チョコレート逃避行
最後の参列者が立ち上がり、喪主であるゆかりに一礼をしてから、自分の席へと戻っていく。
ああ、なんて苦痛なのだろう。やっぱり近親者のみで済ませるべきだったのだ。
膝の上で重ねた両手に力を込め、薬指にはめた指輪の感触に、ゆかりはどうしようもない嫌悪感をおぼえるのだった。
夫の秋彦との出会いは十年前、ゆかりがまだ高校生のときだ。当時ゆかりがアルバイトをしていたファーストフード店の向かいにある、大手銀行の社員だった秋彦は、何度かゆかりのレジでコーヒーを注文すると、間もなく好意を持った。
入社六年目にして、次期支店長候補と囁かれ始めたというのに、秋彦は若くお嬢様育ちのゆかりに夢中になってしまった。そしてゆかりも、恋愛経験が浅かったために、年上で財力があり、いつも堂々とした態度でいる秋彦に、恋をした。
その後、二人は結婚して、幸せな家庭を築いたのなら、まだいい。秋彦と付き合って半年後、高校在学中にゆかりは妊娠したのだが、秋彦にそれを告げた途端に、あからさまに距離を置かれたのだ。
秋彦が本当に愛しているのは、副支店長の妻だった。秋彦は、ゆかりと付き合う前から、その人と不倫関係にあり、ゆかりのことは、はじめから遊びでしかなかった。
まさかゆかりが妊娠するなどとは思わなかった秋彦は、不倫相手である志帆に知られたらまずいと、中絶費用を渡して、ゆかりとさっさと別れようとした。ところが、それを実行に移す前に、志帆に別れを告げられ、さらには転勤を命じられる。
理由はもちろん、浮気がばれたのだ。副支店長は、妻との不倫を秋彦に問いただすことはなかったし、転勤についても、「長野の支店で活躍してほしい」としか言わなかった。
志帆との新生活、さらには東京の支店長という夢を同時に失った秋彦は、ゆかりの妊娠を喜ぶふりをして、高校卒業を待たずに、結婚まで持ち込んだ。すぐに秋彦の実家・長野に移り住んだが、ゆかりは、結局母親にはなれなかった。妊娠八ヶ月、二十八週のころだった。秋彦との喧嘩が原因で転倒したゆかりの子は、そのまま胎内で死んでしまう。
秋彦にとっては、元から本気で愛してはいない女だったが、自分の子供が亡くなったことには、ショックを受けたようだ。必要以上の会話はなくなり、夫婦仲はどんどん凍り付いていった。ゆかりはまだ十九歳。他の恋も知らず、友達とも遊べず、秋彦がいなくなるまで、あと九年。それはとてつもなく長い時間に感じられた。
秋彦には、年の離れた弟がいた。結婚式のあとには、年に数回しか会わなかったが、本当に秋彦と血が繋がっているのかと疑ってしまうほど、素直で礼儀正しく、ゆかりは次第に彼に好意を持ち始める。
互いに惹かれ合っているのは、すぐに相手に伝わり、やがて秋彦にも勘づかれたようだった。すると秋彦は、親戚同士の集まりの時にも、ゆかりをそばに置いて離さず、千冬との接触を妨害した。ゆかりより二つ年下の千冬は、自分のせいでゆかりが兄に束縛されるのを恐れ、大学進学と同時に上京して、その後は実家への連絡すら寄越さなくなった。
ゆかりは、千冬へのほのかな恋心に胸を痛め、せめて無事でいるかどうかを知りたいと思ったが、まさかそれを秋彦に聞くわけにもいかず、季節はいたずらに過ぎていった。秋彦は千冬がいなくなると満足したようで、その後はゆかりに執着することも、ましてや大事にするでもなく、幾度となく浮気を繰り返しては、都合のいい時にだけゆかりに構った。
そして昨夜、それは起こった。会社の飲み会で遅くなると嘘をついて、愛人とドライブに出掛けていた秋彦は、自損事故によってあっけなく死んでしまったのだ。
遺体の確認、親族や友人知人への連絡、葬儀の手配と慌ただしく動き回るゆかりは、溢れては止まらない涙が、秋彦の死を想ってのものではないと気づき、呆然と立ち尽くす。
やっとあの人から解放された。あの人の言葉の暴力に、もう震えなくていい。夫の死はゆかりにとって、待ち望んでいた出来事に他ならなかった。
外面が良く、口のうまい秋彦は、男女共に友人も多かった。だが中には、秋彦の浮気を知っている者もおり、彼らは、秋彦が愛人と一緒に死んだと囁き合った。それはどうしたってゆかりの耳に入り、ゆかりは自分が愛されてはいなかったと突き付けられたようで、恥ずかしく、そして悔しくて俯いた。
毅然としていても、弱った様子を見せても、誰かが自分の粗を探して悪く言う。ゆかりの瞳には、そんな片田舎の住人たちが不気味に映った。
秋彦の葬儀にも、千冬は現れなかった。義母によると、携帯の留守電に秋彦が死んだ旨を吹き込んだようだが、まだ折り返されないとのことだ。
千冬と連絡が取れなくなって、もう八年。いつかの年賀状に記されていたという、千冬の携帯番号を控えていたのは、義母だけだったが、いつも留守電に設定されていて、通話をしたのは過去に三度だと言った。
義母にとってゆかりは娘ではなく、「長男の嫁」。吉田家の子孫を残せなかった嫁を義母は煙たがり、それ以上教えてはくれなかった。
火葬場の控室では、参列者たちが秋彦との思い出を語ったり、準備されていた弁当を食べたりしている。そこに居心地の悪さをおぼえたゆかりは、泣いているふりをして部屋をあとにすると、ふらふらと歩いて外に出る。
つい最近まで、真夏日が続いていたなんて忘れてしまうほど、外は秋めいて、どこからか金木犀の香りが漂ってくる。ゆかりは、その切なく懐かしい金木犀の樹がどこにあるのかと、あたりを探したが、目の届く場所には見つけられず、ただ目を閉じて深呼吸を繰り返した。
握りしめた右手の中には、火葬炉の鍵が握られている。いまこの瞬間にも、秋彦の身体が燃えて、骨と灰になっているのだと思うと、どうとも言い表せない気持ちに支配された。
私は、秋彦さんに死んでほしかったのだろうか。いつから? どんな理由で?
愛人を乗せた車で自損事故だなんて、憎んでも心が痛まないから満足かしら?
ふと、警察で遺体確認のために見せられた「秋彦だったモノ」を思い起こし、ゆかりは吐き気をもよおして、口元を押さえながらその場に屈み込んだ。葬式が済むまでの間は、ちゃんとしようと努めていたのに、自分だって秋彦を愛さなかったのに、これは一体何の涙だろうと、ゆかりは嗚咽を押し殺していた。
しんと静まり返った自宅へ戻ったのは、陽が落ちて夜の気配が漂い始めたころだった。窓を開けると、隣家が夕食を作っているにおいがして、ゆかりは自分がもう妻でないことを思う。
火葬場からの帰りの車中、白い包みを膝に抱えていたゆかりの腕を、義母が掴んだ。驚いて振り向いたゆかりは、その義母からさらに信じられない一言を浴びせられる。
『秋彦を返しなさい』
言うと、義母はゆかりからお骨をひったくり、それに縋りついて泣き出した。最期のお別れの時にも、涙を見せなかった義母だが、参列者たちが帰って緊張の糸が切れたのだろう。秋彦、秋彦と名前を呼びながらわんわんと泣き続け、隣に座るゆかりを忌わしそうに睨む。
ゆかりは何も言わなかった。いや、絶句してしまった。この親にしてこの子あり、と納得すればいいのか、義母は身勝手で冷酷な人間だった。ゆかりだって、十年も夫婦として生活してきた秋彦の死に、少なからず傷ついている。本来ならば、義理とはいえ家族として支え合い、現実を受け入れて生きていくのが普通だろう。だが、義母にとってゆかりは、もはやお荷物でしかなかったのだ。
取り乱し号泣する義母を尻目に、ゆかりは車内から外の景色に目を馳せる。すると、さっきは見つからなかった金木犀の樹とすれ違い、その香りが連想させるあまりの切なさと、初恋にも似た幸福感に、わずかに救われる思いだった。
秋彦と十年暮らした部屋に、ゆかりは小さなフォーマルバッグ一つで帰った。田舎の年配者と違って、お骨への執着はないが、さすがに手持ち無沙汰だ。
テーブルに着いて冷たい風に当たっていると、いつの間にか夜になっていた。窓を閉めに立ち上がったゆかりは、そこに映る自分の姿をみとめると、ぱたぱたと足音を立てながら自室に入り、クローゼットの中からワンピースを取り出す。まだ秋彦と知り合う前、親友と銀座に出掛けた時に一目惚れしたものだ。少ないバイト代をはたいて買った甲斐あって、それはゆかりにとても似合っていた。
十年前、ゆかりは、少ない衣類の中にたった一着のワンピースを入れて長野に移り住んできた。水色と白のストライプという清潔感のあるデザインにも関わらず、男を寄せ付けるからと、秋彦はそれを着るのを許さなかった。
久しぶりに袖を通したお気に入りのワンピースは、しまい込んでいたからか、木製の家具のにおいがした。一度だけ、こっちで着ていたことがある。その日に初めて会ったうぶな高校生は、名を千冬といった。
今すぐどこかへ逃げようだなんて、現実的には不可能だし、長年、秋彦から受けてきた締め付けによって、ゆかりは自主性を失いかけていた。それでも、ゆかりが顔を上げ、前へと踏み出せたのは、千冬との思い出があったからだ。
葬儀の準備を整えながら、ゆかりは千冬を今か今かと待った。だが千冬は来なかった。
十年も前の、自分に都合がいいように美化された思い出にいつまでも縋るなど、ご都合主義もいいところだ。そう思いつつも、ゆかりは秋彦の余韻の残るリビングに戻り、結婚指輪をテーブルに叩きつけると、財布とスマホとチョコレートをバッグに詰め込み、家を飛び出した。
若く綺麗な嫁は、家を守って、子を育てて、夫の言う通りにしていればいい。それが出来なくなったのなら、黙って食事の準備をしろ。そんな召使いのような生活が苦痛だった。
一人で駅まで買い物に行くことすら珍しかったと、ゆかりはこの十年分のうっぷんを晴らそうとしているかのように遊び回った。とはいっても、ここは田舎だ。ファミレスでハンバーグプレートを食べ、ゲームセンターでクレーンゲームをして、かわいいうさぎのぬいぐるみをゲットすると、そばにいた子供に手渡す。県内唯一の百貨店に入って、服やバッグ、おもちゃを物色するくらいだったが、ゆかりはどの場所でも楽しそうに笑った。
百貨店が八時で閉店したあとには、これも唯一の映画館でレイトショーをはしごし、その日の最後の客として劇場を出る。さあ、次は何をしようかとあたりを見回したゆかりは、広げていた両手をゆっくりと下ろすと、一気に消沈して、悲しい顔をする。時刻は、深夜一時を過ぎ、駅前に停まるタクシーのライトが眩しいだけで、人影はなくなっていたのだった。
それから、どうやってこの場所に辿り着いたのかは、あまり良く覚えていない。もうじき夜明けだと知っているからだろうか、小鳥の細く高い鳴き声が聴こえてくる。
ゆかりは橋の中央に立ち、その下に流れる川をぼんやりと見下ろし、いつか秋彦と川辺を歩いたことを思い出した。さらさらと澄んだ音が耳に心地良く響く、ちょうど今くらいの早朝だった。秋彦は、妊娠中のゆかりが転ばないよう、砂利を足先で分け、ゆかりが不安の声を洩らすと、しっかりと手を繋いで数歩を進む。腰掛けられる大きさの岩を見つけてゆかりを座らせ、大きく膨らんだお腹を撫でながら、早く会いたいと息子を呼んだ。
なぜそんな記憶を呼び起こすのか、ゆかりは自分がわからないでいた。秋彦がどうしようもない男だったのは、結婚前からで、それはたった一日のやさしさでは到底償い切れないものだ。だが、秋彦は確かに父親になろうとしていた。それを奪ったのは、母親になれなかった私なのだと、ゆかりは秋彦が死んだ今も、彼の支配下に置かれている自分に絶望した。
「……ゆかりさん?」
声がするまで、人が近づいているのにも気づかなかった。弾かれたように振り向いたゆかりは、すこし離れた場所に立っている青年を見ると、さらに驚いて言葉を失う。
十年という年月は、ゆかりにとってあまりに長かったが、小さな恋という支えがあるだけで、明日も生きようと眠りにつけた。これ以上、膨らませてはいけない、考えてはいけないと否定すればするほど、自分に向けられた、相手の笑顔がまぶたの奥に居座った。
これでは、互いに別のところに心がある、仮面夫婦ではないか。ゆかりは何度も自問し、悩んだが、焦がれるその想いはどうにもならなかった。
「千冬、くん……?」
こうして向き合うのは、八年ぶりのことだったが、ゆかりにはその青年が千冬であるとすぐにわかった。留守電を聴いてすぐに駆け付けたのだろう、ラフな装いの千冬は、乱れた呼吸を整えながら、ゆかりにもう一歩、近づいて言う。
「兄さんが、事故で死んだって」
美しく成長した千冬の顔は蒼ざめ、少年を思わせる声は震えていた。ゆかりは目を伏せて、一度ゆっくりと頷き、千冬を見つめて微笑む。
「……久しぶりね、千冬くん」
「ゆかりさん……」
血を分けた兄の突然の訃報に困惑する千冬を、これ以上傷つけたくない。巻き込みたくない。だが、きっと詳細を聞いておらず、気持ちの整理がつかない千冬には、私からの説明が必要なはずだ。ゆかりはそう意志を固めると、重い口を開いた。
「……一昨日ね、遺体の確認のために警察に呼ばれたの。秋彦さんなのかどうかもわからないくらい、ひどい状態だった。あの人は、会社の飲み会で遅くなると言って、車で家を出たわ。あまりにもお粗末な嘘よね。そして、自損事故を起こした。いつかこうなる運命だったのかしら」
事故で犠牲になったのが、不倫という裏切り行為をしていた二人だけだったから、きっとここまで冷静でいられるのだろう。ゆかりは、秋彦の浮気を許していたという事実を、千冬に知られることに抵抗をおぼえつつも、それしか伝える術がないと淡々と語る。
ゆかりの暗く濁った瞳を見つめ返し、千冬は右の拳を握りしめていた。それを震わせる感情は、何かに対する怒りか、悲しみか、それとも、ゆかりには想像も出来ないものか。
数分の沈黙のあとにぽつりと話し始めた千冬は、とても苦しそうだった。
「……昨日は仕事で帰りが遅くなって、母さんからの留守電に気づかずに寝てしまったんです。今朝になってやっと聴いて、慌てて車を走らせたけど、もう葬儀は終わっていました。人は生きたように死んでいくという言葉があります。兄は、最後までゆかりさんを裏切り続けた。だからそんな死に方をしたんだと、俺は思います。だからゆかりさんも、どうか自分を責めないでください。認めてあげてください。ゆかりさんは、何も悪くありません」
ゆかりのすぐ目の前まで歩を進め、千冬が真剣な顔をして、ゆかりを励ます。
ゆかりは、どれだけの年月が経っていようと、変わらず千冬に想いを寄せる自分を浅ましいと思っていたが、千冬に言われて、それを少しずつ肯定していけたらと考えかけ、やはり首を振る。自分が千冬と出会えたのは、千冬が秋彦の弟だからだ。
なんでこんなにやさしく、強く誠実な青年が、あの人の弟なのだろう。ゆかりは二人の未来を悲観することしか出来ず、みるみる俯いてか細い声で言う。
「ありがとう、千冬くん。でも私も、人のことを言えたものじゃないの。秋彦さんの死を知ったときに私が流したのは、安堵の涙だった。心からほっとしたわ。やっと私は、私でいていいんだって、泣いた。恐ろしい妻よね」
「兄は、だらしなく傲慢な人間でした。それで当たり前なんです」
「千冬くんに……」
うわ言のように呟いてしまい、ゆかりははっとして目を見開く。
「ゆかりさん?」
千冬の腕が、ゆかりに触れたそうにわずかに動いた。互いにずっと求めていたはずなのに、まだ秋彦に囚われるように、二人はぎこちない。
千冬が詰めたぶん、また一歩後ずさり、ゆかりは欄干に上体をもたせかけると、顔を上げてそこに風を受ける。そして、そばに立ち尽くす千冬を一瞥し、懐かしそうに遠くを見ながら再び語り出す。
「千冬くんに初めて会ったのは、私が秋彦さんについてこっちへ越してきた翌日だった。秋彦さんは家族や親戚を実家に集めて、もうじき子供が生まれるんだと自慢した。千冬くんはまだ高校生で、思春期特有の照れ屋さんだった。でも、年が近いこともあって、私たちは他愛もない話で盛り上がり、お開きになる頃にはとても仲良くなっていたの。憶えてるかな。秋彦さんは、子供が出来たから私と結婚しただけで、愛情はいつも別の女性のところにあった。なら、私を放っておいてほしかった。変にプライドが高くて、独占欲が強くて、私を私物化して満足気だったわ」
「もちろん憶えてます。俺も、兄に妨害されて、ゆかりさんと話をすることも叶わなくて」
「その一ヶ月後、私のせいで赤ちゃんが死んでしまった。秋彦さんがあそこまで悪い人になったのは、私が父親という将来を絶ったからだと思うの。前祝いの席にいた、ひとりひとりに死産を報告して、慰められるたびに声を詰まらせて……。あの人なりに楽しみにしていたのよ。それを私が」
「ゆかりさん!」
「私のせいなの!」
安堵の涙も、空っぽの涙も、もうとっくに枯れたはずだった。なのに私は、何を嘆いているのだろうと、ゆかりは、千冬の手のぬくもりを腕に感じながら、泣き崩れる。
「いくら私のせいと悔やんでも、死んだ人はもう戻らない。それはとうにわかっていたことよ。千冬くん、私はあなたにやさしくされていい女じゃないの。子供を産めなかったという罪悪感を背負って生きていくには、心のよりどころが必要だった。私はこの八年間、いつかまた千冬くんに会えると信じて日々を過ごしてきた。ずっとあなたに会いたかった」
ゆかりが死産を経験したあと、秋彦と義母の態度は一変した。一番つらいのは、母親になれるはずだったゆかりなのに、二人はまるでゆかり一人が悪いというように冷たく当たった。
そんな時に、ゆかりの心に寄り添ったのが、千冬だった。千冬は、どこにも居場所がなく、沈んだ顔をしているゆかりにミルクココアを渡し、ただ黙ってそばにいたのだ。だが、それもすぐに秋彦によって邪魔されるのだが、ゆかりにとって、千冬のやさしさほどの癒しは、他になかった。
若く未熟で、それだけに純粋すぎた想いをようやく千冬にぶつけ、ゆかりは両手で顔を覆う。すると千冬は、ゆかりの腕をもう一度、しっかりと支え、落ち着いた声で言う。
「ゆかりさん。俺は兄と最後の別れをしに、ここに帰って来たわけではないんです。兄が死んだと聞いて、真っ先にあなたを思った。あなたが傷ついているんじゃないか、あなたがまた、独りになってしまうのではないかと。俺もあなたに会いたかった。ただ、あなたに会いに来た」
千冬に勝手な幻想を抱き、依存することで、ゆかりは自己を保ってきた。だが千冬は? 自分が千冬に愛される理由などどこにもないと、ゆかりはまだ千冬を受け入れられずにいる。
そろそろと手を下ろして指先を包み、千冬の凛々しく整った顔を見上げた。ゆかりの着るワンピースが、早朝の冷たい風によって、ぱたぱたと音を立ててなびく。
「ありがとう、千冬くん。千冬くんの気持ちは嬉しいし、また会えて本当によかった。でもそのぶん、これからどうしていいのか、余計にわからなくなっちゃった。確かなのは、秋彦さんが亡くなって、私は嫁でも妻でもなくなった。それを自由とは言わないこと」
「もういい。もういいんです、ゆかりさん」
どうにか伝えなければと、肩を掴んだかと思うと、千冬はゆかりの華奢な背に、腰に手のひらを食い込ませるようにして、その身体をきつく抱きしめた。そして、呆然とするゆかりの耳元にくちびるを寄せ、改めて再会の喜びに打ち震えながら言う。
「十年間、つらかったね。苦しかったね。そばにいてあげられなくてごめん。これからは、俺があなたを守るから」
「千冬くん……、痛いよ」
ゆかりはまだ、困惑していた。ずっと好きだった千冬。会いたくてたまらなかった千冬。その千冬を抱きしめ返そうとしたものの、思うように指が動かず、ゆかりはそのままゆるい拳を握って、腕を下ろした。
「好きだよ、ゆかりさん……」
「……私も、好きよ。千冬くんが好き」
好きだと言っては壊れてしまう関係のはずだった。秋彦がいる限り、二人は決して結ばれず、そのまま月日が過ぎていくのかと思われた。だが、千冬は臆せず行動を起こした。ゆかりが千冬の肩ごしに見た美しい日の出は、辺りをあたたかな光で照らしながら、東の空をゆっくりと昇り、朝焼けの雲の中へと吸い込まれていく。
「ずっとこうしたかった……」
ばらばらだった鼓動はいつしか重なりあい、ゆかりはためらう素振りを見せつつも、はじめて千冬の腰に腕を回す。どこかで生きていてくれるだけで心強かった千冬に抱きすくめられ、喜びだか悲しみだか、それらとはかけ離れた別の感情だかが、自分の中に渦巻くのを感じる。
相手の緊張と決意に速まる息遣いをみとめ、ゆかりは、千冬の胸をそっと押し戻すと、自分を否定するように首を振る。欄干に停まっていた鳥たちが一斉に羽ばたき、大きなピンク色の雲の方へと飛んでいった。
「千冬くん。私は夫を亡くしたばかりの惨めな女よ。こんな田舎じゃ、私といるだけで、人はあることないこと噂する。それであなたが悪者扱いされるくらいなら、私は……」
「ああ、だから逃げよう。何もかもを捨てて、一緒に行こう」
ゆかりはその時、今更ながらに気づき、千冬を正面から見つめて微笑んだ。千冬の瞳には、迷いや当惑が一切ないのだ。あの控えめな千冬が、わき目も振らずに自分を迎えに来てくれた。昨日までの過去はすべてこの田舎町に置いて、千冬とのこれからを生きるくらい、神様は大目に見てくれるだろう。
「さらってくれるのね」
「はじめから、そのつもりです」
ゆかりの手を取って走り出し、そのまま南へ進むと、道路の脇に停めた車に乗り込んだ。キーを差し込んだ直後、すぐに長野を出発した千冬は、ゆかりが寒くないかと、暖房を入れて車内を温める。
どこへ行くのか、そこでどうするのか、ゆかりはもう口を挟まなかった。ただ、幼かった横顔が、見違えるほど大人びて、ゆかりは何度でも、千冬に恋をする。
「千冬くん、お腹すいてない?」
「……すいてる」
振り向いた直後、キスで塞がれた唇にチョコレートが挟まれ、千冬は反射的にそれを落とすまいと歯を立てる。千冬の舌の上で踊るチョコレートは、そのうち口内に溶け出し、みるみるその形を変えていく。
「持って来てよかった」
チョコレートは恋の味だ。あの日、そばにいてくれた千冬と飲んだミルクココアも、大人になってから食べる板チョコも、どことなく甘酸っぱくて、切なくて、泣きたいくらいにおいしい。
助手席に深く腰掛けたゆかりは、片手に持つチョコレートに陽の光を当てる。こげ茶色のボディは、それを受けるとなおキラキラと輝いて、魅惑的で官能的だった。
空を覆っていた、平べったい雲はいつの間にか姿を消し、前方には澄んだ景色が広がっている。
朝日のシャワーを浴びたゆかりは、眩しそうに顔に手をかざすと、隣でハンドルを握る千冬をそばに感じ、二人は幸せだと目を閉じた。