで獲物を前にして舌なめずりをしているかのように、不気味な音を立てて蠢いている。そのおぞましさはもちろんだが、寄生木とされた村人たちの、焦点の合わない虚ろで生気のない目が、ゼフィールの不安や恐怖をどうしようもなく掻き立て、知らずに体が小さく震えてくるのが分かった。

(…本当に…僕に救えるのだろうか?…もしかしたら、もう駄目なんじゃ…。)

 そんなマイナスの思考が暗い澱となってゼフィールの心を重くし、奮い立たせていた勇気をも消し去ろうとする。その時

≪ゼフィール≫

 ゼフィールの脳裏に、大切な半身の声が響いた。

≪ゼフィール、今は『御子』である俺たちにしかできないことをするしかないんだ。≫

(…兄様。…)

 その声は、ゼフィールの心を押し潰さんとしていた暗い闇を、一瞬で振り払った。

(そうだ…僕は『月の御子』としてあの時にできなかったこと…今度こそ、目の前の人を助けるんだ!)

 そう改めて決意したゼフィールは両手を胸の前で組み、詰めていた息を一つ吐きだすと呼吸を整えつつ意識を集中させた。すると、合わさった両手を中心に銀色の光が淡く輝きだす。やがてその光がゼフィールの体全体を覆ったその時、ゼフィールはまるで自らの胸に招き入れるように、組んでいた両手を“瘴気の枝”を纏い暗い瘴気を放つ目の前の村人たちに向けて大きく広げた。

 その瞬間、蠢いていた“瘴気の枝”がまるで身震いするかのような動きを見せた。それはまるで歓喜しているかのようにも見え、より一層おぞましく見る者の嫌悪感を掻き立てる。その時だった。突然“瘴気の枝”が周囲の瘴気も巻き込みながら、巨大な黒い激流となって腕を広げたゼフィールへと勢いよく飛び込んでいったのだ。

「ゼフィールーっ!」

 刺し貫かれる!そのあまりの光景に、フォリアは思わず従弟の名を叫んだ。だがそれは、ゼフィールの体を貫きはしなかった。瘴気の黒い激流はまるで吸い込まれるように、ゼフィールの体の中へと流れ込んでいく。少しでも気を抜けば、華奢な少年の体など押し潰されてしまいそうな衝撃に襲われながら、ゼフィールは必死で足を踏ん張り瘴気の激流を受け止め続けた。

 どのくらいの時間が経っただろう。気付けば瘴気の奔流はいつしか収まっており、先ほどまでゆらゆらと立っていた人影はすべて地面へ伏し、そこにはただ一人ゼフィールだけが立ち続けていた。誰もがその光景に動けず、声も発せられない中、ゼフィールの体から銀色のオーラが揺らめきながら立ち上り始めた。艶やかな黒髪をふわりと浮かせ、天空を目指すように上へ、上へと。その時、それまで閉じられていたゼフィールの瞳がゆっくりと開かれた。その色は常の夜空色ではなく、月の幻獣と同じ銀色に輝いている。その瞳を上空へと向けると、今度は前方へ広げていた両腕を空へと伸ばした。次の瞬間、

 ブォォォーッン…!

 強風が巻き上がるかのような衝撃音とともに、ゼフィールの両手から銀色の奔流が大きな柱となって天へと放たれた。それまで空を覆いつくしていた灰色の雲を貫いた光柱は、弾けたかのように空一面に広がり地上を痛烈に照らした。人々はあまりに強い光に目を閉じ、顔をそむかる。だがそれも一瞬の事だった。強い光が消えた大地には、これまでの喧騒が嘘のように静寂だけが満ちていた。

 このあまりに衝撃的な状況に、人々はいったい何が起きたのか理解できず、騎士として経験豊かなハヤテでさえ、ただ呆けたようにその場に佇み続けるばかりだった。子供を抱いたまま呆然としていたフォリアの視界に、キラキラとしたものが映った。なんだろうと思い視線を空に向けると、まるで霧雨のように、銀色の煌めく粒子が舞い落ちている幻想的な光景が視界を満たした。

(綺麗…。)

 その優しく暖かな銀色の光の慈雨は、乾いた大地を潤すかのように瘴気に傷付いたもの全てを癒していく。そのあまりにも神秘的な光景を、その場にいた者達は銀色の光を浴びながら、ただただ見つめるばかりだった。




 ~拉致~



(…なんという、浄化の力…。これが…これが『月の御子』の真の力なのか…!)

 ハヤテの心は、感動と畏怖に振るえた。今自分の目の前にいる銀のオーラを纏った少年こそ、この国を護る王族であり自分が忠誠を誓うべき方だと、これまで感じたことのない喜びがハヤテを満たしていた。

 がその時、ハヤテの視界に映っていたゼフィールの姿が、緊張の糸が切れたようにかくんと大地に崩れ落ちた。ハヤテは慌ててゼフィールのもとに駆け付けると屈みこみ、気を失い倒れていた少年の華奢な体をその腕に抱き支えた。

「御子様!ゼフィール殿下!」

「…あ…ハヤテ、さん…。」

 腕の中で呼びかけに応えたゼフィールの瞳は、いつもの晴れ渡った夜空のように煌めく濃紺色に戻っていた。

「瘴気の枝は…?あの人たちは、無事ですか…?」

 緊張感を帯びたゼフィールの言葉を受け、ハヤテは先ほどまで瘴気の枝に蝕まれ、今は地面に倒れ伏している村人たちに目を向ける。あれほどまでに濃い瘴気に包まれていた体からは、もう何も感じられない。

「瘴気は消えた!月の騎士団!あの者たちを救出せよ!」

 ゼフィールを抱いたまま、この展開に呆然としていた騎士たちに向かって号令を放つ。そのハヤテの声に現実へと引き戻された騎士たちは、弾かれたように倒れている村人たちに駆け寄っていった。

「ハヤテ副団長!大丈夫です、皆息があります!」

 騎士のその声に、ゼフィールはようやく一つ安堵の息を吐きだす。見守っていたフォリアたちも緊張感から一気に解放され、この吉報に皆短い歓声を上げた。

(間に合ったんだ…。僕、できたんだ。)

 その想いに、自然と目頭が熱くなるのを、ゼフィールは感じていた。

「ゼフィール様…あなたという方は…。」

「ハヤテさん、僕…やれたんですね。」

「えぇ。あなたこそ我らが至宝、オルディリアの真の『月の御子』です。」

 疲れは見えるものの達成感に表情を輝かせるゼフィールに、ハヤテは誇らしげにそう告げた。そしてそのまま少年の体を抱えて立ち上がると、騎士たちに搬送されていく村人たちと共に、月の神殿へ向けて歩み始めた。そこへ

「ゼフィール!」

 と少年の名を呼びながら、フォリアが駆け寄ってきた。

「素晴らしかったわ、ゼフィール!でも…でも大丈夫なの?どこか痛いところはある?」

 ハヤテに抱かれたゼフィールに、フォリアは喜びと心配が入り混じった言葉をかけた。

「フォリア様…。」

 高ぶる感情に涙ぐみながら自分のことを案じてくれるフォリアに、ゼフィールの胸も熱くなる。

「はい、大丈夫です。…ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした。」

「本当よ!あんな無茶をして!もし…あなたに何かあったら…私たち全員、ヴィンスロットお兄様に焼き払われるところだったわ。」

 ゼフィールはフォリアのその言葉を、この場を和ませてくれようとする冗談だと思った。けれど、ハヤテや他の人たちの反応をみると、みんなフォリアと同じに考えているらしい。いくらなんでも兄様がそんなことをするはずがない、そう思っているのはどうやらゼフィールだけのようだった。

 なんとも複雑な気持ちになってしまったゼフィールの耳に、

「あの、お兄ちゃん…えっと、『月の御子』様?」

 そう自分に呼びかける声が届いた。その声の主は、ゼフィールに父親を助けてくれと言った、村の子供のものだった。フォリアの隣から自分を見上げている子供の姿を見つけると

「ハヤテさん、僕大丈夫ですから下ろしてください。」

 と言った。

 ハヤテはそれに応じ、ゼフィールの体をそっと下ろしてやる。大地に立ったゼフィールは、子供と視線が合わせられるように、ゆっくりと子供の前に膝をつきしゃがみこむと

「頑張ったね、もう大丈夫だよ。お父さんのところへ行っておいで。」

 微笑みながらそう言った。子供はその言葉に心底安堵したのだろう。

「ありがと…ありがとう、ございます!」

 ずっと抱え続づけた恐怖から解放され、大きな瞳から涙をポロポロと零ししゃくりあげながらも、ゼフィールにそうしっかりと礼を伝えた。そんな子供の様子に、ゼフィールの心も温かいもので満たされていく。これが、これこそが、自分が『月の御子』である意義なのだと、改めて実感できたような気がした。

 そんな想いで、子供の頭を一つ優しく撫でると立ち上がり、今度はハヤテとフォリアに向き直って

「フォリア様、この子をお父さんのそばに連れて行ってあげてください。それとハヤテさん、僕はもう1人で歩けますから、騎士たちと合流して村の皆さんを避難させる指揮を執ってください。」

 とそう告げた。本人にそのつもりはまったくなかったが、それはこの国の皇子としての“命令”として受け止められた。普段からリュドミラ女官長に皇子らしい振る舞いを、と叱られることの多いゼフィールだったが、大きな自信を得たことで皇子としての覇気が増したのかもしれない。

 しかしその命令に、2人は一瞬戸惑ってしまった。自分たちはゼフィールの護衛を任されている、皇子の命令とはいえ傍を離れてよいものだろうかと。だが、周囲にはもう瘴気や魔獣の気配は微塵もなく、先ほどの銀雨に浄化された大地は、いつもよりも清浄で穏やかなくらいだ。これならば、少しの間自分たちが傍を離れても、他の神官たちと共にいれば危険なことはないだろう。ハヤテとフォリアは顔を見合わせることで、お互いが同じ判断にいたっていることを確認した。

「…わかりました。では、皆と一緒に月の神殿へお戻りください。お前たち、暫しゼフィール殿下を頼んだぞ。」

「この子を送ったらすぐに戻りますからね。それまで、神官たちから離れてはいけませんよ。」

 少々過保護なその言葉にも、なぜだか微笑ましさを感じてしまう。それはゼフィールだけでなく、周りにいた神官たちも同様だったようだ。

「はい。ハヤテさん、フォリア様。」

「お任せください、ご一緒に戻ります。」

 そんな明るい返答を受け、フォリアは子供を連れて先ほど運ばれていった父親のもとへ、ハヤテは指揮を執るため月の騎士団のもとへと、それぞれ向かって行った。そしてゼフィールも、周囲の神官たちと共に月の神殿へ向け、歩を進めていった。


 …これを“油断”というのは、少々酷かもしれない。それほど、この時誰もが初めて目にした『月の御子』の真の力は、圧倒的で衝撃的だったのだ。突然の異変に恐怖と緊張に強張っていた人々の心が、巨大な瘴気を一瞬で収めた『月の御子』の浄化と癒しの力を目の当たりにし、緩んでしまったとしてもそれは当然のことであって、誰に責められるものではだろう。フォリアもハヤテも、そして当のゼフィールさえも、それは例外ではなかった。この場にいた誰もが皆、この異変は終わったのだと、何の疑いも持たずにそう思っていたのだ。


 月の神殿へ向け、神官たちに混ざりゆっくりと歩を進めていたその時。

「『月の御子』様。」

 背後からふいに声をかけられたゼフィールは、その声に足を止め反射的に振り返った。そこには、見覚えのないマント姿の人物が立っていた。

 と次の瞬間、ゼフィールの視界から光が消えた。

(え⁉)

 その人物が纏っていたマントに包まれたのだと理解する間もなく、これまで全く感じなかった強い瘴気に体の自由を奪われ、声を発することも叶わなくなった。と同時に、確かに足元にあった大地の感触が消え、体がそのまま深い闇に落ちてゆく感覚に襲われる。

(兄様…っ!)

 急激な変化に息ができない。ゼフィールはそのまま、意識を手放してしまった。


(…?…)

 かすかに首筋に、チリっとした瘴気が掠めた気がして、ハヤテはあたりを見渡した。しかし周囲の様子には、特に変化はない。もちろん、瘴気の気配も全く感じられなかった。だが……

 ハヤテが一番に視界に収めたかった人物の姿が確認できない。

(…まさか!)

 心臓が一瞬で凍り付く。ハヤテは慌てて、ゼフィールが一緒にいたはずの一団の元へ全速力で駆け付けた。

「お前たち!ゼフィール殿下は何処だ!」

「え?ゼフィール様でしたらこちらに……っ⁉」

 勢い込んでハヤテにそう問われた神官は、そこで初めて自分たちと一緒に歩いていたはずのゼフィールの姿がないことに気付いた。

「な…!え?ゼ、ゼフィール様⁉」

 神官たちは突然のことに顔を青ざめさせ、慌てふためく。

「そ、そんな!たった今まで、一緒に歩かれていて…!」

 とハヤテに訴えた。

(しまった!)

 急いで周囲に気を巡らせてみたが、瘴気はおろかゼフィールの気配すら僅かにも感じられない。そこへ、子供を送って行ったフォリアも戻ってきたが、その場のただならぬ様子に何かが起きたのだと瞬時に察し

「ハヤテ副団長!一体何事が…?」

 そう尋ねると同時に、そこにいるはずのゼフィールの姿がないことに気付いた。その事実に驚愕したフォリアは、声を荒げてハヤテに詰め寄った。

「ハヤテ!早くゼフィールを探さないと…!」

「落ち着いてください!フォリア様!」

 取り乱しているフォリアを、動揺する神官たちを、そして何より自分自身を諫める為に、ハヤテは強い口調でそう言い放った。

「…ハヤテ…。」

「わたしの…失態です。()()の消滅を確認しなかったわたしの…!フォリア様、事態は次へと進んでしまったようです。」

 ハヤテのその言葉に、フォリアはその身を強張らせた。そして、かすかに震える声を絞り出した。

「では…では、ゼフィールは…!」

「フォリア様、フォリア様はこのまま王宮へ向かい、事の次第を皇帝陛下に報告してください。神官たちはわたしと共に月の神殿へ戻り、村人たちの救護と安全の確保にあたるのだ。」

 そのハヤテの言葉に、フォリアは思わず食って掛かった。

「そんなことより!すぐにゼフィールを追わなければ…!」

「なりません!」

 ハヤテはフォリアの上腕を掴み、その意見を即座に否定した。

「何故⁉何故止めるの⁉」

 怒りに満ちた燃えるような瞳で、フォリアはハヤテを睨みつけ叫んだ。フォリアの迫力と強い覇気に、周囲の神官たちはビクッと体を委縮させた。直系に近い王族であるだけあって、フォリアは人よりも大きい“太陽の力”を持っていて放つ覇気も強い。だが、ハヤテとて月の騎士団の副団長を務める強者だ。そんなフォリアの覇気にも、臆することはなかった。

 フォリアの気持ちは痛いほどわかる。本音を言えば、ハヤテだってすぐにもゼフィール救出に走り出していきたかった。しかし…

「殿下の!……万が一の時はむやみに後を追っていらぬ被害を出してはならないと……ゼフィール殿下のご命令です。」

「…⁉」

 そうだ、自分はあの方の言葉を…月の主である御子の覚悟を、決して裏切ってはならないのだ。


 それは今朝のことだ。フォリアと共にゼフィールの自室を訪れたハヤテは、フォリアに皇子の部屋に控えていたリュドミラ女官長への指示を任せ、一足先にゼフィールと2人神殿正門へ向けて廊下を歩いていた。その時、ゼフィールが不意にハヤテの上着の裾を引っ張り、その場に立ち止まらせたのだ。

「ゼフィール様、どうしましたか?」

 そう尋ねたハヤテに、ゼフィールはどこか思いつめた様子で言葉を切り出した。

「ハヤテさん…。ハヤテさんは10年前の事、知ってるんですよね。」

「…はい。異変が起きているその場にはおりませんでしたが、実際に体験した者の話や…直後の現場などは見て知っております。」

 自分の目を真直ぐに見つめてくるゼフィールに、少し戸惑いながらもハヤテは正直に答えた。その言葉を受け、ゼフィールは苦し気に瞳を伏せると

「10年前、月の神殿で起こった悲劇は、僕を助けようとしたことでより大きなものになったんです。」

 そう言葉を紡いだ。

「殿下…!」

「だから…、僕はもうあの時のような事を、二度と繰り返したくないんです。ですからもし、これから僕が『闇魔王』に捕まることがあっても、助けようとして無理に追ったりしないでください。」

 まだ幼ささえ残す少年の口から発せられた告白に、ハヤテは大きな衝撃を受けた。自分のために多くの人が命を落とした、その事実にこの少年が深く傷ついていたのは知っていた。だがそんな悲しみも、ヴィンスロット殿下や父君である皇帝陛下、王族や月の神殿のみんなと触れ合ううちに、だいぶ癒えただろうと考えていたのに…!ハヤテは自分自身の認識の甘さに、腹の底から自身への怒りが湧いてくる。なぜ自分は、少年皇子の美しい笑顔の下にある、悔恨の深さに思い至らなかったのか…。

「殿下、それは!」

「僕も兄様も…父様たちも、今回のことで僕が『闇魔王』に捕まる事態もあるだろうと考えています。そうなった時、どう行動すべきかも話し合いました。そのあたりは、ジュリアス叔父上から聞いているでしょう?」

 確かに神官長から“()()()”のことは聞いている。だがそれは、あくまでも可能性の話でしかない。困惑し動揺するハヤテに向かい、ゼフィールは落ち着いた声で静かに語り続けた。

「だからハヤテさんたちは、その指示に従ってください。もしその指示を破り、僕を助けようとしてむやみに戦えば、10年前と同じように多くの人が巻き込まれ、命を落としてしまうかもしれない。僕は…僕は今度こそ、誰も失いたくないんです。だからどうか…どうか約束してください。決して深追いはしないと。」

 その真摯な言葉にはゼフィールの皇子としての、そして『月の御子』としての強い意志が宿っていた。

 ハヤテは思う。10年前この皇子を護って命を落とした人々は、決して後悔などしていないだろうと。輝くばかりに成長したこの姿を、誇りに思っているだろうと。

「……それは、皇子殿下としてのご命令ですか?」

 ハヤテのその言葉に、ゼフィールは一瞬戸惑ったような表情を浮かべたが、すぐに引き締まった表情に戻ると、力強い光に輝く瞳をハヤテに向け

「はい。」

 とはっきりした声で告げたのだった。


(あの覚悟を、無駄にすることなどできない。)

 その思いを込めて、ハヤテはフォリアに語りかけた。

「フォリア様。我らが今すべきことは、ゼフィール様を追うことではないはず。皇子殿下の命令に従う、それこそが…今のゼフィール様にとって、一番必要で一番の助けになる行動に違いないのですから。」

 ハヤテの硬いがきっぱりとした声と強い瞳に、フォリアもぐっと息をのんだ。ハヤテのその言葉に、激情に押し流されそうになっていた心が、少し冷静さを取り戻す。

 そう、事態は次に進んでしまった。もしも()()()()()()は、決して自分たちだけでなんとかしようと動いてはならないと、王弟である父にそう言われていたことを、フォリアは思い出した。

(お父様…。)

 愛しいあの子を無事に取り戻すために、今自分ができることは……。

「…取り乱して申し訳ありません。すぐに王宮へ向かいます。」

 手の中にあったゼフィールのペンダントをギュッと握りしめ、フォリアはハヤテにそう告げた。

「頼みます。事は一刻を争うものです。お互い速やかに、動いていきましょう。」

 理性を取り戻したフォリアの瞳を見て、ハヤテも安堵の息を小さく吐いた。そしてフォリアは王宮へ、ハヤテは騎士や神官たちと共に月の神殿へ、今すべきことをなすために行動を開始する。それが奪われてしまった『月の御子』を取り戻すことに繋がると、その場にいた全員が信じて動いていた。



≪汚らわしい…っ!私の御子にあのような者が触れるなど!≫

≪落ち着け、白夜姫。この国で好き勝手されて俺も業腹だが、…ここで止めれば、千年待って得たこの機会を失ってしまう。≫

 オルディリア皇国は、「太陽」と「月」の力によって守護されている。その影響は国の全土に及ぶが、2つのエネルギーが具現化した守護幻獣、煌牙輝と白夜姫が宿る“聖樹”がある王宮や月の神殿の周囲は特にその影響が高く、強力な結界をなしている。そのため、外から害意のあるものが侵入することなど、通常であれば考えにくかったが、この時幻獣たちはその強力な結界に、不審がられないほどの僅かな隙…“抜け道”をわざと作っていた。煌牙輝の言う“()()()()()()()”を逃さないために。

≪…後は、俺たちの『御子』に任せよう。≫

≪……≫

 悔しげな様子は消せないものの、月の幻獣も太陽の幻獣の言葉に、沈黙をもって同意を示した。



「…そうか。」

 皇帝の執務室にて、フォリアからの報告を受けたアルスロッドは、苦しげな息と共にそう一言だけ呟いた。

(やはり、天は時を待ってくれなかったか。)

 痛いほど握りしめた両の拳は、皇帝の心を表すかのように血管を浮かせながら小刻みに震えていた。

 ならば…ならば進むしかない。これは我がオルディリア王家の千年にわたる悲願。我が皇子たちが、そして皇帝である自分自身が、未来を開くために終わらせなければならない業。

 アルスロッドは伏せていた瞳を上げ、眉間に深くしわを刻んだまま

「ヴァルモア、直ちにダリオンのゴーシュ王へ『闇魔王』を滅する時が来たと、そう伝えよ。」

 と側に控えていたヴァルモア事務次官に指令を出した。

「はっ。」

 そう返答するとヴァルモア事務次官は、足早に執務室から退出していった。次にアルスロッドは同じく控えていた太陽の騎士団長グレンフォートに対し

「グレンフォード、そしてフォリア、事が始まればザルアから瘴気の影響が広く及ぶやもしれぬ。国の守りを固め警戒を怠るな。」

 と、命令を下す。その時、

「あの、恐れながら陛下、父は…いえ、王弟殿下はいずこでしょうか?」

 とフォリアがアルスロッドに問いかけた。実は執務室に入ったときから、フォリアはそこに父であるライオッドの姿がないことを疑問に思っていたのだ。今朝、月の神殿へ行きゼフィールの護衛をするように申し付かった時は、確かに王宮にいたはずなのに…。

「ライオッドには別の任務を任せている。そのため、ザルアへ向かわせた。じきにジュリアスたちと合流するだろう。」

「‼…陛下!でしたら、私も父の元へ送ってください!お願いいたします!」

 ザルア、『闇魔王』が封印されている場所。ゼフィールはきっとそこにいる。そう考えると矢も楯もたまらず、すぐさま自分もそこへ駆けつけたかった。だが、そんなフォリアの耳に届いたのは

「ならぬ。」

 という、アルスロッドの低く重いただ一言だった。

「そなたは、グレンフォードの元で太陽の騎士としての任に当たるのだ。それがそなたの、なすべきことと心得よ。」

 有無を言わさぬ皇帝の言葉に、フォリアはただ口をつぐみうつむくしかなかった。

「では、我々はこれで御前を失礼いたします。行くぞ、フォリア。」

 グレンフォードにそう促され、退室のためにフォリアも軽く皇帝に礼をとる。

「…頼むぞ。」

 その言葉を受けた2人は、今度こそ執務室を後にした。


「…納得がいかないか、フォリア。」

 廊下に出てなお悔しそうに下を向いたままのフォリアに、上司であるグレンフォード騎士団長はそう声をかけた。その言葉に、フォリアはぐっと息をつめ俯いたまま唇を噛んだ。

 皇帝の言葉に納得などできるわけがない、そうフォリアは思っていた。自分は今日、ゼフィールの護衛を任されていたのだ。それなのに、目の前で攫われてしまった。そうなれば、あの子の命が危険に晒されることは、十分わかっていたはずなのに。守ることができなかった自分が悔しくて、情けなくて。だからこそ、自分も救出に向かいたかったのに。

「お前…今すぐにでもザルアへ行きたいのは、お前よりも陛下だと本当にわからぬのか?」

 グレンフォードの低く静かな声が紡いだ言葉に、フォリアは思わず顔を上げ彼を凝視した。

「10年という歳月を経て、やっと取り戻した我が子を攫われたのだぞ。ザルアへ赴きご自分の手で取り戻したいと、誰よりも強く思っているだろう。だが陛下はご自身の思いを堪え、王宮に留まる選択をなさった。…何故だと思う?」

「……わかりません。」

 フォリアは、グレンフォードの問いに力なくそう答えた。

「この国の、皇帝としての責務を果たされるためだ。」

 戸惑ったような瞳で自分を見つめるフォリアに、グレンフォードは諭すように言葉を続けた。

「この世界に生まれた者は誰しも、大なり小なりそれぞれ果たすべき責務というものを持っている。その責務を果たさず怠れば、どこかで歪みが生じそれは己自身に返ってくるものだ。ましてや皇帝陛下に課せられた責務は、国の主として国と民を守護するという重大なもの。もしも父としての思いを優先し皇帝の責務を放棄すれば、その歪みはご自身だけでなくオルディリア全土に及び、大勢の民の命が危険に晒され国は亡ぶだろう。そのようなことは、国の主たる皇帝として許されるはずもないし、なにより『闇魔王』との戦いに挑んでいる2人の皇子が決して望まぬことを、陛下は十分に理解なさっている。そしてそれ以上に…皇子たちが自らの責務を果たし戻ってくれると信じているからこそ、陛下もこの王宮に留まり皇帝としての責務を果たすお覚悟をされているのだ。」

 グレンフォードの言葉に、胸のつかえが徐々に溶け出しているのをフォリアは感じていた。

「陛下は陛下の責務を、『御子』である皇子たちも自分たちに課せられた責務を果たそうと、必死に戦っていらっしゃる。そしてこの戦いは、それぞれがそれぞれの場所で己の責務を果たしてこそ、勝利することができると俺は考える。俺の責務は、太陽の騎士団団長として皇帝陛下と共にこの国と民を護ることだ。お前の責務は何だ?フォリア。」

「私の、責務…。」

 そうだ、自分は太陽の騎士であると同時に、この国を守護する王族の一人だ。自分が今すべきこと、果たすべき責務は、

「この国を護ることです。」

 きっぱりとしたフォリアの答えに、グレンフォードは唇の端に満足げな笑みを浮かべた。

「ならば行くぞ。お2人が戻られた時、万が一にも国や民が傷ついていたら、大変なことになるだろうからな。」

 そんな軽口めいたことを口にすると、グレンフォードは大股で廊下を進みだした。

 そうだ、もしもそんなことになっていたら、この国を愛しているヴィンスロットは烈火のごとく怒り狂うだろうし、自分よりも他者を思いやるゼフィールは嘆き己を責めてしまうことだろう。2人は必ず戻ってくるのだから、そんな事態にならないよう自分もしっかりと務めを果たさねば…!

「はい!」

 短く力強い返事と共に、フォリアも騎士団長の背中を追った。


 一方でザルア樹海の境界である地域にいたヴィンスロットとリュカ達一行は、瘴気に狂暴化した魔獣たちと交戦の真っ最中だった。オルディリアとダリオンの精鋭騎士たちはもちろん、ヴィンスロットとリュカという両国の皇子たちの力は、他者と一線を画すものがあった。『太陽の御子』ヴィンスロットが振るう剣は、使い手の力である太陽のように黄金の輝きを放ちながら、魔獣の瘴気を焼き祓い次々と調伏していく。そして土の守護を受けるダリオンの王太子リュカの剣は、大地を震わせる重く低い唸りを上げ魔獣を屠っていった。

 ドシュッ!

 目の前の魔獣を切り伏せたリュカは、素早く周囲の状況を見渡した。先ほどよりも魔獣の姿が減ってきている。これならば制圧まで、さほど時を要しはしないだろう。そう思った時、視界の端に映ったオルディリアの太陽、ヴィンスロットの異変に気付き驚愕した。ついさっきまで魔獣に斬撃を与えていた剣はだらりと下がり、動きはぴたりと止まっている。

(⁉)

 まだ魔獣がいるこの状況で、ただの一瞬でも剣を下げ無防備に立ち尽くすなど自殺行為に等しい。そんなことは、ヴィンスロットもよくわかっているはずなのに…!焦ったリュカが動くよりも先に、近くにいた魔獣たちが一斉にヴィンスロットに襲い掛かっていった。

「ヴィンス‼」

 リュカの声に周囲の騎士たちもヴィンスロットの異変に気付いたが、救援が間に合う距離にいた者は誰一人としていなかった。誰もが肝を冷やしたその瞬間、強烈な閃光に視界が白く弾けた。その閃光はヴィンスロットに襲い掛かった魔獣たちを、一瞬にして消し炭とし跡形もなく消し去る。そして…白い閃光が収まったそこには、魔獣の姿も瘴気の残滓も感じられなくなっていた。ただ、パチッパチッと弾ける火花を身に纏わせているヴィンスロットが立っているだけだ。

「ヴィンス!お前大丈夫か!」

 リュカがそう言いながら、ヴィンスロットへ駆け寄ったのと同時に、周りにいた者も皆オルディリアの皇子の元へ集まる。いまだ立ち尽くし続けるヴィンスロットに近づいたリュカが目にしたその表情は……ただならぬ緊張感と憤りで硬直していた。驚いたリュカが

「おい、どうした?何かあったのか?」

 と声をかけると

「……ゼフィールが囚われた。」

 そう一言、呻くようにつぶやいた。その言葉に、その場にいた全員が凍り付いた。

「それ…確かなのか?おい、ヴィンス!」

「行かなければ…、今すぐあいつのそばに行かなければ!」

 リュカの声は、もはやヴィンスロットには届いていないようだった。そう言ってリュカを押し退け樹海に向け走り出そうとするヴィンスロットを、今度は月の騎士団団長シリウスがその腕を掴んで止めた。

「離せ!」

「落ち着いてください、殿下!それは真なのですね?真にゼフィール様が、ザルアの手に落ちたのですね⁉」

 燃えるような覇気を放つヴィンスロットに怯むことなく、シリウスは強い口調で事態の確認を迫った。

「真であれば、事態が次に進んだという事です。ならば我らも、それに対応して動かねばなりません。連携の乱れは勝敗に関わります。落ち着いて、まずは我らにも今の現状をお伝えください!」

「っ!………すまない、シリウス。」

 シリウスの必死な訴えに、激昂して我を失いかけていたヴィンスロットも、ようやく少し冷静さを取り戻す。気持ちは急くが、確かにここで自分が感情だけで走り出してしまえば、ゼフィールや自分だけでなく6大国すべてを巻き込んだ最悪な事態を招くことになるかもしれない。それを避けるためにも、父や叔父たちと話し合い策を立ててきたではないか…!

「…ゼフィールが俺を呼ぶ声がした。そこから気配が辿れない。間違いなく、()の手の者に囚われたのだろう。」

 そう言葉にするだけで、怒りが胸の奥から湧き上がってくる。その激情を必死で抑えながら

「俺とリュカ、ゼルノアの3人はこれより樹海に入り『闇魔王』の元へ向かう。ゼフィールは必ずそこにいる。そしてリュカの追う魔導士もな。」

 と、シリウスをはじめその場にいた者達にそう告げた。

 当初、王宮で立てた策では、もしも事態が一刻を争う最悪の方向へ進んだとしたら、『闇魔王』の完全復活を阻止するために『太陽の御子』であるヴィンスロットが単独でザルア山へ向かうことになっていた。本来であれば、1国の皇太子をたった一人で敵の陣地に乗り込ませるなど、決して有り得ない事だろう。しかしこの戦いは、『太陽と月の御子』と『闇魔王』という、強大で未知数な力同士がぶつかり合うことになる戦いだ。何が起こるかわからない状況では、周囲に人がいることがかえって『御子』たちの足枷となってしまうかもしれない。今この現状で、ヴィンスロットを一人で行かせるこの策が、最も適切であると結論付けたのだ。

 だが、ヴィンスロットと合流しその策を初めて聞いたリュカが、猛然と異を唱えたのだ。ヴィンスロットがゼフィールと『闇魔王』を追うように、自分はダリオンから忌者となった魔導士ゾルアドを追ってきた。それぞれの獲物が同じ場所にいるのならば、共に向かうのは当然のことだし、自分とダリオン一と謳われる魔導騎士であり樹海にも精通しているゼルノアならば、ヴィンスロットの足枷となることはない、と勢いよくまくしたて、共に樹海へ入ることをヴィンスロットたちに半ば強引に承諾させたのだった。

「では我らはここに残り、計画通りヴィンスロット様、リュカ様、ゼルノア殿が樹海に入られた後、周囲に仮の結界を施し瘴気の溢流に備えます。ロイド、お前はジュリアス神官長の元へ急ぎこの現状を報告に行くのだ。」

「はっ。…ヴィンスロット兄上、どうか必ずゼフィールと共にお戻りください。」

 ロイドはヴィンスロットを真直ぐに見つめそう言うと、踵を返し自分たちが拠点としていた役所とはまた別の役所に待機している別動隊、ジュリアス神官長のもとを目指してその場を離れた。

「さあ、お行きください、ヴィンスロット殿下。」

「あぁ。後を頼んだぞ、シリウス。」

 ヴィンスロットとシリウスの会話の横で、ダリオン一行もまた自国の王太子に

「お気をつけて、殿下。必ず、ゾルアドの奴めを捕えてください。」

 とそう声をかけていた。

「心配はいらぬ、()()は俺の獲物だ。必ずこの手で制裁を加えてやる。お前たちも誇り高きダリオンの魔導騎士として、オルディリアの騎士たちと共にやるべきことを果たしてくれ。」

 そう言って力強い笑みを浮かべると、護衛騎士であるゼルノアを伴いヴィンスロットの隣に立った。

「ザルア山への道はわたしが開きましょう。樹海の瘴気が強まっていつもより場が乱れてはいますが、道標となるに問題はないかと。」

 ゼルノアの申し出に、ヴィンスロットは頷いた。

「行く手を阻むものは全部俺たちが薙ぎ倒してやる。お前は他を気にせず真直ぐに『闇魔王』の…ゼフィール殿の元へ行け。」

 そう言って自分の肩をポンっと一つ叩き、不敵に笑いかけてくる友を心強く感じながら

「では…行くぞ、2人とも!」

 ヴィンスロットはリュカ・ゼルノアと共にザルア樹海へと真直ぐに進んでいった。




 ~集結~



 ここは月の神殿から、馬で約半日ほど離れた樹海近くの地域。普段はのどかな風景をたたえる小さな町だが、今住民のほとんどはこの地から一時避難しており、静かな緊張感に包まれている。

 そんな町の地方役所に足を踏み入れた時、ジュリアスの脳裏には10年前のあの日のことがまざまざと蘇った。そうここは10年前、『闇魔王』の策略にはまり誘き出された()()()()だ。

(時を経て…またここに戻ってこようとは、な。)

 あの時の歯がゆさと悔しさ、自分自身への憤りが思い出され胸を締め付ける。だが、今はそんな過去の思い出に浸っている場合ではない。あの悲劇を繰り返さないため…そしてこの戦いに決着をつけるために、自分はまたこの場所に来たのだ。

「ジュリアス神官長!月の神殿から至急の遠話です!」

 緊迫した管理の声が、ジュリアスの思考を現実へと引き戻した。急いで遠話の魔道具のある執務室へ赴き、その前に立つと遠話相手であるリュードルフ次席神官に向け声を発した。

「何があった、リュードルフ!」

<神官長!ゼフィール様が…、『月の御子』様が奪われました!>

 執務室の空気が、一瞬で冷たい緊張感に包まれた。

<魔獣の襲撃を受けた村人たちの受け入れを行っていたところ、負傷者から“瘴気の枝”が発生して騎士団が制圧にあたったのですが苦戦し……、それを、それを『月の御子』様がおひとりで見事に鎮めてみせたのです。>

「なんと…!ゼフィールが一人でか!」

 リュードルフの報告に、ジュリアスは思わず声を上げた。

<はい、“瘴気の枝”に寄生された者を含め誰一人犠牲者を出すことなく。銀糸の慈雨が降り注ぐ、それは…それは本当に美しい力でした。…しかしその後、神殿へお戻りになっていた僅かな隙にお姿が消えてしまい…!>

 早朝に月の神殿を出てから半日と少し、その間で事態は大きく進んでしまった。想定していたこととはいえ…ここからは思ったよりも時間との勝負が重要になりそうだ。

「わかった。リュードルフ、決戦はすぐに始まるだろう。こちらの事は我らに任せ、お前たちは王宮と連携し、国と民の守護をやり遂げるのだ。」

<承知いたしました。全力で事にあたります。>

「頼んだぞ。」

 その言葉を最後に、月の神殿との遠話は終了した。

 ゼフィールが奴の手に落ちたとことはむろん心配だが、その前に『月の御子』の力を顕現しコントロールできたというのは僥倖だ。『太陽の御子』であるヴィンスロットならば、ゼフィールの身に起きた異変を察知し、きっと今頃はもう行動を起こしているだろう。だがそれでも、樹海を渡りザルア山へ到着するには時間が必要になる。それまでの時間をゼフィールが一人で、『闇魔王』を前に抗える手段を得たという事なのだから。

(ゼフィール、ヴィンスロット。)

 あの2人ならば、きっとやり遂げてくれるだろう。自分もまた、胸にくすぶり続けるあの日の後悔を、今日ここで必ず昇華させてみせる。そのために必要と思われる準備は整えてきた。あとは…

「失礼いたします!ジュリアス神官長。」

 その時、一人の官吏が執務室へ入ってきた。

「只今、ライオッド皇弟殿下とシェーリア、ルーシェン両国の方々がご到着されました。」

「そうか!」

 待ち望んでいた報告に、ジュリアスの声にも明るさが滲む。

「殿下方は、応接室でお待ちです。」

「わかった、すぐに行く。」

 ジュリアスはそう返答しながら執務室を離れ、大股で応接室へと向かって行った。そして目的地である応接室まで来ると、中からの返事も待たずにその扉を開き入室した。

 その部屋にいたのは、オルディリアの皇弟ライオッドと淡い水色の長い髪と瞳が印象的な嫋やかな美女、そして黒いとんがり帽子をかぶった小柄な老人の3人だった。

 美女は、水が守護の力であるシェーリア公国の聖女で、名をオルフェーリアという。シェーリアの守護幻獣である“竜”を祀る神殿の中で、最高位の『竜の聖女』を務める人物だ。そしてもう一人の小柄な老人は、樹が守護の力であるルーシェン王国の精霊神殿大神官で、名をジュードといった。若草色の髪と髭はふわふわとしていて柔らかく優し気な雰囲気を醸し出しているが、帽子の下から覗く深い紫色の瞳は高い知性と理性の光を湛えている。

「お待ちしておりましたジュード様、オルフェーリア殿。殿下もお2人をご案内いただき、ありがとうございます。」

「…何か動いたのか?ジュリアス。」

 いつもそつがないこの男にしては少々礼を欠いた行動から焦りを感じ取ったライオッドが、短くジュリアスに問いかけた。

「ゼフィールが…『月の御子』が『闇魔王』の元へ連れ去られました。長時間のご移動でお疲れのことと思いますが、すぐにでも行動を起こさなければなりません。」

 ジュリアスの答えを聞いたライオッドは、瞬間的に自身の拳を強く握りしめることで感情の爆発をなんとか抑えた。だが想定した事態とはいえ、可愛い甥っ子に危害が及んでいることを想うと、怒りがどうしても湧き上がってきてしまう。

 そんなライオッドの拳に、不意に嫋やかな白い手がそっと添えられた。

「皇弟殿下、お気持ちを静めてください。『御子様』方のため成すべきことを成すためには、まず気を落ち着かせなければ。」

 静かにそう諭したのは、竜の聖女オルフェーリアだ。その手から伝わる穏やかな波動に、ライオッドの乱れかかった心も凪いでいく。

「…面目ない、聖女殿。」

 軽く息を吐きだし、ライオッドはオルフェーリアに礼を言った。オルフェーリアはにっこりと微笑むことで、それに答える。

「そなたもジュリアスもまだ青いのぉ。そなたたちがその様子では、今頃『太陽の御子』は樹海を消滅させておるかもしれんの。」

 さも愉快そうにフォッフォッと笑いながら大神官ジュードが言った言葉に、ジュリアスとライオッドはさらに冷静さを取り戻した。ゼフィールが『闇魔王』に囚われたと知れば消滅まではないとしても、半壊くらいはさせる勢いで樹海を爆走するだろうことは容易に想像できる。

「樹海の木々も我が眷属じゃ、無駄に傷付けられては可哀そうじゃからのう。どれ、()()()()の準備も整ったか、確認せねばの。」

 ジュードはそう言うと、懐から小さな鏡を取り出した。それをテーブルの上に置き何事か呟くと、鏡は瞬く間に姿見の大きさにまで拡張した。さらにその鏡面に手をかざし

「聞こえるか?イルネスト殿。」

 と呼びかけた。するとそれまでジュードたちを映していた鏡面がゆらりと歪み、それに代わってこの部屋ではない風景と、ここにはいない人物の姿が徐々に浮かび上がってきた。

<…ジュード様。オルディリアにお着きになったのですね。>

 ジュードの呼びかけに応え鏡の中に現れたのは、風の守護を受けるレイアード王国の魔術管理官イルネストだった。

 この不思議な鏡は、ルーシェンの精霊神殿に伝わる魔道具で“遠視鏡”という。2枚の鏡で1対となったもので、1枚づつ持つことで双方の映像や音声でのやりとりが可能となる通信用の魔道具だ。今回、オルディリアは『闇魔王』との対決にあたって、ダリオンだけでなく他の4か国にも協力を願い出ていた。その折に精霊神殿大神官長であるジュードから、この魔道具の活用を提案されたのだ。

≪“遠視鏡”はあまり長距離間では使えんのじゃが、ザルアを挟むくらいの距離ならば問題はなかろう。それにこれは瘴気の影響を受けぬから、役立つだろう。≫

 それは今回の計画を実行するにあたって、願ってもない申し出だった。今回の計画…そう、

 “ザルア樹海を結界で囲み封じる”

 これを成し遂げるために。


 オルディリア皇室では、『太陽と月の御子』が揃った時から、いずれ訪れるであろう『闇魔王』との対決について、幾たびか話し合いが行われていた。その時一番に懸念されたのは、戦いの余波で樹海から瘴気が溢れ、広範囲に影響を及ぼすのではないかという事だった。もしも『闇魔王』の封印が解け覚醒すれば、一気に瘴気は強まり樹海から溢れ、それこそ6大国全てで“闇”の暴走が勃発してしまうかもしれない。加えて『太陽と月の御子』との戦いでどれほど巨大なエネルギーの衝突が起こり、それが世界にどのような影響を及ぼすのか全く予測がつかなかった。樹海の外への影響を憂うことなく、2人の御子が『闇魔王』との戦いに集中できるようにするには…。当時の神官長ウォンラットが導き出したのが、ザルア樹海を強力な結界で囲い込み、闇の力や瘴気が外へ溢れないよう封じ込める、という策だった。

 だが実際にこの策を実行するためには、広範囲の樹海を囲うだけの大きさと中で起こる巨大なエネルギーに耐えうる強度を兼ね備えた結界術を実現できる魔力量が必要となる。もちろん、オルディリアだけでは不十分だし、樹海を共有するダリオンの協力があってもまだ足りない。6大国全てが協力しなければ、机上の空論となってしまうだろう。だからこそ、ウォンラット前神官長が存命の折よりこれまで、月の神殿ではいざという時に速やかに策を実行できるよう、各国の魔術を管轄している部署との協力体制の構築と情報共有を内々に行い続けてきたのだ。


「イルネスト殿、そちらもダリオンに着いたかの。」

<はい。アルディメル国の焔騎団団長オリハルト様と共に、ダリオンの魔導士長レンドス殿の隊と合流いたしました。>

 ジュリアスや各国の魔術管理の長たちは、今回ザルア樹海を丸ごと封印する結界をつくるにあたって、オルディリア側とダリオン側の2か所から挟み込むように術を発動する方法を選択した。そして現在、オルディリア側にはオルディリアとシェーリア、ルーシェンの3国、対岸であるダリオン側にはダリオンとレイアード、そして炎の力の守護を受けるアルディメル公国の3国の魔導士、魔術師たちが集結している。

(準備は整った。)

 ジュリアスが確信したその時、

「失礼いたします!」

 と1人の若い騎士が勢いよく部屋へ飛び込んできた。息を切らしているその若い騎士は、太陽の騎士でライオッドの息子であるロイドだ。

「ご報告します!先ほど、『太陽の御子』ヴィンスロット皇太子殿下と、ダリオンのリュカ王太子殿下、魔導騎士ゼルノア殿が樹海に入られました。現在お三方が入られた地域は月の騎士団長が中心となり、オルディリア、ダリオン両国の騎士たちにより簡易的な結界を施しております。」

 ロイドのその報告に、ライオッドとジュリアスは鋭い視線を交し合った。

 策を決行する時が来た。

 その場にいる者だけでなく、鏡を通してダリオン側の魔導士たちもそれを悟った。

<…こちらはすでに配置についております。合図をいただければ、すぐにでも術の発動が可能です。>

 鏡からイルネストの声が響いた。

「イルネスト殿、オリハルト殿、レンドス殿、ありがとうございます。では、“遠視鏡”にて合図を送りますので、それに合わせ結界術を発動してください。」

 樹海を封じる結界を張るには、オルディリア側とダリオン側で同時に術を行うことが()となる。ジュードが“遠視鏡”の活用を提案したのは、離れた2拠点で魔術の同時発動を可能とするため、という意味も含まれていたのだ。

 ジュリアスの言葉にイルネストが了承の返事をし、双方の通話は終了した。

「ではジュード様、オルフェーリア殿。」

「うむ。…やれ、ようやく()()()との約束を果たせそうじゃ。」

 再び小さくなった鏡を懐にしまうと、ジュードはのんびりとした口調でそう呟いた。6大国の魔術を牽引する者の中で一番の長老であるジュードの言う“旧き友”が、今は亡き月の神殿前神官長のウォンラットであることを、誰よりもウォンラットの近くで過ごしていたジュリアスはよく知っていた。最後まで世界の安寧を願い、『月の御子』を守り落命したウォンラット。彼から託された未来、その想いを今必ず成就させてみせる。そう心に誓って今日この場に立ったのは、自分だけではないのだとジュリアスは改めて実感した。

「早く参りましょう。わたくしたちも『御子様』方に後れを取るわけにはいきませんわ。」

 穏やかだが揺るぎないオルフェーリアの声にも、同じ思いが込められている。そうだ、千年に渡り託されてきた未来を実現させるために、6つの守護の力はここに集結したのだ。目的を果たすため魔導士たちが部屋を後にする中、

「ロイド、お前は外にいる太陽の騎士団と共に、周囲の警戒にあたれ。結界を壊そうとするものがあれば、徹底的に排除するのだ。」

 とライオッドは報告を終えて控えていた息子にそう命じた。ロイドは力強い瞳で父を見つめると頷くことで返答をし、彼らと共に自らの責務を果たすべく外へと向かって行った。


 それからものの数分も経たないうちに、オルディリア側ではライオッド(太陽)ジュリアス(月)オルフェーリア(水)ジュード(樹)を筆頭にした軍勢の、ダリオン側ではレンドス(大地)オリハルト(炎)イルネスト(風)を筆頭にした軍勢の魔術陣形が整った。そして―――

「結界術発動!」

 ジュリアスの号令と共に、ジュードの手元にあった“遠視鏡”が光を放った。それを合図に、6大国の魔術師たちが一斉に結界術を発動する。オルディリア、ダリオン双方から放たれた光の帯は、ザルア樹海上空でぶつかると放射状に弾け、瞬く間にザルア樹海を覆う光の檻――強力な封じの結界となって顕現した。




 結界が完成したその瞬間、樹海の中をザルア山を目指し突き進んでいたヴィンスロットたち3人も、周囲の瘴気がざわつき一気に濃さが増したことで、樹海が外界から隔絶されたことを察知した。

「始まったな。」

 リュカはそう言うと

「ゼルノア、“道標”は持ちそうか?」

 と、隣にいた魔導騎士ゼルノアに尋ねた。今ヴィンスロットたちの前には、薄暗い樹海の中でぼうっと淡い光が道をつくっている。これはゼルノアの魔術により、ザルア山への方向を示したまさしく“道標”となるものだ。ただ、ザルア樹海が結界で閉じられた今、樹海内部の闇はさらに濃さを増した。その影響で磁場にも狂いが生じているだろうから、方角を定めるゼルノアの魔術にも少なからず影響が出るだろうと推測された。

「…多少不安定にはなるでしょうが、使えないことはありません。それよりも、瘴気が濃くなったことで樹海の魔獣たちの気が乱れています。」

 ゼルノアの言うとおり、樹海に入ってからずっと肌を刺す闇の気配は、樹海が閉鎖空間となってから一段と容赦なく強まっている。結界で樹海が外界から隔離されたこともその要因ではあるが、それだけではないことを3人は理解していた。この急速な瘴気濃度の高まりは『闇魔王』の復活が…ひいてはゼフィールの命の危機がさらに近づいた証拠でもある。もう一秒たりとも、時を無駄にすることなどできなかった。

「よし!じゃあ、ここからは遠慮なく全力で行くぞ、ヴィンス!」

 深刻と言える状況の中だが、あえて明るい調子でリュカは隣にいる親友に声をかけた。

「あぁ、リュカ。遅れるなよ。」

 これにヴィンスロットも、静かな凄みを帯びた声で返す。好戦的な光を瞳に浮かべる2人にゼルノアは、

「殿下方。全力は良いですが、本番で体力切れなどという事態は勘弁いただきたい。」

 と釘を刺した。

「わかってるって!」

 冷静に若い皇子たちをたしなめる魔導騎士にリュカはそう言い放つと、異常な瘴気の高まりに狂暴化し見境なく襲い掛かってきた魔獣たちを、剣の一閃で薙ぎ倒してしまった。その様子に、本当にわかっているのだろうかと疑問に思いながらも、ゼルノアはやれやれといった諦めのため息を一つ吐き出した。

「…行くぞ!」

 そう言うと、ヴィンスロットは木々が生い茂り足場も良くない樹海を、意に介することもなく尋常ならざるスピードで、淡く光る“道標”が指し示す先へと走り出す。そしてリュカ、ゼルノアもその速さに遅れることなくヴィンスロットの後に続いた。

(ゼフィール、ゼフィール、すぐに行く…!)

 あの日まだ幼かった自分は、窮地に陥った愛しい半身のもとに駆け付けることすらできなかった。だが今は違う。あの日の後悔はもう二度と繰り返さない。共に戦うと言ってくれた半身である弟と共に、必ず『闇魔王』との戦いに終止符を打つのだ。

(もう誰にも、俺からお前を奪わせはしない!)

「邪魔をするなぁぁぁっ‼」

 ヴィンスロットの太陽の剣が、リュカの大地の剣が、ゼルノアの研ぎ澄まされた剣が、行く手を阻もうとする魔獣や瘴気の澱みを討ち祓っていく。これを常人ではない速さで走りながら行えるのだから、この3人の能力がいかに抜きん出たものであるか、うかがい知れるというものだ。その結果、通常では考えられないほどの短時間で、3人はザルア山まであと僅かな距離の地点までたどり着いた。


 だがここで、ついに3人の足が止まった。先ほどまで淡く光り行く手を指示していた“道標”が、ふいに視界から消えたのだ。その代わりに彼らの前に現れたのは、これまで感じたことのないほどにどす黒く澱んだ闇の気配。その重く暗い靄のような闇は、やがて一つの塊となりある人物の姿となった。

「…ゾルアド!」

 リュカの怒りと敵意のこもった声が響く。禍々しい瘴気を纏った黒衣の人物は、『闇魔王』に魅入られ闇へと落ちたダリオンの魔導士、ゾルアドその人だった。

「これはこれは…、『太陽の御子』だけでなくダリオンの王子と魔導騎士がご一緒とは…。」

 青白い顔に薄笑いを浮かべそう言ったゾルアドに、ヴィンスロットもリュカも鳥肌が立つような嫌悪感を覚えた。目の前にいる()()は…本当に人だろうか?それほどゾルアドからは、もう人の気配など僅かにも感じられなかった。体の内側から濃い瘴気を発生させ、澱んだ瞳は不気味に赤く光っている。その様子はどれも、もはや彼が人ならざる魔物になり果てたことを示していた。

「ふ…ふふ…、愚かなことだ、実に愚かしいことだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()、なぜ邪魔をしようとするのか…。」

 口の中で唱えるよう呟かれた言葉に、ヴィンスロットの背筋に冷たいものが走った。ゾルアドが言っている「()()()()()()」というのは、紛れもなく『闇魔王』のことだ。それがもうすぐ目覚めると、この男は言っているのだ。それはつまり……

「邪魔は…させない。我が至高なる主の目覚めは…絶対なのだ!」

 そう叫んだゾルアドの体から、どす黒い闇が一気に湧き上がると渦を巻き、ヴィンスロットたちに向かって襲い掛かった。だがその闇の渦は、ヴィンスロットたちに届く前にゼルノアの魔術障壁によって弾き返された。弾かれた闇が消失するその瞬間、リュカが大地を蹴りゼルノアに向けて剣を振りかざす。しかしゾルアドはその一閃を、僅かな差でかわしてみせた。

「こいつは…俺の獲物だ!お前はお前の獲物の元へ行け!」

 目の前のゾルアドから視線を離さず、リュカはヴィンスロットに向かって短く叫んだ。

「ヴィンスロット殿下。ここまでくれば“道標”がなくとも、あなたなら弟君の居場所を感じ取れるはず。こちらは気にせず、お急ぎください。」

 ゼルノアもそう声をかける。

 魔導騎士が言ったとおり、ザルア山に近づくにつれヴィンスロットはゼフィールの気配を徐々に感じるようになっていた。ゾルアドの出現で周囲の闇は濃くなったものの、一度掴んだ半身の気配は消えてはいない。ヴィンスロットには自分が目指すべき場所…ゼフィールのいる場所がはっきりと認知できていた。

「任せた!」

 ヴィンスロットは2人にそう一言叫ぶと、目の前の闇に向かって太陽の力を放った。力強い光の帯により、一瞬にして闇が祓われ浄化されたことでできた道を、間髪置かずに勢いよく走りだしていく。

「行かせぬ…!」

 太陽の浄化の光に瞬間怯んだゾルアドだったが、ヴィンスロットの行く手を阻もうと再び闇の渦を出現させる。それが走り去るヴィンスロットの背中に放たれんとしたその時、

 ドンッ!

 腹の底に響く音と共にゾルアドの足元の大地が避け、大きく体勢を崩したゾルアドは闇を放つことに失敗する。

「お前の相手はこっちだ!」

 と鋭い声が飛んだ。ヴィンスロットが走り去った道を背にし、ゾルアドとの間に立ちはだかったのは、リュカとゼルノアだった。

 崩れた大地に倒れこんでいたゾルアドは、ゆっくりと顔を上げると己の邪魔をしたリュカ達を視線に捕らえた。その毒々しい赤い瞳は狂気に揺れ、明らかな憤怒を宿している。

「…おのれ…おのれぇ……どこまでもわたしを…ダリオンの…ゲスどもがぁ…!…」

 喉の奥から湧き出る獣のような唸り声と共に呪いの言葉を吐き出すゾルアドに対し、リュカは剣先を向け一国の王太子にふさわしい覇気のこもった宣言を下した。

「ダリオンの災厄はダリオンが裁く。ゾルアドお前は…ダリオン王国王太子である俺が、この手で断罪してくれる!」





 ~粛清~




 グオォォォ――――ッッ‼

 周囲の空気を震わす咆哮が響き渡ると、ゾルアドの纏う闇の瘴気が一気に濃さを増し膨れ上がった。それは1本の太い瘴気の枝と化し、リュカとゼルノアに襲い掛かる。だが、2人は横に飛ぶことでそれを回避し、瘴気の枝は2人のいた場所に大きな穴をあけるだけに終わった。

 ゾルアドの攻撃をかわしたゼルノアは、そのままの勢いを殺さずゾルアドとの間合いを詰めた。ゾルアドも闇の渦を放ち反撃に出たが、ゼルノアも自らの左腕に魔術障壁を発動させ盾としその攻撃を打ち返し、間髪置かず右手の剣をゾルアドめがけ振り下ろす。その飛び貫けたスピードと反射能力は、流石に歴戦の勇者でダリオンの誇る魔導騎士だ。しかしその剣は、闇の魔導士が纏う瘴気に絡めとられ、防がれてしまった。だが、ゼルノアの攻撃に集中したこの僅かな時間は、確実にゾルアドの“隙”となった。

「うぉぉっ!」

 その“隙”をつき、ゼルノアとは反対方向、ゾルアドの死角となっていた位置から、リュカの大地の剣が唸りを上げた。僅かに反応の遅れたゾルアドの左目を、リュカの剣先が捉える。どす黒い血飛沫が空中に散り、左目をえぐり取られたゾルアドは悲鳴を上げその場に尻もちをついた。

 止めを刺さんとリュカは剣を振りぬいたが、その一閃はゾルアドには届かなかった。まるでゾルアドの盾となるかのように、横合いから2人の間に飛び込んできた魔獣を切り伏せるにとどまったからだ。

「チィッ!」

 魔獣の死骸に足場と間合いを邪魔されたリュカは、体勢を整えるためいったんゼルノアの隣まで下がった。油断なく身構える2人の目前で、えぐられた左目を左手で押さえながらゾルアドがゆらりと立ち上がる。そして足元に倒れている魔獣の死骸に視線を落とすと、おもむろに空いていた右手を死骸に伸ばし―――

 グジュゥッ

 魔獣の眼球を掴みだし、それをえぐられた左目にグズリ…と押し込んだのだ。そして手を離した時そこにあったのは……ゾルアドの左目があった場所でぎょろぎょろと動く魔獣の血走った目だった。

 そのおぞましい光景に、リュカはもとより百戦錬磨であるはずのゼルノアでさえ、背筋が泡立つような戦慄が走るのを止めることはできなかった。

「…ふ…ふはははははっ。なにを…驚いている?闇の力をもってすれば、この程度のことは容易いこと。それなのに……このような素晴らしい力を、お前たちはまるで虫けらでも見るように下婢た言葉で蔑み踏みつけた!至高の我が主が言われる通り、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!」



 私ゾルアドが生まれた家は、ダリオンで代々魔導士として国に仕えてきた一族だった。だが、特に秀でた魔力や実績たあったわけではなく、ただ代々続いているというだけのごく平凡な魔導士一族だったと言えるだろう。そんな家の一人息子として生まれた私は、当然のことながら家の跡取りとして、幼い頃から魔導士としての教育を父親から受けて育った。父の教える魔導はどれも幼い私には興味深く、家に置かれていた文献を読み解くのも面白くて仕方がなかった。

 そんな私の様子をはじめは喜んでいた両親の様子が一変したのは、私が8歳の時だ。あの日、いつもの通り私は書斎へ赴き魔導に関する書物を読もうと、書棚を物色していた。今日はどの本にしようかと視線をさまよわせていたが、ある一冊の本の背表紙が目に入った途端、なぜか視線が外せなくなった。これは自分が読むべき本だと直感的な胸の高まりを覚え、まるで運命に吸い寄せられるかのように手を伸ばしその本を手中に収めた。それが、私が『闇の力』を知る第一歩となったのだ。

 その文献に記されていた『闇の力』についての記述は実に素晴らしく、瞬く間に私の心を魅了してしまった。感銘を受けた私はその興奮そのままに、父に闇の力の素晴らしさを話して聞かせた。きっと父も、自分と同じように思ってくれるだろう。この素晴らしい力について、喜んで語ってくれるに違いない。その時の幼い私は、無条件にそう信じていた。だが………

≪お前は…なんということを言い出すのだ!≫

 父が私に浴びせかけたのは、これまで聞いたことがないような怒声だった。驚きに硬直している私の手から本を乱暴に奪い取ると、厳しい表情のまま冷たい声でこう言った。

≪よいか、『闇の力』は『滅びの力』だ。国を護るべき魔導士の我らとは、決して相容れぬ忌むべき力。素晴らしいなどと…二度と口にしてはならない。≫

≪…ゾルアド。お願いよ、“闇の力”のことなど忘れてしまいなさい。そんな恐ろしいことを言って、もう私たちを悲しませないで…!≫

 事の一部始終を傍で見ていた母も、顔を青くして私に懇願してきた。両親が見せた初めての形相がただただ恐ろしかった私は、2人の言葉にまるで人形のように頷いた。

 だが心の中では―――なぜ両親がここまで“闇の力”否定するのか、理解も納得もできはしなかった。滅びの力?忌むべき力?それの何がいけない?それほどまでに私はあの本に書かれていた“闇の力”に魅了されていた。これまで教えられたどんな魔導の力よりも、私の心を掴んで離しはしなかったのだ。

 しかし両親の前でまたこの件を蒸し返せば、その時は私は自由を奪われ一切の魔導から切り離されてしまうだろう。そう考えた私は、表面上では両親が望む通りの私でいることに決めた。そして両親にも周囲にも決して気取られぬよう、細心の注意を払いつつ陰で“闇の力”の研究にいそしむようになった。

 それから数年後、両親を欺きながら成長した私は、国の魔導士教育機関に所属し国に仕える魔導士になる道を淡々と進みつつ、人の目を盗みザルア樹海へ赴いては魔獣や瘴気植物などを調べていた。そんなある日のことだった。私の前にこれまで見たことのない魔獣が姿を見せたのは。

≪…お前だな…あぁ、臭いがするぞ、闇を…我を欲する臭いが。≫

 その()は、音として耳に届いたのではなく、頭の中に響くものだった。魔獣の燃えるような深紅の瞳に見据えられ、まるで何かに縛られたように動くことも声を発することもできずにいた私の頭に、再びその()が響く。

≪不憫になぁ、これほどまでに欲しているというのに…“闇”というだけで不遇な仕打ちを受ける。我にしてみれば、そのような者達よりもお前の方がよほど優秀で選ばれし者なのになぁ。≫

 グルルルル…と喉を鳴らし、魔獣は目を細めた。その様子は、私を蔑んでいるようにも憐れんでいるようにも見えた。だが私はそんな魔獣が…いや、魔獣を介して私の頭に語り掛けてくるその()が、ずっと待ち望んでいたものだと本能的に理解した。

≪なぁお前。我のカケラを呑む気はあるか?≫

 その瞬間、甘美な期待が全身を貫き、自分の目が限界まで見開かれたのが分かった。これまで感じたことのない強烈な喜びが私を満たし、体中の細胞という細胞が言い知れぬ熱に震える。

≪こうして人の目を欺き“闇”を欲し続けたのだ。その才こそ稀なるもの。もっと知りたいであろう?邪魔な愚か者どもなど想像すらできぬ、偉大なる力をその手にしたいであろう?……ならば呑め。≫

 声に導かれるように私の両手は、自然と魔獣に向かって差し出されていった。その様子を見て取った魔獣が、短く一声吠える。すると私の両掌には、いつの間にか漆黒の種子のようなものが乗っていた。

 あぁ、これを呑めば私の望みが叶う。そう確信した私は、それを一息に吞み込んだ。

≪これでお前は、我のものだ。ザルアの主にして闇の王たる我…“闇魔王”の眷属となった。≫



「…あの瞬間、私は知ったのだ。人の目を恐れ陰に隠れるなど、本当に愚の骨頂だったことを。闇の力の何たるかもわからぬ愚か者どもなど、下等な生物に過ぎないのだという事を…!すぐにでも全てを消し去ってやりたかったが、我が至高なる主の復活のため自由に動ける“立場”は捨てがたかったからなぁ。それをなくさぬよう、私を縛り付けた者どもはじわじわと排除してやったわ!」

 もはや人とは言い難い醜悪な表情から語られるゾルアドのおぞましい言葉に、リュカは奥歯をギリリと噛んだ。<縛り付けた者ども>の中には恐らく、ゾルアドの両親も含まれているのだろう。

 大地を守護とするダリオンでは、“母なる大地”の観念から命を生み出し育むものに対する敬意が根付いている。親は子を愛しみ育て、子はそんな親を敬う。ダリオンの人々にとって、それは大切にしてきた“心の糧”なのだ。それを……それを、この男は“親殺し”という信じがたい重罪で踏み躙っていた。

「奴の両親は病死だったと報告されていましたが…よもや…っ!」

 同じ考えに至っていたゼルノアがリュカに向けた呟きに、ゾルアドが甲高くけたたましい笑い声をあげた。

「あの時は面白かったなぁ!ダリオンの魔導士どもは誰一人、闇の力に気付くことなく病死で処理した。偉そうにしたところで、所詮その程度でしかないゲスどもだったと、笑いが止まらなかったぁ!」

 魔獣の目をぎょろぎょろと動かし、心底面白くてたまらないというように下碑た笑い声を立て続けるゾルアドに、リュカは吐き気さえ覚えた。

「黙れ!自ら人であることを捨て、闇に落ちた愚か者が魔導士たちを貶めるなど、この俺が許さん!」

「ひゃぁはははっ!人など虫けらにも劣るただのゲスだ!そんなこともわからないとは、ひゃっひゃっ、王族だなんだとえらそうにしてるが、哀れでみじめなクズである証拠だなぁ!」

 髪を振り乱し体を奇妙に動かしながらけたたましく笑う、その常軌を逸した様子を前にして二人は悟った。

 恐らく、人間であったゾルアドの命は、『闇魔王』のカケラを呑み眷属となった時に終わってしまったのだろう。目の前で笑っているのはもはや人でも、そして魔獣ですらない……『闇魔王』によって創られたまやかしの“人形”なのだと。

『闇魔王』の封印は、未だ解かれていない。なのにその状態で…封印されたままの状態で、ここまでのことをしてみせたのだ。ゾルアドが自ら受け入れたことを差し引いても、その力が尋常でないことは疑いようもない。もしも、本当にザルアの封印が解け、『闇魔王』の力が全て解放されてしまったら…!

 その考えに、リュカは心臓が一瞬で凍るような恐怖を覚えた。

「…殿下。今は目の前の獲物に集中を。」

 ゼルノアの静かな声に、リュカはハッと我に返る。そうだ、今目の前にいる醜悪な“人形”は、単なる“人形”ではない。ゾルアドとしての魔導の才に、『闇魔王』のカケラが与えられたことによって、大きな力を持つことになった闇の眷属だ。少しでも気を逸らせば、逆に呑み込まれてしまう。

(俺がやるべきことは、最初から一つだけだ。)

 ダリオンの災厄を断罪、粛清すること。それがダリオンを守護幻獣と共に導く王族として、自分が果たさねばならない責務だ。リュカは小さく息を一つ吐くと、自らの剣を改めて握り直した。

「すぐにぃ…すぐに我が主は解放され、この世は素晴らしい闇の世界となる。主のお目汚しにならないよう、お前たちはぁここで私が消し去ってくれようぅ。」

 赤く光る眼と醜悪な笑いを顔に張り付かせ、ゾルアドだったものの口からは人の言葉ではあるが獣の唸り声のような音が吐き出された。と同時にその体から、いくつもの瘴気の枝がリュカ達に向かって飛び出した。リュカ達も咄嗟に地面を蹴り、瘴気の枝の攻撃をかわす。だが間髪置かず、さらに新たな瘴気の枝が二人に襲い掛かる。

「ぬんっ!」

 ゼルノアとリュカの剣が、幾本も襲い掛かってくる枝を受け止め切り払った。ゼルノアは枝を退けるその勢いのまま前進し、口の中で呪文を唱えながらゾルアドとの間合いを詰める。呪文に応え光を纏った左の掌をゾルアドに向けると、強烈な光の衝撃波をゾルアドの顔面めがけて放たれた。

 ドンッ‼

「きぇえぇあぁぁうぉぉあぁっっ――‼」

 顔を焼かれたゾルアドは奇妙な叫び声を上げながら、後方へのけぞる。さらに剣の一閃を打ち込むため、一歩踏み込んだゼルノアだったが、怒り狂ったゾルアドが放った瘴気の枝に阻まれてしまった。だが、今度の瘴気の枝には、先ほどのように標的を穿つ正確性はなく、ただむやみやたらに四方八方へと放たれている。

 その理由は明らかだ。先ほどゼルノアが放った光の衝撃波は、浄化の力が込められている。そのため、閃光が消えた後も瘴気の塊となったゾルアドの顔面を焼き続け、その視界を奪っていたのだ。ゾルアドは焼け爛れた顔面を搔きむしりながら、甲高い怒声を吐き出した。

「ぐるあぁぁぁっ!うぉのれぇぇ、ダリオンのクズごときがぁぁっ!許さぬぅ、ゆるさっ…!」

 その呪いの言葉は、唐突に途切れた。

 それまで獣のような奇声を上げ続けていたゾルアドの口には、剣が柄まで深々と突き刺ささり音を奪っていた。その切っ先は喉から体を貫き通し、地面にまで達している。その剣を握っていたのは、リュカだった。

 リュカはゼルノアが衝撃波でゾルアドを怯ませた瞬間、樹海の樹を利用して高く飛び上がり、狙いすまして自らの体ごと剣をゾルアドに頭上から突き立てたのだ。

「…ゾルアド、大罪を犯し人ですらなくなったお前は、魂が往くべき大地に還ることは決してできない。ただの瘴気として浄化され永劫に消える。それが…お前の受ける罰だ。」

 リュカがそう静かに宣言すると、ゾルアドを貫いている剣が閃光を放った。それは正しく、ダリオン王家が受け継ぐ『大地の守護の力』、力強く揺るぎない浄化の光。眩いその光に内側から焼かれ、かつてゾルアドという人間だった体は瞬く間に崩れ、断末魔の声すら上げずに跡形もなく消え去っていった。


(終わった。)

 地面に刺さっていた剣を引き抜き、リュカは今はもう何もなくなった空間を見つめた。閉ざされた樹海に漂う瘴気の中に、あれほど禍々しかった魔導士の気配は微塵もない。まるで、最初からそんなものは存在しなかったかのようだ。もしも……静まり返った場所に立つリュカの脳裏に、ふとある思いが浮かんだ。

 何かを手に入れたい、そんな“欲”は人間だったら誰でも持っている。その“欲”の対象が、ゾルアドの場合は『闇の力』だったというだけだ。ただ純粋に、ただ一途に、欲してしまった。もしも…もしもゾルアドが、そこまで一途に『闇の力』を欲さなければ、何かが違っていただろうか。もしも『闇魔王』の声など聞かなかったら…彼は人のままでられただろうか。そして、ダリオンの魔導士として共に立つ未来もあっただろうか…。そんな、虚しさしか残らない堂々巡りの考えに、リュカは表情を曇らせた。

「過去に戻ってやり直すのは、誰であろうとできないのです、殿下。」

 リュカの背後から、ゼルノアがそう声をかけた。

「今ある現実は、過去にゾルアド自身が選択した結果です。誰のせいでもない、いわば自業自得。」

「ま…そりゃそうだけど…、厳しい意見だな。」

 きっぱりとしたゼルノアの言動に、リュカは苦笑いを浮かべた。

「過去は変えられない…だからこそ、未来に繋がる現在の選択を、誤ってはならないのです。我欲だけに囚われず、真に大事なものを見失わなければ、おのずと正しい道も見えてきましょう。」

 その言葉に、リュカは自分の護衛騎士でありダリオンの優秀な魔導騎士に視線を向けた。

「リュカ王太子殿下、『大地の守護の力』を受け継ぐ者であるあなたの未来は、すなわちダリオンの民の未来。良い選択ができるよう、精進なさってください。」

「…肝に銘じるよ。」

 そう答えたリュカの表情からは、もう曇りは消えていた。

「とりあえず、俺の目的は果たした。後は…。」

 その時、どす黒く重い瘴気が爆発し、静かだった樹海を大きく震わす衝撃波がリュカとゼルノアを襲った。不意を突かれた2人は飛ばされ、樹海の樹に体を強く打ち付けてしまう。

「ぐっ…、…殿下、お怪我は⁉」

「問題…ない!ゼルノア、これは…!」

「はい、どうやら()()()()ようです。」

 先ほどの衝撃波でかなりの樹々が薙ぎ倒され、リュカ達の視界にもザルア山が見えるようになっていた。そしてそこに、巨大な“闇”が渦巻いている様子も。

(まさか…『闇魔王』が復活してしまったのか?)

 ザルア山からはここまではまだ距離があるはずだ。それなのに、言い知れぬ威圧感に圧迫され、体は警鐘を鳴らし続ける。最悪のシナリオが脳裏に浮かび、リュカは全身から冷汗が噴き出るのを感じた。隣にいるゼルノアも、緊張した表情でザルア山の方角から視線を外せずにいた。

(ヴィンスロット、ゼフィール殿…!)

 今まさに、世界の存亡にも関わる大きな戦いに身を置いているであろう親友とその弟の名を、リュカはありったけの思いを込めて心の中で叫んだ。

(お前たちも必ず…必ず目的を果たし、生きて戻れ!)

 彼らならば、きっとやり遂げてくれる。そう信じて、リュカもザルア山を強い瞳で凝視し続けた。



 …ピトン…

 頬に冷たい水滴が落ちたのを感じ、急速にゼフィールの意識は浮上した。

(……ここ、は…?)

 硬くひんやりとした感触を背中に感じ、どうやら自分は石か岩のようなものの上に寝かされているのだと悟る。ゆっくりと目を開けると、あたりは薄暗く湿り気を帯びている岩肌が視界の全てを占めた。確か、神官たちと月の神殿へと歩いていたのに、いったい自分はどうしてこんなところで…?

(そうだ…!僕、誰かに呼び止められて、それで…!)

 意識がよりはっきりしてくると同時に、これまでの経緯も脳裏に蘇る。そして、自分が『闇魔王』に捕まってしまったのだということを理解した。想定していた事態とはいえ、やはり不安と緊張が沸き上がってくる。その気持ちにせかされるようにゼフィールは起き上がろうとしたが、どういうことか体がピクリとも動かない。

「…あ…っ⁈…」

 声を上げようとしたが、それも上手くいかない。その事実を突きつけられ、まるで全身が心臓になってしまったかのように鼓動を激しく響かせる。まるで迫っている危険を知らせるアラート(警鐘)みたいだと、混乱した思考の中でゼフィールはふとそんなことを考えていた。状況的にはそんなこと考えている場合ではないのだが、やはりそれほど動揺しているということなのかもしれない。

 その時、先ほどの水滴とは違う、何か凍てつくように冷たい()()が、ゼフィールの頬に触れた。とたんにゼフィールの全身を、言葉では表せない暗く底知れない恐怖が貫いた。

<ようやく、手に入った。これでこの忌まわしい獄から出ることができる…。>

 耳、というより頭の中に、その声は響いてきた。その言葉は抑揚なく平坦で、何の感情も表していないようにも聞こえたが、ゼフィールにはそこに歪んだ愉悦が滲んでいるのがわかった。

(だ、れ…?…闇魔王…?)

<我は我だ。そしてお前は我の器、すなわちお前も我だ。>

 ゾッとした。

 間違いない、ここにいるのは千年前にオルディリアに生まれた『月の御子』、世界を闇に落としかけた『闇魔王』だ。ゼフィールは体の中で唯一まだ自由になる瞳を必死に動かし、なんとかその姿を捕えようとした。

 自分の周囲を取り囲んでいるのは、黒く靄のような瘴気の影。先ほどから身体に触れている冷たいモノは、どうやらこの瘴気の影らしい。そんな黒い靄の中に、何か赤く光るものが浮いているのがゼフィールの目に映った。

(…?…)

 それは…大人の親指ほどの大きさだろうか、何かの鉱石のようだった。だがその石から放たれる禍々しい気は、周囲の瘴気を遥かに凌駕するものだった。驚きに目を見開いたゼフィールは、と同時にこの赤黒く禍々しい光を放つ石こそ、封印されていた『闇魔王』の欠片であることを理解した。

(まさか…すでに封印は解けていた…⁉)

 ゼフィールが悟った通り、その石は千年前の戦いで完全に滅することができずこのザルア山に封印された、『闇魔王』の欠片に他ならなかった。それが今、目の前に浮いているのだ。封印から解かれ、自由になってしまったとゼフィールが思っても当然だろう。だが実は、封印の効力はゼフィールが懸念したように完全になくなったわけではない。

<器を得れば、我は我を取り戻す。世界に出て闇を与えることができる。>

 つまり、欠片の状態では封印を完全に解くことはできない、ということなのか。自分の存在がどれほど危険をはらんでいるのかを、ゼフィールは改めてまざまざと実感した。そんなゼフィールの葛藤をよそに、赤黒く不気味に光る石は、空中に浮いたままゆっくりと動けずに横たわるゼフィールに近づいてきた。

(やめろ!来るな!)

 ゼフィールは瞳をギュッと閉じ、意識を集中させ自分の内側にある力を放出させた。放たれた銀色の光が、ゼフィールの身体を抑え込むように纏いついていた瘴気の影を祓う。一瞬体が軽くなったような感覚があったが、またすぐに重苦しさに襲われ自由を奪われる。

<なぜ抗う。お前は我なのだ。>

(違う!僕はお前じゃない!絶対に違う!)

 ゼフィールは再び、瘴気を祓うべく力を放出する。だが、夜の森で発揮したような絶大な浄化の効果が何故だか現れない。まるで力の大半が、どこかに吸収されてしまっているようだ。

<お前は我の器。長き時を経てようやく現れた器だ。お前が我以外である必要はない。受け入れろ。>

 頭に響く声は暗い闇を湛え、ゼフィールを内側から侵食していく。石が放つ赤く禍々しい光が徐々にゼフィールの視界を埋め尽くしていき、抗いもがくゼフィールの自我を麻痺させていった。

 あきらめてはいけない、約束したんだ。一緒に戦うと、みんなで幸せになるんだと、そう約束したんだ。

(兄様、ヴィー兄様!)

 愛しい半身の名を呼び続けながら、ゼフィールの意識は再び闇の中へゆっくりと沈んでいった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ