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2人の御子

 

 ~プロローグ~


「もうすぐ会える…!」

 そんな期待に瞳を輝かせながら、まだ夜も明けぬ暗い城の廊下を、幼い7歳の子どもがそんな暗がりを意に介することもなく、ただ一人軽やかに歩を進めていた。彼の名前は「ヴィンスロット・エルド・オルディリア」。ここ「オルディリア皇国」の第1皇子にして「太陽に御子」と呼ばれる、この国にとって“特別な皇子”であった。

 オルディリア皇国のあるこの世界には、オルディリアの他に5つの王国が存在し、それぞれが自然のエネルギーを媒体とした能力の守護により、人々の生活を支えていた。「火」の守護を受ける「アルディメル」、「水」の守護を受ける「シェーリア」、「木」の守護を受ける「ルーシェン」、「風」の守護を受ける「レイアード」、「土」の守護を受ける「ダリオン」。そして「太陽(陽の光)と月(夜の闇)」の守護を受けるのがここ「オルディリア皇国」だ。こうした守護の能力は血によって受け継がれるのが一般的で、王家を筆頭に能力を受け継ぐ家柄はそれぞれに階級を与えられ、代々国を治める役割を担っている。稀に血族外からも能力の高い者が現れることもあるが、やはり血によって受け継がれた能力に比べると、どうしても力不足になってしまうのは否めない。だからこそ、守護の力で成り立つこの世界において、最も血が濃く、最も守護の能力が高い一族である王家はまさに国の象徴であり、その力を持って民の平穏と安寧を約束する国の要たる守護者であるのだ。

 ヴィンスロットもまた、将来国を守護する役目を果たす皇族の一員であり、最も濃い血と高い能力を持つ直系の皇子だ。だが、そのことだけが彼を“特別な皇子”と言わせしめているわけではない。それは、オルディリア皇国皇族が守護の能力として持つのは「太陽(陽の光)と月(夜の闇)」という、他国とは異なり2つの面を持っている、ということが関係している。オルディリアの能力者は、普通であれば比率の差こそあれ、2つの能力を併せ持って生まれることが常である。しかしオルディリア皇帝の直系には至極稀に、どちらかの能力だけを持って生まれる特殊な子供が生まれることがあり、そうした皇帝の子は『御子』と呼ばれ敬われた。そう、ヴィンスロットが特別と言われるのは、まさに「太陽(陽の光)」のみを持って生まれた稀なる存在、『太陽の御子』の皇子だからだ。持って生まれた能力はもちろんだが、太陽の光のように輝く黄金の髪と瞳、そして何より明るく力強い生命力に溢れた彼の姿は、まさしく『太陽の御子』と呼ばれるにふさわしく、誰もがそんな太陽の化身のような彼に魅了されていた。

 それにしても、そんな彼が何故夜明けにはまだ遠い月の時刻(23時~1時)に、城内であるとはいえ供もなくたった一人で歩いているのか。ましてや彼はまだ7歳。いつもであれば、ベッドの中で健やかな寝息を立てているはずだ。しかし今夜は、今夜だけは、どんな睡魔をもってしても彼を夢の世界へ誘うことは叶わない。それほどに今夜は彼にとって、特別な夜なのだ。そして実は、オルディリア皇国を含め世界にとっても、特別で重要な夜になるのだが、それを知るにはこの時の彼はまだ幼すぎた。今は只々、自身の内から湧き上がる喜びに突き動かされ、彼の母である皇妃の部屋を目指している。

「会いたい!」


 そう、今夜生まれる彼の半身を抱きしめるために。



 第1章 2人の御子



 ~誕生~


 幼い皇子が胸をときめかせ、夜の帳が下りた城内をただ一人歩いていた日から、時間は一週間ほど遡る。

 その日、第2子の出産を目前に控えたオルディリア皇国コーデリア皇妃の部屋には、皇帝アルスロッドと月の神殿の神官長ウォンラット、そして皇妃付きの女官長リュドミラという、4人だけが集まっていた。本来であれば第2子誕生という喜ばしい出来事を控え、暖かい空気に包まれていて良いはずなのだが、この時部屋を満たしていたのは「緊張」と「不安」という、およそ慶事とはかけ離れたものだった。

「神官長よ、では間違いないのだな。」

 低く静かに響く皇帝の声にも、隠しきれない緊張の色が滲む。

「はい。皇帝陛下。」

 そう答える神官長ウォンラットの声にも、どうしようもない苦渋が含まれていた。


 2つの守護能力を持つオルディリア皇国では、「太陽の部署」と「月の部署」と呼ばれる2つの機関によって、国政に関する実務が行われている。王城に拠点を持つ「太陽の部署」には「太陽(陽の光)」の能力が高い者が集まり、主に外交や警備、経済活動など“表”の政務を担っている。対して「月の部署」は、夜の森にある月の神殿に拠点を持ち、「月(夜の闇)」の能力が高い者が神官として所属し、医療や浄化、諜報活動など“裏”の政務を担っていた。人に害をなす魔獣の討伐や大掛かりな浄化・封印などを行う場合は、両部署で連携し共に活動を行う場合もあるが、普段はそれぞれの役割に沿って、別々に活動することの方が多く、そしてその2つの部署の頂点に立つのが、皇帝アルスロッドその人なのである。


 国の片翼を担う月の部署の最高責任者、月の神殿の神官長たるウォンラットの、これまで感じたことのない様子にアルスロッドは眉をひそめた。

「恐れながら申し上げます。今皇妃様の胎内におられるお子様からは…太陽の気が感じられません。」

 神官長の言葉に、空気が一瞬凍り付いた。

「おそらくこれからお生まれになるお子様は『月の御子』様に間違いないかと。」

 いつもは冷静沈着なはずの女官長リュドミラの口から、短く嘆きの息が漏れた。皇帝も、そして皇妃も、その表情を強張らせている。それは『月の御子』その言葉が、オルディリア皇国にとって最も不吉を予感させるものに他ならない為だった。


 今より千年の昔、この世界は暗黒の時代を過ごしていた時期があった。その時に世界を「恐怖」「憎悪」「猜疑心」といった負のエネルギーで支配し、暗黒の時代に君臨した『闇魔王』こそ、その時オルディリアに誕生した『月の御子』だったのだ。強大な闇の能力で世界を蹂躙した『闇魔王』だったが、当時の6大国の王たちによって苦闘の末弱体化させられ、オルディリアとダリオンの境にある「ザルア山」に封印されたことで、暗黒の時代は終焉を迎えた。しかしこの史実は人々の記憶に深く刻まれ、オルディリア皇国でも『月の御子』は不吉を示す言葉として残ってしまったのだ。


「我がオルディリアの『太陽と月』の能力は、生命の“活動”と“安息”を司っており、健やかなる生命力の根源となるものです。ですので本来『月』の持つ夜の闇の力というのは、躍動する生命を癒す清浄な能力であり、人々が懸念するような禍々しいものでは決してありません。ですので、大いなる魂の安息と癒しの能力を示されるはずの『月の御子』様のご誕生は、『太陽の御子』ヴィンスロット様ご誕生と同じく、我が国にとって喜ぶべきことであるはずなのです。ですが…」

 言い淀む神官長に、次の言葉を引き出すように険しい表情のまま、アルスロッドは問いかけた。

「…もしやウォンラットよ、この子の誕生がザルアの封印に関わるというのか?」

「誠に遺憾ながら。」

 神官長のその言葉に、皇帝はその両手を辛そうに握り込み、表情を強張らせながらも気丈に佇んでいた皇妃の瞳にも、動揺の光が揺れた。

「千年前の戦いにおいて、6大国の王族の力をもってしてもかの『闇魔王』の核となる肉体という器を、完全に消滅させることは叶いませんでした。存在を形作る核がなければ、どのような力も空へ霧散し、やがて生命の源である自然に吸収され消え去ります。しかし、封印されているとはいえわずかでも核を持つ『闇魔王』は、不完全ながらも未だザルア山に存在し続けられているのです。それがもし完全なる“器”を新たに得ることがあればどのようなことが起こるか…、想像がおつきになるかと思います。」

「では神官長様!お生まれになるお子様が、その“器”となるとおっしゃるのですか!」

 これまで皇妃を気遣いながら黙って控えていた女官長が、思わず声を荒らげた。主である皇妃の心情を想うと、そうせずにはいられなかったのだ。出産という喜ばしい出来事を前にした女性にとって、本当になんという惨い現実が宣告されたのだろうか。リュドミラの胸は、怒りとも悲しみともとれる感情に締め付けられていた。その想いは宣告をした神官長も同じだったのだろう、その表情は苦し気に沈んでいた。

「ウォンラットの申す通り、封印が保たれてきたこの千年の間、オルディリアに『月の御子』が誕生したことはなかった。未だザルア山にくすぶる()にとって、かつての奴と同じ『月の御子』として生まれるこの子が理想の“器”であることは、疑う余地もないことだ。」

 重苦しい空気の中、その場にいた者の視線は自然と皇妃の膨らんだ腹に注がれた。これから生まれようとしているこの子に、罪など何らあろうはずがない。だというのに…『月の御子』であるというこの子に課せられた運命は、なんと残酷なものなのだろうか。その時

「…この子を救うことはできるのでしょうか?」

 これまでただじっと話を聞いていたコーデリア皇妃が、愛おしそうにお腹に手をやりながら、かすかに震える声で神官長に問いかけた。

「皇妃様、そして皇帝陛下。心苦しくはありますが、ザルアの魔王を滅しきれていない今、軽々に御子様を『闇』から救える確かなことをお伝えすることが、私にはかないません。しかしながら、」

 沈んだ部屋の中に、神官長の声が静かに、だがかすかに力を帯びながらゆっくりと紡がれていく。

「月の神殿に伝わるあの『伝承』が、もし真実であるのならば…。」



「皇妃様!コーデリア様!もう少しでございますよ!」

 女官たちの緊迫した励ます声を頼りに、コーデリア皇妃は天蓋に覆われた自身の寝台の上で、必死に痛みと戦っていた。一度経験しているとはいえ、出産の痛みは形容し難く決して慣れるものではない。女性にとってはまさに、新しい命を生み出すための命を懸けた戦いに他ならないのだ。そんな戦いの場であるから部屋全体が緊張感に包まれていても、何ら不自然なことでははない。しかし今部屋を支配する張り詰めた空気は、それだけが理由ということではなかった。一国の皇妃の出産であるというのに、天蓋の中でお産を手伝うのが皇妃付きの女官長リュドミラと、医療課に所属する2人の女官の3人だけという、普段ではありえない少人数であること。そしてなにより、出産という女性の神聖な場に、天蓋の外とはいえ月の神殿の神官長であるウォンラッドと、その直属の部下であり次席神官のジュリアスという、2人の男性がいるということが、この出産が常とは違うものであることを示している。

「ジュリアスよ。このオルディリアにおいて『月の御子』が誕生されるのは、実に千年ぶり。だからこそ、ご誕生の時に何が起こるかはこの私にもわからない。もし何か起こっても皇妃様方をお守りできるよう、気を抜くでないぞ。」

「承知しております、神官長様。」

 神官長の言葉に力強く答えたジュリアスは、コーデリア皇妃の実の弟でもある。早くに母を亡くした彼にとって、いつもやさしく自分に寄り添ってくれた姉のコーデリアは母にも等しい存在であり、だからこそ彼女の幸せを誰よりも強く願っていた。その彼女の幸せが、今この瞬間にも脅かされるかもしれないのだ。

(何としても、姉上と御子をお守りせねば…!)

 この世界の時間表示は、6大国が持つ守護の力で表されていて、太陽の時刻(11時~13時)と月の時刻(23時~1時)が境となっている。今はちょうど月の時刻であり、夜が深く“闇”が最も濃くなる時間帯だ。肌がピリピリとするような言い知れぬ緊張感と緊迫感に締め付けられながらも、小さな変化も見逃すまいと息を殺し、ただじっと天蓋に覆われた寝台へと意識を集中させ続けた。

「――――っ‼」

 ひときわ高い皇妃の声にならない叫びと共に、赤ん坊の産声が部屋に響いた。

「おめでとうございます!皇子様のご誕生でございます!」

 重なり合ったリュドミラ女官長の興奮した声と女官たちの喜びの声が、天蓋の外で気を張り詰めていた神官長とジュリアスの耳にも届く。そしてゆっくりと天蓋の幕が開くと、寝台に横たわる王妃とその隣で真新しい布に包まれ寝かされている赤子の姿が、2人の目にも映し出された。姉とその子どもの無事な姿に、ジュリアスもほっと胸をなでおろす。だが次の瞬間、それを戒めるかのように

「ジュリアス!」

 という神官長の鋭い声が飛んだ。

()()()!皇妃様方をお守りするのだ!」

 全身を緊張でみなぎらせた神官長の鋭い眼差しは、窓の外へと向けられている。そこには、いつもと変わらぬ夜の空があるはずだった。だが今その夜空は重く暗い“瘴気の闇”へ変化し、まるで赤ん坊の声に惹かれるように部屋の中へ浸食せんと、その濃さを増しつつ窓を細かく震わせている。さらに部屋の空気も外の変化に呼応するように、徐々に瘴気の色を濃くしていた。

 神官長は外からの“瘴気の闇”の浸食を部屋全体を覆う結界で防ぎつつ、これを浄化せんと呪を発動させる。一瞬にして現実に引きも出されたジュリアスも、皇妃と皇子そして女官たちを、部屋に淀み始めた“瘴気の闇”から守るべく寝台の周囲に結界を張り、これ以上瘴気を増長させまいと力を尽くした。寝台の皇妃は我が子を「闇」から隠すようにしっかりとその胸に抱きしめた。女官たちも皇妃に寄り添い、いざとなれば自分たちも盾となる覚悟で、ジュリアスの張った結界の内側でさらに小さな結界をつくり、気丈にこの状況をじっと耐えている。しかし、そんな神官長たちの奮闘にもかかわらず、状況は膠着し未だ収まる気配を見せてはくれない。

(月の神殿で最高の能力を持つウォンラット神官長をもってしても、完全に抑えきれぬとは…!)

 ジュリアスはこの状況に改めて『月の御子』という存在がいかに危ういものなのかを痛感した。今この状況を切り抜けたとしても、この先この皇子を本当に自分は守っていけるのだろうか?そんな得体のしれない負の感情が沸き上がるのを、止めることができない。外の“闇”だけでなく、自分の内にある“闇”にも必死にあらがっていたその時

 バンッ!

 と結界で閉じられていたはずの扉が、音を立てて勢いよく開かれた。と同時に、あれほど濃さを増す一方だった“闇の瘴気”が一瞬にしてその気配を消し、まるで何事もなかったかのように鎮まった。突然の変化に何が起きたのかわからず、ただ驚いていた一同の目に飛び込んだのは、扉から部屋に軽やかに入ってきた『太陽の御子』ヴィンスロット皇子の小さな姿だった。これまでこの部屋でどんなことが起きていたかなど全く気付いてもいない様子の皇子は、ただ喜びを体中から溢れさせながら、母のいる寝台へと駆け寄った。そして母の腕の中の小さな存在に気付くと黄金の瞳をさらに輝かせ

「母上!僕の兄弟が生まれたのですか?」

 と尋ねた。その無邪気な息子の明るい声に、張り詰めていた皇妃の心もようやく緩む。そして、期待に頬を高揚させている皇子に優しい微笑みを向けながら、腕の中のもう一人の皇子をそっと見せた。

「ヴィンスロット、あなたの弟よ。…さぁ、お兄様にご挨拶しましょうね。」

 そう言うと皇妃は、小さなヴィンスロットの手にそっと、さらに小さな弟皇子の手を重ねた。

「僕の弟…。」

 それはもう、“本能”と言ってよいのかもしれない。少し力を込めただけで壊れてしまいそうな、自分よりもっと小さな手から伝わる暖かな体温を感じた時、この小さな弟こそ自分にとって唯一無二の存在であると彼は全身で理解した。得難きものを得た感動に、幼い胸はいっぱいになる。

 これは自分が、生涯愛し護っていく者。

「やっと会えたね。君のことは兄様が絶対大切にするからね。」

 そして、まるで騎士が誓いを立てるように、そっと弟の手にキスを贈った。

 そんな様子を見つめていた女官たちの眼には、極度の緊張から解放された安堵の涙が浮かんでいる。そして

「さぁ、あなたたち。皇妃様のご体調を確認して。」

 という明るさを取り戻したリュドミラ女官長の凛とした声に、2人の女官たちも微笑みで応え、自分たちの本来の役目を果たすべく動き始めた。


(なんということだろう…。)

 ジュリアスは、たった今目の前で起こった事態を、まだしっかりと受け止めきれずにいた。このまだ幼い皇子が、自分と神官長の2人がかりで抑えきれずにいたあの状況を、ただの一瞬で収めてみせたというのか…!しかも何か特別なことをしたような気配は、この皇子から微塵も感じなかったというのに。

(これが『太陽の御子』の力なのか。)

 生まれたばかりの弟を愛おしそうに見つめているこの小さな皇子には、いったいどれほど大きな能力が宿っているのだろうか。夜の帳の中でなお光り輝く彼の姿は、まさにオルディリアを未来を明るく照らし、光ある方へ導く『太陽』そのものだ。自分が生涯をかけ仕えるべき王となるのは、未だ幼いこの皇子なのだという確信に、ジュリアスの胸は高鳴った。

「ジュリアスよ、気付いておるか?」

 内から湧き上がった喜びに立ち尽くしていたジュリアスに、ウォンラット神官長が静かに語りかけた。

「外の気配を感じてみよ。」

 その神官長の言葉に、ジュリアスはハッと我に返った。ヴィンスロット皇子の登場で、部屋を満たさんとしていた負のエネルギーを放つ“闇”の気配が消えたとはいえ、時はまだ“闇”の力が優位となる月の時刻。決して警戒を怠るべきではなかったと、気を緩めてしまった自分に腹を立てつつ、すぐさま窓の外の気配を探った。

(……?)

 窓の外には、確かに“闇”はあった。しかしそこには、先程までのような重く沈み込むような禍々しい気配はどこにもない。只々、銀色に輝く淡い月光に照らし出され、静かで安らかな気を纏った『夜の闇』が広がるばかりだった。

「神官長様、これは…!」

 驚きを隠せないジュリアスに神官長はゆっくりとうなづき、喜びをたたえた瞳を穏やかに語り合っている母子へと向けた。それに倣って同じく視線を向けたジュリアスは、その目に映った光景を生涯忘れることはないだろうと強く思った。母と兄に優しく抱かれる小さな赤ん坊から、まるで星空を溶かしたように美しく輝く『夜の闇』がヴェールのように広がり、そこにある全てを護り癒すように優しく包み込んでいたその光景を。



 ~伝承~



『月の御子』が誕生してから数刻後、今皇妃の部屋は明るく暖かい太陽に照らし出されている。弟のそばを離れたくないとごねていたヴィンスロットも、さすがに瞼が重くなり先程リュドミラに連れられて、出産を手伝った女官たちと共に部屋を後にしていた。そして今部屋に残っているのは、部屋の主である皇妃と生まれたばかりの皇子、ウォンラット神官長、ジュリアス次席神官、そして皇妃の夫でありオルディリア皇国の皇帝アルスロッドと、その片腕である皇弟ライオッドの6人となった。

「国の慣例とはいえ、このような時にそばにおれず、すまなかったな。」

 そう言うと、試練を乗り越えた皇妃を労うように、優しくまだ疲労の色が残る皇妃の頬に触れた。

 オルディリア皇国では、「出産」は女性の聖域とされているため、特別な事情でもない限り男性がその場に立ち入らないのが慣例となっている。そのため、たとえこの国の主である皇帝であっても、出産の場には同席せず別室で報告を待つのが常なのだ。

「とんでもございません、陛下。」

 夫の優しい気づかいに、コーデリア皇妃は美しい微笑みを返した。そんな皇妃の様子に、皇帝アルスロッドの表情も柔らかさを増す。いつの世も「出産」は男性にとって未知なるものだ。長男であるヴィンスロットの時も、待っている間なんとも形容し難い緊張感を経験したが、今回は千年振りの『月の御子』の誕生という特殊な出産で、前回の緊張感など比ではなかった。本音を言えば慣例など無視して、皇妃のそばで自ら事態の収拾にあたりたかったところだったが、皇帝自らがそんなことをしたら、この「出産」が常とは違う「異常」なものだということが、瞬く間に知れ渡り人々に動揺を生んだことだろう。その動揺はすぐにマイナスの感情として国内外に広まり、生まれた子どものことを昔語りに出てくる“不吉な『月の御子』”だと、誤った認識を与えてしまうことになるかもしれない。そんな事態が起こることを避けるためにも、皇帝は自分の気持ちをぐっと押し止め、皇妃の出産を必要最低限の女官だけにし、不測の事態への対処は神官長らに任せ、自分は慣例に従うことにしたのだ。とはいえ、別室で待つ間の緊迫感や苛立ちは、思い返すだけでも二度と味わいたくないと思えるものだった。それは皇帝のお目付け役として同じ部屋にいた皇弟ライオッドも同じだったようで

「殺気立った獅子と同じ檻に放り込まれた気分だった。二度とあんな場には居たくない…。」

 と後にしみじみと語っていた。


「それにしても、コーデリアの部屋の周囲の『闇』がざわつき、一気に負のエネルギーが濃くなったのを感じたあの時は、危うく部屋を飛び出しかけたが…ああも鮮やかに鎮まってしまうとはな。」

 口の端に苦笑いを浮かべながら、アルスロッドは神官長に語り掛けた。

「これが以前そなたの言っていた月の神殿に伝わる『伝承』…オルディリアの、いや世界に真の調和をもたらすために約束された『希望』なのか?」

 皇帝のその言葉に、神官長は深くうなづきながらこう答えた。

「月の神殿には、代々の神官長にのみ受け継がれてきた『伝承』がございます。その内容は、

『太陽に抱かれ月は美しく輝き、月に抱かれ太陽はさらに輝く。ふたつが並び立つ時、大いなる悲しみはついに癒され、世界は真の調和に満たされる。』

 …というものです。かの『闇魔王』が封じられてより千年。このオルディリアに『太陽の御子』は現れても、『月の御子』はついぞ現れることはありませんでした。それゆえに、真の『月の御子』の能力とはどのようなものなのかを知ることが叶わず、『月の御子』とは『闇魔王』のことであると伝わってしまっていました。しかし昨夜、千年の時を経て我らはついにその力を目にしたのです。あの、すべての生命を癒し浄化する、美しく優しい月の光の尊い力を。皇帝陛下、皇妃陛下、今こそ確信を持って申し上げましょう。月の神殿の『伝承』が真実となるその時が来たのだと。ヴィンスロット様と新たな皇子様こそ、我らの『希望』であると。」

 ほんの一週間前、この同じ部屋を満たしていたのは「不安」と「恐れ」だった。だが今は違う。皇妃の腕の中で健やかに眠る小さな皇子と、太陽の化身のような兄皇子が見せてくれた「光」が「希望」となってこの部屋を満たしている。だがそれを、ただ喜んでばかりいることはできないことは、この部屋にいる誰もが感じていた。

「しかしながら、『月の御子』様がお生まれになった時の『闇』の反応からしても、やはり月の能力しか持たぬ御子様は通常の者より『闇』に近く、負のエネルギーに取り込まれやすいといえましょう。」

「つまり『太陽の御子』がいる今であっても、ザルアのあ奴に“器”として狙われることに変わりはない、ということですか?」

 その場にいた者が持った疑念を、ライオッドが口にした。

「その通りです。そしてもし『月の御子』様が、ご自分の能力を正しく使いこなすことができるようになる前に『闇魔王』の“器”として奪われてしまったら…『伝承』は実現することなく、世界は再び暗黒の時代を迎えることになってしまうでしょう。」

 神官長のその言葉に、皇帝はわずかに顔を曇らせ、皇子を抱く皇妃の手には力がこもった。

「陛下、皇妃様。そこで一つ、月の神官長たるわたくしから申し上げます。『月の御子』様はこのまま王宮ではなく、月の神殿の結界内で密かにお育てするのが最善かと…。」

「お待ちください!」

 神官長のその進言に、ジュリアスが思わず声を上げた。

「それは、御子様をヴィンスロット皇子から離してしまうということですか?しかし、昨夜のことからしてお2人を離してしまうのは…、それこそ危険なのではないでしょうか!」

 昨夜の一連の出来事を目の当たりにしているジュリアスの脳裏には、2人の皇子が「闇」を退け創り出した、安らかで慈愛に満ちたあの夜の光景がはっきりと蘇る。

「確かに、王宮におられても御子様は守られ『太陽の御子』様と共にお育ちになることはできよう。しかしそれでは、もう一つの問題が完全に解決されぬまま、それがやがて致命傷ともなり得てしまうやもしれぬのだ。」

「それはなんだ?神官長。」

「はい、陛下。それは、民心でございます。」

 神官長はアルスロッドに、きっぱりとした口調で語り続ける。

「千年前、世界は暗黒の時代であったこと、そしてザルア山にその元凶たる『闇魔王』が今も封印されていることは、この世界の住人であれば誰しも知っています。そして…『闇魔王』がかつてオルディリアの『月の御子』であったことも。」

 一同は固唾をのんで、神官長の言葉に耳を傾けた。

「オルディリアの守護能力を良く知るわたしたちでさえ、御子様が誕生なさるまで『闇魔王』の禍々しい力と『月の御子』の真の力が全く異なるものであることを、本当には確信出来てはいませんでした。ですので、民が未だこの二つが同一のものだと信じていても何ら不思議はありませんし、ましてや諸外国の民となっては、より強く信じられていることでしょう。千年の間に根付いてきたその強固な疑念が民にある中、『月の御子』が誕生しそれが国の要たる王宮にあるということになれば、民に多少なりともいらぬ動揺や疑惑を与えてしまうことは、想像に難くありません。そうやって人の中に生まれた小さな『闇』が、やがて『闇魔王』の復活を助ける“糧”となり、結果『伝承』の実現を妨げる致命傷ともなり得てしまうでしょう。」

「……だからこそ、皇子を王宮で育てるべきではないと…?」

「はい。もちろん民とて、我々同様に自分の眼で『月の御子』様の真の力を知ることができれば、そのような誤解はすぐに解けることでしょう。しかし『月の御子』様はもちろんヴィンスロット皇子様も、今はまだ自分の能力を自分の意志で制御できない幼子です。この状況で全ての民に皇子様方の能力を正しく示すというのは…あまりにもリスクが高すぎると言わざるを得ません。であればこそ、お2人が並び立ち民に正しく『希望』の光を示せるその機が熟すまで、世界への動揺を最小限に抑え、かつ『闇魔王』から皇子様方をお守りしつつお育てするためには、今はこの方法が最善ではないかと考えるのです。」

 一瞬の静寂の後

「……陛下。」

 というコーデリア皇妃の、静かで柔らかな声が人々の耳に届いた。

「私も神官長の申す通り、この子は月の神殿で育てるのが最善かと思います。ただ、皇子を一人で神殿へやるのではなく、私もまた月の神殿に参り、この子と一緒に暮らしたいと存じます。」

「コーデリア!それは…!」

 愛する妻から出た突然の別居宣言ともいえるその申し出に、アルスロッドの語気は思わず強いものになってしまった。そんな慌てた様子の夫を諭すように

「確かに、皇妃として皇帝のおそばを離れるような行為は、いかがなものかと自分でも思います。ですが、王宮と月の神殿は表裏一体。そこまで大きな問題にはなりますまい。何より、生まれたばかりの我が子に母が寄り添うのは、至極当たり前のことです。誰も不振には思わないでしょう。」

「いや、それはそうだろうが…。」

「それに、民に対し動揺を与えないようにするのが目的であれば、皇妃である私がそばにいるという事実も加わったほうが、より効果的だと思いますが。」

 と、迷いのない美しいこげ茶色の瞳をまっすぐにアルスロッドに向け、コーデリアは艶やかな微笑みを愛する夫へと贈った。

 コーデリア皇妃の実家である「シェンハルト家」は、代々月の神殿の神官長を多数輩出してきた名門の家柄である。もちろん、コーデリアもその血を濃く受け継いだ女性であり、皇妃にふさわしい高い能力を持っていることは誰しもが知るところだ。その皇妃が『月の御子』をそばで守護するという事実は、コーデリアの言う通りさらに大きな安心感を民に与えることだろう。

「…まったく、君という人は…。」

 コーデリアが柔らかな外見とは裏腹に、一度決めたことは必ずやり通す頑固さを持っていることは、誰よりも夫である自分が知っている。しかもその申し出が正しいことも、わかっているのだ。何をどうしたって彼女の意志を覆すことは、自分を含め誰にもできるはなかった。降参だ…と言うかのように、皇帝アルスロッドは軽いため息を一つつくと、神官長に告げた。

「神官長、そなたの助言通り皇子の養育は月の神殿で行うことにする。養育には皇妃も加わるため、2人が神殿で暮らすための準備を直ちに整えよ。」

「アルスロッド様!」

 皇帝のその指示に、皇妃は喜びに頬を染めた。その輝くような表情には、夫への愛と信頼が溢れている。

「ライオッドとジュリアスは、太陽・月の両部署に戻り第2皇子の誕生を報告し、それぞれ“披露目の儀式”の準備にあたれ。」

「はっ!」

 オルディリア皇国では、皇帝に子供が生まれるとそのことを国内外に知らせるために「披露目の儀式」が催される。ヴィンスロット皇子が生まれた時も、5大国から大勢の招待客を招き、『太陽の御子』誕生にふさわしくそれは華やかに執り行われた。だが今回、儀式でお披露目されるのは千年振りに生まれた『月の御子』だ。一つ間違えば、『月の御子』にまつわる不吉な印象だけが、国内外の人々に伝わってしまう恐れも十分にある。その責任の重大さに、準備を任されたライオッドとジュリアスの表情がギュッと引き締まった。

「儀式への参加者は、疑念を持たれるリスクを最小限にするため、厳選してくれ。もちろん、『闇』に対する警戒も怠るな。それと、儀式にはヴィンスロットも同席させる。王宮という結界の中で我らと一緒、ということであれば、そう危険なこともあるまい。儀式の場で『伝承』についてわたしから直接皆に伝えはするが、実際に2人が共にある姿を見てもらった方が、万の言葉より納得が得られようからな。」

 これには、神官長とジュリアスが大きくうなずく。確かに、2人の皇子が並び立った時のあの感動は、言葉でなど到底表現しきれるものではない。皇妃も笑みを深くし、皇帝に賛同の意を示した。

 こうして一同の力強い想いを受け、アルスロッドはオルディリアの皇帝として改めてこれからなすべきことへの覚悟を決めた。そのゆるぎない決意を瞳に湛え、母の腕の中で安らかに眠る我が子の黒髪をそっと撫で

「我が皇子よ。『ゼフィール・エルド・オルディリア』、そなたにこの名を贈ろう。」

 そう、優しく厳かな声で告げた。


 かくして、オルディリア皇国にこれまで並び立ったことのない、『太陽の御子』と『月の御子』が揃ったことが、国内外に広く知らされることとなった。『月の御子』のお披露目に際し、はじめ皇帝たちが危惧していたような動揺はほぼ起こらず、意外にも誕生の事実は儀式に参加した人々に慶事として受け入れられた。これは、『月の御子』の誕生を心から喜び堂々と立つ皇帝と皇妃の姿もさることながら、太陽のように力強く輝く気を放つヴィンスロット皇子と、月のように穏やかで美しい気を放つゼフィール皇子が寄り添う姿に、そこに居た全ての人が感銘を受けた結果であろう。

 こうして儀式は無事に終了し、皇帝一家は控えの間として用意された部屋で、ライオッド皇弟殿下夫妻とコーデリア皇妃の弟のジュリアスという、ごく身内だけで一時の団欒を楽しんでいた。

 ……だが実際には、何の憂いもなくこの場にいたのは、赤ん坊のゼフィール皇子とそのそばを「僕だけのゼフィール」と言って離れようとしないヴィンスロット皇子だけで、大人たちは今日一番の緊張にさらされていた。

「………あー、ヴィンスロット。」

 皇帝であり彼らの父であるアルスロッドが、大きく息を吐きながら覚悟を決めたように切り出した。

「はい、父上。」

「実はだな、お前に大事な話があるのだ。それはな……、」

 こうして母と弟が自分とは離れて、これからは月の神殿で暮らすことを告げられたヴィンスロットが、大爆発を起こしたのは言うまでもない…。

「『闇魔王』を滅する前に、俺らが滅せられるかと思った。」

 これもまた、後にライオッドがしみじみと語ったことである。


 王宮で人々が「希望」を見出していた同じ頃、

<……クク……待ったぞ…待っていた……>

 暗い岩谷の牢獄で“それ”は呟いた。

<……光を許すな……我をこの獄に繋いだモノを許すな……>

 かすかに空いた線のような隙間から、細く黒い瘴気が外へと延びていく。

<…我の“器”だ……我の…ク…クク……>



 ~予兆~


 チ…チチチ…

 小鳥たちの軽やかなさえずり共に、朝の柔らかな光と森から朝露の香りを纏った爽やかな風が、女官によって開けられた窓から室内へと流れ込んできた。

「皇子様、朝ですよ。さぁ、お目覚めになりましょうね。」

 その優しい声掛けに、夢の中で遊んでいた幼子は寝台の中で軽く身じろぎながら、ゆっくりとその体を起こした。

「…ん…おはよう、ラアナ。」

 まだ少し眠そうな可愛らしい声に、「ラアナ」と呼ばれた年若い女官は微笑みを深くした。

 ラアナはダリオンの国境近くの地域を管轄していた役所から、1年前にここ月の神殿に配属されてきた新人の女官だ。配属された当初は『月の御子付き』の女官、ということに戸惑いや不安も感じていたが、初めて皇子に会った時からその緊張はラアナの中で杞憂となり、今では皇子のそばでお世話をすることが一番の喜びとなり、誇りとなっている。

 皇子の名はゼフィール・エルド・オルディリア。オルディリア皇国の第2皇子にして、千年振りに誕生した『月の御子』だ。まだ3歳という幼さだが、透き通るような白い肌は、漆黒の夜を溶かしたような艶やかな黒髪に縁どられ、濃紺の大きな瞳はまるで明るい夜の星空を映したようにキラキラと輝いている。世間ではあまり良い印象のない呼称ではあるのだが、その美しく愛らしい姿は、まさに『月の御子』と呼ばれるにふさわしいとラアナは思っていた。

「おはようございます、ゼフィール皇子様。お支度をして、お母さまのお部屋に参りましょう。」

 ラアナはそう言うと、手際よくゼフィールの身支度を始めた。


「おはようございます、母様。」

 楽しくラアナとおしゃべりしながら身支度を整えたゼフィールが、部屋の扉から母である皇妃コーデリアのそばへ駆け寄っていった。

「おはよう、可愛いゼフィール。よくお休みになりましたか?」

 と、コーデリア皇妃も優しくその小さな体を抱きしめる。母にギュッとされた嬉しさで、ゼフィールの丸く柔らかな白い頬は、ぽうっととバラ色に染まった。そんな毎朝繰り返される母子の暖かいルーティンは、そばに控える女官や神官たちの心を、いつも幸せにしていた。


 3年前、『月の御子』の誕生に際し、御子を神殿で養育することが決まった時、月の神殿で働く神官たちの間には少なからず戸惑いや不安があった。これまで『月の御子』と言えば、それはすなわちあのザルア山に封印されている『闇魔王』のことを指している、と子どもの頃から昔語りで聞かされてきたからだ。大人になり、『月の御子』=『闇魔王』ではないと頭ではわかっていても、子どもの頃に強く印象付けられたイメージというものは、そう簡単に払拭できるものではない。

 しかし、そんな彼らの払拭しきれずにいた「不安」は、皇妃とその腕に抱かれた皇子の姿を目にした時、一瞬にして見事に吹き飛んでしまった。

(なんという美しい月の光だろう…!)

 この皇子こそ真の月の神殿の主であるという確信と、主を迎えた誇らしさと喜びが神官たちの顔に浮かぶのを見て、神官たちの反応を密かに心配していた皇妃と神官長は安堵の視線を交わし合ったものだった。その日以来、『月の御子』であるゼフィールは、月の神殿のみんなから愛され守られてすくすくと育ち、誰をも魅了する美しく愛らしい子どもに成長していった。


 そんないつもと変わらぬ幸福感溢れる母子の朝食風景に、これもいつもと変わらぬ声掛けがなされた。

「皇妃様、ゼフィール皇子様、王宮からの知らせでございます。」

 声をかけた神官の声にも表情にも、どこか笑いたいのを堪えるかのような明るさが滲んでいる。

「ヴィンスロット皇子様が、皇妃様とゼフィール皇子様に朝のご挨拶にいらっしゃるとのことです。」

 実はこの声掛け、月の神殿の者にとっては3年間欠かさずに行われる朝のルーティンのひとつだ。こうなるともういちいち律義に報告するのもどうなんだ、と思わないでもないが、この声掛けに毎度喜びに顔をぱぁっと輝かせる愛らしいゼフィールの様子を間近に見る特権を、手放す気などさらさらない神官たちであった。皇妃もそんな幼い我が子の様子にくすっと微笑んで

「さぁ、お兄様が来る前に食事を済ませましょうね。あぁでも、慌ててはいけませんよ。」

 と、急いで食事を口いっぱいに頬張ろうとしているゼフィールを、優しくたしなめた。


「母上!ゼフィール!おはようございます。今朝もご機嫌麗しゅうございますでしょうか?」

 月の神官名物、「朝の報告」からしばらく後に、月の神殿に明るく元気な声が響き渡った。声の主である『太陽の御子』ヴィンスロットは、今年で10歳になった。この3年で背も伸び、少年らしい健康的なすらりとしなやかな肢体と、ますます輝きを増したオーラを纏った生命力溢れるその姿は、月の神殿に朝を運ぶまさに『太陽』そのものだった。

「ヴィー!」

 ゼフィールは兄の姿を見つけると、兄の名を呼びながら満面の笑みで彼に飛びついた。そんな弟の小さな体を、ヴィンスロットも大事そうに受け止める。実はまだ3歳のゼフィールは「ヴィンスロット」という兄の名前を上手く言えず、「ヴィー」と略して呼んでいた。ヴィンスロット自身も、弟のその可愛らしい呼び方がとても気に入っていて、弟以外には「ヴィー」と呼ぶのを許さなかったほどだ。いかにも子供らしい独占欲の表れだったが、そのまだ子どもといえるこの皇子に、母と弟と離れて暮らす寂しい思いを我慢させているのだ。これくらいは甘受するべきだろうと、周囲の大人たちは思っていた。

 3年前、弟と一緒に暮らせないことを父である皇帝アルスロッドに伝えられた時は、絶対に承服できぬと大爆発を起こしたヴィンスロットだが、両親の根気良い説得と一つの約束で渋々とそれを受け入れた。その日から3年間、離れて暮らすのを承知する代わりに交わした「毎日月の神殿へ行って弟に会う」という約束は、これまで1日たりとも破られたことはない。毎朝必ず母である皇妃とゼフィールに会うため月の神殿を訪れ、しばし一緒に過ごし昼前には王宮に戻って第一皇子としての教育を受ける、という日々を過ごしている。講義が休みの時などは午後まで神殿にいることもあるのだが、必ず日のあるうちに王宮に戻ることを母であるコーデリア皇妃に、きつく約束させられていた。

 2人の息子を無事に育てるのは、母として、そしてこの国の皇妃として、自分が神から課せられた使命だとコーデリアは思っている。だからこそ、「闇」の力が優位となる夜に、ヴィンスロットが外にいる事を決して許さなかったのだ。以前はそんな皇妃の厳しさを疑問に思ったこともあったが、今はヴィンスロットも『御子』である自分たちの事や、“伝承”についてもよく理解している。だからこそ、母の厳しさも愛ゆえであると素直に受け止め、不満を持ったりなどはしていない。だが月の神殿を後にする時、ゼフィールが大きな夜空色の瞳に涙をいっぱいに溜めてじっと自分を見つめてくる姿と目にすると、つい母との約束などどこかへ吹き飛んでしまいそうになるのだが……。

「今日は何をしようか、ゼフィール。」

「お外のお話がいいです!ヴィー兄様。」

 暖かい光の中、仲睦まじく過ごすそんな2人の様子を、コーデリアは温かく見守りながら

(わたくしの愛しい子ども達……どうか、この時が長く続きますように……。)

 そう心の中でそっと願った。


 しかし運命の歯車は、そんな母の願いとは裏腹にゆっくりと確実に進み、新たな扉を開こうとしていた。


 穏やかな日々が続いていたある日、月の神殿に北方の役所から管轄する村について、1つの報告がもたらされた。オルディリア皇国では、広い国土をカバーするために各地方にその地域を管轄する「役所」を設けている。その役所に「太陽の部署」と「月の部署」の分室を配置し、自治や医療など担当する地域に暮らす人々の生活のサポートを行うとともに、各地の状況を伝える皇国中央とのパイプラインの役割も果たしていた。こうしてオルディリア全土からもたらされる情報は、ここ月の神殿の情報集積室へ集められ、内容を精査した後に対処に適切な部署へと報告されていく仕組みになっていた。

 北方の役所からの報告によると、ザルア樹海にほど近い辺境の村で、最近になって植物や小型の獣などに瘴気による異変が相次いでいる、ということだった。もともとザルア樹海は、『闇魔王』を封印するザルア山を中心に広がる樹海であるがゆえに、他の地に比べ瘴気が溜まりやすい。そのため、これまでも小規模な瘴気被害はオルディリア側だけでなく、樹海に接しているダリオン側でも時折発生し、その度に討伐や浄化が行われてきた。それゆえ、近隣の村々や人に被害が及んでいないような今回の件は、とりたてて特別なものではなく、むしろ小規模で起こりがちな事案と言えた。しかし情報集積室の神官リュードルフは、この報告に一種の胸騒ぎを感じていた。

(何かがおかしい……いや、これまでがおかしかったのか?)

 実はゼフィール誕生からこの3年間、こうした瘴気被害の報告は一つもなかったのだ。これは『月の御子』誕生を受けより一層瘴気への対策を強化した、その成果であろうと誰もが思っていた。それが今、なぜ突然瘴気被害が現れたのか…、そんな考えを巡らせながら、リュードルフは神官長執務室の扉を開いた。


「…ザルアの封印に綻びが生じたのでしょうか?」

 リュードルフは神官長ウォンラットへの報告の最後に、そう付け加えた。被害報告の内容を聞く限りでは、それほど重大な事案とは考えにくい。しかし、瘴気が動いたということは、()が動いたということにも繋がる…。

(ついに……といったことなのか。)

 リュードルフが漏らした不安はそのまま、ウォンラットの懸念でもあった。視線を下げ考えを巡らせていたウォンラットは一つ息を吐くと顔を上げ、リュードルフに向かってこう命じた。

「リュードルフ、ここへジュリアスを呼んでまいれ。」

「かしこまりました。」

 リュードルフはそう答えると、足早に執務室を後にした。

(杞憂なのかもしれない。)

 ウォンラットは今自分が感じている不安に、まだ確信が持ててはいなかった。しかし、今は『月の御子』がいる。たとえ杞憂であったとしても、万が一を見過ごしてしまう方が、よほど危険であることはよくわかっていた。ウォンラットの頭の中でフル回転していた思考は、ノックの音と共に一時中断された。

「神官長、ジュリアスです。」

「あぁ、入ってくれ。」

 呼び出しに応じたジュリアスが、扉を開いて中へ入ってきた。

「すでに聞き及んでいるとは思うが…、どうやらザルアが動いたようだ。」

「はい。」

 短く答えたジュリアスの瞳にも、緊張の色が浮かんでいる。神官長が言ったとおり、すでにどんな報告があったのかはここに来るまでに聞いていた。そして彼もまた、ウォンラットと同じ疑念を持ってこの場に来ていたのだ。

「動きというにはごくわずかなものだが…、これが大きな亀裂に向けた前兆ではないとは決して言いきれぬ。ゼフィール皇子様が…『月の御子』様がいる今、少しの疑念も残すべきではないだろう。」

「私もそう思います。幸い被害は小さいですし、私が月の騎士団数名と共に村へ行き、状況を把握してきましょう。」

 月の騎士団は、浄化能力と武術に秀でた集団で月の神殿に所属している。主に月の神殿の警護や魔獣の討伐、瘴気の浄化などを担当しており、普段は王宮所属の太陽の騎士団と共に行動することが多いが、情報収集や小規模の浄化などでは単独で動くこともある。

「頼む。本来ならばお前が出る必要のない規模の瘴気被害だと思うが、わずかな異変も見逃したくはない。場合によっては、現地ですぐに対処してもらわねばならないからな。」

 ジュリアスはこの月の神殿の次席神官。つまり、神官長に次ぐ地位にいるため、普段であればこのような小規模な事案に、先行して現場に出ることはまずない。それほど、このもたらされた瘴気被害の報告に、ウォンラット神官長もジュリアス自身も、言い知れぬ危機感を感じていた。

 執務室の会談後、ジュリアスは速やかに月の騎士団から数名の騎士を選出し、月の神殿を後にした。村までは馬で約半日。『闇』の気配が感じやすくなる夜の入り口、月の水の時刻(17時~19時)には現地に到着する算段だ。そこから対処にあたれば、状況の把握にさほど時を必要としないだろうし、今回の騒動も早めに決着がつくだろう。

 ジュリアスはそう、思っていた。




 ~異変~



 ジュリアスたちが出立した時、月の神殿はいつもと変わらぬ時間を過ごしていた。ヴィンスロットはもう王宮へ戻っており、しばらくぐずっていたゼフィールも機嫌を取り戻し、皇妃の部屋でリュドミラ女官長やラアナと遊んでいた。そう、それは本当にいつもと変わらぬ、平穏で“当たり前”の風景。だが人は、心の奥底では気が付いている。“当たり前”とは決して永久に続くものではなく、突如として覆される実はとても危ういものであることを。ただ、認めたくないだけなのだ。


「……⁉…ぐぅっ!」

 普段と変わらず己の業務にあたっていた神官の一人が、突如として胸を押さえその場に倒れ込んだ。

「おい、どうした⁉」

 驚いた同僚が駆け寄ろうとしたその瞬間、倒れた神官の体から瘴気の塊が、まるで黒い枝のような形となり幾本も飛び出した。何が起こったのかわからずとっさに反応できなかった同僚は、瘴気の枝に体を何か所か傷つけられながら、その勢いで後ろに吹き飛ばされた。衝撃と痛みで顔を歪めながら、それでも何が起きたのかと倒れたはずの神官の方へ眼を向けると、そこには瘴気に侵され土色に変色した顔を引きつらせた彼が、背中から瘴気の枝を生やしたままゆらりと動き出すところだった。

 この異常事態は、実は月の神殿のいたるところ同時多発的に起こっていた。突然のことにパニックになる神殿内の状況をなんとか把握し、事態を対処するための指示を情報集積室から飛ばしていたリュードルフのもとに、瘴気の異様な高まりを感知したウォンラット神官長も急遽やってきた。

「状況はどうなっている?」

「数名の神官が瘴気の“宿り木”となって神殿内を徘徊しています。神殿内に残っている騎士たちが対応にあたっていますが、まだ瘴気の動きを抑えることはできていません。負傷者も多数出ていますが、こちらは医療課の者たちが対処しています。」

 報告を受けたウォンラットは、眉間に深い縦皺を刻んだ。

(まさか…こんな手段に打ってこようとは…!)

 この3年、ザルアへの警戒はこれまで以上に強化してきた。それでも()はそれを搔い潜り、『月の御子』のすぐそばまでその触手を伸ばしてきたというのか……!

(だが、決して思う通りなどにはさせん!)

「リュードルフ、すぐに北方の役所へ遠話を飛ばしこの事態を伝えよ。そして、ザルアからの瘴気の流れを断つよう、ジュリアスに指示を出すのだ。」

「はい!」

「瘴気は『月の御子』を目指しておる。それは何としても、阻止せねばならん。王宮からの応援はすぐに到着するだろうから、それまでは何としても持ちこたえよ。わたしは…皇妃様方と共に『聖樹の間』へ行く。」

 そうリュードルフに告げると、ウォンラットは足早に部屋を後にした。


 その頃、皇妃の部屋でも外の異変は伝わり、コーデリアが行動を起こそうとしていた。

「リュドミラ、外の護衛を部屋の中へ入れなさい。さぁゼフィール、母様のところへいらっしゃい。」

 ゼフィールは広げられた母の胸に飛び込んだ。外の異変も、大人たちの緊張も、敏感に感じ取っているのだろう。声にはしなかったが、ぎゅっとコーデリアにしがみつく小さな手からは、かすかな震えが伝わってきた。そんな我が子を安心させるように、コーデリアは優しくだがしっかりと小さな体を抱きしめた。

「ラアナ、その棚にある銀の小箱を取ってちょうだい。」

「はい、皇妃様」

 ラアナは支持された小箱を、コーデリアへ手渡した。その時、部屋の扉が慌ただしくノックされ、応えも待たずに開いた。部屋には一瞬緊張が走り、護衛騎士二人も剣を手に身構えたが、そこに現れたのが神官長ウォンラットであるとわかると、誰もが安堵の息を吐いた。

「皇妃様。どうやら……“万が一”が来てしまったようです。急ぎ『聖樹の間』へまいりましょう。」

 神官長の言葉に、コーデリアの瞳がなんとも形容し難い色に揺れた。


 オルディリアを含めた6大国には、それぞれの守護能力が具現化した『幻獣』が存在し、それぞれの王家を守護する役割を担っている。彼らは彼らが守護する主の求めに応じて姿を現すため、普段は人前に姿を見せることはなく、彼らが宿()()()()の中で微睡んでいる。宿るモノは国によってそれぞれだが、ここオルディリア皇国では金と銀の対なる大木『聖樹』が宿るモノとなっている。『金の聖樹』は王宮にあり太陽の幻獣が、『銀の聖樹』は月の神殿にあり月の幻獣が宿り、大木のある場所『聖樹の間』へは王家の許可なく入出することはできないようになっていた。つまり『聖樹の間』は、王宮と月の神殿において一番守護の力が強い場所で、堅固なシェルターともいえる場所なのだ。なのでこのような緊急事態の場合、王族を非難させる場所としてそこへ向かうのは当然のことではあった。


「神官長!皇妃様!お急ぎください!瘴気が近づいてきているようです!」

 外の気配を警戒していた護衛騎士の一人が、行動を促すべく叫んだ。

「ここは我らが食い止めます。どうかお早く!」

「皇妃様、私もここに残ります。」

「リュドミラ!」

「女官長様⁉」

 突然の女官長の言葉に、コーデリアとラアナが声を上げた。

「瘴気を長く足止めさせるなら、より強い力で対抗するのが得策。私の力も騎士様方のお役に立ちましょう。」

 女官長を務めるだけあり、リュドミラも高い能力を有している。皇妃をまっすぐに見つめる瞳は、揺るがない決意に満ちていた。

「女官長様!でしたらわたしも…!」

「いいえ、あなたは皇妃様方にお供しなさい。そして、皇妃様の手助けをするのです。」

 必死の表情で訴えたラアナをきっぱりと制し、リュドミラは上官としてそう指示を与えた。

「女官長様……!」

「よいですねラアナ、頼みましたよ。…さぁ、行ってください!」

 リュドミラの力強い声に背中を押され、コーデリア皇妃とゼフィール皇子、ウォンラット神官長、ラアナの4人は、『聖樹の間』へと続く扉の中へ入っていった。それを見届け、2人の騎士たちは瘴気の侵入に備え部屋に結果を張り、リュドミラは皇妃たちが姿を消した扉を閉めその扉の前にさらなる結界を張る。

(どうか……どうかご無事に御子様を……)

 そう願ったリュドミラの目前まで、瘴気の枝は迫っていた。


 一方、瘴気被害の対応のため月の神殿を後にしていたジュリアスたち一行は、報告を上げてきた北方の役所に到着してすぐ、月の神殿の異変を知った。

(おのれ…!これが狙いだったか!)

 月の神殿を護る人材を分散し、隙を作る。そんな()の仕掛けたワナにまんまと乗せられてしまうとは……!ギリリと食いしばった口の端から、獣のようなうめき声を漏らしたジュリアスに、遠話で状況を伝えるリュードルフが

<こちらは王宮からの援護があります。ですのでジュリアス殿たちは、北に留まりザルアからの瘴気の流れを断ってください!これ以上瘴気を濃くし、ザルアへと続く道を開いてはならぬと神官長からのご指示です!お願いします!>

 いつもより硬い声で早口にそう告げ、そこで遠話は途絶えた。

「ジュリアス殿!」

 共に月の神殿からここに来た月の騎士たちから、焦りと憤りのこもった声がかけられた。固く握りしめられた拳を震わせながら

「……これから取って返しても間に合わん。それよりも神官長の指示通り、ここにいる我らだからこそできることをする。たとえ…たとえ砂粒の1つたりとも神殿へ瘴気を流れさせてなどなるものか!」

 そう言い放ったジュリアスの鋭い声に、騎士たちも己のすべきことをなすため動き出した。


 そして王宮にも、月の神殿の異変はすぐに伝わった。皇帝アルスロッドは直ちに救援に向かうよう皇弟ライオッドに指示を出し、ライオッドも素早く太陽の騎士団を招集し、自らが先頭となって行動を開始した。もちろんアルスロッドも自ら月の神殿へ赴くつもりだが、しかし彼にはその前にやっておかなければならないことがあった。

(こんなに早く“万が一”が起こってしまうとは…!)

 きっと月の神殿のウォンラットも、自分と同じように考え行動を起こしていることだろう。今は少しの迷いが命取りになる。アルスロッドはまず王宮にある『聖樹の間』へと、足早に向かっていった。


 月の神殿では、皇妃の部屋から無事に脱出したコーデリアたちが、月の神殿の『聖樹の間』にたどり着いていた。コーデリア皇妃はゼフィールをその腕に抱えたまま、白銀に輝く『聖樹』へ近づくとその右手をかざし

「白夜姫、おいでなさい。」

 と語りかけた。

 すると『聖樹』から白銀の光の塊が抜け出すと、白銀に輝く長い鬣を持った白虎の姿となって、コーデリアたちの前に現れた。この虎の姿をしたものこそ、月の聖樹に宿るオルディリアの守護幻獣“白夜姫(びゃくやき)”だ。普段は守護する直系の王族以外の前に、このように姿を顕現することはほとんどないため、ラアナは初めて見るその神々しい姿に目を見張った。

 月の幻獣は皇妃に近づくと、今度は白銀の長い髪と虹彩のない銀一色の瞳を持った美女へとさらに姿を変えた。背が高くしなやかな肢体から溢れるのは、まるで月光を集めて作った剣のような、鋭く研ぎ澄まされた“気”。それがこの美女が人ではないことを、如実に物語っていた。

「皇妃、そして我が御子。」

 そう言って皇妃の前に肩膝をつき礼をとった白夜姫に、コーデリアはそっと自分が抱いていた小さな我が子を引き渡す。月の幻獣である白夜姫のことを信頼できるものとして認識しているのであろう、ゼフィールもおとなしく白夜姫の腕に抱かれた。ただ瞳だけは少し不安げに、母の顔をじっと見つめている。そして、ゼフィールを渡し終えたコーデリア皇妃は、我が子を抱く月の幻獣に向かい

「白夜姫、()()()()皇子を連れて異界へ行くのです。」

 と、そう静かに命じた。


 それは、ゼフィールとコーデリア皇妃が月の神殿で暮らすようになってしばらく経ったある日のこと。その日は珍しくヴィンスロットと共に皇帝アルスロッドも、月の神殿を訪れていた。なぜならば神官長であるウォンラットから、今後のことについて少し話したいことがある、と申し出があったからだ。しばし家族水入らずの時を過ごした後、子ども達はリュドミラたち女官に任せ、皇帝と皇妃そして神官長ウォンラットは別室で話をすることになった。

「お時間を取っていただき、ありがとうございます。皇帝陛下。」

「何かあったのか?神官長。」

 アルスロッドは、少し険しい表情をしたウォンラットに向かい、そう問いかけた。

「はい……いいえ、()()()()()何も起こってはおりません。」

 ウォンラットの答えは、なんとも曖昧ではっきりしないものだった。

「ではなんだというのだ、ウォンラット。」

 アルスロッドの声にも、苛立ちの色が混ざる。皇帝の傍らにいる皇妃も、その表情を幾分か不安に曇らせていた。その2人の様子に、ウォンラット神官長はふぅっと一つ息を吐きだし、意を決したように話し始めた。

「……ザルアの封印の事でございます。」

 その言葉に、皇帝と皇妃の顔が一気に緊張で強張った。

「これからお話しすることは、ただのわたしの杞憂に過ぎないかもしれません。しかし、あり得ぬとも断言できない事ではあります。……かの『闇魔王』がザルア山へ封印されてから千年、その間に小さな綻びが幾度が生じ、瘴気による害がもたらされたことは、ご存知でしょう。」

 ウォンラットの言う通り、ザルア山の封印は長い年月ずっとその効力を保っていたわけではない。時の経過とともにその効力は徐々に低下し、その度に生じた小さな綻びから『闇魔王』の瘴気が溢れ出し、オルディリアだけでなく隣国のダリオンや他の国々にも影響を及ぼしたこともあった。その度に、オルディリア皇国を中心に各国が協力し、瘴気の浄化と綻びを正す封印の強化を行うことで、これまで封印の効力を保ってきたのだ。

「千年振りに『月の御子』様がお生まれになった今、ザルアのあ奴は御子様を、己の“器”を手に入れようと、これまで以上に外への影響力を強めてくるはず。綻びを感知してもこれまでと同様の対処では、後れを取ってしまうかもしれません。そうなった時、奴の手からゼフィール様を果たして本当にお守りできるのか……陛下、わたしは正直不安に思っているのでございます。」

 ウォンラットのその不安を完全に否定できる者など、この場には誰もいなかった。アルスロッドは奥歯をギリリと食いしばり、コーデリアは震える手を握り締めた。

「むろん我らも、このまま月の神殿で『月の御子』様をお育てし、『太陽の御子』様と共に立派に立たれるよう、全力でお守りしていく所存です。しかしそれでも、奴の手を防ぎきれぬという“万が一”の事態が起こり得る可能性を捨てきれないのであれば、その“万が一”の備えを準備するのもまたわたしの、月の神官長たるこのわたしの務めでしょう。」

「……何か、考えがあるのか?」

 皇帝の問いに神官長が答える。

「はい。もしも“万が一”が起きた場合、『月の御子』様を奴の目と手が届かないところ……“異界”へお移しするのが一番かと。」

 想像を超えた神官長の言葉に、皇帝と皇妃は息をのんだ。

「我々の存在するこの世界とは切り離された“異界”であれば、如何に『闇魔王』であろうとも、封印を完全に解かず“器”も持たぬままでは、手を出すことはおろか存在を掴むこともできはしません。ですので、本当に“万が一”という場合は、この方法でゼフィール皇子様をお守りすべきと考えるのです。」

「そんなことが……そんなことが本当に可能なのですか?“異界”だなどと…そんな…」

 神官長の話に混乱したコーデリアは、その動揺をそのまま言葉にした。むろんアルスロッドの心情も、コーデリアと同じものだ。

「はい。『聖樹』のエネルギーを媒体にすれば、“異界”への扉を開くことができましょう。そして皇子をお送りした後に扉を閉じれば、完全に皇子の存在を隠すことが可能です。」

「しかし隠せたとして、その後ゼフィールはどうなる!それに再び戻る方法は?その保証なしには、お前の言うことを承諾することなど到底できぬ!」

 感情をあらわにしたアルスロッドの言葉は、皇帝ではなく一人の父親としての心からの言葉だった。

「……もちろん、このわたしの提案はあくまで“緊急避難”であり、『月の御子』様を無事にお育てするための時間稼ぎです。そのために…」

「わたしが我が御子のお供をします。皇帝陛下、皇妃陛下。」

 涼やかで凛とした声が、ウォンラットの言葉を引き継いだ。そこにはいつの間に現れたのか、白銀の長い髪と虹彩を持たぬ銀一色の瞳を持った女性…月の幻獣・白夜姫が立っていた。

「我が御子のことはわたしがおそばでお守りします。それに、御子も私も『太陽』という半身を持つ身。呼び合う力は“異界”の扉を再び開き、必ずこの国に、我らの半身の元に戻りましょう。」

 そう告げた白夜姫の瞳は、揺らぐことのない自信に満ち溢れていた。あぁ、そうだ。この月の幻獣ならば、我が子を必ず護り再び戻ってくれるだろう。不安が完全に消えたわけではない。しかし、オルディリア皇国の守護幻獣の確固たる言葉は、2人が信頼を寄せるのに十分すぎるものだった。

「ですがこれはあくまで“万が一”を想定したものです。これが……このわたしの杞憂に過ぎなかったと、そう言って笑い話になる未来が来ることを、心より願います。」

 そう、ウォンラット神官長は締めくくった。



 ~別離~



「白夜姫、皇子と共に“異界”へ行くのです。」

 皇妃のその言葉に、事情を知らないラアナがあまりの衝撃にヒュッと、声にならない叫びをあげた。そんなラアナの様子を気にかける余裕のない皇妃と神官長は、自分たちが“万が一”の時に備えていた計画を実行すべく動き続ける。

「ゼフィール、さぁこれを着けて。」

 コーデリアは自室から持ってきた銀の小箱の中から、ゼフィールの瞳の色とよく似た濃紺の石のついたペンダントを取り出し、小さな我が子の首にかけた。

 濃紺の石は『夜の雫』と呼ばれる大変珍しい魔石で、闇の力を吸収する性質を持っているため別名『封じの石』とも呼ばれている。この魔石は、オルディリア皇国の夜の森でわずかに採掘できるだけで、純度の高いモノともなればその希少価値は計り知れない。そのため一般には流通せず、各国の王家のみが所有を許され、大掛かりな浄化の際にのみ利用されるまさに貴重品だ。

 そして今、ゼフィールの胸に輝く『夜の雫』は、純度・大きさ共に最高級のものだった。

「よいですか、ゼフィール。これよりしばらく、母様と離れて白夜姫と暮らすのです。大丈夫ですよ、またすぐに会えます。それにこのペンダントは、母様がいつも坊やと一緒にいるという約束の証しです。だから……だから安心して、そして元気でいるのですよ。」

 優しいけれど常とは違う母の様子に、強烈な不安と恐怖に襲われた幼い皇子は、その大きな濃紺の瞳からポロポロと涙をこぼしながら、白夜姫の腕の中から必死に母の方へと手を伸ばそうとした。

「や…母さま……やぁ…」

 そんな幼い我が子を抱きしめてやりたい気持ちを必死で抑え、コーデリアは唄うように呪を詠唱し始めた。その詠唱に応えるかのようにペンダントの『夜の雫』がポウっと輝きだし、幼いゼフィールを包み込んでいく。すると、涙に濡れた瞳はゆっくりと閉じられてゆき、小さな皇子は月の幻獣の腕の中で深い眠りに落ちていった。

「こちらも準備が整いました、皇妃様。」

 コーデリアたちから少し離れた場所で『聖樹』に向かい、“異界”への扉を開くための術を行っていたウォンラット神官長が声をかけた。それは、この愛する小さな我が子と別れる合図に他ならない。

(ゼフィール……私の可愛い子…!)

 涙で視界が歪む中、もう一度その柔らかな頬に触れようと、コーデリアが手を伸ばしかけた瞬間

「…だ……め!」

 ふり絞るようなラアナの声が聞こえたと同時に、皇妃と神官長そして皇子を抱いた白夜姫は、瘴気の枝に襲われていた。白夜姫はとっさに皇子を護るため自らのエネルギーで結界を張り枝の攻撃を避けたが、不意を突かれた皇妃と神官長は避けることができず、瘴気の枝に刺し貫かれてしまった。

「なにが…!」

 そう短く叫んだ幻獣と傷つき倒れた2人の目に映ったのは、背中から幾本もの瘴気の枝を生やしたラアナの姿だった。白夜姫は、ギチギチと音を立て蠢いている瘴気の枝の次なる攻撃に身構えたが、なぜか枝は向かってくる動きを止めていた。

(…?)

 不思議に思いよく見ると、瘴気に完全に乗っ取られたと思われたラアナだが、土色の顔色の中、右目だけがまだラアナ自身の意思を宿し、血の涙に濡れていた。おそらく残された理性で、必死に瘴気の枝を抑え込んでいるのだろう。だがその抵抗も、いつまでもつかわからない。

 皇妃と神官長は傷ついた体を奮い立たせ、神官長は『聖樹』に出現させた扉を保持するため術の継続を行い、皇妃はその邪魔をさせないため盾となる結界を張った。

「白夜姫よ!急ぐのだ!」

「どうか……どうかゼフィールを、頼みます。」

 皇妃と神官長、そしてラアナが創り出したこの瞬間を無駄にすることはできない。白夜姫は小さな皇子を胸に抱えたまま、『聖樹』の中央に開いた“異界”への扉に飛び込んでいった。それを確認すると、ウォンラットはすぐさま扉を閉じるため術を解除する。

 その時、入れ替わるように『聖樹』の中から金色の光が飛び出してきた。そして今まさに限界を迎えようとしていたラアナに、一直線に向かっていくとその体を貫いていった。

(あぁ……)

 ラアナの体を蝕んでいた瘴気が、圧倒的な光の浄化により消えてゆく。ラアナは瘴気の支配から急速に解放されていったが、身体の内に巣食った瘴気と戦い続けたラアナの体は、もはや生命を維持できるだけの力を残してはいなかった。

「……ごめん…な…さい……」

 そうつぶやいたラアナの血の気のない頬に、誰かがそっと手を添えた。

 その手の主は、褐色の肌と金色の髪、それに虹彩のない黄金の瞳を持った青年。実は彼こそが、先程ラアナの体を刺し貫いた光の正体であり、白夜姫の半身であるオルディリア皇国の太陽の幻獣“煌牙輝(こうがき)”だった。煌牙輝は皇帝アルスロッドの命により、王宮から『聖樹』を通ってここに現れたのだ。

「謝るな。お前はよくやった。安心して逝け。」

 ぶっきらぼうだが優しい煌牙輝の言葉に、苦しげだったラアナの表情が和らいでゆく。

(どうか……ゼフィール様がご無事でありますよう……そして、お幸せに……)

 一粒の涙を残し、ラアナの眼は静かに閉じられていった。


 王宮では、『聖樹の間』で煌牙輝に月の神殿へ向かうよう命を出した皇帝アルスロッドが、今度は自らの執務室に向かって足早に歩を進めていた。そこに、オルディリア皇国の第一皇子で『太陽の御子』でもある彼の息子、ヴィンスロットを待たせていたのだ。

「父上!月の神殿に向かわれるのですよね。俺も一緒に…」

「ダメだ。」

 部屋に入った途端、勢いに任せて月の神殿行きを願い出た皇子に、アルスロッドは短くだがはっきりと拒絶の意を伝えた。

「なぜですか⁉俺だって『太陽の御子』です!瘴気に遅れなど…!」

「だからだ、ヴィンスロット。」

 アルスロッドの低く重い声に威圧され、ヴィンスロットはそれ以上言葉が出せなかった。

「よく聞くのだ。お前は『太陽の御子』として突出した力を持っているとはいえ、まだそれを正しく使いこなせぬ子供だ。だから今は、この父を信じお前はここで待つのだ。決して、私は決して、我が息子でありオルディリアの太陽と月であるお前たちのどちらも失わぬ。」

「……父上…。」

 そうだ。まだ実戦経験もない子どもの自分が行ったところで、足手まといになるだけかもしれない。そしてなにより、父である皇帝アルスロッドの強さも、十分にわかっている。でも……

「男がそのような顔をするな。」

 今にも泣きだしそうに顔を歪めている息子の頬を、父は大きなその手で軽く触れ

「父を信じよ。」

 と言うと、ヴィンスロットに背を向けて執務室から足早に出ていった。

 父の姿が消え一人執務室に残されたヴィンスロットの胸には、不安という名の沈黙が重くのしかかってきた。父である皇帝アルスロッドの強さを信じないわけではない。それに、ライオッド叔父上もウォンラット神官長もみんないる。瘴気になど負けるはずがない者たちばかりだ。なのに、得体のしれない感情は高まるばかりで、ヴィンスロットの心を騒がせ続けた。

「母上…ゼフィール…!」

 なぜ自分はまだ子供なのだろう。あの日、自分の半身である弟が生まれたあの日、自分が守ると、必ず守ると約束したのに。

 そんな自問を繰り返していたヴィンスロットの脳に突然、愛しい半身である弟の声が響いた。

≪……いや…こわい……兄様……ヴィー……ヴィ――‼≫

 ヴィンスロットは弾かれたように部屋の扉へ向かい、外へ飛び出そうとした。だが、その扉はびくとも動かない。この皇子が外に出ようとすることも想定内だったのだろう。皇帝は部屋を後にする時、皇子が決して外に出られぬよう、扉に強い封印の呪と部屋全体を覆う結界を施していったのだ。

「開けてくれ!ゼフィールが呼んでるんだ!ゼフィールが…!」

 力いっぱい自分の力をぶつけたが、皇帝の封印を破ることは叶わなかった。それでもヴィンスロットは扉を叩き叫び続けた。

「お願いだ!出してくれ!俺を行かせてくれ!…ここを開けろぉ―――っ‼」

 扉を叩き続ける手には、すでに血が滲んでいた。

「ゼフィール―――‼」

 頭の中に響いてきたゼフィールの声も、閉ざされた部屋に響くヴィンスロットの声も、すべては沈黙の中へと消えていった。


 月の神殿に駆け付けたライオッドと太陽の騎士団は、直ちに神殿内にはびこる瘴気を滅するため剣を振るい、苦しい戦いを続けていた月の神殿の神官たちの援護に入った。すると膠着状態だった戦況はすぐにオルディリア側の優位となり、事態は徐々に終結に向けて動き出していった。

 王宮でのすべきことを終えて駆け付けた皇帝アルスロッドは、ライオッドと合流すると皇妃達がいるはずの『聖樹の間』を目指した。途中襲い掛かる瘴気の枝を薙ぎ払いながら到達した皇妃の部屋には、『聖樹の間』への入り口を死守していた2人の月の騎士とリュドミラが倒れていた。多くの傷を負い意識も朦朧としていた3人を共に来た太陽の騎士に任せ、アルスロッドとライオッドの2人は『聖樹の間』へと入っていった。

 飛び込んだ『聖樹の間』で2人が目にしたのは、ボロボロになって横たわったラアナの亡骸と、聖樹の前で膝をつきうずくまっているウォンラット神官長、そして……

「コーデリア!」

 太陽の幻獣・煌牙輝に抱きかかえられぐったりとしている皇妃、コーデリアの姿だった。

 アルスロッドは愛する妻の名を呼ぶと、その傍らへと駆け寄った。

「傷が深く瘴気のまわりが早すぎた……すまない、王よ。」

 虹彩のない黄金の瞳を悔しそうに歪めながら煌牙輝はアルフレッドにそう告げると、皇妃の体をそっと皇帝の腕の中へと移した。

「あ……アルスロッド様……」

「……コーデリア…遅くなってすまなかった。……」

「あの子は……ゼフィールは、…無事に行きましたか……?」

 皇妃のその切なる問いかけはに、ライオッドに支えられ近寄ってきた神官長が答えた。

「ご安心ください、皇妃様…。白夜姫と共にご無事に行かれました…。」

 それを聞いた皇妃は短く安堵の息を吐き、そっと目を閉じかすかに微笑んだ。そして再び視線を上げ、愛する夫を見つめた。

「…あなた……どうかあの子達を……私たちの子ども達を……お願いします……。」

「…コーデリア…」

 ゆるゆると自分の方へ伸ばされたコーデリアの手を、アルスロッドの大きな手がしっかりと握る。その熱を受け、愛する夫を見つめるコーデリアの瞳が大きく揺れ、万感の想いがこもった涙がこぼれ落ちた。

 そして静かに……とても静かに、唇に微笑みをたたえて永遠の眠りへと誘われていった。


「陛下……。」

 腕の中でこと切れた愛する皇妃の体を抱きしめ、必死に湧き上がる激情に耐えていたアルスロッドに、神官長が声をかけた。

「あの日にお話しした通り、『夜の雫』で月の御子様の力を抑制し記憶も…封印いたしました。『夜の雫』の効力は持って10年……効力を失うその時、ゼフィール様の封印は解かれ、閉ざされた“扉”は再び開かれましょう……っ!」

「ウォンラット!」

「神官長!」

 身体を折り吐血した神官長を、ライオッドがしっかりと支えた。瘴気の枝で深手を負いながら、“異界”への扉の開閉という大きな術を一人でやってのけたのだ。もう、限界が近かった。それでもウォンラットは荒くなった息を必死に整えながら、皇帝に向かってさらに言葉を続けた。

「10年後……必ず太陽と月の御子は並び立ちます。……それまで、どうかでき得る限りの準備を……。」

「心得たぞ。ウォンラット神官長。」

 力強い皇帝の応えに、ウォンラットは最大級の信頼を込めて礼をとると、そのまま力を無くし崩れ落ちるようにして息を引き取った。


 こうして、月の神殿で起こった瘴気による異変は幕を閉じていった。


 月の神殿での異変後、オルディリア皇国は悲しみに包まれながらもその事後処理に慌ただしく追われていた。この異変では、皇妃を含め十数人の犠牲者が出てしまったが、そのほとんどは瘴気の宿り木とされた者達だった。

 後日の調査で分かったことだが、ラアナを始め宿り木とされた者達は皆、3年前に行われたザルア樹海の調査に参加していた月の官吏や神官たちだった。しかし、月の部署に勤める彼らは、当然ながら月の力が強い者ばかりで、瘴気の気配にも敏感だったはずだ。にもかかわらず、その彼らでも感知できなかったほどのわずかな瘴気が、何らかの方法でその時彼らの体内に植え付けられたのが、今回の異変の発端であろうと結論付けられた。それほどわずかな瘴気の種は、皮肉にも彼らの月の力が隠れ蓑となり、誰にも気づかれることなく体内に潜み続け、「月の神殿」という月の力…すなわち闇の力が強い場所にあったことで一気に成長を遂げたのだ。彼らが月の神殿に配属になった時期はそれぞれ異なるが、おそらく1人の瘴気が溢れたのをきっかけとして、連鎖的に瘴気の暴走が始まったのだろう。この事変以降、それまでも行われていた官吏や神官、騎士たちへの定期的な瘴気チェックが、より厳重なものになったのは言うまでもない。

 こうした事態のあらましは、国内外へと広く伝えられた。月の神殿で起こったことを下手に隠し立てし、あらぬ憶測で人々が動揺せぬようにと、皇帝自らが指示を出したのだ。ただし、「『月の御子』を“異界”へ隠した」ということだけは、極秘事項として他国の王室のみに伝えられ、民へはただ「手の届かぬ場所」と説明するに止めることとした。また、北方でザルアから流れる瘴気の対応をしていたジュリアスの報告を受け、近くザルア山周辺の浄化と封印補強を目的とした、大掛かりな遠征が実施されることも決定し、人々の安心感を高めるためこれもまた広く周知された。


 あの日から1週間後、皇妃の葬儀も終え皇帝アルスロッドとその息子であるヴィンスロット皇子は、別離の場所となった月の神殿の『聖樹の間』に2人で訪れていた。

 ここで何があったのかは、父であるアルスロッドから聞かされてはいたが、実際に立ってみると話を聞いた時以上の悲しみと悔しさが、自分の奥底から湧き上がってくるのをヴィンスロットは感じていた。

「遠征は、父上も行かれるのですよね。」

 そう皇帝である父に問いかけたヴィンスロットの声は、複雑な感情を表すかのように少し沈んだものだった。今回の浄化遠征に、ヴィンスロットが同行する予定はない。また自分だけが置いていかれることへの不満もあるが、今はそれよりも父と離れる不安の方が、ヴィンスロットの心を揺さぶっているようだった。そんな息子の様子を察したアルスロッドは、その大きな手を息子のまだ少年らしい華奢な肩に置くと、静かに語りかけた。

「ヴィンスロット、よく覚えておくのだぞ。お前の母や月の神殿の者達が、その命を懸けてお前とゼフィールに未来を託したことを。……よいか、強くなれ、ヴィンスロット。国の皇子として、そしてゼフィールの兄として、母たちの願いに応えられる強い男になるのだ。10年後、この『聖樹の間』が別れの場ではなく再開の場となった時、そこから2人で新たな未来を築いていくためにもな。」

 父の手から伝わる温もりを感じながら、ヴィンスロットはこみ上げそうになった涙をぐっと堪えた。そして、強い決意を宿した瞳を父に向け

「はい!」

 と力強く答えた。

(強くなる。もう誰もなにも無くさせないくらい、俺は強くなる。)

 あの時、ヴィンスロットに届いた愛しい子の声が頭に蘇る。

≪ヴィ――‼≫

 その声を残して、あの子はたった1人で、この聖樹の先にある“異界”へ、自分の手に届かない場所へ消えてしまった。

(必ず守るから。強くなって、今度こそお前を守るから。)

 こんな小さな子供の手ではなく、父のように大きく強い手になって、今度は絶対に愛しい半身の手を離さない。

 強くなる。

 そう誓った。



 ~約束~



 オルディリア皇国の王宮内にある一室。1人の壮年の男性が寝台の中、上半身だけを起こした状態で座っている。そこへ

 トントン

 というノック音とともに、彼の待ち人が来訪したことを外にいた従者が知らせに入ってきた。

「わかった、通せ。」

 部屋の主である壮年の男性の許しを得て扉から室内に入ってきたのは、2人の男性だった。そのうちの1人は、金色の髪と瞳を持った長身の青年で、その肢体は若々しさと逞しさを備えている。そしてなにより、体から溢れる太陽のような眩いばかりの光のオーラが、彼がただ者ではないことを物語っていた。

「父上、只今討伐より帰還いたしました。」

 よく通る低めの美声で寝台にいる人物にそう声をかけたのは、この年20歳になるオルディリア皇国の『太陽の御子』、ヴィンスロット皇太子だ。そして寝台の中の人物こそ、オルディリア皇帝アルスロッド、その人だった。実はこの5年ほど前、ザルア樹海で狂暴化した魔獣の討伐に赴いたアルスロッドは、逃げ遅れた子どもを庇い重傷を負ってしまった。一命はとりとめたものの、身体の深部まで食い込んだ瘴気を完全には浄化できず、以来体を少しずつ瘴気に蝕まれ続け、今は床に臥せることが多くなってる。そんな皇帝に代わって、現在は皇太子であるヴィンスロットが皇弟である叔父のライオッドと共に、公務のほとんどを行っていた。

「ご苦労だったな。して、首尾は?」

「はい。此度南方で突然狂暴化した魔獣は、太陽と月の騎士団によって全て討伐いたしました。その後調べたところ、どうやら瘴気の強い植物に寄生されたことが、今回の狂暴化に繋がったようです。そこで、討伐した魔獣の処理とともに瘴気植物の排除も兼ねて、周辺の浄化を徹底いたしました。」

「人への被害は?」

「幸い魔獣の生息区域である森の中でのことでしたので、確認に向かった官吏と神官の数名が軽傷を負っただけで、大きな人的被害は出ていません。ですが近隣の村には念のため一時的な結界を張り、1週間ほどして浄化の経過を見てから解除、または継続するように指示いたしました。」

 的確で落ち着いた報告に、息子の成長を頼もしく感じながら皇帝は満足げに頷いた。そんな2人の様子をヴィンスロットの後ろで見守っていたもう1人の男性、皇弟ライオッドが

「まぁ、1国の皇太子が先頭切って突っ走っていくのは、どうかと思うがなぁ。」

 と、ニヤニヤしながら揶揄するように口をはさんだ。

「……叔父上!」

 ライオッドの言葉に、苦虫を嚙み潰したような顔で抗議の声を上げたヴィンスロットに、アルスロッドも笑いを堪えることができなかった。皇帝の名代として立派に勤めを果たせるほど大人になったとはいえ、本質的な所は子どもの頃と変わらない。熱く輝く太陽そのもののこの皇子は、今もしばしば暴走してその度に周囲を慌てさせているのだ。

「ヴィンスロット。先頭に立ち士気を高めるのも将としての務めだが、()()()()は味方を窮地に追い込む事態を招きかねん。それだけは、決して忘れてはならんぞ。」

「はい…父上。」

 何処か楽しげにたしなめてくるアルスロッドに、少し不満げな表情をしながらもヴィンスロットは素直に答えた。

「あぁ、それよりヴィンスロット。月の神殿でもジュリアスがお前を待っているんじゃないか?」

 ライオッドの言う通り、今回魔獣を狂暴化させた植物について、月の神殿で詳しい分析を行いその結果を聞きに行く約束をしていた。

「……では、御前失礼いたします。」

 そう一言挨拶を残すと、不機嫌なオーラを隠すことなく、ヴィンスロットは皇帝の部屋を後にしていった。

「あまり、アレをからかってやるな。」

 息子の後姿を見送った後、部屋に残ったライオッドに笑みを浮かべてアルスロッドが言った。

「いや~、可愛い反応をするものだからつい…な。」

 と、こちらも楽しそうに返した。身体能力も守護の力もずば抜けて優れているオルディリアの『太陽の御子』は、今やその容姿も含め他国からも一目置かれる存在だ。それを「可愛い」と評せるのは、世界広しといえライオッドを含めごくごくわずかだろう。

「……あれから…10年だ。ライオッド。」

 どこか遠い目をして、アルスロッドがそうつぶやいた。

「兄上……。」

「“約束”の日は近い。時が……動くぞ。」

 アルスロッドの静かで、しかし重いその言葉は、ライオッドの胸にも深く沁み込んだ。


「ジュリアス叔父上。」

「……ここでは『神官長』とお呼びください。皇太子殿下。」

 月の神殿内の神官長執務室に現れた青年に対し、ジュリアスは挨拶代わりの小言を返した。ウォンラット神官長が亡くなった後、次席神官だったジュリアスが神官長に就任し、現在の月の神殿を率いている。

「相変わらず細かい……で神官長、例の植物の正体はわかりましたか?」

 いつものやり取りなのだろう。さして気にする様子もなく、ヴィンスロットは用件を続けた。

「はい。それについては情報集積室の方で、詳しくご説明いたします。」

 そう言うと、ヴィンスロットを伴って執務室を後にした。そして向かった情報集積室では、次席神官となったリュードルフが

(いつもながら……ヴィンスロット様が現れるとまるで太陽が部屋に入ってきたようだ…。)

 そんなことを心の中で呟きながら

「いらっしゃいませ、ヴィンスロット殿下。」

 と挨拶して、2人を出迎えた。

「リュードルフ、早速だが殿下に討伐の際に持ち帰った植物について報告してくれ。」

「はい。」

 そう答えると、リュードルフはまず2人に椅子をすすめ、大きめのテーブルに持ち込まれた植物のサンプルと資料を広げた。

「月の騎士団が持ち帰ったこちらの植物ですが、調べたところ“ジュオナ”という寄生瘴気植物で、ザルア樹海の固有種であることが判明しました。」

 リュードルフの報告を聞いて

「やはりザルアか…。」

 “ザルア”が関連しているのではとある程度予想はしていたが、その事実にヴィンスロットは眉間にしわを刻み、悔し気な口調で低く呟いた。

「しかし、少々腑に落ちぬことがございます。」

 その言葉に、ヴィンスロットは視線をリュードルフに向け

「それは何だ?」

 と、問いただした。

「はい。このジュオナですが、実は古くからザルア樹海に生息しており、植物としてはさして珍しいものではありません。しかも、寄生瘴気植物とはいっても瘴気毒は強い方ではなく、昆虫やごく小型の魔獣に寄生する種類の植物なのです。」

「待て、今回狂暴化したのは大型種のアーロンだぞ。」

 ヴィンスロットが驚きの声を上げた。アーロンは、この世界に生息する魔獣の中でも大型の種類にあたり、草食でおとなしい性質であることが特徴の獣だ。

「ですので腑に落ちぬのです。本来であれば、アーロンのような大型の魔獣がジュオナを食べたとしても、寄生できず消化されてしまうのが普通で、もし瘴気毒の影響が出たとしてもせいぜい軽い腹痛を起こす程度のはずです。それが……今回持ち帰られたこの“ジュオナ”からは、異常な高さの瘴気毒が検出されたのです。」

「そしてもう1つ」

 リュードルフの報告を引き継ぐように、ジュリアスも言葉を続けた。

「植物の事ですから、突然変異が現れるということもあり得ましょう。ですがそれならば、まずは生息区域内でその発症が確認されてしかるべきです。ましてやジュオナはザルア樹海の固有種。にもかかわらず、今回の異変はザルアから一番離れた南方地域で突然起こりました。これは、不自然極まりないと言えるでしょう。」

「……これまで他に、同じような事例はなかったのか?」

 ヴィンスロットの問いに、リュードルフが資料を示しながら答えた。

「はい、殿下。この数年、確かに瘴気被害自体は増加傾向にありますが、今回のように大型の魔獣が突然狂暴化する、といったような事案の報告は他国も含めありませんでした。」

 突如毒性が強まった植物、おとなしい性質の魔獣の狂暴化、そして全てに見え隠れする“ザルア”の影……。

「……ザルアの……『闇魔王』の仕業でしょうか……?」

 一同が感じていた疑念を、リュードルフが口にした。

「この段階でそう決めつけてしまうのは、早計かもしれません。ですが、その可能性を排除するのは危険ですし、あ奴の動きと思えるものが増えつつあることも否定できない事実です。なにより今年は……」

「そうだ。“約束”の年だ。」

 ジュリアスの言葉にかぶせるように、ヴィンスロットが低く呟くように言った。


 情報集積室を後にしたヴィンスロットは、すぐに王宮へ戻り今ジュリアスたちと話したことを、皇帝やライオッドに報告するつもりでいた。だが、この時何故かヴィンスロットの脚はふと止まった。そして一呼吸置いた後、踵を返すと出口とは反対の方向へ、再び歩み始めた。

 そしてたどり着いたのが、月の神殿の『聖樹の間』だった。

 静寂に包まれた空間に鎮座する月の聖樹は、宿り主が不在だからだろうか、太陽の聖樹よりも心なしか静かな佇まいを見せている。

(あの日から……ようやく10年が経った…。)

 母と当時の神官長が言い残した、“約束”の10年。この時のため、“約束”が実現することだけを考えてここまで来た。しかし……本当に約束は果たされ、自分は弟の手をもう一度掴むことができるのだろうか。信じてはいてもこの10年、ずっとこの不安を完全に拭い去ることはできなかった。

「まだそんなことを、うじうじ思っていたのか?」

 誰もいないはずの部屋に唐突に響いたその声に、ヴィンスロットはハッとなった。すると、目の前の聖樹から光が抜け出し、一人の青年の姿となった。

「煌牙輝。」

「らしくないな、我が御子。」

 褐色の肌と金色の髪、虹彩のない黄金の瞳を持った青年の正体は、黄金の長い鬣を持った虎の姿をしたオルディリアの太陽の幻獣である。『聖樹の間』に自由に行き来できるのは、王族以外では聖樹に宿る幻獣のみだ。だからこの場にいても決して不思議ではないのだが、呼ばれもせず自らの意思でこうして姿を現すのは、珍しいことだった。

「10年前にも言ったが、己の半身に何かあればたとえ時空を超えた異界であろうと、それがわからないことはない。それは、俺も御子も変わらない。」

「……あぁ、そうだったな。」

 10年前の異変の後、ゼフィールの声を聴きながら何もできなかった子どもの自分を責め、ただ華奢な肩を震わせ眠ることもままならない日々があった。そんなある日、少年だったヴィンスロットの前に現れた煌牙輝が、今と同じことを言っていたのだ。

「なら煌牙輝……、お前も感じているのか?」

 あの日、己の無力さに涙していた少年から、逞しい青年に成長した皇子が、自分の隣に立つ幻獣に問うた。ヴィンスロットが言わんとしていることを、正確に理解した煌牙輝は短く、だがはっきりとこう答えた。

「扉が、開きかかっている。」

 その煌牙輝の言葉に、ヴィンスロットの金色の眼が輝きを増した。

「きっと俺たちにしか感じられないほど、わずかな変化でしかないが、白夜姫の気配が以前よりはっきりしてきている。」

 “約束”の日はもう目前であることを確信したヴィンスロットは、煌牙輝に力強く頷いた。そして、今はまだ静かにたたずむ聖樹を見据えながら

(俺を呼べ、ゼフィール。今度こそ…今度こそその手を離しはしない。)

 そう異界にいる弟に、心の中で呼びかけたのだった。




 ~月夜(つきや)



 柔らかな朝日に顔を照らされ、少年はゆっくりと夢の世界から現実へと戻ってきた。

(……また……)

 自分の頬に手をやると濡れている感触がある。実はこの数日、少年はなぜか泣きながら朝を迎えていた。理由は夢にあるようなのだが、起きた時にはどんな夢だったかを忘れてしまっているので、なぜ自分が泣いているのかわからないでいた。

(…誰かに……呼ばれたような…?)

 目覚めた後、嫌な気持ちはない。ただ、懐かしいようなそれでいてもどかしいような、そんな切ない気持ちが残っているだけだった。少年がそんな夢の残像をぼんやりと辿っていると、ドアがノックされ

月夜(つきや)、起きましたか?」

 と声をかけながら、長い黒髪を後ろで1つにまとめている長身の美女が部屋に入ってきた。

「うん。おはよう、白夜。」

「では支度をして降りてきてください。朝食ができていますよ。」

 そう言って微笑むと、部屋を出て階下へと戻っていった。

 月夜(つきや)と呼ばれた少年も、夢の残滓を振り払うようにふぅっと一つ息を吐くと、ベッドから抜け出し身支度を整えるべく動き出した。


「今日は東京へ出る日なので、学校が終わったら小柴さんの家に行ってくださいね。」

 朝食の席で、白夜はそう月夜に言った。月夜が暮らしている此処「神沢村」は、とある地方の山間部にある小さな集落だ。人口も少なく学校も小・中合同の分校で、高校からは集落を離れることが当たり前の、そんな地域である。

 深森月夜と深森白夜は、10年前にこの集落に移り住んできた。白夜によると、外国で暮らしている月夜の両親が、体の弱い月夜が仕事で忙しく留守がちとなる自分たちと同じ生活をさせるのは難しいと判断し、親類である白夜と環境の良い所で静かに暮らせるようにしたのだ、ということだった。白夜は月夜とここで暮らしながら、両親の仕事の手伝いもしている。しかし月夜たちが暮らすこの時代で、通信手段といえば電話か郵便だけだ。それもあって、どうしても2ヶ月に1度か2度、仕事の関係で東京まで出なければならないのだが、村から東京まで片道で半日ほどかかってしまうため、どうしても1泊する必要があった。そんなわけで、白夜が東京に行く時は、移住以来とても親しくしてもらっている小柴家でお世話になるのが恒例となっている。

「……ねぇ、白夜。僕もう中学生だし、一晩くらいひとりで留守番できるよ?」

 と、月夜は思い切って口に出してみた。月夜も今年で13歳。ちょうど子ども扱いされることに抵抗感を覚える、そんな思春期の入り口に立ったところだ。もう子供じゃない、とさりげなく主張してみたのだが、

「ダメです。」

 保護者である白夜から、秒で却下されてしまった。

「月夜を夜一人にすることはできません。」

 凛とした美しい表情を崩さず答えた白夜は、

「それよりも、早く朝食を終えてしまいなさい。もうそこまでお迎えが来ていますよ。」

 と言って、月夜の提案をここで終わりとした。

 取り付く島もない白夜に、反論の糸口さえ見つけられない月夜は、言われた通り急いで食事を再開した。それに、白夜が「迎えがそこまで来ている」というからには、本当にそこまで誰かが来ているのだ。月夜の家は集落から離れた位置にあり、周辺は木々に覆われていて視界が開けているとは言い難い。それなのに、なぜわかるのかはまったくもって謎なのだが、白夜の来訪者予告は昔から外れたことがないのだ。案の定程なくして、

「月夜~!起きてるか~!」

 という明るく元気な声が、家の外からかけられた。

「……尚人君、いつも言いますが声ではなく、呼び鈴を押してくれればいいんですよ。」

 玄関ドアを開けた白夜が、声の主である男の子、月夜の同級生の小柴尚人に小言を言いながら出迎えた。

「あ、おはよう、白夜さん!」

 尚人はそんな小言など欠片も気にせず、白夜に明るく挨拶を返した。そもそもこの小さな村で、お互いの家を訪問した時に呼び鈴を鳴らす、という習慣など存在しないに等しい。つまり、呼び鈴を押せなど“暖簾に腕押し”の小言でしかないのだ。なので白夜も、深追いなどはしない。

「登降時間まではまだ早いですが、どうしました?」

「うん。今日は月夜うちに泊まる日だろ?学校に行く前に何か荷物があるなら、先に持って来いって母ちゃんが。」

「そうでしたか、裕子さんが。では少し待っていてください、すぐに準備してきますから。」

 そう言うと玄関に尚人を残したまま、白夜は奥へと姿を消した。そしてすぐに、登校準備を整えた月夜が学生カバンと着替えの入ったカバンを持って、白夜と共に玄関に戻ってきた。

「おはよう、尚人。待たせてごめんね。」

「おはよ。全然待ってないぜ。」

 そんな軽い挨拶を交わした後、月夜は白夜に

「じゃあ、行ってきます。白夜も気を付けて行ってきてね。」

 と言った。

「いってらっしゃい。尚人君、裕子さんたちによろしく伝えてくださいね。」

 白夜も、月夜と尚人にそう声をかけた。

「わかった!白夜さんも仕事がんばってな!」

「えぇ。お土産持って明日伺います。」

 そんな短いやり取りをして、月夜と尚人はまず尚人の家である小柴家を目指し、家を後にした。


「そんで月夜、やっぱ留守番ダメだって?」

「うん。」

 まだ早朝の冷気が漂う山道を歩きながら、月夜は今朝の出来事を尚人に話していた。

「僕もうそんな子供じゃないんだけどなぁ…。」

 少しむくれたようにそう言う月夜に

「わかるけどさぁ…、月夜ん家って山の中だし、1人にしてなんかあったらって心配なんだよ。きっとウチの母ちゃんに言ってもダメって言われるぜ。」

 同じ年の尚人には、子ども扱いされたくないという月夜の気持ちはすごくわかる。けど、3歳の時からずっと一緒に過ごしてきたこの親友は、あまり体が丈夫ではなかった。小さい頃は体調を崩して数日寝込んでしまうことも珍しくなく、最近ではそこまで具合を悪くすることはなくなったが、女の子より綺麗で(月夜が怒るから言わないが)華奢な月夜に「丈夫」という言葉はしっくりこない。その月夜を夜、山の中の一軒家に一人にするというのは、心配するなという方が無理だろうと尚人は思った。

「……守られてばかりじゃ、ダメなんだけどな……。」

 不意にぽそっと漏れた呟きに尚人が思わず振り返ると、そこにはどこか寂し気で遠い目をした月夜がいた。

「…月夜?」

 思わず月夜の名前を呼んだ尚人に、

「ん?なに?」

 と答えた時には、もう尚人がよく知っている綺麗な月夜の顔に戻っていた。なんだか少し不安な気持ちが残ったが、それを月夜に言ってはいけない気がした。だから

「…えっと…白夜さんのお土産、やっぱ〇村屋のあんぱんだよな。」

 と、少し無理やりな話題転換をした。その尚人の目論見は見事に成功し、月夜の表情がさらに柔らかくなった。

「あはは、きっとね。おばさん達が好きだからって言ってるけど、白夜のお気に入りだから。」

 そう言って明るく笑った月夜を見て

(そうやって、いつも笑っていてほしいな。)

 と、尚人は心からそう思った。


 その日の夜、月夜は小柴家の面々と賑やかな食卓を囲んでいた。小柴家は尚人の両親と祖父母、それから今は家を離れているが、大学生の兄と高校生の姉の、総勢7人家族だ。普段は白夜と二人で食事をしている月夜にとって、大勢で囲む小柴家の食卓はいつも楽しいものだった。

 小柴家とは、10年前に畑でぎっくり腰になってしまった尚人の祖父を、たまたま通りかかった白夜が助けたのがきっかけで知り合った。月夜と尚人が同じ年だったこともあり、それ以来ずっと懇意にしてもらっている。尚人の母の裕子に至っては、もしかしたら自分の息子より月夜の方を溺愛しているのでは…、と思うほど可愛がってもらっていた。月夜も白夜もこの家の人たちが大好きで、とても頼りにしていた。

 勿論この日も、裕子と尚人の祖母、トキの手料理をみんなで楽しみ、尚人も月夜もいつも通り尚人の部屋で一緒に床に就いていた。

「……ん…」

 真夜中、それまでぐっすり眠っていた尚人が、ふと目を覚ました。そして、まだぼんやりする視界の中で気付いたのが、隣の布団で寝ているはずの月夜の姿がないことだった。

(……便所かな…?…)

 そう思って寝直そうとしたが、やはりなんとなく気になってしまい、月夜の姿を探すべく自分の布団から抜け出した。とりあえずトイレのある方へ向かおうと、自分の部屋を出て長い縁側廊下を歩き始める。すると、1か所だけ掃き出し窓が開いているのに気づいた。

(……?……)

 なんだろう?と思った尚人は、窓の外に続く庭の方をそっと覗き込んだ。その先には……夜の暗い庭で月明かりに照らされ1人立つ、月夜の姿があった。

 暗い庭で月夜は、自分の手の中にある何かを見つめているようだった。それが何なのか、暗くてはっきりはしなかったが、尚人にはなんとなく分かった。月夜の手にあるもの、それはきっと彼が肌身離さず身につけている、お母さんからもらったというペンダントに違いない。尚人も見たことがあるが、少し大きめで黒色に近い綺麗な石が付いていた。

 すると…尚人の目の前で、不思議なことが起こった。月夜の持つペンダントがぽうっ…と、淡い光を放ち始めたのだ。するとその光に誘われるように、庭の草木の間から小さな蛍の光が1つ、また1つと月夜のまわりに集まってきた。月の光とペンダント、そして蛍の淡い光に照らし出された月夜の姿は、まるで自らが光を放っているかのように美しく、そしてそのまま夜に溶けて消えてしまいそうで……。

「…月夜!」

 そんな様子に、尚人は思わず月夜の名を呼んでいた。その声に気付いた月夜が尚人の方を振り返ると、それまで周りを飛んでいた蛍はどこかへ飛んでいき、ペンダントの光もいつの間にか消えていた。

「尚人?」

「ど…どうしたんだよ、こんな夜中に。」

「えっと……なんか、目が覚めちゃって。」

 そう言って、ちょっと困ったように笑った月夜は、もう尚人が知るいつもの月夜だ。

「…とにかくもう上がれよ。母ちゃんたちが起きてきたら怒られるぞ。」

「うん、そうだね。」

 わざとせかすような物言いで、尚人は月夜を家の中に呼び戻した。このまま外にいさせたら、本当に月夜が夜に消えてしまいそうで。そんなことは、本当に嫌で。

 そんなザワザワした気持ちは、月夜と一緒に部屋に戻って再びそれぞれの布団に潜り込んだ後も、尚人の胸を締め付け続けた。


 翌日、学校から帰ってきた尚人と月夜を出迎えたのは、小柴家の女性陣の明るい笑い声だった。

「ただいま~。」

 と言って、2人で部屋に入ると、そこには東京から帰ってきた白夜が、お土産の「〇村屋のあんぱん」をおやつに、尚人の母の裕子と祖母のトキとお茶を楽しんでいるところだった。

「お帰りなさい月夜、尚人君。」

「白夜もお帰りなさい。」「お帰り、白夜さん。」

 2人ともそれぞれの言葉で、帰宅した白夜と挨拶を交わした。

「今ね、白夜さんも帰ったばかりで疲れてるだろうから、夕飯ウチで一緒にどう?って言ってたんだけど、なんか今日は用事があるんですって。」

 そう裕子が残念そうに言うと、隣のトキもうんうんと頷いた。

「すみません。今日はどうしても日没前には家に居なければならないもので。では月夜、そろそろお暇しましょう。」

 申し訳なさそうに返事をしながらも、すでに月夜の着替えを持った白夜は、月夜にも退出を促した。

「あ…はい。じゃ、おばさん、おばあちゃん、ええと……()()()()()()()()()。その…おじさんとおじいちゃんにも、よろしく言ってください。」

 その月夜の言い方に、裕子とトキは何かいつもと違うものを感じ、少し驚いてしまった。

「……やだ、月夜ちゃん。なぁに?そんなあらたまったこと言って。」

 苦笑しながら裕子がそう言うと、

「そうだよ。礼儀正しいのはいいけれど、子どもがそんな気を使ったこと言わなくていいんだからね。」

 と、トキも小さい孫をたしなめるように、そう言葉を続けた。

 何故だろう。白夜に帰ろうと言われた時、今きちんとこの目の前にいる人たちにお礼を伝えなければ、とそんな気持ちになったのだ。もちろん、2人を困らせようなどとは少しも考えていなかったが、自分が言ったことで変な気を使わせてしまったと、月夜は少し申し訳ない気持ちになった。だから気を取り直すと、努めて明るい調子で

「はい。じゃあ、さようなら。」

 と笑顔で別れの挨拶をし、白夜と2人で小柴家を後にした。


 それから会話らしい会話もないまま、月夜と白夜は山道を歩き続け、自宅へとたどり着いていた。そして家の中に入ると同時に

「月夜、ペンダントを見せてくれますか?」

 そう白夜が切り出した。

 唐突にそう言われてびっくりした月夜だったが、それでも言われた通り服の内側にあったペンダントを引っ張り出し、白夜に渡すため首から外そうとした。そんな月夜の手を白夜はそっと押し止め、黒に近い濃紺色をしたペンダントヘッドの石だけをそっと手に取った。そして

「封が…解けかかっている。……やはり、“時”が満ちたようです。」

 と呟くように言った。

「……え?…白夜、何を言ってるの?」

「この村には、あなたをお守りするため結界を張っています。その中で昨夜、闇が揺らいだのです。あなたがここ数日で、変化してきているのは感じていましたが……。」

 いつもと違う白夜の様子や言動に、月夜の胸は不安でいっぱいになる。しかし同時に、ある種“期待”にも似た気持ちが沸き上がってくるのも感じていた。そんな自分のことなのに説明のできない感情に、月夜はすっかり混乱してしまっていた。そんな月夜を落ち着かせるかのように、白夜はゆっくりと諭すように語り掛けた。

「この石は“夜の雫”という封じの魔石です。今から10年前、あなたが3歳の時にある事情で、この魔石にあなたの記憶と力を封じました。その効力が……切れかかっているのです。」

 白夜が何を言っているのかわからない。だがその白夜の言葉に、胸が高鳴っていくのも止められない。

「“夜の雫”の効力が失われる約束の10年目…、我らが本来あるべき場所へ戻る時が来たのです。月夜…いえ、我が月の御子、ゼフィール・エルド・オルディリア。」

 見慣れているはずの白夜の黒い瞳が銀色に輝くのを、月夜はただじっと見つめていた。


 その夜、尚人は暗い夜道を一人、月夜の家に向かって走っていた。すでに家族はみんな寝静まった時刻、普段なら木々の生い茂る街灯のない山道は、懐中電灯の明かりがなければ歩くのも大変なのだが、今日はやけに月が明るく辺りを照らして、視界が利かないというほどではない。夜道を進む尚人にとっては良い条件と言えるのだが、何故かそれすらも尚人の不安を掻き立てる材料としかならなかった。

(会わなきゃ…月夜に会わなきゃ。)

 3才の時から、それこそ兄弟のように育ってきた大切な幼馴染。月夜のことで知らない事なんて、一つもないと思っていた。けど……けど、本当に自分は月夜のことを知っているのだろうか。

 小さい時から月夜は動物によくなつかれていた。それこそ、飼い犬や飼い猫だけでなく、野生の動物まで月夜のそばには近寄り寛ぐのだ。植物も月夜が関わると良く育つので、祖父がいつも

「月夜は農家に向いている。」

 と笑いながら言っていた。それに、転んでケガをしたり風邪で具合が悪くても、月夜が手を触れるとなぜか痛みや熱が引いたりもしたのだ。今こうして改めて考えると、月夜のまわりは不思議なことだらけだ。なのに、尚人を含め神沢村に住む人々は、それら全てを「()()()()」として受け止め、誰も疑問に思うことすらなかったのだ。

(月夜……月夜…!)

 今会わなければきっと後悔する。そんな予感に背中を押されてひたすら走っていた尚人の足が、急にズルッと滑った。

「うわっ…!」

 バランスを崩した尚人は、そのまま道の側面にあった斜面を滑り落ちてしまった。地面に体を打ち付けた衝撃に息が詰まる。誰かに体を抱えられたような浮遊感を一瞬感じもしたが、尚人はそのまま意識を手放してしまった。


「……ん…。」

 気が付くと、尚人は柔らかい草の上に横たわっていた。なぜこうなっているのか、すぐには理解できなかったが、

(あ、そうだ。俺、滑って転んだんだった……。)

 そう思いあたって、まずゆっくりと手を動かしてみる。少し痛みを感じるが、動けないほどではないので大きなケガはしなかったようだ。それに少しホッとして、尚人はのろのろと上体を起こしていった。そして地面に座ったまま周囲に視線を巡らせると、少し離れたところに人影があるのに気づいた。それは……夜の闇の中で月明かりに照らし出された月夜の姿だった。

(…月夜。)

 そう呼びかけようとしたが、どうしたことが声が出ない。驚きながらも、月夜の隣にもう一人、見慣れた女性・白夜の姿があるのに気がつく。でもその女性は、尚人の知る黒髪の白夜ではなく、銀色の美しい髪をしていた。

「ゼフィール。」

 銀髪の白夜が、尚人の知らない名で月夜を呼んでいた。その声に応えるように、月夜が自分の手のひらをゆっくりと広げた。すると、その手の中にあった何かが光を放ち、スッと空中へ浮かんだ。

 尚人にはそれに思い当たるものがあった。あれは、月夜のペンダントの石だ。夕べ見たときも光っていたが、それとは比べ物にならない強い光を放ちながら、空へ浮かび上がっているのだ。その光景に只々驚いている尚人の目の前で、石はひときわ強く光った後、まるで打ち上げ花火のように四方八方へ光を拡散させ、そして消えていった。

 次の瞬間、同じように石の行方を目で追っていた月夜の体が、淡い光を放ち始めた。それに呼応するように、周囲の木々もざわめき始める。尚人はそんな目の前で繰り広げられる光景を、ただ身じろぎもできずじっと見守るしかできなかった。


 これまで10年間、深森月夜として白夜と暮らしてきた家を離れ、オルディリアの月の御子・ゼフィールは、同じくオルディリアの月の守護幻獣・白夜姫とともに、森の中の少し開けた場所に来ていた。そこで、封印が解ける時を迎えようとしていたが、その時2人の耳に尚人のかすかな声が届いた。

「白夜!」

 月夜がそう声に出した時、すでに白夜の姿はそこになかった。白銀の白夜姫はすぐに戻ってきたが、その時腕の中には気を失った尚人を抱えていた。驚いた月夜は、2人のもとに駆け寄った。

「尚人!どうしたの⁉」

「大丈夫です。斜面を滑ってしまったようですが、目立ったケガはありませんので。」

 そう言うと白夜姫は、尚人を柔らかい草の上に横たえた。それでもまだ心配そうに尚人をのぞき込む月夜に、

「心配はいりませんよ、月夜。……さぁ、行きましょう。時が満ちてしまいます。」

「……うん。」

 月夜はもう一度尚人の方を振り返ってから、白夜姫に促されるまま先程までいた場所に戻った。そして……“夜の雫”が空中に霧散して、全ての封印が解かれる瞬間を迎えたのだ。

 砕け散った星屑のような光が降り注ぐ中、月夜の中にはゼフィールとして生きた3年間の記憶が、まるで昨日のことのように鮮やかに甦った。母である皇妃コーデリアの優しい声と手の温もり、父である皇帝アルスロッドの大きく力強い手、そして……

≪ゼフィール≫

 夢の中で何度も聞いた声。この声に応えたくて、でもできなくて。それがとてつもなく悲しくて、切なくて。朝目覚めた時と同じように、その瞳からは大粒の涙が溢れ落ちる。でもその瞳の色は、黒かった月夜の瞳ではなく、晴れた夜空のような濃紺に変わっていた。

≪ゼフィール≫

「……兄さま……」

 そうだ。この声は、自分を最も愛してくれ、自分も最も愛している『半身』の声。ずっと、ずっと求めていた。

≪俺を呼べ、ゼフィール!≫

 そうだ、その名は

「……ヴィー……ヴィー――――っ!!」

 ゼフィールは力の限りその名を呼んだ。

 その瞬間、夜の闇の一部がぐにゃりと歪み、その中心が光り始めた。それはだんだん広がっていき、やがてその光の中から金色の鬣を持った黄金の虎が姿を現した。すると、ゼフィールの隣にいた白夜の姿も光に包まれ、やがて人の姿の輪郭を失うと白銀に輝く虎へと変化した。まるで双子のようにそっくりの黄金と白銀の虎は、再会を喜びあうかのように体を摺り寄せた。

 しかし、そんな幻想的ともいえる光景よりもゼフィールの目を奪ったのは、その後ろに現れた人影だった。それは、夜の闇の中にあってさえ、太陽のごとく輝く青年の姿。

「ゼフィール!」

 そう言って両手を広げた青年…ヴィンスロットの腕の中に、ゼフィールは迷うことなく飛び込んでいった。その体をしっかりと抱きしめ

「一人にさせて…すまなかった。……もう、大丈夫だ。」

「…兄さま…。」

 腕の中で泣き続けているゼフィールの髪を優しく撫でながら、ヴィンスロットは静かに言った。

「さぁ、帰ろう。俺たちの国、オルディリアへ。」



≪ありがとう。≫

 そう言って、誰かが笑ってくれた気がする。

(あぁ…幸せそうだ。よかった、…寂しいけど……よかった。)

 そんなことを思いつつ、尚人は目を覚ました。そこはいつもと変わらぬ、自分の部屋の布団の中。窓からは朝の光が、燦燦と差し込んでいた。なんだかまだ半分寝ているような感じでぼぉっとしていたが、

「尚人!起きなさい!学校遅れるでしょう!」

 という母の元気な声に、尚人の意識は急速に現実へと引き戻された。

「わ、わかったよ!」

 慌てて布団から抜け出したとき

(……あれ?なんかいい夢見た気がするんだけど……なんだっけ?)

 そんなことをふと思った。けど、まぁいいか、と考えるのを止めて、尚人は一つ大きく伸びをして、朝の身支度に取り掛かった。そしていつもの通り、()()()()学校へと登校していった。


 尚人たちの住む神沢村から、いやこの世界そのものから、「深森月夜」と「深森白夜」という存在は、跡形もなく消え去ってしまっていた。




 ~再会~



(俺を呼べ、ゼフィール!)

 月の神殿の聖樹の間で、ヴィンスロットがそう心の中で異界の弟へ呼びかけたまさにその時、それまで静かだった聖樹が急に輝き始めた。

「⁉…なんだ⁉」

「ヴィンスロット!魔石の封が破れた!()だ!」

 そう煌牙輝が叫んだ瞬間、ヴィンスロットの頭の中にずっと待ち続けた声がはっきりと響いた。

≪ヴィー――‼≫

 あぁ、この声だ。どんなに……どんなに聞きたかったか!

「扉が開いた。迎えに行く。」

 そう言うと、煌牙輝は青年の姿から本来の幻獣の姿に戻り、あの日と同じ輝く聖樹の中央に開いた“扉”に飛び込もうとした。

「待て!俺も行く!」

 その声に動きを止めた太陽の幻獣は、ヴィンスロットの瞳をまっすぐに見据え

≪…来い。互いの半身を連れ戻すぞ。≫

 と言った。その言葉に迷うことなく、ヴィンスロットは煌牙輝の背に飛び乗る。

≪異界への道を通る。しっかり掴まっていろ。≫

 黄金の虎はそう言うと床を蹴り、扉の中へと飛び込んだ。視界が急に暗くなり、空間がぐにゃりと歪んだような感覚に襲われたが、それも一瞬のことだった。空気が変わった、と感じた時ヴィンスロットの視界に広がったのは、見知らぬ森の夜の風景。そして……

(あぁ…。)

 夜の闇の中で月光のオーラを纏い、光を放つ一人の少年の姿がそこにあった。自分が見間違えるなど、ありえない。あの日、自分の前から消えてしまってからこの10年、ずっと求め続けてきた愛しい半身。

「ゼフィール!」

 ヴィンスロットの声に弾かれたように、その少年…ゼフィールは、一直線にヴィンスロットの腕の中に飛び込んできた。そう、まさに10年前の、幼い日と同じように。

「ヴィー!」

 少年を受け止めたヴィンスロットは、自分の胸にすっぽりと収まってしまった華奢な体を、力一杯抱きしめた。これまで餓えていたものが満たされた、そんな充足感にヴィンスロットの心は震えた。

「……ヴィー兄さま。」

 腕の中で小さく自分を呼び、肩を震わせながらギュッと抱き返してくる弟に、ヴィンスロットの胸はさらに熱くなる。

「一人にさせて…すまなかった。……もう、大丈夫だ。」

 もう離さない。この腕からもう誰にも、絶対に奪わせない。弟の存在を体全部で感じながら、ヴィンスロットはその想いを強くした。

 少し腕の力を弱めると、星空を映したような煌めく濃紺の瞳が、喜びの色をたたえて兄を見つめてくる。その少し紅潮した白い頬につたう涙を優しく拭ってやりながら、

「さぁ、帰ろう。俺たちの国、オルディリアへ。」

 とヴィンスロットはゼフィールに言い、その華奢な体を抱き上げた。

 その言葉を合図に、黄金と白銀の2体の幻獣がヴィンスロットとゼフィールを囲むように寄り添い、自らの“気”で2人を包み込むとそのまま扉の中へと連れ去った。急に襲われた空間の違和感に、ゼフィールは思わずヴィンスロットにしがみついた。だが、そんな違和感もすぐに消え

「……もういいぞ、ゼフィール。」

 そう兄に促されてそっと目を開けると、もうそこは今までいた場所ではなかった。そう、ゼフィールが今いる場所、それはオルディリア皇国の月の神殿、そこにある『聖樹の間』だった。

(あ……。)

 知っている、そうゼフィールは思った。そうだこの部屋だ。母と一緒にいてそして……別れた部屋だ。

 その時に感じた衝撃と恐怖、そして悲しみがゼフィールの胸に一気に甦り、大きな瞳からまた新たな涙がポロポロと零れ落ちた。

「大丈夫だ、ゼフィール。……もう、俺がいるから。」

 腕の中で微かに震える弟を安心させるように、抱いている腕に少し力を込めて優しくヴィンスロットは囁いた。そんな優しい声と暖かい兄の体温を肌で感じ、少し混乱してしまったゼフィールの心も、徐々に落ち着いていく。と、そこに

「お戻りに……本当にお戻りになられたのですね。」

 という男性の声が2人にかけられた。不意を突かれ、少し身構えたヴィンスロットだったが、聞き覚えのある声にすぐに緊張を解く。その声の主は、月の神殿の神官長でありヴィンスロットとゼフィールの叔父、ジュリアスその人だった。

「叔父上、何故こちらへ?」

「はい。先程『聖樹の間』のエネルギー値が急激に高まったのを感知し、もしやと思い……。」

 ヴィンスロットの問いに応えながらも、視線はその腕の中にいる少年から離せなかった。艶やかな黒い髪と濃紺に輝く大きな瞳、そして何よりこの美しい月のオーラ……!

「……ゼフィール様…。」

 姉や前神官長が命を懸け守り抜いた幼い子が、10年の時を経て今こうして目の前にいる。感動という言葉だけでは表現しきれない、そんな喜びがジュリアスの胸に広がった。

 だが今は、再会の喜びに浸ってばかりはいられない。時はすでに動き出したのだ。ジュリアスはそう思い直すと息を小さくひとつ吐き、皇子たちの後ろにいた太陽の幻獣に声をかけた。

「煌牙輝、すまないが一足先に王宮へ戻り、ゼフィール様のご帰還を陛下に伝えてください。…きっと誰よりも、その報告をお待ちになっているでしょうから。」

≪承知した。≫

 そう言うと、煌牙輝はすでに異界への扉が閉じられた聖樹へ進み、その姿を消した。

「そしてヴィンスロット殿下。一旦ゼフィール殿下を下ろしていただけますか?」

 そのジュリアスの言葉にハッとしたのは、ゼフィールの方だった。いきなり3歳の時の記憶を取り戻したことで、すっかり当時と同じ行動をとってしまっていたが、兄に抱っこされているこの状況はかなり恥ずかしいのでは……!

「なぜ下ろす必要が?」

(⁉)

 やっとこの手に戻ってきた半身を、放す気などさらさらないヴィンスロットは、ジュリアスの言葉にムッとした様子を隠しもせずそう答えた。これにはゼフィールも驚いて、羞恥で顔を赤くした。ジュリアスも半ばあきれ顔で

(この独占欲……子どもの頃と全く変わらないじゃないか……。)

 大人になったかと思えばやれやれ…と心の中で溜息をついた。

「ヴィ、ヴィー兄様、あの、もう下ろしてください。僕、もうそんな子供じゃありません!」

 と頬を紅潮させたまま、ゼフィールは抗議の言葉と共に兄の腕から抜け出そうと、体をよじって脱出を試みる。しかし、がっしりと自分をホールドしているヴィンスロットの逞しい腕は、ゼフィールの抵抗くらいではびくともしなかった。

 ゼフィールのそんな様子を見ていたジュリアスは、

(こちらは至極常識的にお育ちくださったようだ。)

 と思い、そばで控えていた白夜姫に感謝の気持ちを込めた視線を送った。白夜姫も目元を少し緩ませることでジュリアスに応えると、次にヴィンスロットに向かって

「我が養い子を放してください、太陽の御子。…大人げなく、しつこい男は嫌われますよ。」

 と、そう言い放った。白夜姫の銀色の瞳に見据えられ、さすがのヴィンスロットも言葉に詰まる。そしていかにも渋々、といった感じでゆっくりとゼフィールを下ろしてやった。

 やっと抱っこから解放されて、ほっと軽く息を吐きだしたゼフィールに

「失礼します。」

 と言って、ジュリアスがその首にそっと何かををかけた。それは、10年前母であるコーデリア皇妃がゼフィールに身に着けさせてくれたものとよく似た“夜の雫”のペンダントだった。

「あの……これは?」

「お母上があなたに持たせたものよりは小ぶりになりますが、十分な力を持ったものです。ゼフィール殿下はまだお帰りになったばかりで、ご自分の力をコントロールすることがおできになっていません。ですので、これはコントロールができるようになるまでのお守りとしてお持ちください。……あ奴の眼を御身から反らす役にも立ちましょう。」

(僕の力?……それに、あ奴って…?)

 正直、ゼフィールにはジュリアスの言っていることが、よくわからなかった。だがそれも致し方ない。オルディリアでの記憶が戻ったとはいえ、それはわずか3歳までのこと。まだ自分の力…月の御子が持っている能力の事や『闇魔王』の事などは、幼すぎてわかってなどいなかったのだ。

 しかし今、ジュリアスやヴィンスロットの様子からして、とても大事なことを言われているのだということは、よくわからなくても理解はできた。だから

「ありがとうございます。ジュリアス叔父上様。」

 と、素直に礼を言って微笑んだ。

 そんな、あの幼かった日そのままの口調で自分の名を呼ぶゼフィールに、ジュリアスは亡き姉のことを思い返していた。

(姉上…見ておられますか?コーデリア姉上。)

「本当に……ご無事にお戻りくださり、ありがとうございます…。」

 そう万感の想いを込めた言葉とともに、少年の華奢な体をそっと抱きしめた。


「ジュリアス叔父上。」

 そう声をかけたヴィンスロットの声は、どことなく不機嫌さが混ざっている。ジュリアスは一つため息をつくとゼフィールから離れ、

「…神官長とお呼びください。皇太子殿下。」

 と言って、ヴィンスロットと向き合った。

「他に誰もいないのだから、別に構わないだろう。」

「いいえ。ここからは皇子と神官長として動かねばなりませんので、けじめです。」

 そんな2人のやり取りを、もしやケンカでも始まるのでは…とオロオロして見ていたゼフィールに、白夜姫が安心させるようにそっと寄り添い、

「心配いりません。ただのじゃれ合いですから。」

 と、少し呆れた様子で囁いた。

「……本当に大丈夫?」

 それでもまだ心配そうに白夜姫に訊ねてくるゼフィールに、白夜姫はにっこりと微笑むことで答えた。

 そんなゼフィールと白夜姫のやり取りの間も、どうやら話は進んでいたらしい。

「…ではヴィンスロット殿下。そういうことでよろしいですね。」

 何がそういうことなんだろう?話の展開についていけなかったゼフィールが戸惑っていると、

「ゼフィール殿下、これより兄上様と共に王宮へ向かわれてください。皇帝陛下……御父君があなたのお越しをお待ちになっておられます。」

 ジュリアスがかけたその言葉に、ドキン…とゼフィールの心臓が一つ跳ねた。

(父君……僕の…父様?)

 月夜として異界で過ごした日々、親友の尚人や神沢村の子ども達と過ごす中で、自分にはいない家族や両親の存在をうらやましく感じることも少なくなかった。いつも白夜がそばにいてくれたから寂しくはなかったが、それでもどこかに家族に対する憧れはあったのだ。でも、今こうして兄に会えた。そしてこれから、父にも会えるという。尚人たちと同じように自分にも家族がいたのだという実感に、ゼフィールの心はどうしようもなく高揚していた。

「あの、母様も王宮ですか?」

 喜びに顔を輝かせ、ゼフィールは目の前の叔父にそう訊ねた。その言葉に、ジュリアスの心臓は冷水を浴びせられたかのように、ギュッとなった。反射的にゼフィールの背後にいたヴィンスロットを見たが、彼の表情も固まっている。

(……そうか…。)

 期待と喜びで無邪気に目を輝かせているこの子は……。

 ジュリアスは己を落ち着かせるため心の中で一つ息をつくと、自分の返答を待っているゼフィールに

「殿下。母上様は……父上様にお会いになってからになります。陛下もあなたにお会いできるのを心待ちにしておられるでしょうから、すぐに行ってあげてください。」

 とだけ告げた。

「…そうだな、行こう。父上をあまり待たせては気の毒だ。」

 その言葉を受けたヴィンスロットも、弟の肩に手を置き『聖樹の間』から外へ向かうよう促した。

「あ、はい。」

 それに従い歩を進めかけたゼフィールだったが、ふと気付いたように

「あの、白夜は?」

 と、ジュリアスの隣に立っていた白夜姫を振り返りながら訊ねた。そんなゼフィールに白夜姫は

「わたし達幻獣は、聖樹に宿るモノです。王宮には、ゼフィールよりも先に着いておりますよ。」

 そう言って微笑みかけた。

 よくわからないけどそうなんだ……と、ゼフィールは驚きながらも納得した。白夜が人間ではなく幻獣というモノだったこと、改めて考えると物凄く衝撃的な事実のはずだけれど、意外にもすんなりと受け入れている自分がいる。これも3歳までだけれど、オルディリアで過ごした記憶があるからかもしれないな、とそんなことを考えていたゼフィールに、

「さぁ、行くぞゼフィール。」

 とヴィンスロットが、再度促すように声をかけた。

「はい、兄様。では行ってまいります、ジュリアス叔父上様。」

 そう言ってジュリアスにペコリと一礼し、ゼフィールはヴィンスロットと共に『聖樹の間』を後にした。


「……皇妃様のこと…まだご存知ないのですね。」

 2人の姿が見えなくなってから、ジュリアスは白夜姫にそう切り出した。白夜姫は1つ頷くと

「わたし達が異界へと向かった時は、まだご存命でしたから…。わたしもこちらに戻る時、煌牙輝と記憶の共有を行うまで知らなかった。」

 と言った。

「そうでしたか……。」

 ジュリアスは、これからゼフィールが知ることになる現実を想い、重苦しい心境になった。このオルディリアからわずか3歳で離され、自分が何者なのかついこの間まで知らずに育ってきたのだ。そんな少年にこの現実は…『月の御子』という宿命は、あまりに重すぎるように思えた。

「ジュリアス、あの子なら…我が養い子なら大丈夫だ。」

 ジュリアスのそんな心を読んだかのような言葉に、思わず隣にいた銀色の美女の姿をした白夜姫に視線を向けた。そんなジュリアスに、白夜姫は艶やかな笑顔を一つ向けると幻獣の姿に戻り

≪それに、我らには“半身”がいるからな。≫

 そう言って、聖樹の中へと姿を消していった。


 月の神殿への出入りは、本来神殿の正面にある『聖門』を利用するのだが、ヴィンスロットはいつも情報集積室に向かいやすい『騎馬門』という、裏口を利用していた。この日も王宮へ帰るため普段通り『騎馬門』に向かうと、そこにはヴィンスロットの愛馬の他に、ヴィンスロットよりも少し年上だろうか、一人の若い月の騎士が2人のことを待っていた。

「お戻りなさいませ、ヴィンスロット殿下。そして、お初にお目にかかります、ゼフィール殿下。」

 そう言って、恭しく挨拶をする騎士に向かって

「何か用か?ハヤテ。」

 とそっけない態度でヴィンスロットが問いただした。ハヤテと呼ばれた月の騎士は、まだ若いが月の騎士団の副団長を務める人物だ。こうした、ちょっとオレ様なヴィンスロットの物言いにも慣れているのだろう、特に気にする様子もなく

「王宮までお供するようにと、シリウス騎士団長とリュードルフ次席神官に命じられました。あと、これをゼフィール様に。」

 そう言うと、手に持っていたものをヴィンスロットに手渡した。それは、フード付きのマントだった。

「これは?」

「『月の御子』様ご帰還は、まだごく一部の者しか把握しておりません。不用意に知れ渡れば混乱をきたす恐れもありますので、こちらをご着用いただくように、とのことです。」

 そう言いながらゼフィールの方を見たハヤテは、

「なるほど……噂で聞いていた通り、本当にお美しいですね。このご容姿では、すぐに『月の御子』様であることがわかってしまいますよ。」

 不敬ともとられかねないあけすけな物言いをし、目を丸くしている少年ににっこりと笑いかけた。

(え?…美しいって…僕?)

 初対面の人にいきなりそんなふうに言われドギマギしているゼフィールに、ヴィンスロットはズボっと頭からマントをかぶせた。展開の速さについていけていないゼフィールの姿が隠れるようフードを上げてやる手つきこそ優しいが、その顔は不機嫌この上ない。

「王宮までは馬で行く。俺が抱いていてやるから安心しろ。」

 そう言うと、用意されていた愛馬にゼフィールを軽々と乗せ、自分も騎乗し王宮へ向けて走り出した。そんな皇子の様子に吹き出しそうになるのを必死で堪えながら、ハヤテも自分の馬に騎乗し後に続いた。


 月の神殿を出発してからほどなくして、3人は王宮へと到着した。ゼフィールは乗馬は生まれて初めてだったので、最初は馬の大きさに驚いたし少し怖かった。けれど、ヴィンスロットがしっかりと抱いていてくれたので、思いのほか安定していて大丈夫だったことにホッとしていた。

 ヴィンスロットはゼフィールを馬から下ろしてやると、愛馬を馬番の兵士に預けた。そんな2人に向かって

「ではわたしは、このまま月の神殿へ戻ります。無事お着きになりましたこと、神官長にもお伝えしておきますね。」

 そう声をかけると、ハヤテはそのまま踵を返して、再び今来た道へと馬を走らせていった。

 あっという間に小さくなるその姿に、ただ感嘆の眼差しを向けていたゼフィールの体が、急にまたフワッと宙に浮いた。

「うわっ⁉」

「王宮内は不慣れだからな。このまま連れていく。」

 という理屈を堂々と宣言しゼフィールを抱き上げたヴィンスロットは、目を丸くする馬番をしり目にそのまま足早に宮殿内へと入っていった。

 廊下で時折すれ違った幾人かに驚きの眼差しを向けられたが、そんな視線を完全に無視し進み続けたヴィンスロットは、ある部屋の前で足を止めた。そこでようやくゼフィールを下ろすと、

「俺の部屋だ。父上の前に会わせたい人がいる。煌牙輝に頼んでこの部屋で待っててもらうよう伝えてもらったんだ。」

 そう言って扉を開き、部屋の中へ入った。

 そこには…一人の中年の女性が立っていた。2人が入ってくるのを見てその女性が、微かに震える声で

「ヴィンスロット様…。」

 と声をかけた。その声に小さく頷いたヴィンスロットは、隣に立つゼフィールのフードを頭から外してやった。

「あぁ……!」

 露わになったゼフィールの姿を見た女性は、喜びの声と共に大粒の涙をこぼした。

「月の御子様!…あぁ、確かにゼフィール様です!」

「ゼフィール。女官長のリュドミラだ。」

 そうヴィンスロットが教えてくれた名前に、ゼフィールは覚えがあった。そうだ、昔母といつも一緒にいた女の人だ。自分もよく遊んでもらった。

 ただただ驚きで立ち尽くしているゼフィールに、リュドミラはゆっくりと近づくと跪き、そっとゼフィールの手を取った。

「ご立派になられて…。本当に…嬉しゅうございます。よく…よくご無事にお戻りくださいました。」

 その手から伝わる優しさと、喜びに輝く涙で濡れた瞳。リュドミラが心から自分の帰還を喜んでくれていることが真直ぐに伝わってきて、戸惑っていたゼフィールの心も温かさで満たされていった。

「……リュドミラ。」

「…あぁ、申し訳ありません、ヴィンスロット様。」

 ヴィンスロットの優しい声掛けにリュドミラは、本来の女官長としての仕事を思い出したように、ゼフィールの手を離し立ち上がった。

「陛下はお部屋でお2人をお待ちです。ゼフィール様、お疲れのこととは思いますが、このまま兄上様と共に陛下のお部屋に向かってください。それと申し訳ございませんが、陛下のお部屋まではもう一度フードをお被りくださいね。」

 そう言うとにっこりと微笑んで、優しい手つきでゼフィールの頭にフードを被せてやった。

 リュドミラに見送られ部屋を後にし、皇帝の部屋へ続く廊下を歩きながら

「驚かせたな、すまない。」

 と、ヴィンスロットがゼフィールに話しかけた。

「すまないなんて、そんなことないです。…少し、ビックリはしましたけど…。」

「リュドミラは今は俺に付いてくれているが、お前が異界へ行ってしまうまではお前のそばにいたからな。ゼフィールが戻ったらすぐに会わせろと、ずっと言われていたんだ。」

 少し笑いながらそう言ってくる兄の姿に、女官長への信愛の深さが感じられて、それがゼフィールにはなんだか嬉しかった。

 そんなたわいのない会話を、ゆっくりと楽しむ間もなく、2人は目的の場所である部屋の前に立った。

 扉の前にいた護衛騎士が2人の姿を認めると

「ヴィンスロット殿下がお越しになりました。」

 と中へ向かって声をかけ、ゆっくりと扉を開けると2人に中へ入るよう促した。兄と共に部屋へと足を踏み入れたゼフィールの目に映ったのは、大きなソファに腰かけた男性と、その男性の隣に立っているもう一人の男性の姿だった。

「父上、オルディリアの月の御子、ゼフィール・エルド・オルディリア、只今御前に戻りました。」

 ヴィンスロットはそう告げると、ゼフィールのフードを外してやりながら

「さぁ、ゼフィール。父上にご挨拶を。」

 そう言って、ゼフィールの背にそっと手を添えて、ソファに座っている男性…皇帝アルスロッドの前へと弟を誘導した。

「ゼフィール……あぁ、よく育ってくれた。」

「……父様…?…」

「そう、そうだ。…さぁ、息子よ。父にお前を抱きしめさせてくれ。」

 アルスロッドは手を伸ばし、優しくゼフィールの頬を大きな両手で包み込み、そして少年の華奢な体をしっかりとその胸に抱いた。

 ゼフィールの3歳までの記憶の中に、実は父との思い出はそれほどなかった。だが、訪ねてくれた時に抱き上げてくれた大きく温かな手は覚えている。それは、今自分を抱きしめてくれているこの手と確かに同じものだ。記憶の中と同じ温もりに父の存在を実感し、ゼフィールの眼には新たな涙がこぼれ落ちた。

「幼いお前を一人にして……本当にすまなかった。」

 そう言ったアルスロッドに、その腕の中から体を離したゼフィールは

「いいえ、白夜がいましたから、大丈夫です。」

 父の眼を真直ぐに見てそう答えた。あぁ、小さかったあの子が、こんなしっかりとした返答ができるほど大きくなったのだなと、アルスロッドは改めて我が子の成長を嬉しく思った。

「……立たせたままだったな。さ、そちらに座りなさい。ヴィンスロットも。」

 父である皇帝に促されて、ヴィンスロットとゼフィールは並んでソファに座った。アルスロッドの隣に立っていたライオッドも、それを見て自分もソファに腰を下ろす。

「10年前、お前を異界へ送った時、お前はまだわずか3歳という幼さだった。なぜ自分が異界へ行かなければならなかったのか、わかりはしなかっただろう。」

 全員が着席したと同時に、アルスロッドはそう話を切り出した。その表情は、先程までの喜びに満ちたものではなく、どこか悲し気で、何かを覚悟したようなものに変わっていた。その変化をゼフィールも敏感に感じ取ったのか、喜びだけだった胸の中にざわざわとした不安が芽生えてくるのを停められない。そんなゼフィールの様子に気付いたヴィンスロットは、落ち着かせるためにその手をぎゅっと握ってやった。

「異界から帰ったばかりで、まだ十分にこの状況を呑み込めていないだろうお前に、これからする話は酷だとも思う。しかしゼフィールよ。わたしは父としてもこの国の皇帝としても、お前にこれまでの事を話し、進むべきこれからの道を示さねばならぬ。……長くなるが、どうか聞いてほしい。」

 そう言ってアルスロッドは、『太陽の御子』と『月の御子』のこと、ザルアの『闇魔王』のこと、そして10年前、自分が異界へ送られた日……2人の母である皇妃コーデリアが亡くなった、あの日のことを語り始めた。





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