闇の真実
第2章~闇の真実~
~決意~
ゼフィールが目を覚ました時、そこは見慣れた神沢村の自分の部屋ではなく、見知らぬ部屋のベッドの上だった。
(…ここは?…)
まだぼんやりとする意識のまま、ゼフィールはゆっくりと体を起こした。自分が今置かれた状況がよくわからなかったが、薄暗い部屋の中をベッドの中からぼうっと眺めているうちに、徐々に記憶が戻ってくる。
(…そうだ。僕、オルディリアに戻ってきたんだった。……それで……!)
ゼフィールの心臓が、ギュッと締め付けられた。急激に体温が下がったような感覚に、身体が小刻みに震える。そんな自分の体を抱きしめ、ベッドの中にうずくまってしまった。
…あまりにも…あまりにも急に色々な事があって、正直まだ事態が呑み込めていない。最初はただ、兄や父に会えたことが単純に嬉しかっただけだった。でも……父から聞かされた話は、その喜びを吹き飛ばしてしまうほど、ゼフィールには衝撃的なものだった。隣でヴィンスロットが手を握ってくれていなかったら、酷く取り乱してしまっていたかもしれない。だが、その場は何とか踏みとどまったものの、ゼフィールの心は限界に来ていて、部屋を出たとたんショックで意識を手放してしまったのだ。
(……母様が…死んだ?…)
ゼフィールが月の神殿で育った3歳までの記憶の中には、いつも優しい母の姿があった。
≪また会えます。≫
別れ際に聞いた声も、はっきりと思い出せるのに。それなのに……
(…僕の…せいだ。…僕が『月の御子』なんかだったから…!)
泣きすぎたからか、涙も出ない。ただ悲しみとも怒りともつかない、暗く重苦しいモノが、内からも外からもゼフィールの体を締め付けてくる。そこに
「起きたのか、ゼフィール。」
という声がかけられた。
その声にゼフィールが顔を上げると、いつの間にそこに居たのだろう、声の主であるヴィンスロットが立っていた。そしてゆっくりと寝台の端に腰を下ろすと、少し驚いたように自分を見つめてくるゼフィールの、幾分青ざめている頬に優しく手を添えた。
何故だろう、ただそれだけの事なのに、手から伝わるヴィンスロットの温かさに、ゼフィールを締め付けていた暗いモノが薄らいでいく。そして同時に、もう出ないと思っていた涙がまた、ポロポロととめどなく溢れ落ちた。
「…もう泣くな。目が溶けてしまうぞ。」
「でも…でも!…僕のせいで、母様は…!」
「ゼフィール。」
「僕が…『月の御子』だから…、僕が生まれたから…っ!」
そう吐露した瞬間、ゼフィールはヴィンスロットにきつく抱きしめられていた。
「お前だけじゃない。……俺も同じだ。」
(……?……)
「俺は……『太陽の御子』なんて偉そうな者なのに、実際には守られるだけで何もできなかった。お前も母上も…誰も守ることができなかった。心底…『太陽の御子』である自分が許せなかったよ。」
ヴィンスロットの呟くような告白を、ゼフィールは兄の胸の中でただじっと聞いていた。
「なぁ、ゼフィール。俺たちが『御子』として生まれたのは、もちろん俺たちの意思じゃないし誰のせいでもない。けれどそこには、“伝承”にあるようにきっと意味があるんだ。そう信じて命を懸けて未来を託してくれた人達を、俺たちは裏切ってはいけない。『御子』である俺たちにしかできないこと、それを生きて成し遂げることこそ、彼らに報い許してもらえる唯一の方法なんだと……俺は信じている。」
自分と同じ『御子』であることに苦悩を抱え続けてきたヴィンスロットの言葉が、ゼフィールの胸に深く沁み込んでいった。あぁ、兄は自分なのだ、「半身」というのはこういうことなのだと、ゼフィールは心から理解した。
「ヴィー…。」
守られるだけじゃない。誰かを守れる自分になりたい。この人と一緒に。
そう思いを強くして、ゼフィールもヴィンスロットをギュッと抱き返した。
涙は……いつの間にか乾いていた。
いつしか腕の中で寝息を立て始めたゼフィールを、ヴィンスロットはゆっくりとベッドに横たわらせた。その顔色はまだ青白かったが、倒れた時よりは幾分表情が柔らかくなっている。
皇帝の部屋を出たとたん意識を失った弟を抱え、とりあえず自分の部屋へそのまま連れてきたのは、数時間前の事だ。部屋で待っていたリュドミラをたいそう驚かせてしまったが、医官を呼んでくるよう彼女に頼んで、ヴィンスロットはゼフィールを寝台に寝かせた。程なくしてリュドミラに連れられた医官によると、疲労とショックで貧血を起こしたのだろうということだった。今はゆっくりと休ませることが一番と言われたヴィンスロットは、今晩は自分がついているからとリュドミラを下がらせ、父への報告も彼女に任せたのだった。
そして今、誰もいない部屋の中で疲れ切った様子で眠る弟の姿は、ヴィンスロットの胸は狂おしいまでにかき乱した。
(母に会えると……あれほど喜んでいたのに。)
現実はこの弟に、何処までも残酷なものでしかないのだろうか。労わるように艶やかな黒髪を撫で、そっと涙の痕を指で拭ってやりながら、ヴィンスロットはそんなことを思っていた。
「やはり、あなたのそばが一番のようですね。『太陽の御子』。」
突然聞こえた声に驚いて振り返ると、そこには2人の人影……オルディリアの守護幻獣である煌牙輝と白夜姫の人型となった姿があった。
「……いつの間に。」
「闇の気配が濃くなったのでな。ちょっと様子を見に来た。」
煌牙輝の言葉に、ヴィンスロットの眉がぴくッと吊り上がった。
(やはり、そうか……。)
実は闇の気配の変化は、ヴィンスロットも感じていた。先程ゼフィールが目を覚ました時、ゼフィールを取り巻く闇が急に濃さを増したのだ。しかし、その小さな体を抱いてやるとその気配は急激に鎮まり、代わりに月が持つ本来の力…癒しのオーラが強まったのを感じた。それは、危うくヴィンスロットも眠ってしまいそうになるほどに、優しさと温かさに満ちたものだった。
「それにしても……“夜の雫”を持っていても、完全には抑えきれないのか…。」
ゼフィールが首から下げている“夜の雫”を手に取り、そんな呟きを漏らしたヴィンスロットに
「皇妃様が持たせてくださったあの石でもそうでしたから、無理もないでしょう。」
と白夜姫が答えた。
白夜姫が言う通り、コーデリア皇妃がゼフィールに持たせた“夜の雫”は、国宝級とも呼べる純度と大きさを誇り、さらに皇妃の呪によりその効力を高められた特別な石だった。そんな魔石をもってしても、ゼフィールの闇と引き合う力を、実は完全に抑えることはできなかったのだ。時折力が溢れ闇と共鳴しバランスが崩れると、ゼフィールは高熱を発し寝込んでしまっていた。放置すれば闇に飲み込まれかねないそれを、白夜姫が自分の気で覆うことでバランスを整え、症状を治めてきたのだ。だが…
(月の気が輝きを増している。)
月の幻獣である白夜姫には、崩れたバランスを整え安定させることはできても、ここまで見事に月の力を増幅させることは叶わなかった。
「……なんだ?妬いているのか?」
少し面白くなさそうな顔をしていた白夜姫を、煌牙輝がこちらは面白そうに覗き込んだ。それにほんのわずか目元を赤らめた白夜姫が、無言で睨み返す。そんな人間のような反応を見せる半身に、煌牙輝はますます面白そうな視線を向けた。
「おい、じゃれ合うなら聖樹に戻ってやってくれ。」
幻獣たちの様子に、ヴィンスロットが飽きれたように言葉をかけた。それに応えたかのように、2人の幻獣の姿はすぅ…と部屋の中から消えていった。
幻獣がいなくなり一気に静かになった部屋の中、ヴィンスロットは自分の寝台で眠るゼフィールに視線を戻した。自分を信頼し安心しきっている弟の無防備な姿に、自然と笑みが浮かんでくる。
(俺だけの“月”)
不思議だった。こうしているだけで何も怖いものなどない気がしてくる。温かく優しい気に満たされながら、やがてヴィンスロットもゼフィールの隣で、穏やかな眠りに落ちていった。
≪ようやく、太陽と月が揃った。≫
聖樹の中、太陽の幻獣がそう呟いた。
≪…千年の昔のように、もう見失ったりしない。≫
それに続いて、月の幻獣の声が響く。
≪私は、私の『月の御子』を≫
≪俺は、俺の『太陽の御子』を≫
そして、2つの声は重なるように
≪今こそ……あるべきものをあるべき場所へ導く時だ。≫
そう、誰にともなく決意の言葉を告げた。
皇帝との謁見後、倒れてしまったゼフィールの体調をおもんばかって、翌日はヴィンスロットの部屋でゆっくりと休むこととなった。ヴィンスロットやリュドミラがかいがいしく世話を焼いたおかげもあって、ゼフィールの体調がすぐに回復したのは言うまでもない。そのため、次の日からは王宮内に用意された彼の部屋へ移り、まずはこの世界を知るための日々が始まった。王族としての暮らしや振る舞いなどはライオッドの妻であるシェルラ夫人とリュドミラ女官長から、オルディリアの歴史や国の仕組み、守護の力や瘴気などについてはジュリアス神官長から、それぞれ教えを受けることになった。実は当初、オルディリアの事を教えるのならば自分が、とヴィンスロットが名乗りを上げていたのだが、
「あなたは公務があるでしょう!」
という周囲からの一喝によって、却下されていた。その決定に渋々従ったものの、公務の合間には必ず弟のもとに顔を出し、夜は自室には戻らずゼフィールの部屋へ直行しそのまま居続けようとするヴィンスロットの姿に
(……デジャブ……)
と思い呆れているのは、きっとジュリアスに限ったことではなかっただろう。しかし、呆れを通り越しもはや微笑ましくさえ思っている大人たちの中で、ゼフィールだけは兄の訪問を心から喜んでいた。父王をはじめ、ゼフィールを取り巻く人々はみんな優しく接してくれるのだが、不慣れな環境の中でやはりどうしてもまだ緊張してしまう。そんな日々で、無条件に安心できる兄の存在は、ゼフィールにとってホッとできる、オアシスのようなものだったのだ。
そうして一週間が過ぎたある日、皇帝アルスロッドは自室にヴィンスロット、ライオッド、ジュリアスの3人を招集した。
「ゼフィールの様子はどうかな。」
「はい。お健やかにお過ごしでいらっしゃいます。妻の話によりますと、殿下は大変勤勉で物覚えも早く、王族としての振る舞いやマナーもほぼ問題ないレベルとなったそうです。」
皇帝の問いに、ライオッドがそう答えた。それを聞いたアルスロッドが満足げな笑みを浮かべるのは当然として、ヴィンスロットがさも自慢げにドヤ顔をしているのが目の端にとまり、ライオッドは吹き出しそうになるのを必死にこらえなければならなかった。
「この世界の根幹となる“守護の力”の事や、ザルアの『闇魔王』のこと、それにまつわる“伝承”についてもご説明いたしました。『月の御子』と『闇魔王』の関係性に最初は混乱されておりましたが、今はしっかりと理解されております。ただ、ご自身の力を自在に制御できるようになるには、今少し時間が必要と思われます。」
続くジュリアスの報告に、アルスロッドは一つ大きく頷くと、改めて3人に向かい一つの提案を示した。
「ゼフィールが戻ったこと、そういつまでも伏せておくことはできぬ。そろそろ、国内外に向け『月の御子』帰還を告げるべき時だと思うが、どうだろうか。」
アルスロッドの言う通り、ゼフィールの存在をいつまでも周知せず隠していれば、周囲にいらぬ不信感や邪推と抱かせることになりかねないだろう。「太陽」と「月」が揃い、千年の闇との結着を目指している今、そのような事態は絶対に避けなければならない。それをよく理解する3人は、皇帝の言葉に頷くことで同意を伝えた。
「ライオッドとジュリアスの話を聞く限り、ゼフィールを人前に立たせその存在を国内外に周知させるのに、さほど大きな問題はないだろう。気がかりは……『闇魔王』がこれにどう動くか、だ。」
「ゼフィールには、俺が手出しなどさせません。」
皇帝の言葉に即答したのは、それまで黙っていたヴィンスロットだった。その黄金の瞳は燃えるように強く輝き、彼の確固たる決意を表していた。
「確かに、今はまだ『月の御子』の準備は万全とは言い難いでしょう。その分、リスクも大きいかもしれない。だが我らとてこの10年、ただ無為に過ごしてきたわけではないでしょう?」
ニヤッと不敵な笑みを浮かべ、ライオッドもいつになく好戦的な意思を示す。それに同調するかのように
「えぇ。わたしもあの時の二の舞を踏むつもりなど、毛頭ありません。」
と、ジュリアスも強い口調ではっきりと告げた。
(なんとも頼もしい…が、しかし…。)
3人の言葉に目元をわずかに緩めながらも、
「そなたたちの覚悟、嬉しく思う。だが、“自信”と“驕り”をはき違えることは決してならんぞ。それはあの子を、ひいては国を窮地に貶める元凶となるものだ。」
国を率いる皇帝としてそう戒めた。
「慎重になりすぎて時を逸しても、大胆になりすぎて自滅してもならぬ。それを肝に銘じておくのだ。」
「はっ!」
皇帝の言葉に、3人は同時に返答を返した。
「ではお前たち、ゼフィールを『闇魔王』に近いモノではなく、国に必要な『月の御子』であることを知らしめられるよう、披露目の準備を進めてくれ。ただし、あの子に無理のない範囲でな。」
最後に父としての配慮をにじませ、アルスロッドはヴィンスロットたちにそう命じた。
数日の後、オルディリア王宮内の太陽の大広間にて、10年ぶりに『月の御子』が帰ったことを告げる、披露目の会が催された。ただ、ゼフィールが生まれた時に行われたものとは違い、その場に呼ばれたのは国内の者だけに限られ、他国の王室には使者を立て報告するにとどめた。これは、最近活発化する『闇魔王』の動きを考慮し、招待客の安全性を考え決定されたことだ。
当日広間には、太陽の部署を取りまとめる宰相であり皇弟でもあるライオッドと、月の部署を取りまとめる神官長ジュリアスが顔をそろえた。太陽の部署からは、太陽の騎士団長グレンフォードと事務次官のヴァルモア他数名の官吏、月の部署からは、月の騎士団長シリウスと次席神官のリュードルフ他数名の神官が集った。その他にも、地方に配置している役所から代表者2名がそれぞれ参加している。万が一に備えても、それぞれの騎士や神官たちが警戒にあたり、何か異変があればすぐに会場へ連絡、対応ができるように配置されていた。
全員が広間に揃ったところで、最近はめったに表に出なくなった皇帝アルスロッドが、ライオッドに伴われて姿を現し玉座に着いた。そして、皇帝の姿に平伏する一同に向かい
「皆も知るように、10年前オルディリアを離れた『月の御子』である我が皇子が、この度国に戻った。」
アルスロッドはそう言うと、ライオッドに目配せをした。その合図を受け
「ここに集まりし皆に本日改めてご紹介する。ゼフィール・エルド・オルディリア殿下だ。」
そうライオッドが呼び込むと、兄である皇太子ヴィンスロットに伴われゼフィールが会場に入場した。黄金の髪と瞳を持ち白地に金糸の刺繍が施された礼服を身に纏ったヴィンスロットは、『太陽の御子』にふさわしい覇気と輝きを放っている。そしてその傍らには……白地にこちらは銀糸の刺繍が施された例服に身を包んだ、ゼフィールがいた。艶やかに輝く黒髪に縁どられた白く小さな顔は、緊張からか頬はバラ色にほんのり紅潮し、濃紺の大きな瞳は明るい星空を映したかのように、キラキラと輝いている。その美しい容姿に居合わせた者は皆目を奪われたが、それよりも人々を魅了したのは、ゼフィールから発せられている穏やかで美しい癒しのオーラだった。
(これが……『月の御子』…!)
太陽の熱き輝きと月の清廉な輝き。邪悪なものなど一切寄せ付けない、その圧倒的なオーラを持つ2人の御子が居並ぶ姿は、神々しささえ感じられる。
「オルディリアを導く『太陽』と『月』だ。どうか皆も、この年若い皇子たちを支え、共にオルディリアに輝かしい未来をもたらしてほしい。」
アルスロッドが並び立つ2人の皇子を前に、広間に集まる一同へそう告げると、それに続いてヴィンスロットが口を開いた。
「皆の前で『太陽の御子』として誓う。千年の昔から続く戒めからこの国を開放し、調和のとれた真のオルディリア皇国を必ず取り戻すことを!」
その力強い言葉に、臣下達から一斉に歓呼の声が上がった。そして
「僕も…、僕も『月の御子』として誓います!頑張りますので、皆さんどうかよろしくお願いします!」
今度は兄に背中を押されたゼフィールが、少年らしい涼やかで凛とした声で、拙いながらも精一杯の言葉を紡いだ。その愛らしい様子に、広間は温かい拍手と歓声に包まれた。
その時、2人の皇子の頭上がふいに輝きだし、その光がオルディリアの守護幻獣、長い鬣を持った黄金と白銀の虎の姿となって顕現した。幻獣の姿に広間にいた人々がどよめく。オルディリアの民であれば誰しも守護幻獣の事を知ってはいるが、その姿をこうして間近に見る事などめったにないことだった。中には初めてその姿を見た、というものも少なくない。そんな黄金の煌牙輝と白銀の白夜姫が、皇子たちを護るように寄り添う美しく幻想的な光景は、そこに居た全ての人々に大きな感動と畏怖をもたらした。そしてこの皇子たちこそ、この国や自分たちの未来の希望であると、強く心に刻んだのだった。
~始動~
「頑張りましたね。立派でしたよ、我が御子。」
控えの間に戻ってきたゼフィールは、人型になった白夜姫にそう言われながら頭を撫でられている。その光景をアルスロッド、ライオッド、ジュリアスが、その通りだと言うように頷きながら微笑ましく見守っていた。そのゼフィールを中心にできた光景を、ヴィンスロットだけが少し離れてちょっと面白くなさそうに眺めていた。
「……お前も誉めてやろうか?我が御子。」
隣でそんなことをニヤニヤしながら言ってくる煌牙輝に、ヴィンスロットの表情がまた一段と不機嫌さを増す。その様子を見て、肩を震わせながら声を殺して笑い続ける煌牙輝に、本当にこいつは神聖なる国の守護幻獣なんだろうかと、ヴィンスロットは思わず疑ってしまう。そんな疑惑の視線を向けられた煌牙輝は、光彩のない金一色の瞳を不敵に輝かせ、
「我ら幻獣が人のように動くのは、守護する王たちの前だけだ。」
と面白そうに言った。
「まして今代は『御子』がいる。白夜姫に至っては養い子にまでなった。ま、せいぜい弟を取られないよう、頑張れよ。」
そうからかうように言ってくる太陽の幻獣に、もうぐうの音も出ない。国の創生から存在するこのモノに、所詮敵うわけもないか…とヴィンスロットは嘆息した。
「ヴィンスロット。」
ふいに父皇帝から声をかけられ、ヴィンスロットは慌てて意識を現実へと戻した。
「はい。」
「お前もご苦労だったな。さて、これでゼフィールの存在は公のものとなった。それぞれ、この国を導く皇子として、これまで以上に励まねばならんぞ。」
そんなアルスロッドの言葉に、ヴィンスロットとゼフィールは真直ぐな視線を向けて頷いた。
「ゼフィール、お前はこれから月の神殿で暮らし、引き続き力のコントロールを学ぶように。ヴィンスロット、お前はこれまで通り公務を行いつつ、ザルアの様子を窺え。」
(…?…)
皇帝の言葉の最後に引っかかりを感じたヴィンスロットは、父の意を探るように
「父上……何かあったのですか?」
とそう訊ねた。
「実は、今朝方ダリオンから連絡が入った。」
アルスロッドに変わりライオッドが、ヴィンスロットの問いに答えた。ダリオンはオルディリアの隣国で、ザルア樹海はこの2国にまたがって広がっている。そのため、ザルアの封印をこの2国が中心となって行ってきたという経緯もあり、他国よりも親密な関係にあると言ってよい。
「どうやらダリオン国内で、『闇魔王』に関するちょっとした疑惑が出てきたようだ。だが、現段階ではあまりにも不確かなもので、ダリオン王室としてもいかに対処すべきか迷っていたそうだ。しかし、『月の御子』帰還という報を受け、わずかな疑念も放るべきでないとダリオン国王がお考えになり、我が皇室と共に内密に動きたいと打診してきたのだ。」
それを聞いて、ヴィンスロットの表情がスッ…と引き締まったものに変わる。先程までの穏やかだった部屋の空気も、緊張感を帯びたものになった。その変化にゼフィールも表情を硬くし、隣にいた白夜姫の手をキュッと握りしめた。白夜姫はそんなゼフィールを落ち着けるように、その手を優しく包んでやった。
「それで、俺はどう動けば?」
「あぁ。この件には対象がいてな。万が一こちらの動きが知られれば、しっぽを掴むことは非常に困難になる。だからこそ内密に動かねばならんのだが、両国が共に動くとなれば、やはりどうしても目立つだろう?そこでとりあえず、この前の南方での魔獣騒動を隠れ蓑にしようと思う。例の突然変異植物の調査協力をこちらからダリオンに依頼する、という形でお前とダリオンの王太子が会うように手配した。詳しいことは、その時に話してくれ。」
「わかりました。」
そう力強く答えたヴィンスロットは、まさしくオルディリアの皇太子にふさわしい覇気を放っている。そんなヴィンスロットに
「兄様……。」
と、少し不安そうな瞳をしたゼフィールが声をかけた。そんな弟に、ふっと表情を緩め
「心配するな、大丈夫だ。俺は俺のすべきことをする。お前は、お前がまずすべきことを全力で頑張れ。」
そう言ってクシャっと、ゼフィールの頭を撫でた。そうだ、今自分がしなければならないのは不安がることじゃない。しっかりしろ!と心の中で自分に一つ喝を入れ
「はい。頑張って、早く兄様の手助けができるようになります!だから兄様も、気を付けて頑張ってください。」
ヴィンスロットの眼を真直ぐに見据え、笑顔でそう答えた。
こうして、『月の御子』帰還を知らせる披露目の会は無事に終わり、ゼフィールはジュリアスと共に月の神殿へ、ヴィンスロットはダリオンとの合同調査の下準備に、それぞれ向かっていった。皇帝アルスロッドはライオッドを伴い自室へ戻ったのだが、やはり少し無理をしたのだろう、床に就いたその顔色は芳しいものではなかった。
「兄上…。少し落ち着かれましたか?」
そう声をかけたライオッドに、
「あぁ、大丈夫だ。…心配をかけるな、ライオッド。」
とアルスロッドは、静かに微笑みながら答えた。
「10年か…。長いように感じていたが、実際はあっという間だったな。」
「そうですね。しかし、あんなに小さかった子たちが、立派に成長して……。きっと、義姉上も喜んでおられましょう。」
しみじみとしたライオッドの言葉に、アルスロッドも静かに頷いた。
「お前も今日はご苦労だったな。わたしは大丈夫だから、もう下がって休め。ダリオンの件、頼んだぞ。」
「わかりました。兄上もゆっくりとお休みください。…まだまだ皇帝陛下には、お2人を導いていただかなければならないのですからね。」
そんな軽口を言いながら、ライオッドは皇帝の部屋を後にした。
(……コーデリア。)
人のいなくなった部屋で一人、アルスロッドは心の中で最愛の妻に呼びかけた。
(どうだ、我らの息子たちは立派に育っただろう?……約束した通り、君が託した未来をあの子達が実現する日を、わたしは必ず見届ける。だからコーデリア……君のもとへ逝く時は、どうか笑顔でわたしを迎えてくれ。)
今は亡き愛しい人の面影を瞼に浮かべながら、アルスロッドは父として、そして一人の男として、そう語りかけ続けた。
翌日の太陽の風の刻(午後1時~3時)、オルディリアからの調査依頼に応えてダリオンから、リュカ王太子と側近のファーガス、魔道騎士でありリュカ王太子の護衛であるゼルノア、そしてダリオンの魔導士が2人という一団が、オルディリア王宮を訪れていた。今回は初回の打ち合わせと情報共有だけ、ということを理由に、本来の目的を極力外に漏れることがないよう、この少人数編成となったようだ。対して迎えるオルディリア側は、ヴィンスロットを中心にリュードルフ次席神官とライオッド、それに数人の神官たち、とこちらも少人数で整えた。
「わざわざ出向いてもらってすまなかったな、リュカ。」
「なんの。ヴィンスの頼みだしな。それに久々の遠乗りで、ちょっとした気晴らしにもなった。」
1国の世継ぎである王子同士とは思えぬ何んとも気さくな挨拶だが、実はこの2人年齢が同じということもあり、子どもの頃から親しいいわゆる幼馴染同士という面を持っている。周囲の人間もそれを良く知っているからこそ、砕けた言葉遣いを咎めるでもなく実に自然に受け止めているのだ。
「早速だが、来訪の挨拶を皇帝陛下にしたいのだが。」
そう切り出したリュカに、ヴィンスロットは一つ頷いて
「あぁ。父もダリオンの王太子殿下をお待ちしている。すまないがリュードルフ、先に一行を応接室へ案内し、まずは一息ついてもらってくれ。」
「かしこまりました。皇太子殿下。」
こうして、リュカと護衛騎士のゼルノアはヴィンスロットとライオッドと共に皇帝の自室へ、他のダリオン一行はリュードルフと神官たちに案内され、応接室へと向かっていった。
「父上、ダリオンのリュカ王太子殿下がお見えになりました。」
そうしてヴィンスロットと共に招き入れられたリュカとゼルノアは、ソファに座る皇帝に向かって片膝をつき礼をとる。
「此度はご配慮いただき、ありがとうございます皇帝陛下。ダリオンを代表し、御礼申し上げます。」
「今日はご足労であったな、リュカ王子。ご両親は息災でおられるか?」
「はい、父も母も皇帝陛下に感謝しております。くれぐれもよろしくお伝えするよう、申し使ってきました。」
一通りの挨拶を済ませると、皇帝はリュカ達に椅子に座るよう促すのを合図に、女官たちが客人に対しお茶などを給仕した。女官たちが部屋から退室すると
「…では早速だが、話を聞こう。ここであれば、たとえ魔道を使おうとも話が外に漏れる心配はない。」
とアルスロッドが話を向けた。その言葉にリュカは頷き、ダリオンで起こった“ある疑惑”について話を始めた。
「数か月前の事です。俺は、ダリオン領のザルア樹海近くに位置するとある村を訪れていました。その村には、樹海で代々猟をしている者がいるのですが、樹海の事にも大変詳しく信頼のおける人物のため、樹海の様子などを報告してもらっています。その者が、ここ最近樹海付近で見つかる魔獣の死骸がどうもおかしい、と俺に伝えてきたのです。猟をしていれば死骸を見つける事など特に珍しいことではないそうですが、ここ最近発見される死骸はいつもと違う嫌な感じが……人の手が関わっている感じがするというのです。そこでその者の協力で、秘密裏に樹海で見つかった死骸を数体城へ運び込んでもらい、魔導士長と信頼できる者数名に極秘で調べさせたところ、明らかに自然死ではなく何かの実験のために意図的に殺されたのでは……という結論が出されました。我が父王はこの結果を受け、俺に首謀者とその目的を突き止めよと密命を下しました。それで調査を進めていくうちに、ある男が関わっているのではないか、というところまではたどり着けたのですが、残念ながら確証がまだ得られず今は未だ“疑惑”、ということになっているのです。」
「そんなことが……。」
ヴィンスロットは話の内容に、ザワザワとした不快感を禁じえなかった。
「死骸から見て取れたのは、明らかに“闇”の力に関する実験の痕跡でした。不甲斐ないことですが、ダリオンに『闇魔王』の力に興味を示し、関わろうとする輩がいることは確かです。そこに『月の御子』様の知らせが入り、これはもうオルディリア皇帝にお知らせするべきだと。」
「委細、あい分かった。」
アルスロッドが静かに、しかしきっぱりとした口調でリュカへ言葉をかけた。
「この件、確かにうかつに動いてそ奴を取り逃がしては、『闇魔王』に有益な結果をもたらしかねん。内密な形で事を進め確証を得られるよう、ヴィンスロットもリュカ王子と協力して動くように。」
「はっ!」
「ご助成、感謝いたします皇帝陛下。」
ヴィンスロットとリュカは、それぞれアルスロッドの言葉に答えた。
「リュカ王子、長時間の移動で疲れたことだろう。ささやかだが晩餐の用意をさせた。今日はもうゆっくりと休み、変異種の話は明日にしてはいかがか。」
「ご配慮、ありがとうございます。ですが明日には国に戻らねばなりませんので、できれば晩餐まで変異種の話を伺いたく存じます。それで明日なのですが……。」
リュカは少し口ごもったが、思い切った様子で次の言葉を続けた。
「ぜひ『月の御子』様に拝謁したく存じます!」
何故か頬を紅潮させ興奮気味に突然そう願い出たリュカに、ヴィンスロットだけでなくアルスロッドもライオッドも面食らってしまった。そして驚いたものがもう一人…
「殿下!いきなりが過ぎましょう!」
そばに控えていたはずのゼルノアが、主人であるはずのリュカを一喝した。どうやらこの騎士は単なる王子の護衛ではなく、少々やんちゃなこの王子のお目付け役でもあるらしい。
「いや、でもせっかくだし、俺は一度もお会いしたことないし…。」
「それはまた別の話です!それを突然…皇帝陛下に失礼です!」
そんな主従のやり取りにアルスロッドは思わず声を出して笑い、不快どころか気心の知れたダリオン国王の息子を好ましくさえ思った。
「よい。王太子殿下は父君に良く似て真直ぐな気性をお持ちだな。しかし、あの子はまだ国に戻って間もなく、まだ力も不安定でおいそれと人前には出せぬ。それはわかってくれるな。」
「は…はい。」
「だが近く我が第2皇子も、そなたらと共に戦うことになるだろう。その前に、見知っておくのもお互いのため。ヴィンスロット、明日一番にリュカ殿を月の神殿へご案内せよ。ただし、訪問はリュカ殿だけだ。他の一行は騎士も含め、我が城にて待機されよ。それが条件だ。」
「あ、ありがとうございます!皇帝陛下!」
アルスロッドの言葉に顔を輝かせたリュカが、申し訳なさそうに平伏するゼルノアを完全にスルーして、勢いよく皇帝に礼を述べた。アルスロッドは機嫌よくその謝意を受け取っていたが、リュカに対し不機嫌なオーラを放ちまくっている者が、その部屋には1人だけいた。
「…いい加減、その怖い顔をどうにかしろよ。」
皇帝の部屋を後にして、ダリオンの一行が待つ応接室へ向かう廊下で、不機嫌丸出しの友人にリュカが言った。
「父上の命令だから仕方ないが……本来会わせるつもりなんかなかったんだからな!くそっ、まだ国内の事すらおぼつかないのに、他国の者を急に会わせるなんて負担になるだろうに…!」
「過保護すぎじゃね?」
そんな軽口を返してくるリュカを、ヴィンスロットはギッと睨みつけた。しかし、さすが一国の王子にして幼馴染のリュカには、たいして効果はなかったようだ。
「でもさ、俺一人っ子じゃん。ずっとお前から弟君の話を聞かされてて、なんだか俺にとってもゼフィール殿は弟みたいな感じがあってさ。すっごく会ってみたかったんだよ。」
そう言って爽やかな笑みを向けてくるこの友人に、いささかの不満はまだ残るものの、ヴィンスロットもため息をひとつ吐くことで自分の不機嫌をしまい込んだ。
「で、これから会う奴らはどこまで知っている?」
「あぁ。ゼルノアとファーガスは俺と共に行動している。奴にまだ自分に気付いていないと思わせるために、奴との繋がりがありそうなのを1人組み入れて連れてきた魔導士たちは、表の理由しか知らない。」
「わかった。…なら、益々お前を月の神殿へは連れて行きたくないな。」
「えぇ~。だから俺1人が会いに行っても不審がられないように、皇帝陛下にお願いしただろう~。」
確かに、ダリオンの魔導士たちがいる前で月の神殿へ行きたいと言われていたら、「では私たちも!」と言い出され少々厄介な事態になっていたかもしれない。オルディリア皇国皇帝から直々に賜った、「ダリオンの王太子だから許した、それ以外はたとえ側近であろうと護衛騎士であろうと許さない。」という言葉は、魔導士たちの不信を招くことなく待機させられる唯一のものだったろう。
(本当にこいつは、食えないところがある…。)
だが、そんなところも含めて、ヴィンスロットはこの幼馴染を友として信頼していた。悪知恵…もとい機転が利くこの王子が、それ以上に情に厚い男であることは誰よりもよく知っている。それはリュカも同じだった。太陽のように真直ぐで熱いヴィンスロットを、誰よりも信頼できる友人と思っていた。お互いが、王子というしがらみに捕らわれず、本音で話すことができる数少ない存在なのだ。
そんな2人のやりとりを後ろから眺めていたライオッドが、同じく隣にいる騎士ゼルノアに
「うちのもそうだが、リュカ殿も相変わらずだな。苦労が絶えんだろう、ゼルノア。」
と囁いた。
「…いえ、ライオッド様には及びません。」
ゼルノアとライオッドも、ヴィンスロットとリュカが子どもの頃から互いをよく見知っている。皇弟と護衛騎士、と立場こそ違うが、それぞれの王子たちの行動に振り回されているのは同じで、この2人の間にも“同志”のような信頼関係が築かれていた。
「ふふ、まぁ今回も“暴走”されないよう、お互いせいぜい気を付けてやるとするか。」
ライオッドはいたずらっぽい笑みを浮かべ、ゼルノアにそう言った。
翌朝、ヴィンスロットとリュカは夜の森の中を、月の神殿へ向け馬を走らせていた。皇帝との約束通り、供はつけずに2人だけだ。
「なぁ、ヴィンス!やっぱ、突然で驚かせちゃうよな、大丈夫かな?」
「何を今更…!一応昨日のうちに来訪の連絡はいっているから、さほど問題はない。だが……ゼフィールを困らせるようなら、即刻叩き出すからな。」
「…だから、オーラ怖いって!」
そんな軽口をたたき合っているうちに、目的地である月の神殿に到着した。本来なら他国の王族を迎えるのだから『聖門』を使うのが当然ではあるが、今回は突然であることと公式というよりもプライベート感の方が強いので、普段通り『騎馬門』を使うことにした。連絡を受け待っていた神官に馬を預け、ヴィンスロットの案内でリュカは神殿内部へと入っていった。
オルディリアには子供の頃から何度か訪問しているが、実は月の神殿を訪れるのが初めてのリュカは、珍しそうにまわりを眺めながらヴィンスロットの後をついていく。あまりにキョロキョロし過ぎたため、歩みを止めたヴィンスロットに気付かず、危うくその背中にぶつかるところだった。
「ようこそ月の神殿へ、リュカ王太子殿下。」
ヴィンスロットの背中越しに、誰かが挨拶の言葉をかけてきた。少し慌ててヴィンスロットから離れ、声のする方へ視線を向けると、そこには月の神殿の最高責任者であるジュリアス神官長が立っていた。ヴィンスロットの母方の叔父でもあるこの人物には、リュカも幾度か会っていて面識がある。
「お久しぶりです、ジュリアス神官長。今日は急に申し訳ない。」
「そうですね。あなたでなければたとえ皇帝陛下のご命令でも、お断りしていたかもしれません。」
にっこりと笑顔で答えるジュリアスの眼は、いささか不穏な色を宿している。
(この人もか…。)
ゼフィールに対する過保護っぷりに、リュカはわずかに目元を引きつらせた。『月の御子』であるオルディリアの第2皇子は誕生時の披露目式以外で、対外的に表に出てきたことはない。当時、リュカの父であるダリオン国王が披露目式に出席したが、遠めでも愛らしい赤ん坊だったとは聞いている。
そして今、己の半身で特別な存在だと言っていたヴィンスロットを含め、こうしてオルディリア皇室の溺愛を一身に受けているゼフィールに、リュカはますます興味を募らせた。
「こちらのお部屋でお待ちです。どうぞ、お入りください。」
そう言ってジュリアスは、部屋の扉を開けるよう警護の騎士に促した。ヴィンスロットが先に進み、リュカもその後に続いて部屋の中に入る。その時、リュカの耳に涼やかな少年の声が飛び込んできた。
「ヴィー兄様!」
目の前のヴィンスロットが少しかがんで、その声の主を抱きしめた。そして小さな肩に手をかけながら、リュカの方に向き直り
「リュカ、紹介する。俺の弟のゼフィールだ。ゼフィール、彼は隣国ダリオンの王太子で俺の友人、リュカ・ドリアルデ・ダリオンだ。」
と言った。
リュカは……ヴィンスロットの隣に立つ少年の姿に、目が離せなくなっていた。濡れたように艶やかな黒髪と、白く滑らかそうな肌。小さな顔のの中で、星を散りばめた様に輝く大きな濃紺の瞳が印象的で、それらが絶妙なバランスで完璧な“美”を作り出している。華奢で少年らしい小さな体は少女のようでもあり、庇護欲を掻き立てられるのも頷けた。そして何よりこのオーラは…!黄金に輝き力強いヴィンスロットのオーラとは対照的で、清廉な白銀のオーラは癒しに満ちどこまでも優しい。
(これが……これがオルディリアの“太陽と月”…!)
予想の上をいくゼフィールの姿と纏うオーラに驚きと感動で固まっているリュカに、紹介を受けたゼフィールは少しはにかみながら軽く会釈をし
「あの……お初にお目にかかります、リュカ王太子殿下。ゼフィール・エルド・オルディリアです。」
と、昨日リュカの来訪の知らせを受け、ゼフィール付きの女官となったリュドミラに教えてもらった挨拶をした。その仕草も愛らしく、リュカは思わず
「こちらこそ、お初にお目にかかります。リュカ・ドリアルデ・ダリオンです、ゼフィール殿下。急な来訪にもかかわらず、このように丁寧にお迎えくださり、心から感謝します。」
と挨拶を返しながら、ゼフィールの小さな手をガシッ!と握った。びっくりして体を硬くするゼフィールと同時に
「リュカ!その手を放せ!」
という怒声を浴びせると、ヴィンスロットがリュカからゼフィールを引き離した。
「まったくお前は…!驚かせるなと言っただろう!」
弟を自分の腕の中に収め、ガルル…という獣の威嚇が聞こえてきそうな勢いのヴィンスロットに、リュカは少しも怯むことなく、逆に笑顔を浮かべながら
「いや、すまんヴィンス。お前から聞いてずっと会いたかった弟君が、想像以上に愛らしいのでつい…。ゼフィール殿も驚かせてしまったようで申し訳ない。」
「い、いえ、そんな。あの、僕、他の王族の方々とお会いしたことがなくて…それで緊張していて!ですから、王太子殿下が謝るようなことなど…!」
ヴィンスロットの腕の中からあわあわと、顔を紅潮させ一生懸命に言い募る姿があまりにも愛らしすぎて、もうヴィンスロットごとでいいから抱きしめたい!とリュカは思ってしまった。が、ゼフィールの頭上でこちらを睨むヴィンスロットと、同じ室内にいたジュリアスと女官長のリュドミラの雰囲気まで悪い気がして、さすがに断念する。
「ゼフィール殿、ヴィンスの弟は俺の弟も同然です。ですからあなたにも、兄の友である俺をもう一人の兄と思っていただけたら、本当にうれしい。だからどうか、俺のことも王太子殿下ではなく、「リュカ兄様」と呼んでください♥、ぐぉっ!」
そう言い終えるか終えないかで、リュカはヴィンスロットによって襟首を締め上げられていた。
「本当にお前という奴は…!」
「な、なんだよ~!一人っ子のささやかな夢じゃないか!」
もう成人をしたはずの、しかもお互い次期国王という立場の大の男2人が、まるで子供のように言い争う姿を見て、ゼフィールは驚きながらもつい吹き出してしまった。
(…なんだか、尚人とひろ君を見てるみたいだ。)
異界で仲の良かった尚人には、広人という年の離れた兄がいた。月夜と呼ばれていたゼフィールも広人に可愛がってもらってはいたが、やはり尚人とはどこか違いがあり、それをいつも羨ましく感じていた。目の前でじゃれ合う2人がそんな尚人兄弟に重なって、なんだか微笑ましくさえ思えてしまう。それは、同じ部屋にいるジュリアスやリュドミラも同じだったようで、2人とも皇子たちの様子をやれやれ…というような生暖かい目で見守っていた。
帰国の時間もあり、リュカが実際に月の神殿に滞在したのは、わずかな時間だった。だが、『月の御子』ゼフィールに会えたことは、思った以上の収穫だったとリュカは実感していた。確かに、「オルディリアの太陽と月」ならば、千年にわたる『闇魔王』との関係を終わらせることができるかもしれない。それほど、ヴィンスロットとゼフィールが並び立ち放つオーラは、衝撃的なものだった。
だが、そんな思いを持ったことを人前ではもちろんおくびにも出さず、ジュオナの変異種のサンプルを手に原因究明の協力を約束し、リュカはオルディリアを後にしようとしていた。
「では、お気をつけてお戻りください。リュカ王太子殿下。」
「はい。皇帝陛下にもよろしくお伝えください、ヴィンスロット皇太子殿下。」
そんな形ばかりの挨拶を交わし、リュカ達ダリオン一行は帰国の途に就いた。
リュカが帰った後、リュードルフからヴィンスロットは1枚のメモが手渡された。
「ファーガス殿から預かりました。リュカ様からのご伝言です。」
ヴィンスロットが開いてみると、そこには次のようなことが書かれていた。
『変異種も実験の一つかもしれない。恐らくこれを調べることで、奴も自分の正体が遅かれ早かれ気付かれる、と考えるはずだ。それで奴が行動を起こせばこちらにも好都合だが、その反面危険が伴わないとは言えない。十分気を付けてくれ。また何かあれば、逐一報告する。』
魔導士たちに見とがめられないよう、ざっと書いたのだろう。いつものリュカの字よりは、若干乱れている。
(…ついに、始まるのだ。)
月の神殿の神官長に代々受け継がれてきた“伝承”は果たして真実か否か、それを実証するための戦いが、まさに始動しはじめたのだとヴィンスロットは確信にも似た予感を覚えた。
~憂愁~
リュカ達の訪問から数週間が経った。この間、小規模な瘴気被害はあったものの、危惧されたような大きな変化や異変は、オルディリア側にもダリオン側にも報告されていない。そのため表面的には、平穏な時が流れていた。
その中で、異世界から戻って以降月の神殿で暮らすゼフィールも、だいぶこちらの世界の生活に慣れてきた。“月の力”をコントロールする訓練も順調に進んでいて、怪我人や病人の治療や簡単な結界は自分だけでできるまでになっている。それもあって、帰還後すぐは月の神殿内でも厳しく行動を制限されていたが、今では神殿の結界内ならかなり自由に行動できるようになっていた。
そんなある日、神殿が抱える広大な庭を情報集積室に所属する女性神官アルミラが、少し小走りで進んでいた。
「ゼフィール様!どちらにおられますか、御子様!」
月の神殿の庭には、整備され散策に適した気持ちの良い木立や庭園の他に、薬草園や月の騎士団の演習場などがある。最近のゼフィールはこの庭がとても気に入っていて、時間があればここで過ごすことが多くなっていた。
「アルミラさん?どうしたの?」
ゼフィールの応えの声にアルミラは歩みを止めたが、その姿を見つけることができなかった。
「え…、ど、どちらに…?」
「こっち。上だよ。」
その声に慌てて上に視線を向けると、そこには大きな木の上からこちらを見下ろしているゼフィールの姿があった。
「ゼ、ゼフィール様!なんで、なんでそんなところに⁉危のうございます!」
予想外のところに探していた姿を見つけたアルミラは、大慌てで言い募った。華奢で美しく物静かなゼフィールは、女性のアルミラから見ても護られるべき清楚で可憐なお姫様のような少年だった。それが……そんなお姫様が、なんで木の上なんかに⁉と、すっかり混乱してしまったのだ。
そんなアルミラを見たゼフィールは
「巣から小鳥の雛が落ちちゃって、戻してたんだ。すぐに降りるから、待ってて。」
そう言うと、とても軽やかに木から地上に降り立った。アルミラはその様子に心臓が凍りそうだったが、こう見えてゼフィールは自然の中で育ってきた、いわば野生児だ。小さい頃から遊び場と言えば森の中だったので、木登りなどはお手の物だった。
「も、もう!お怪我をされたらどうするんです!こんなこと女官長様に知れたら、大変ですよ!」
「そんな、大丈夫だよ。で、僕を探してたみたいだけど、何かあったの?」
アルミラの勢いに苦笑しながら、ゼフィールは改めて自分を探していた理由を訊ねた。その言葉に、はっと自分の本来の目的を思い出したアルミラが
「…王宮からロイド様とフォリア様がお見えになっております。神官長のお部屋でお待ちになっていますので、お呼びしてくるようにと神官長様から言付かりました。」
とゼフィールに告げた。
ロイドとフォリアは男女の双子で、この年18歳になったライオッドの実子だ。つまり、ヴィンスロットとゼフィールにとっていとこにあたる人物で、現在は太陽の騎士団に所属し日々の任務にあたっている。生まれてすぐ月の神殿で暮らし、ほどなく異界へと隠されたゼフィールとは面識がなく、異界から戻ったつい最近からのお付き合い、と言って過言ではない。だが、さすがに年が近いということもあってか、彼らが打ち解けるのにさほど時間は要さなかった。今ではすっかり仲の良いいとこ同士となり、ゼフィールがヴィンスロット以外で気軽に話すことができる、そんな存在になっていた。
「わかった、ありがとうアルミラさん。すぐに行ってくるね。」
にっこりと微笑んでゼフィールはそう言うと、くるっと踵を返し神殿へ走って行ってしまった。残されたアルミラはその後姿を見送りながら
(なんというか……やはりヴィンスロット様の弟君なのだなぁ……。)
と、ここにはいないやんちゃな皇太子を思い浮かべ、しみじみと血の繋がりについて思いを馳せた。
「お待たせいたしました。ロイド様、フォリア様…わっ!」
少し息を弾ませて神官長室に入ってきたゼフィールは、いきなり誰かに抱きすくめられた。ヴィンスロットよりも小さく、柔らかい感触…。
「こんにちは、ゼフィール!今日もお可愛らしい!」
その正体は、ライオッドの娘でゼフィールのいとこであるフォリアだった。
「ずるいぞフォリア!今日は俺が先だって言ったじゃないか!」
「だって~、ヴィンスロットお兄様がいない時でないと、大っぴらにゼフィールをかまえないんですもの。」
不機嫌に抗議するロイドに反論しながら、フォリアはさらにゼフィールの頭をぎゅっと抱え込んだ。フォリアは白夜姫ほどではないが背が高く、ゼフィールより頭一つ分くらい大きかった。だから抱きしめられると、ちょうど胸に頭をうずめるような形になるので、恥ずかしくて仕方がない。できれば速やかに開放してほしかった。
「…お2人とも、いい加減になすってください。ゼフィール様がお困りでしょう。」
冷ややかな声でゼフィールに助け舟を出してくれたのは、部屋の主であるジュリアス神官長だった。その指摘に双子は少し不満げではあったが、おとなしく神官長の言葉に従いゼフィールを開放した。
思い返せばこの双子、異界から戻ったゼフィールに初めて会わせた時の第一声が「ずるい!」だった。なんでも「13年も自分たちにこんな可愛いいとこがいることを隠していたなんて、許せない!」ということらしい。この反応にジュリアスは、さすがライオッドの子どもでヴィンスロットのいとこだと、しみじみ感じたものだった。
「あの、それでお2人とも、今日はどうされたのですか?」
「ゼフィールに会いたかったから♥というのもあるけど、この前話していた街への視察が実現できそうなんだ。」
「本当ですか⁉ロイド様。」
実は以前から、王宮と月の神殿しか知らないゼフィールに、一度オルディリアの街を見せてあげることはできないかと、父のライオッドやジュリアス神官長に相談していたのだ。だがこれまでは、ゼフィールが『月の御子』として不安定だったため、月の神殿の結界外へ出ることは危険性が高く、双子の提案も実現できずにいた。だがここ最近、ゼフィールの努力もあって大分力のコントロールもできるようになってきたので、ようやく短時間の視察なら問題ないだろう、という許可が下りたのだった。
その報告に顔を輝かせるゼフィールに
「えぇ。本当ですよ、ゼフィール様。ただし、いくつかお約束していただかなければなりませんが。」
とそうジュリアスが、少しいたずらっぽく言った。
「よかったわね、ゼフィール。」
「楽しみだな。」
そう言って笑いかけてくるロイドとフォリアに、ゼフィールも満面の笑みで
「はい!」
と答えた。
それから数日後、オルディリア皇国の王都であるオルディアの中心街に、ゼフィールとロイド、フォリア、そして月の騎士団副団長あるハヤテという、4人の姿があった。お忍びの視察なので皆ラフな普段着姿だが、ゼフィールだけフード付きマントでその姿をすっぽりと隠していた。
なぜ彼だけがそんな姿をしているのかと言うと、以前ジュリアスが言っていた「いくつかの約束事」が関係している。1人では行動しないこと、視察時間は守ること、むやみに人と接しないこと……、そんな約束事の中で一番重要だったのが
『月の御子と知られないこと』
だった。
ゼフィールの容姿を知る者は限られているし、月のオーラも『夜の雫』である程度抑えられている。だからフードをかぶって姿を隠さなくても、短時間であれば『月の御子』と知られずに過ごすことも可能だと思われた。だから最初は、普通に街の少年と同じ姿で出向く予定だったのだ。
だが、ダリオンとの内偵で多忙なため付き添えない(付き添えば逆に目立ってお忍びにならない)ヴィンスロットと、体調のせいで付き添えない(いや、こちらも付き添えばお忍びにならない)アルスロッドが、これに猛反発。心配性と過保護を爆発させた結果、このフード姿に落ち着いたのだ。
(…まぁ確かに、目を引く容姿をしてらっしゃるからな…。)
“ザルア”への警戒心はもちろんだが、ある意味温室育ちで無防備なこの皇子を城の外に出すのは、色々と心配になって当然かもしれない、とハヤテは思った。なにせ
「人がいっぱいいます!ロイド様、フォリア様、ハヤテさん!今日はお祭りなのですか?」
そう興奮気味に訊ねてくるゼフィールの顔は、白い頬が紅潮し夜色の瞳はいつにもましてキラキラしていて、いっそ眩しいほどだ。オルディアは比較的治安の良い街だが、王都だけあって他国からきている人間も多い。トラブルを引き寄せる予感をさせるゼフィールの美貌は、やはり隠しておくにこしたことはないだろう。
「人が多いところは初めてなの?ゼフィール。」
「はい。異界で僕が住んでいたところは田舎で…。そこから出たことなかったですし。」
フォリアの問いに、ゼフィールがそう答えた。
「そうか、でもお祭りでも何でもないぞ。ここはオルディアの中でも商店がたくさん軒を連ねる、一番賑やかな地区だ。だから普段から人通りが多くて、いつもこんな感じなんだ。」
「へぇ……すごいですね。」
ロイドの言葉に関心仕切りのゼフィールに
「ちょっとお店、覗いてみましょう!いらっしゃい、ゼフィール。」
とそう言うと、フォリアはゼフィールの手を掴んで人波の中をずんずん進んでいってしまった。こういう時、やはり女性の方が行動力があるのだろうか。後れを取ってしまったロイドとハヤテも、その姿を見失うまいと足早に2人の後をついていった。
楽しい時間はいつもあっという間だ。これまで見たことのない商品や食べ物、活気あふれるお店の様子や行き交う様々な人々など、ゼフィールにはどれも新鮮で興味深いものばかりで、
「ゼフィール様、ロイド様、フォリア様、そろそろ戻る時間ですよ。」
そうハヤテに声をかけられた時は、正直「短すぎる。」と不満に思ってしまった。それは、可愛いいとことの時間を楽しんでいた双子も同じだったらしく
「なぁ、まだもう少しくらいいいんじゃないか?」
「そうよ。ハヤテ副団長だっているんだし、もうちょっと。」
と、ハヤテに時間延長の交渉を持ちかける。
「そんなこと言って……お父上やヴィンスロット様に叱られても知りませんよ。」
「うっ…、で、でもそんなに遅くならなければ……。」
そんなやり取りを、心の中でロイドたちを応援しながら聞いていたゼフィールの視界に、ふと気になるものが写り込んだ。人混みの中に見つけたそれは……
「!」
その瞬間、ゼフィールは人混みの中に向かって走り出すと、ひとりの女性の手をいきなり掴んだ。驚いて振り返った女性の顔は……忘れるはずがない。走った勢いでフードが外れていたことにも気づかないゼフィールが、その名を叫んだ。
「ラアナ…!」
突然の事に、周囲の人たちも何事かと視線を向ける中、いち早く追いついたハヤテがゼフィールにフードをかぶせ、
「急に女性の手を掴むなど、いけませんよ。あの、連れが失礼いたしました、では…」
そう謝罪の言葉を言うと、ゼフィールを連れてその場から離れようとした。その時
「あの!…姉の、ラアナ姉さんのお知り合いの方ですね。よろしければ皆様方、私の家はすぐそこですので、ぜひお寄りください。お茶を飲みながら、お話をさせていただきたいですわ。」
と、その女性が声をかけてきた。
ハヤテはその誘いに、一瞬戸惑った。本来ならば、すぐさまここを離れてゼフィールを月の神殿へ連れ帰るべきだが、ゼフィールが彼女を呼んだ「ラアナ」という名が、彼の決断を迷わせていたのだ。そして腕の中のゼフィールは、その女性から視線を外さず、自分の服をギュッと握りしめている。ハヤテは軽く一つ息を吐きだすと
「わかりました。ではお言葉に甘えて、少しだけ寄らせていただきます。」
と言って、ゼフィールとまだよく状況が呑み込めていない双子とともに、女性の案内で女性の家へと向かっていった。
中心街から少し離れた場所に、その女性の家はあった。こじんまりしているが、明るく居心地のよさそうな家の中に迎え入れられた4人は、リビングのソファに座ってお茶を淹れに行った女性を待っていた。
「あの……ハヤテ副団長。ラアナって、どなたです?」
こそっと耳打ちしてきたフォリアに、ハヤテも声をひそめてその問いに答えた。
「10年前の月の神殿の異変で、皇妃様と共に命を落とされた女官の名前です。俺も直接お会いしたことはありませんが、ゼフィール様付きの女官だったと聞いています。」
10年前、双子はまだ子供で月の神殿へ入ったこともなかったので、当時の事情には詳しくない。ハヤテにしても、まだ騎士見習いとして修練中で別の場所にいた為、当時の月の神殿内の事情に明るいわけではなかった。だが「ラアナ」という女官の名は、先輩騎士から伝え聞いた異変の戦いの中でも、特に印象に残っていたため覚えていたのだ。
「お待たせいたしました。さ、どうぞお召し上がりください。」
そう言って部屋に入ってきた女性は、ワゴンに乗せてきたお茶を4人に振舞った。フワッと立ち上ったお茶の香りに、ゼフィールの記憶がくすぐられる。ゆっくりと口に含むと、口の中に桃のような優しい甘さが広がり、それと同時に懐かしさがこみあげてきた。
「…このお茶……」
「はい。ラアナ姉さんがよくお小さいあなたに差し上げていた、ロウダの実のお茶です。月の御子様。」
女性の返答に、ハヤテ、ロイド、フォリアが同時に息をのんだ。
「……お気づきでしたか。」
少し探るような声で、ハヤテが切り出した。
「はい。御子様の事は姉からよく聞いておりましたので、お姿を見てすぐに…。申し遅れました、私は月の御子様にお仕えしていた女官ラアナの妹で、ミオナと申します。」
「そうでしたか…。姉上の事は俺も聞いています。瘴気の実に侵されながらも、最後まで身をもって皇妃様方をお守りした、ご立派な方だったと。」
「…あの!」
ハヤテの言葉にかぶせるように、ゼフィールが突然声を投げかけた。
「ごめんなさい!僕、ラアナにもあなたにも謝りたくて…!」
「ゼフィール⁉」
思いがけないゼフィールの唐突な言葉に、双子が驚きの声を上げた。
「僕が…『月の御子』がいなかったら、あの時ラアナは死なずに済んだかもしれない。あなたから、お姉さんを奪うことにならなかったかもしれない。だから…ごめんなさい!…ラアナが死んだのは、僕のせいです!僕が『月の御子』だったから…!」
そう吐露するゼフィールの震える手を落ち着かせるように、ミオナがそっと自分の手を添えてゆっくりと言葉を紡いだ。
「……『ゼフィール様の幸せが、私の喜びなの。』…ラアナ姉さんの言葉です、ゼフィール様。これをお伝えしたくて、あなた様をお引止めいたしました。」
その言葉を受け、驚きで目を見開いているゼフィールに、ミオナは静かに言葉を続けた。
「正直、姉を亡くした当初は、『月の御子』様の事を恨めしく思ったこともありました。ラアナ姉さんは、私のたった一人の肉親でしたから。あなた様が『月の御子』であるのは、けっしてあなた様の非でなどないのに……まだ子供だった私は、姉を失った悲しみを『月の御子』という言葉にぶつけるしかなかったのです。
ですが、皇帝陛下を始め同じ悲しみを持った人たちが、一人になった私を支えてくださったおかげで、そんな理不尽な恨みに捉われ続けることなく、こうして生きてくることができました。そして姉の年齢を超え、大切な人と出会い子を持つ母となった今、姉が残した言葉の本当の意味が身に染みて理解できるようになったのです。だからこそ、もし『月の御子』様にお会いできたなら、是非姉の言葉を伝えたいと、ずっと思っておりました。あなた様が今日私を見つけてくださったのは……きっと姉さんの導きだったかもしれませんね。」
「ミオナさん……。」
「ラアナ姉さんは、あなた様を本当に慈しんでいました。『月の御子』であるがゆえに、苦しいことが多いであろう未来を案じ、それでも幸せになってほしいと願っていました。だからどうぞ、忘れないでください。姉さんが命懸けでお守りしたのは、『月の御子』ではなく、ゼフィール様なのです。きっと皇妃様…お母上様も同じでしょう。」
ミオナの言葉の端々から、懐かしいラアナと母である皇妃コーデリアの気配が感じられ、ゼフィールの体は内側から温かいものに満たされていく。その頬には、いつしか涙がつたっていた。
「だからもう、そんなふうに謝らないでください。大切な者を亡くした悲しみは完全に癒えることはありませんが、それを苦しみにしてはいけません。それはきっと、姉も皇妃様も一番望んでいないことです。姉を忘れないでいてくれたあなた様なら、困難に負けず必ず幸せになってくださると、私も信じております。」
そう言って微笑むミオナは、母親の慈愛に満ちていた。うっかりこみあげそうになったハヤテがふと隣を見ると、完全に涙しているフォリアとかろうじて堪えているロイドの姿があった。その姿に、今回の視察はゼフィールだけでなく、この2人にも実りあるものになっただろうな、とハヤテはしみじみと思った。
「…そうか、そんなことがあったのか。」
その夜ゼフィールの部屋のテラスで、ゼフィールは兄のヴィンスロットに、今日街で体験したことを心地よい夜風に吹かれながら、話して聞かせていた。
ラアナの妹ミオナの家を後にした一行が月の神殿に戻ると、そこには不機嫌そうな顔をしたヴィンスロットが待ち構えていた。実は視察に出たゼフィールが心配で、王宮での仕事を早々に切り上げ月の神殿に来ていたのだが、予定の時間になっても帰ってこないことにずっと焦れていたのだ。帰ったら怒らねばと思っていたのだが、ゼフィールやロイド・フォリアの顔を見たとたん、なぜかその気はなくなってしまった。その時は自分でも不思議だったが、こうしてゼフィールに何があったのかを聞いてみると、なるほどなと納得できた。きっと3人とも、楽しかった以上の大切なことを得られたのだろう。
「ミオナさんの話を聞いていて、前にヴィー兄様が言ってくれたことを思い出しました。『御子』である僕たちだからできることを成し遂げることこそ、守ってくれた人たちに報いる方法だって。」
「あぁ、そう言った。」
「僕ね兄様、その方法に『僕と兄様が幸せになる』というのも、加えなきゃいけないと思ったんです。」
ゼフィールは星空を映したきらきらしい瞳を真直ぐにヴィンスロットに向け、言葉を続けた。
「『御子』じゃなくて、僕らの幸せが自分の喜びだとラアナや母様は伝えてくれました。僕も、ヴィー兄様やみんなが幸せだと嬉しいから、その気持ちがとてもよく分かります。だから僕、これから何が起きようと負けないって決めました。逝ってしまった人たちも生きている人たちもみんなが幸せになるように、ヴィー兄様と一緒に絶対幸せになるんです。」
拙いながらも一生懸命、真摯な想いをぶつけてきたゼフィールを、ヴィンスロットは思わず抱きしめていた。
「そうだな、ゼフィールその通りだ。俺たちは決して負けたりしない。母上たちが託してくれた未来を実現し、みんなで幸せになるために。」
「はい!ヴィー兄様。」
その夜2人に降り注いだ月光は、まるで母のように優しかった。
長かった1日も終わりに近づき、就寝のため自室に戻ってきたゼフィールは、そこに人型となった白夜姫の姿を見つけた。
「白夜、どうしたの?」
思わずそう訊ねると、
「久しぶりに月夜…、ゼフィールと2人で過ごそうと思って。」
そう言って、白夜姫は虹彩のない銀色の瞳を和ませ、ゼフィールに微笑んだ。異界での10年間、ゼフィールは白夜姫と2人だけで暮らしていたのだが、オルディリアに戻ってからは、こんなふうに2人だけになることはなかった。だから、白夜姫と久しぶりに2人だけでいるというこの空間は、ゼフィールにほっとしたような安心感と、ちょっとした照れくささを同時にもたらした。
「……今日は、街で良いことを学びましたね。」
「知ってるの?白夜。」
驚いて問い返すゼフィールに、白夜姫は口元に笑みを浮かべながら頷いた。そして、寝台に腰を掛けるようゼフィールを促し、自身もその隣に座った。
「…正直ね、白夜。僕、最初『月の御子』ってどういうことかわからなかった。でも、オルディリアに来ていろんな話を聞いて……それで『月の御子』だっていうことがすごく…悲しくて嫌で怖くなったんだ。だって、僕が『月の御子』だったから、母様やラアナや多くの人が亡くなってしまった…、ヴィー兄様や父様、みんなを苦しめた…。それに…『月の御子』は『闇魔王』にとても近いんでしょう?もしかしたら僕がその『闇魔王』になって、皆を傷つけてしまうかもしれなんでしょう?」
ゼフィールのそんな言葉を、白夜姫はただ黙って聞いていた。
「でもね、今日ラアナのお姉さん…ミオナさんの話を聞いて、『月の御子』でも僕は僕なんだって、それでいいんだって思えるようになったんだ。それに……僕には兄様が…『太陽の御子』がいる。ヴィー兄様といるとね、何も怖いものなんかないって思えるんだ。兄様と一緒なら、きっと今いる『闇魔王』にも絶対に負けない。必ず、もう誰にも理不尽な苦しみや悲しみが訪れない、そんな世界にする。そのために、僕と兄様は『御子』として生まれたんだって、本当に理解できたんだよ。」
そう瞳を輝かせ語る自身の養い子を、白夜姫は愛おしそうに優しくその頭を撫でた。
「我が御子、その通りです。あなたとヴィンスロットなら、きっと成し遂げられるでしょう。それは私も煌牙輝も、固く信じています。」
真直ぐに自分を見つめてくるゼフィール。その曇りなく輝く瞳に、あの日見失ってしまったもう一人を重ねずにはいられない。
「だからこそゼフィール、あなたには千年前に生まれたもう1人の『月の御子』が、なぜ『闇魔王』と呼ばれるものになったのかを……知ってもらいたいのです。」
そう言うと白夜姫は、静かに『闇魔王』が生まれた真実を語り始めた。
「今より千年ほど前、当時のオルディリア皇妃は双子を身ごもっていました。国はその喜びに満ちていましたし、皇帝も我が子に会えることを待ち望んでいました。しかし、喜びとなるはずだった誕生の日は、悲劇の始まりの日となってしまったのです。皇妃が第一子を産み落としたその時、室内の闇が一気に濃くなり、瘴気が満ちはじめました。…ゼフィールも聞いていると思いますが、あなたが生まれた時も同じようになりました。つまり、皇妃が身ごもっていた双子は『太陽の御子』と『月の御子』であり、産み落とした第一子は『月の御子』だったのです。しかし、当時は誰も…皇帝ですら、子ども達が『御子』であることがわかりませんでした。もし、皇妃が身ごもっていたのが一人であれば、あなたの時のように事前に分かったと思います。しかし双子であったがゆえに太陽と月のオーラが混ざり合い、外からはそれと知ることができなかったのです。出産に立ち会っていた神官たちは、この闇の急激な変化にパニックを引き起こし、瘴気を引き寄せている中心…生まれたばかりの赤子に向けて攻撃を放ちました。気付いた皇妃は赤ん坊を守ろうと、とっさに赤子をその胸に抱き自らの体を盾としたのです。出産に力を尽くしていた皇妃には、結界を張る力はありませんでしたから。そしてその衝撃で皇妃は深手を負い……まだ胎内にいた双子の片割れである『太陽の御子』は……死産となってしまいました。騒ぎに駆け付けた皇帝と神官長によって、『月の御子』は強力な結界で覆われました。そしてそのまま……皇子として名を授けられることもなく、今はもうありませんが、王宮の奥にあった封印の塔に幽閉されたのです。」
「そんな……生まれたばかりの赤ん坊を、幽閉なんて……。」
顔を曇らせ、そう呟いたゼフィールに、白夜姫も小さく頷いた。
「本当に……。もしも…もしも『月の御子』ではなく『太陽の御子』が先に生まれていれば、また事態は違っていたでしょう。あなたが生まれた時に満ちた瘴気を、ヴィンスロットが浄化させてしまったように。しかし、『太陽の御子』が失われてしまったあの時は、強大な月の力が引き寄せてしまう闇を、完全に抑えることが出来る者などいませんでした。私達幻獣も、『太陽の御子』を失った衝撃でバランスを崩し、実体化することが出来ず『月の御子』を護ることが出来なかった。特に太陽の幻獣・煌牙輝の弱体化は激しいもので、どうにか力を取り戻すのに数年かかってしまったほどでした。そして……さらなる悲劇の扉を開く、あの日が来てしまったのです。」
ゼフィールは、不安と緊張でぎゅっと両手を握り締めた。
「あの日……出産のときに受けた傷と子供を亡くした悲しみに臥せっていた皇妃が、とうとう亡くなられたのです。皇帝の嘆きは、それは大きなものでした。そして何を思ったのか、これまで足を向けることがほぼなかった封印の塔、幽閉した『月の御子』のもとへ、その激情のまま赴いたのです。そうして、数年ぶりに会う我が子に≪お前さえ生まれなければ!≫とそう叫んで、幼い子どもの首に手をかけたのです。」
「酷い…!自分の子供なのに…どうして?」
ゼフィールの父であるアルスロッドは、いつも優しく『月の御子』であるゼフィールを包み込んでくれた。父とは…親とは皆そうだと思っていたゼフィールには、とても信じられるものではなかった。
「今となっては、その時の皇帝の心を全て知ることは叶いません。『月の御子』の力に引き寄せられた瘴気の闇で満ちていた塔に入ったことで、もしかしたら負の感情が増幅されてしまったのかもしれません。ただ、皇帝が我が子を本気で殺そうとしたのは事実です。そしてその事実こそが……最悪の結果を招いてしまったのです。
あの子は…この世に誕生した時から、憎しみ・怒り・悲しみ・恐れ、そのような暗い感情しか与えられてきませんでした。そして、最後に実の父からそれをぶつけられたことで、ついに『月の御子』の力は闇にすべて染まり、その強大な力が解放されたのです。幽閉されていた塔は一瞬で消し飛び、皇帝も…命を落としました。……こうして、世界をただ闇で、負の感情で満たすことだけに執着する『闇魔王』が誕生し、6大国との熾烈な戦いは『闇魔王』がザルア山に封印されるまで続くことになるのです。
……あの時私は、私の『月の御子』を見失ってしまった。私も煌牙輝も、自身の御子たちを護ることも救うこともできなかった。それゆえに起きてしまった歪みだと…私たちは今もそう思っています。ゼフィール、我が月の御子よ。どうか『太陽の御子』と共に、この歪みを正してほしい。千年の時を経て生まれた私たちの『御子』……あなたたちならきっとこの闇を打ち払い、あるべきものをあるべき場所へ導くことが出来るでしょう。」
今ゼフィールの目の前にいるのは、幻獣ではなく異界で月夜、ゼフィールを慈しみ育ててくれた白夜だった。幼い自分をただ1人、異界で守り通してくれた優しくて強い大好きな白夜。だけど時折、その凛とした眼差しの中に、深い悲しみの色を宿らせることがあった。そんな時、幼心になんとか白夜を笑顔にしたいと一生懸命だった自分を、ゼフィールは思い返していた。
……そして今、目の前の白夜姫はその時と同じ眼をしている。
「白夜…。」
≪泣かないで≫
という言葉は飲み込んで、ゼフィールは白夜姫をそっと抱きしめた。白夜姫も、まるで小さな子どもを愛おしむように、優しくその体を抱き返した。
一方、今夜はそのまま月の神殿で休むこととなったヴィンスロットは、普段から神殿に泊まる時に使用している部屋へ、夕食後に1人戻ってきていた。だが、すぐに寝台で休む気にはなれず、窓の外に広がる夜の風景を、ただぼんやりと眺めていた。すると、誰もいなかったはずのその部屋に
「まだ眠らないのか?我が御子。」
という声が響いた。ヴィンスロットが声のした方に視線を向けると、そこには声の主である太陽の幻獣・煌牙輝が、人の姿で立っていた。
「どうした?…まさか、王宮でなにかあったのか?煌牙輝。」
幻獣はいつも神出鬼没だが、用がなければこのように姿を現すことはない。だから思わず、煌牙輝にそう聞いたのだが
「いや、違う。王宮は何もない。…お前に、預けたいものがあってきたのだ。」
虹彩のない金色の瞳が、まるで射貫くような光を放ちながら、真直ぐにヴィンスロットを見ている。その威圧感は、さすが幻獣と言うべきものだろう。そして立ち尽くしているヴィンスロットに近づき、スッと右腕を突き出し握られた拳をゆっくりと開いた。
(…?…)
煌牙輝の手のひらには、小さな光の玉があった。その光からは、煌牙輝やヴィンスロットと同じ、太陽の気が溢れている。煌牙輝はその光の玉をとても優しい手つきで撫でると、おもむろにヴィンスロットの胸に押し当てた。すると光の玉は、音もたてずにヴィンスロットの体の中に、すぅっと消えていった。
「な……!これは、どういうことだ?煌牙輝!」
「騒ぐな。言ったろう、預けたいものがあると。それは太陽の気でできているから、お前に何ら影響をもたらすものではない。……これから『闇魔王』に対峙する時に、必要となるものだ。だから、お前の中に預かっていてくれ。」
それだけ告げると、煌牙輝の姿はヴィンスロットの前から消えていた。
「いったい何なんだ、まったく……。」
そう呟いて、改めて光の玉が入っていった胸のあたりを見てみるが、特段変わった感じはない。だがほのかに温かい感覚とともに、何故か胸に覚えのある感情が蘇っていたのに気づいた。それは……
(…ゼフィールと離れていた時の感覚だ…。)
狂おしいほど半身を求めていた、あの切ない感情。
煌牙輝が自分に預けると言ったあの光は……いったい何なのだろう?煌牙輝は、『闇魔王』に対峙する時に必要となる、と言っていた。ならば『闇魔王』との戦いの果てに、その答えはあるのだろうか。
そっと自分の胸に手をやったヴィンスロットは、何故だか無性にゼフィールに会いたくなってしまった。
~暗躍~
ダリオン領内のザルア樹海を、一人の男が歩いていた。男の名はダルクといい、代々樹海で猟を行っている狩人だ。ダルクはその日の猟を終え、自分の家へ戻る途中だった。
(少し遅くなってしまった……急いだほうがいいな。)
日が傾き、ザルア樹海は急速に闇を深めていく。樹海を熟知しているからこそ、闇に沈む夜に樹海を進むのが、危険この上ないことはわかっている。よほどの事がない限り、出歩くべきではないのだ。
家を目指し足早に樹海を進んでいたダルクだったが、ふと何か違和感を感じ足を止めた。
(……?……)
見慣れた樹海の風景であるはずなのに、何かが変だった。樹海は元々瘴気が溜まりやすく、良い感じがする場所ではないが、明らかにいつもと違う嫌な気が、ダルクの肌をチリチリと刺していた。ダルクは体を緊張させ、違和感の気配を掴もうと意識を集中する。するとその耳に、ズルッ……ズルッ……、という何かを引きずるような音が響いてきた。
ダルクは獲物を追うように、自らの気配を消しながら音のする方へ向かった。木々の陰から注意深く音の正体を探ったダルクの目に飛び込んできたのは……何か重そうな袋を引きずる1人の人影だった。人影はふいに立ち止まると、おもむろに袋の中身を地面に捨て始めた。袋からゴロッと出てきたそれは……
(!)
それは、魔獣の死骸だった。
ブワッ…と死骸に反応し、周囲の瘴気の色が一気に濃くなったが、袋を引きずってきた人物は意に介する様子もなく、身動ぎもしなかった。おそらく、この現象に慣れているのだろう。ここ最近、樹海で見つけた魔獣の死骸を打ち捨てていたのは、きっとこの人物で間違いない。そう確信したダルクは、背中にしょった弓を手に取り、矢をつがえその人物に狙いを定めた。
(あれは……ここで逃してはならぬ禍者だ。)
長年樹海で魔獣と対峙し、鍛えられ、研ぎ澄まされた猟師としての勘が、頭の中で警鐘を鳴らし続けている。呼吸で逸る気持ちを落ち着かせ、弓を引き絞り一気に放った。しかし―
(⁉)
正確な軌道を描き放たれた矢は、確実に標的を射止めたかと思われたが、僅かに腕を掠めるだけに終わった。矢がその人物を捕らえようとした瞬間、その者を庇うように瘴気が動き、矢の軌道を変えたのだ。矢が外れたことを見て取ったダルクは、すぐさま剣を抜き放ち次の攻撃に打って出た。攻撃を少しでも躊躇したら、先にこちらが瘴気に捉われてしまうかもしれない、そう考えたからだ。
だが、その姿はダルクの剣が届く前に、まるで瘴気の闇に溶け込むようにダルクの目の前で消えてしまった。
「チッ…!」
急いで周囲の気配を探るが、もはやどこにもその人物を示すものは感じられなかった。逃してしまった悔しさはあるが、いつまでもここにはいられない。幸い、自分に危害を加えようとする気配も、今のところないようだ。ならば速やかにこの場を離れ、あの禍者を捕らえなければ…!
そう考えたダルクは、その人物の腕をかすめた矢を拾い上げると、すでに夜の時間を迎えようとしている樹海から離れるべく走り出した。
「…これが、魔獣の遺骸を捨てていた犯人を射た矢か…。」
そう呟いたのは、ダリオン王国の王太子リュカだ。
これより少し前、犯人を傷つけた矢を携えてダルクが向かったのは、旧知の仲であるダリオンの魔道騎士、ゼルノアの屋敷だった。ダルクから樹海で起こった事態を伝えられたゼルノアは、事の重要性と緊急性を理解し、ダルクを連れ王城へとすぐさま登城した。王族を訪ねるには遅い時刻だったが、そこに配慮している余裕はない。ゼルノアは王太子の護衛騎士であるという立場をフルに利用して、まずリュカに会いそこからすぐに国王に会えるよう手配してもらった。そして今、王の居室であるこの部屋には、ダリオンの国王ゴーシュと王太子リュカ、ゼルノア、ダルク、そして側近のファーガスが顔を揃えている。
「左様です王太子殿下、国王陛下。ダルクの申す通り、樹海の瘴気がその者を庇ったとなれば、そ奴はもはや『闇魔王』に取り込まれていると考えられます。もはや、一刻の猶予も惜しい事態となっているかと。」
ゼルノアの進言に、ゴーシュ国王の表情が厳しいものとなる。国王だけではない。リュカもファーガスも、自分たちが予想したよりも早く、事態が悪い方へ進んでいることに焦りを見せていた。
「委細、あい分かった。ダルク、よくやってくれた、礼を申すぞ。ファーガスは、すぐにその矢を持って魔導士長を訪ね、矢じりに着いた血からその痴れ者を特定させるのだ。リュカとゼルノアは、特定後速やかに捕縛に向かえるよう、準備を整えよ。」
「はっ!」
王の下知に、3人はすぐさま行動に移った。知らせを持ってきたダルクは、樹海に打ち捨てられた魔獣の死骸の後始末と樹海の変化を監視する旨を伝え、城を後にしていった。
数刻後、リュカとゼルノアそして数名の騎士たちは、街外れに建つある古びた屋敷の前に立っていた。その屋敷には、ダリオンで代々魔導士を務めてきた一族が所有してきたが、今はただ一人の後継者となった男だけが住んでいる。その男こそ、リュカ達が以前から今回の犯人として目星をつけていた者だった。
「リュカ様」
そこへ、魔導士長レンドスからの報告を携えた一人の騎士が現れた。
「お待たせいたしました。先程の血液、間違いなくあの男…元魔導士の“ゾルアド”のものと特定されました。」
リュカ達が追っていたこの屋敷の主であるゾルアドは、以前は魔導士課に所属した国の魔導士だった。魔導士としての能力はごく一般的で、目立たぬ存在だったというのが、当時の彼を知る者達の印象だ。しかしそれまで問題らしい問題もなかったゾルアドの素行が、急に変化しだしたのが数年前になる。『闇魔王』に並々ならぬ関心を寄せ『闇の力』の研究に没頭し始めると、徐々に務めをおろそかにするようになり、ついには魔導士としての資格をはく奪されるまでに至ったのだ。それ以降現在までの2年余り、ゾルアドはほぼ引きこもり生活を続けているが、「闇の魔道の研究を続けている」「闇の心棒者の中心人物」といった噂は絶えず、だからこそ今回の件も容疑者として真っ先に名前が挙げられていた。だがそれはあくまでも噂だけで、その確たる証拠は得られていなかったため、これまで本格的に手を出せずにいたのだ。しかし今回、その証拠がダルクのおかげでやっと手に入った。
待ちに待った報告に、リュカは騎士たちに命を下した。
「よし!全員屋敷に突入し、ゾルアドを捕縛せよ!ただし相手は魔導士だ。術を使って反撃してくることもあるだろうから、各自油断せず心して行動してくれ。わかったな!」
「はい!」
「では、行くぞ!」
それを合図に、リュカとゼルノアを先頭に騎士たちは屋敷になだれ込んでいった。正面玄関をけ破り中に入ると、そこは首筋がチリチリするような瘴気の気配に満ちていた。だが、薄暗い室内に人の気配というものは、微塵も感じられない。
「数人に分かれくまなく探せ!奴を見つけたら、合図を送るんだ!」
リュカの号令に、騎士たちはゾルアドの姿を探すため屋敷内に散っていく。
「ゼルノアは俺と来てくれ。この奥からくる瘴気が……キツイ。」
「わかりました。」
リュカが指示した方へ2人が進んでいくと、そこは応接室のようだった。リュカが感じている瘴気は、先程より間違いなく濃くなっているが、応接室の中に変わった感じはなかったし、ゾルアドの姿もない。空間的には行き止まりのように見えたが
「殿下。床に魔道の痕跡を感じます。…少し離れていてください。」
ゼルノアはそう言うと、応接室の床の一点に向かって魔力を込めた剣の一線を放った。爆音とともに床が崩れると、そこから濃い瘴気が一気に上がってきた。顔をしかめながらリュカがその穴をのぞき込むと、そこには地下へと続く階段が姿を現していた。
「隠し部屋か……!行くぞ、ゼルノア。」
2人が慎重にその階段を下っていくと……そこには、異様な空間が広がっていた。
地下室の中央に置かれた大きなテーブルは、魔獣の解体に使われたのだろうか。血液や体液によるものだろう、どす黒く汚されていた。そして棚には、怪しげな薬品や瓶に詰められた魔獣の内臓や肉片が、数多く並んでいる。漂う濃い瘴気を含め、この空間にあるどれもが、吐き気を催すものばかりだった。
だが、肝心のゾルアドの姿は、やはりこの地下室にもなかった。
「リュカ殿下!屋敷のどこにも、ゾルアドの姿はありません!」
屋敷を探索していた騎士たちが、上からそう声をかけてきた。
(遅かったか!)
握りしめた拳を震わせながら、リュカは悔しさに奥歯をギリリと噛み締めた。
「…植物もあります。オルディリアが言っていた変異種も、ゾルアドの仕業で間違いないようです。殿下、これ以上遅れを取ることはなりません。急ぎ戻りましょう。」
ゼルノアの言葉にリュカも頷き、地下室から出ると騎士たちに指示を出した。
「元魔導士ゾルアドは闇に落ちた。奴を探し出すとともに、国の警戒も強化しなければならない。一刻を争うゆえ、皆にはこのまま魔導士長のいる魔導士課へ向かってもらいたい。そこで、奴に近いと思われる魔導士たちの拘束と、この屋敷を浄化し焼き払うようにとの通達を頼む。俺とゼルノアは王城へ向かい、王へこのことを報告し対策を講じる。」
「はっ!」
こうして、リュカとゼルノアは城へ、騎士たちは魔導士課へ向け、それぞれの馬を走らせていった。
城に到着したリュカ達は、ゴーシュ王と魔導士課から戻っていたファーガスが待っていた部屋で、ここまでの経緯をつぶさに報告した。それを聞いたゴーシュ王は、怒りに体を震わせながら
「そのような者が我が国から出てしまうとは…!」
と、地の底から湧き上がったような低い呻き声を漏らした。部屋中が王のすさまじい怒気に、ビリビリと共鳴している。普通の人ならば、その威圧に震えが止まらなかっただろう。その時、王の背後の空間がぐにゃりと歪んだように見えた。それを見たリュカは、一瞬父王の怒気が形となったのかと思ったが、そうではなかった。
≪王よ、気持ちはわかるがそう熱くなるな。≫
低い声とともに歪んだ空間から現れたのは、赤銅色をした巨大な熊の姿だった。勿論、本物の熊ではない。光彩のない琥珀色の瞳と額に輝くひし形の水晶を宿したダリオンの守護幻獣、その名を“剛羅”という。
「何を言う。お前もだいぶ熱くなっているではないか。」
ゴーシュ王の言葉に、リュカは大きく頷いた。一見静かに見える剛羅の瞳には、確かにはっきりと怒りの色が浮かんでいる。人のような感情をあまり示さないこの幻獣には、とても珍しいことだった。
≪気持ちはわかると言ったろう。…アレはもはや人ではなくなり、世界の歪みの一部となった。王よ、だがこれは好機かもしれぬ。オルディリアに“太陽と月”が現れ、ダリオンに『闇魔王』に繋がる“影”が実態となって現れた。千年の歪みに決着をつける、これは大きな布石に違いない。≫
ゴルル……という唸り声とともに、剛羅はその場にいる者達にそう告げた。
「確かにな。だが、それを真の好機とするには、時を無駄にせず行動せねばならない。剛羅よ、力を貸してくれるか。」
≪むろんだ。≫
幻獣の応えを受け、ゴーシュ王はリュカ達に向かい、改めて命を下した。
「ファーガス、国内外に対しゾルアド捕縛の通達を急げ。それと同時に、対ザルアとして騎士団及び魔導士課の再編成を行うゆえ、第1第2騎士団の団長と魔導士長、そして重臣たちをを急ぎ城へ招集しろ。リュカはゼルノアの魔道騎士団とともに、準備が整い次第オルディリアに向かうのだ。事の詳細は剛羅からオルディリアの幻獣を通じ、皇帝に申し伝えておく。直接オルディリアの軍と合流し、ザルアからの襲撃に対する2国間の協力体制を整えるのだ。」
6か国それぞれの幻獣は、国に宿り国を守護するモノであるため、国を離れて何かをする、ということはない。だが、幻獣だけが行き交うことができる『幻獣の道』は共通のため、幻獣たち同士で情報をやり取りすることは可能だ。この方法ならば、『闇魔王』の妨害を受けることなく、確実にしかも時を置かずに情報を他国に伝えることができるが、それを幻獣が“良し”としなければ実行することはできない。つまり、国の守護に必要なこと、と幻獣に認識されなければ、いくら国の王の依頼であろうと使うことのできない方法なのだ。
だが、今回はダリオンの幻獣・剛羅の了承が得られ、内容からしてオルディリアの幻獣も拒否することはないだろう。情報の共有はすぐさま行われ、オルディリアも直ちに行動に移るはずだ。
「躊躇している余裕はない。『闇魔王』復活を望む協力者が現れた以上、『闇魔王』の力が思うよりも強まっていると考えられる。最悪、封印の効力がもはや保てないくらい弱まっている可能性もあろう。事は世界の存亡にも関わる、皆急ぎ行動を起こすのだ!」
ダリオンにもそして世界にも、分岐点となる長い長い夜が明けようとしていた。
東の空が白み始める中、ゼルノアは配下の魔道騎士団を招集し、すぐにオルディリアへ向かうことを告げた。ダリオンの魔道騎士団は、第1第2どちらの騎士団にも属さない、いわば王家直属の親衛隊だ。少数ではあるが剣の腕はもちろん、魔導の心得もある精鋭によって編成されていて、こうした非常事態での対応力はとても高い。そのため準備はすぐに整い、夜が明けきる前にオルディリアを目指し出発することが出来た。
その途中、樹海の猟師ダルクのもとを訪ねたリュカ達は、この間何かザルア樹海に変化がなかったか確認した。しかし件の死骸を始末している間も、闇の力の増す夜の時間帯だというのに、特に大きく瘴気が変化することはなかった、とダルクは言った。
「だが……それこそが不気味で仕方がない。ゼルノア、王太子殿下、奴はすでに別の行動を始めているのではないだろうか。」
その言葉が、リュカの頭で繰り返し響き、警鐘を鳴らし続けている。オルディリアとの国境まで、どれだけ急いでも2日はかかるだろう。一刻も早くオルディリアとの連携を取らねばならないというのに、なんともどかしいことか……!
ゾルアドの目的は、間違いなく『闇魔王』の復活だろう。となれば、今一番危機に面しているのは、紛れもなく『月の御子』…ゼフィールに他ならない。
<リュカ王太子殿下。>
あの日、あれほど美しい癒しの光を放つ者を、生まれて初めて見た。過酷な運命を背負いながら、それでも清らかで愛らしいあの笑顔を……ダリオンの民であった痴れ者が汚そうとこの瞬間も蠢いている。
(絶対に…させん!)
腹の底から湧き上がるような怒りとともに、馬上のリュカはただひたすらオルディリアへと駆け続けた。
そして同じ頃、オルディリア皇帝アルスロッドも、自室で2頭の幻獣からダリオン国王ゴーシュの通達を受けていた。
「……煌牙輝、白夜姫、すまぬが頼まれてくれぬか。」
低く静かな声で、アルスロッドは幻獣たちに語り掛けた。その声に猛々しい感情はないが、それがかえって得も言われぬ迫力をもたらしている。
「白夜姫、そなたは月の神殿へ行き、ジュリアスに他の者に不審がられぬよう王宮へ来るよう伝えよ。そしてそのまま神殿に残り、あの子の…ゼフィールのそばにいてやってくれ。」
≪わかりました、皇帝陛下。≫
「煌牙輝、そなたはすぐにヴィンスロットとライオッドを叩き起こし、ここへ来るよう伝えよ。そこから『聖樹の間』へ戻り、アルディメル、シェーリア、ルーシェン、レイアードの幻獣たちに、かねてよりの盟約を実行していただく時が来たことを、各国王へ知らせてほしいと伝えてくれ。」
≪承知した、王よ。≫
アルスロッドの言葉に頷いた煌牙輝と白夜姫は、それぞれの役目を果たすためアルスロッドの前からすうっ…と姿を消した。
訪れた沈黙の中、アルスロッドはついに始まった戦いを前に、複雑な想いで拳を握り締めた。『闇魔王』との結着は、『闇魔王』を生んでしまったオルディリア皇族の千年にわたる悲願と責務だ。そして、ゼフィールが誕生しオルディリアに太陽と月の御子が揃ったあの時から、その悲願と責務を果たすのは今代の皇帝である自分だと、アルスロッドは覚悟していた。
なのに今、現実を目の前にして心がどうしても騒いでしまう。それは、オルディリア皇帝としての責任と、子どもを危険な目に遭わせたくないというひとりの父親としての想いの葛藤に他ならなかった。
(夜が明ける。)
この夜明けは、果たしてどんな未来を運んでくるのだろうか。
だが、それがどんなものであろうとも、オルディリアの太陽と月、ヴィンスロットとゼフィールならば、互いの光を見失うことなく進んでいくことができるだろう。黄金の太陽のように輝くヴィンスロットと、銀色の月のように輝くゼフィール。2人の皇子の姿を瞼に浮かべ、アルスロッドは動き出した宿命への覚悟を、今一度心に強く決めたのだった。
~謀略~
幻獣たちの知らせにより皇帝の部屋に集まったヴィンスロットとライオッド、ジュリアスは、ダリオンで起こった一連の事態についてアルスロッドから告げられた。その内容に、一同の顔つきが一様に変わる。
「ダリオンの元魔導士ゾルアドについては、未だダリオンでもその消息を掴んでおらぬ。ザルア樹海に潜んでいるか……もしくはすでに我が国に潜伏していることも考えられよう。」
父王のその言葉に、ヴィンスロットは背筋に冷たいものが走るのを感じた。この国の中に、すでに『闇魔王』の息のかかった魔導士が入り込んでいるかもしれない。それはつまり、10年前の異変を機に強化された護りが、自分たちに気付かれることなく破られていたことを意味している。
(考えにくいが…リュカ達の追跡を逃れ続けた奴だ…。あり得ないことじゃない。)
そのヴィンスロットの思いは、ライオッドもジュリアスも同じだった。特に、オルディリアの結界を監督する月の神殿の長であるジュリアス神官長は、強い不快感をにじませていた。
「ダリオンもすでに動いているが、我が国も直ちに動き出さねばならぬ。そこでジュリアス神官長、そなたは急ぎ他国の結界担当部署の長と連絡を取れ。各国の王たちには幻獣を通じ、これまでの経緯と協力の依頼を伝えている。『闇魔王』との戦いに備え練ってきた結界計画を速やかに実行できるよう、その準備を整えるのだ。ヴィンスロットとライオッドは、至急太陽・月の両騎士団長とともに、ゾルアドの探索と捕縛に向けて騎士たちの編成を行ってくれ。それと、ダリオンのリュカ王子が我が軍との連携を取るため、こちらに向かっている。いち早く連携に着手できるようオルディリアからも、国境に向けて人を派遣したい。こちらの人選も頼めるか。」
「では、リュカ王太子殿下には私がお会いしましょう。」
そう答えたのは、皇弟ライオッドだった。
「闇の者の狙いが『月の御子』であることは明白です。国境近くまで出向くとなれば、数日は王都から離れなければなりません。奴らの手からゼフィールを守るためにも、『太陽の御子』であるヴィンスロットを、ゼフィールのそばから離さずにおいた方が良いでしょう。」
ライオッドの言葉にアルスロッドが頷いたその時だった。
制止するような騎士の声とともに、部屋の扉が皇帝の許可なく開いたのだ。咄嗟に皇帝を守るような形に身をひるがえし、ヴィンスロットたちは侵入者への臨戦態勢になる。一気に緊張感が高まった部屋に現れたのは……2つの人影だった。
リュカ達がダリオンの王城を出てから2日弱、一行はようやくオルディリアとの国境付近までたどり着いていた。と、その前方に複数の馬影が現れたのを、リュカ達は視界に捕らえた。
「殿下!オルディリアの騎士たちです!」
魔道騎士ゼルノアがそう言った通り、近づいてくる騎馬隊は確かにオルディリアの騎士団のものだった。そして、
「リュカ!」
その一団から自分の名を呼んだ予想外の声に、リュカは驚きのあまり大声で叫んでしまった。
「ヴィ、ヴィンスロット⁉なんでお前がここに…⁉」
オルディリアの騎士団の中から現れたのは、まぎれもなくオルディリアの皇太子にして『太陽の御子』であるヴィンスロットだった。
「一体どうして……、お前が今いるべきなのはゼフィール殿のそばだろう!」
『闇魔王』が封印を破り復活するためには、器となる『月の御子』を手に入れることが必要不可欠。どんな手を使ってでも、ゼフィールを攫おうとするはずだ。そして奪われてしまえば…その体を自らのものにする為に、ゼフィールの魂は『闇魔王』によって葬り去られてしまうことだろう。
その危険性が一番高まっていると言える今、何故半身である『太陽の御子』が『月の御子』から離れた場所で別行動をとる必要があるのか、リュカには理解できなかった。
「まず落ち着け、リュカ。」
動揺している様子のリュカに、ヴィンスロットが静かに声をかけた。
「この近くにオルディリアの役所がある。そこでお前の質問に答えてやる。」
そう言うと、リュカ達ダリオンの魔道騎士団を役所へと先導すべく、今やってきた方向へ馬の踵を返した。
ヴィンスロットとリュカが合流した地点から一番近いオルディリアの地方役所に到着したのは、すでに時刻は月の土(19時~21時)を少し回った頃だった。ゾルアドが姿を消してからこの数日、幸いといえるのか状況に大きな変化は今のところ見られない。そこでダリオン、オルディリア両騎士団とも、ここまで強行軍で進んできたことを考慮し、この日はここで食事を摂り体を休めるよう、ヴィンスロットはリュカに申し出た。勿論リュカに否やはない。いくら体力に自信のある精鋭たちとはいえ、休める時にしっかり休まなくては、いざという時に支障が出る可能性が高くなる。疲れた体を休息させるのも、騎士たる者の務めだということは、皆理解していた。
供された食事を摂った後、騎士たちがそれぞれが割り当てられた部屋で休息をとる中、ヴィンスロットとリュカ、魔道騎士ゼルノア、そしてヴィンスロットに同行してきた月の騎士団団長シリウスとロイドは、互いの情報を共有するため役所の1室に集まっていた。
「さぁ、聞かせてもらおうかヴィンス。なんでお前がここに出向いてきた?俺はてっきりライオッド様が来られると思っていたんだが。」
少し苛ついた声で、リュカがそう切り出した。
「…はじめはそうなる予定だった。だが、それに待ったをかけた奴がいてな。」
「な…!誰だそれは!」
その進言をしてきた人間は、『闇魔王』と繋がる者が暗躍するこの状況を本当に理解しているのか?そんな怒りとも苛立ちともつかない感情が、リュカの中で爆発した。語気を荒げたリュカの問いに対し、ヴィンスロットは低く押し殺したような声で答えた。
「俺の弟…『月の御子』ゼフィールだ。」
皇帝の部屋に許しもなく突然現れた2つの人影は、オルディリアの幻獣である白夜姫と……オルディリアの第2皇子にして『月の御子』であるゼフィールだった。
「ゼフィール!なぜお前がここに?これはどういうことだ、白夜姫!」
驚きで声を荒げた皇帝アルスロッドに、凛とした少年の声が応えた。
「許しも得ず来てしまって申し訳ありません、父様。白夜は悪くないんです、僕が…僕が父様たちのところへ連れて行ってほしいと頼みました。」
「白夜姫がいるとはいえ、このような時に月の神殿を出るなど…危ないだろう!」
ヴィンスロットはそう言うと、少し乱暴にゼフィールの肩を掴んだ。手荒なその様子に、隣にいた白夜姫は眉をひそめたが、特に咎めようとはせず静観することに徹すると決めているようだ。対してヴィンスロットは、侵入者に対する緊張感は解けたが、また違う緊張感に心臓を鷲掴みにされた胸苦しさに苛まれていた。たとえ月の宮殿から王宮までの短い距離とはいえ、この子を狙う者がどこに潜んでいるかもわからないというのに…!そう思うだけで、背中に冷たいものが走る。その感情は、ライオッドやジュリアス、そしてアルスロッドも同じだった。
「ごめんなさい、ヴィー兄様…。でも、『闇魔王』が動いたのでしょう?白夜から聞きました。なら…それならどうして、僕を仲間はずれにするのですか?」
「な、なんと?」
「ゼフィール?」
あまりにも意外なゼフィールの言葉に、アルスロッドもどこか間の抜けた返しが口をついてしまった。ヴィンスロットたちも、どこか面食らったように動きを止めている。
「だってそうでしょう?『闇魔王』であれば狙いは『月の御子』なのに、その本人である僕を抜いてお話を進めていらっしゃるではないですか。」
ゼフィールは少し興奮気味に、それでもしっかりとした口調で言葉を続けていく。
「父様や兄様、叔父上様たちが僕を心配してくださっているのは、よくわかっています。ですが僕はもう、守られるだけの子供ではありません。それに、守るだけでは『闇魔王』との戦いに決着をつけることなどできないって、父様たちもお判りでしょう?だからお願いです、1日も早くみんなが安心して暮らすことができるよう、オルディリアの皇子として、そして『月の御子』として、僕も一緒に戦わせてください。」
何処までも真摯な少年の言葉は、そこに居た大人たちを黙らせるのに十分な力を持っていた。この子は…自分たちの考えを超えて、本当に大きく成長したのだ。
「…ゼフィール、こちらへおいで。」
アルスロッドは、ヴィンスロットに肩を抱かれていたゼフィールに、そう声をかけた。その声に応え、ゼフィールはヴィンスロットの手を離れ、父王のもとへと歩み寄った。アルスロッドは、自分を真直ぐに見つめてくる濃紺の瞳を見ながら、
「まったく……お前は母によく似ている。」
とそう呟き、その大きな手で息子の頬に触れた。
確かに、亡きコーデリア皇妃であれば、守られるよりも戦う方を選ぶだろう。皇帝の言葉に、ジュリアスとライオッドも、優しさと強さを兼ね備えていた懐かしい人のことを思い出していた。
「ゼフィール、お前をここに呼ばなかったのは、単に今が『闇魔王』の動きに対し打てる手を迅速に実行すべく、動かせる駒を動かすべき時だっただけだ。お前を仲間外れにしようなど、けっして思ってなどおらぬ。」
アルスロッドは、ゼフィールにそう優しく諭した。だが、まだあどけなさすら残る柔らかな頬から伝わる体温が、アルスロッドの胸に抑えていた感情を揺さぶっていく。
「…『闇魔王』との戦いを制するには、『月の御子』であるお前の力が必要となることはわかっている。皇子としてのゼフィールの想いも、皇帝として頼もしくそして誇らしく思う。
しかし……だがそれでも、……異界から戻ってまだ日も浅く実戦の経験もない、そんなお前を今表に出すことへの不安は拭いきれるものではないのだ。もしも10年振りに取り戻したお前をまた再び…今度は永久に失うようなことになれば……きっと父は耐えられぬだろう。」
オルディリアという国を支え導く皇帝として、それは口にすべき言葉ではなかったかもしれない。
ゼフィールが、『月の御子』が誕生しオルディリアに『太陽と月の御子』が揃った時から、いずれ戦いの中に我が子を送り出さねばならない覚悟は、ずっと繰り返し心に持ってきた。だが一人の父親として、やはりどうしても思わずにはいられないのだ。
時はなぜ、もう少しこの子の成長を待ってはくれないのだろうか、と。
「父様…。」
ゼフィールは頬に触れる父の手に、そっと自分の手を添えた。
「僕は、大丈夫です。ヴィー兄様とも約束しましたが、生きてみんなで幸せになるために、今を頑張りたいのです。それに万が一『闇魔王』に捕まってしまっても、僕は絶対に負けたりしません。だって僕には、父様や叔父上様たちがついていますし、『太陽の御子』という半身がいるのですから。」
その言葉に、ハッとしてヴィンスロットは弟に視線を向けた。
「僕がどこにいようと、きっとヴィー兄様が見つけて迎えに来てくれます。だから僕、あまり怖くはないんです。」
そう言いながら、ゼフィールは半身であるヴィンスロットをその瞳に映す。
「僕は『太陽の御子』を……ヴィー兄様を信じています。」
艶やかな笑みと共に信頼の言葉を投げかけてきたゼフィールに、ヴィンスロットは己の迷いが消し飛んだ心地がした。
そうだ、俺たちはオルディリアの『太陽と月の御子』。千年前から託されてきた“希望”を実現するために、この世に生まれてきた存在だ。危険であっても戦うことは避けられない。それが定められた宿命であるというのならば、全うしてやろう。だが…
(10年前のように、俺から愛しい半身を奪わせなどしない。俺を信じてくれるこの笑顔を、今度こそ絶対に守り切ってみせる。)
そう腹を括ったヴィンスロットは、ゼフィールに一つ頷くと口元に不敵な笑みを浮かべながら、自らも父である皇帝のもとへ歩み寄った。そして、父と弟の手に自分の手を重ね、
「父上、俺がゼフィールを守ります。そして太陽と月、揃って御前に戻ってまいります。」
そう力強く宣言すると
「さぁ父上、叔父上方。それでは『月の御子』を加え、もう一度策を練り直しましょう。」
とアルスロッドたちに切り出した。その金色の瞳は力強く輝き、全身から放たれるのは太陽のごとき眩いオーラ。他を圧倒する『太陽の御子』のその姿に、静観していた白夜姫の唇が、緩やかに微笑みを形作っていった。
「待ったをかけたのは、ゼフィール本人だ。」
「⁉」
ヴィンスロットのその答えに、驚きのあまりリュカは声にならない叫びをあげた。それは隣に控えていたゼルノアも同様で、めったなことでは感情を表に出さない魔道騎士も、さすがに表情を取り繕えなかったようだ。
何故ゼフィールはそんなことを言ってきたのだろう?万が一ゾルアドの策略で攫われ『闇魔王』の手に落ちてしまったら、そこに待っているのは「死」だというのに。
(もしやそれを、理解されていないのでは…?)
だが、たとえゼフィールが理解していなくても、皇帝やヴィンスロットなどオルディリアの人たちが理解していないはずがない。そのような進言、どんなことがあろうと受け入れるとは思えないのに…!
オルディリア皇室のゼフィールに対する溺愛っぷりを、身を持って実感しているリュカの頭はますます混乱するばかりだった。
「あいつもオルディリアの皇子なんだ、リュカ。自分個人よりも国の民のためにどう動くべきか、俺たちが思っているよりずっとしっかり考えていたよ。そして俺も……それが正しいと思った。」
そう言ったヴィンスロットの言葉の端には、僅かに苦渋が滲んでいた。本音を言うならば、誰が何と言おうとゼフィールのそばを離れたくなどない。『闇魔王』が本格的に蠢き始めたこの状況で、自分の手と目の届かない所に半身である弟を置くなど言語道断だった。しかし、
(僕はヴィー兄様を信じています。)
迷いなく、真直ぐに自分を見つめてきた瞳に、もう弟はただ守られるだけの存在ではないのだ、ということを痛感させられた。一緒に幸せになる、それをゼフィールは実現しようとしている。ならば自分も、一国の皇子として、そして彼の半身である兄として、進むべき道はおのずと決まった。
「リュカ、俺はゼフィールが兄として誇れる自分でありたい。だからこそ、オルディリアの『太陽の御子』として、千年の憂いに決着をつけることを優先すべきだと思ったんだ。『闇魔王』の脅威を廃してみんなで幸せになる、それがオルディリアの『太陽と月の御子』である俺とゼフィールの目指すところだ。それを実現するために、俺たちは今動いている。確かに危険はあるが、ゼフィールは死ぬつもりなどないし、俺も絶対に『闇魔王』などに、俺の半身を奪わせなどしない。だからどうか、俺たち『御子』が決着をつけられるよう、手を貸してくれないだろうか。」
ヴィンスロットの揺るがない言葉に、リュカはその覚悟の大きさを感じ取った。ヴィンスロットだけではない。そばに控えるシリウス騎士団長も、そしてロイドも、2人の御子たちと共にこの戦いに挑む決意を固めているようだった。
この行動がオルディリア側の総意であることを確信したリュカは、信頼する魔道騎士ゼルノアに視線を向けた。これにゼルノアも一つ頷くことで、リュカの意思に同意し従うことを示す。
「……ったく、あんなに優し気な子なのに…兄弟よく似ているよ。だが、もとはといえば俺たちの油断が、まだ子供ともいえるゼフィール殿にそんな危険な決心をさせてしまったんだよな。それなのに、責めるような物言いをしてしまって、すまなかったヴィンスロット。」
「リュカ…。」
「手など、いくらでも貸してやる。『闇魔王』はもちろん、ゾルアドもダリオンにとって滅すべき存在だ。そのための協力ならば、むしろこちらから申し出なければならないくらいだよ。」
力強い幼馴染の王子の言葉に、ヴィンスロットの張り詰めていた心もわずかに緩む。緊張感で沈んでいた部屋の空気も、明るさが射したようだった。
「ありがとう、リュカ。だが、『闇魔王』との戦いは今回の件がなくとも、いずれ始るものだった。だからもう、それについて気に病むことはしないでくれ。今俺たちが気にすべきは、これからどう行動していくか、ということなのだから。」
その言葉に一同が頷いたのを合図に、これまでの経緯やこれからの行動についての話し合いが開始されていった。
(……ここがオルディリア……)
眠りについていた王都オルディアの闇の中、何者かがそう呟いた。その呟きに反応したかのように、生温い不快な風が1つ、王都の闇を吹き抜けた。
(あぁ……おまかせを主様。必ずや…必ずや“器”を御前に…。)
愉悦の熱に浮かされたような、気味の悪い声。まるで瘴気を音にしたようなそれに、闇がざわめく。しかしそれも僅かな変化に留まり、すぐに誰に気付かれることもなく夜の闇に紛れてしまった。




