第34話:喧騒④
手間がかかるよ、と言ったヨセフに、ヘザーは不満げな声を上げる。
「命じたのは殿下でしょう」
「女子寮の中にまで目を付けるとなると、どこから苦情が入るかもわからないじゃないか」
「特に今年は他国の王族がいますから」
「急に入学したいって言われた時は驚いたよ」
ヨセフの「もっと早くに言って欲しいよね」の言葉に、ヘザーは何も返さない。しかし次にはヨセフが笑って「そんなに怒らないでよ」と言ったので、睨んだのかもしれない。二人の会話は以降も続いた。大した話はなく、学園の様子や街の様子、最近気になる流行りの品。友人や知人といった間柄の人間とするような会話。
近くから物音がして、話していたヘザーは口を閉ざす。音がした方向は、近くの空き教室からだった。音もなく近づき、勢いよく開かれた扉の先には誰もいない。しかし反対側の窓が開け放たれて、外から入ってくる風がカーテンを揺らしていた。
「おや、先客がいたんだね」
「追いますか」
「構わない。聞かれてまずい話はしていないからね」
手に持つ教材の上に、数枚の資料が乗っている。紙を指で弾いて、いつも通り輝く笑みを見せるヨセフ。
「僕らの関係を知らない人間は少ない。それこそ、この国どころか、この世界ではない異なる場所からやって来た彼女なんか、その代表だろう」
邪気の無い笑顔は見る者が見れば、王子様だと頬を染めるだろう。ヘザーは頬も耳も染めることなく、特大のため息を吐いた。
庭を駆け抜ける一つの影。呼吸の繰り返しで苦しくなっても、純は走ることを止めない。今止まってしまえば、考えがどんどん悪い方向へ行ってしまう確信があった。どこへ向かうとも決めず、講義がとうに始まっている時間のため人がいない道なき道を進む。先に人の姿が見えて、反対側に行こうとした時、純の名前を呼び止める声が聞こえた。
「シドニー…」
「ジュン、こんなところで何をなさっているの?そんなに慌てて…何かあったの?」
午前の用事が終わったらしい彼女は、純の肩に手を添えて顔を伺い見る。気遣うような目線、言葉に、純の中で張っていた糸が僅かに緩んだ。気づけば純はシドニーの手に自分の手を乗せて、強く握っていた。
「っ、わた、私、あの二人が知り合いって知らなくて…、だって知り合いなら、今までの全部、嘘ってことじゃない…!話し方も、態度も、全然違ったの!でも私、分からない…本当の顔って何なのか、何を本当って言うのかも、分からない。でも全部嘘だなんて、嘘だよ。見てもないし、聞いてもない。ただ、あの二人が知り合いだったってだけかもしれない。私が狙いなんかじゃない。嘘じゃない。嘘じゃないよ。だって、だって嘘じゃないと、今までの時間とか関係性とか、一体何って感じだよ…」
傍から見れば、シドニーに縋りつき、何度も繰り返し言葉にすることで、自分に言い聞かせて浮かんでいる可能性から目を背けているように見えた。純の手に自身のもう一方の手を重ねたシドニーを伺い見れば、優しく笑っている。落ち着くようにと手を叩かれて、純は深呼吸する。
「ジュン。一先ず落ち着いて話が出来る場所に行きましょう。サロンでも講堂でも…あぁ人目があるところはだめね。この時間だったら、女子寮はどう?人はきっといないはず」
「女子寮は!…寮は、だめ」
「…分かったわ。私の家に行きましょう。そこなら我が家の者たちしかいないもの、学園のことを話しても問題はないわ」
シドニーからの提案に純は迷いを見せる。
「お家の人に迷惑じゃ…」
「この前も話した通り、貴方を支えたいと思っているのよ?迷惑だなんて、思うはずもない」
肩に置かれていた手を、そのままシドニーの両手が包み込む。
「安心して、私を信じて」
「…分かった」
学園の正門前に停められていた馬車に乗り、シドニーとともに学園を出る。左手でつないだシドニーの温かさになるべく意識を向け、ヘザーのことを考えないように純は務めた。突然やって来た純に嫌な顔一つしなかったグルエフ家は、以前訪れた時と同様に丁重にもてなしてくれた。グルエフ公爵は仕事があるため不在だった。その代わりに公爵夫人と使用人たちが出迎え温かく接してくれたおかげで、純の心は穏やかさを取り戻していた。
翌日の朝、純に与えられた客室には学園で必要な物が揃った状態で机の上に用意されていた。どうしたのかと訪ねれば、使用人に命じて寮から持ってきたとのことだ。
「寮に戻らないといけないって思ってたから、助かった…ありがとう」
「早く準備しましょう。遅れちゃうわ」
グルエフ家から学園への道は二回目といえど、馬車に乗って街並みを見ながら向かうのは純にとって新鮮な心地であった。馬車の向かい側に座り、本を読むシドニー。
「…昨日何があったか、聞かないんだ」
話が出来るところへ行こうと家に招かれたが、風呂に入れられ食事を出されても、何も聞かれることはなかった。温かいもてなしに気が緩み、気づけばベッドの上で眠っていた。読んでいた本を閉じることなく、シドニーは顔を上げる。
「気にならないもの。貴女が何に苦しみ、傷ついているのかは私には関係ないことだわ。それら全ては貴女の感情であり、貴女の問題。私のものではない。動かされるのはね、貴女が解決を望むときよ。そうなってようやく、私は動くことができる。…貴女はどうしたい?ジュン」
たずねられた純は、目を伏せた。拳を数回、開いて閉じて繰り返す。
「…まだ、確かな証拠がないから、私の思い違いかもしれない。思っている通りかもしれない。不確実だから…正直、まだシドニーに話したくない。話さなくても良いって言ってくれるなら、待って欲しい。解決…。解決も、どうしたいかまでは分からない。お風呂入って、ご飯沢山食べて、十分に寝て、ゆっくりして、昨日よりも冷静になれてるとは思う。冷静になってみて改めて、どうしたいか決められない。これも、きっと、確かじゃないから、だとは思う。だから、まだ、待って欲しい」
再びシドニーと視線を合わせる。彼女は目を反らすことなく、微笑んで頷いた。読書に戻るために膝上の本へと伸びる手。
「あぁ、後継人になりたい気持ちは変わってないから。準備が出来たらいつでも」
「そっちは、もっと待って欲しいかも」
軽く笑い合っている間に、馬車は学園へ到着した。




