第6話:嘆きの森②
唸る魔物を前に、純の体は固まった。
急いで逃げなければならないのに、全身真っ黒でありながら目だけは赤く爛々と輝くその瞳に縛り付けられているかのように動けない。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
息をするのでさえためらい、溜まった唾を何とか飲み込んだ。
この魔物は今自分を食べようとしているのだろうか。
詳しいことなど知らない。知るわけがない。教えてもらわなかった。
ただ今まで唸るだけだった魔物が、ゥワンッ!!と吠え、金縛りが解けたように純の体は動き出す。
反対方向へ走り出そうとしなかった。
本能があの国を恐れていたからだろう。純が走り出したのは右だった。
整備されていないため体中に草木があたり、小さな傷を作っていく。
しかし気にしている場合ではない。
全速力で走る。魔物が追いかけてこない、そんなことはなかった。
後ろから「グワッ!ワゥ!」と追いかけてくる音がする。
純は無我夢中だった。
のどはからからに乾いていたが汗が体の中から出ず、体の中にずっと熱がこもっているかのような状態だった。
徐々に魔物の声や足音が近くなっていく。
やはり人間と獣では速さが違う。純がバリバリ現役の駅伝走者であればまた話は変わってくるが、生憎と駅伝走者でも長距離選手でもない。
しばらくして魔物に回り込まれ、同時に体力にガタがきた純はその場にへたり込んでしまった。
荒い呼吸を繰り返す。
先ほどまで出なかった汗がボタボタと流れる。
目の前には魔物。獲物が弱ったことを悟っているのか、しかしまだ警戒しているのかゆっくりとこちらに近づいてくる。
恐怖で体が震える。
魔物が飛びついてきて喉を引きちぎられる、なんて想像までして無理やり頭を振った。
汗と一緒に、目から今まで出なかった涙がこぼれた。
一粒こぼれれば止まらず、次から次へとまるで滝のように涙は流れ出す。
どうして。
どうして私ばかりがこんな目に合うのだろうか。
こんな世界に召喚されなければ、今頃幸せに暮らせていただろうに。
父と母と、仲の良い友人と。
いずれ好きな人が出来たりしたり。大学に行って新しい発見があったり。
まだ見たことがないことを知って触れて生きて行けたのに。
どうして。どうして。
誰か助けて。この状況を助けてくれるなら、なんでもする。
命を助けてくれるなら、どんなことでもする。
だから助けて。
「お願い、誰か助けて………」
擦れた小さな嘆願。
こんな森の奥深くに、人なんているわけがない。
それでも願わずにはいられなかった。自分の命を長引かせることを望まずにはいられなかった。
答えてくれるのは風の音だけ。
客観的に見た自分は、さぞかし惨めだろう。
地べたにうずくまり、汗と涙を流している薄汚れた女。
あぁ、そうか。
純は理解した。
この世界に自分の味方なんて存在しないのだ。
あの時のように、自分を助けてくれる存在はどこにもいない。
信じられるのは自分だけ。
どうして他人にすがりつく。どうして他人が助けてくれる。
私は独りだ。
「っ、うわぁぁあああああああ!!」
突然の大声に、魔物は攻撃態勢を取った。
純は近くにあった拳大の石を思いっきり魔物に投げつけ、再び走り出すと魔物も慌てたように追いかけてくる。
走っている最中で太めの木の枝を手に取り、純は幹の太い木に隠れた。
魔物が木のそばを通り、こちらを向いた瞬間。
グッチュッ
首元目掛けて木の枝を突き刺した。
自分の今出せる最大限の力だ。
鋭い爪で攻撃されないように距離を取る。木の枝を拾い、痛みに荒れ狂う魔物に再度突き刺した。
やがて体から血とは思えない真っ黒な液体を出し、魔物はその場に倒れこんだ。
「はぁ………はぁ…………」
少し体を上下させた後、動きを止めた魔物。
するとその体は淡い光に包まれ、やがて魔物の体は消えて掌ほどの石だけがそこに残った。
重い体を持ち上げてズルズルと石に近づき、そっと持ち上げてみる。
少し冷たいその石は、魔物の命。
純は魔物の命と引き換えに、自分の命を守ったのだ。
生きることが出来た。
安心感と共に純を襲ったのは、生き物を殺した罪悪感だ。
魔物の首に木の枝を突き刺した瞬間の、苦し気な魔物の声。
必死に木の枝を抜こうと動き回る魔物の行動。
やがて力尽きて虚ろな目で空中を見つめる魔物の目。
何とか生きようと呼吸をするも結局命尽きた魔物の肺や心臓。
魔物は人間に害をなすもの。また純は自分の命が危険に晒されていた。
殺したことは正当化されることだ。
だが一つの命を奪ったことに変わりはなく
「っいや、いやっ、いやっ!」
自分がひどく汚い存在に思えて仕方がなかった。
近場で川を見つけた途端、純は急いで手を洗った。
どれだけ洗っても洗っても魔物の首元に木の枝を突き刺したあの瞬間の感触が抜けない。
「いや、いや、いや、いや、いや」
手がふやけるまで洗い、どうしようもないことを知り、受け入れたのは一時間後だった。
魔物の石はもしかしたら何かの役に立つかもしれないので持っておくことにした。
お腹が空いた。のどは川の水で潤っているから平気だ。
何かの番組で川の水は体に良くないと聞いた気がするが、走りまくって汗をかいた体に汚れていようと水分は必要だった。気にしてはいられない。
お腹を満たそうとするけど、魔物以外の動物は中々見つからない。
徐々に苛々が募っていく。
このどうしようもない感情を、何かにぶつけなければ気が済まない。
憎い。
憎い憎い憎い憎い憎い……
この世界に勝手に連れてきておいて、殺そうとしてきた奴らが憎い。
理不尽な世界を作ったやつが憎い。
でもお腹が空く。
だが私は死なない。
空腹よりも、腹が立つからだろうか。死ぬ気がしない。
そうだ。
生きてあいつらを、一発殴ってやるまでは
「生きてやる。」
生きて元の世界に戻ってやる。




