第30話:学園生活⑥
「ジュン様!」
呼びかけられて、空気を吸う。純はそこで、自分が息を止めていたことに気づいた。振り返った先にいたのはシドニーだ。彼女の後ろには護衛だろうか、男性が二人控えている。
「あぁ、良かった。ここにいらしたのね。もう、心配しましたわ。このまま見つからないのではと思いましたもの」
お淑やかに振る舞い、隙も見せないよう努めるシドニーの額に僅かな雫を見つける。護衛の二人も肩が上下しており、探してくれたことが分かった純は申し訳なく思った。純の無事を目視で確認していたシドニーはバックスの存在に気づく。
「そちらは、マーリヴィッラの…」
「帝国に咲く麗しきグルエフ公爵令嬢にご挨拶申し上げます。バッカス・マルティネスと申します」
「お言葉、恐悦至極にございます。しかしながら、この身は一介の貴族に過ぎませんわ。殿下におかれましては、王家の尊き血をお持ちなのですから、どうぞお気兼ねなくお声をおかけくださいませ」
「イやァ、ワタシ、日頃よりこのような話し方をしてオりまして。何分商人なものですから、この身に染みつイた癖ですねェ!」
イやァははは!と笑うバッカスに、シドニーもフフッと笑みを零す。二人の会話を聞いていた純の腕に、シドニーの手が添えられた。
「ところで殿下。このような場で、一体どのようなご用件でございましょう。彼女は私の友人。もし何かお探しの物がありましたら、私が代わりにお手伝いいたしますわ」
「…オォ。ご令嬢にオ手伝イイただけるのならば、どれほど入手困難なものでも手に入れてしまウことができるでしょウ」
「まぁ。殿下ほどではございませんわ」
にこやかな会話に聞こえるのに、何故か背筋が冷える。言葉の裏に別の意味がある気がしてならない。
「そちらのオ方と、オ取引をしてオりました」
「まぁ…私、お取引の邪魔をしてしまったのかしら」
困った顔をするシドニーに、純は大丈夫だと伝える。自分を対価に差し出すにしろ、シドニーの前でそれはできなかった。それに知りたいというだけで、人の秘密を買うなど許されないことだろう。純を見ていたシドニーは何を思ったか、後ろの護衛に指示を出して何やら冊子を受け取ると、それをバッカスに差し出した。
「好きな数字をお書きになってくださいませ」
「?!なにしてるんですか…!」
「?だって、ジュン様は欲しいものがあるのでしょう?それを殿下がお持ちだったから、入手しようとなさったのですよね?でも高価で、購入することができず諦めるしかない」
「そ、うですけど…」
「諦める必要なんかありませんわ。ジュン様がお支払いできないのであれば、私が代わりにお支払いいたします」
「なんで、」
純より少し高い位置にあるシドニーの目は、真っすぐに純を見ていた。
「私、ジュン様の後見人になりたいと思っておりますの。正確には我が家、ですわね。ジュン様の学校から私生活までサポートする立場に、ぜひ立候補したいのですわ」
突然の提案、シドニーの言葉通りならば立候補に、純は何故と問いたくなる。彼女は高位貴族であり、純の異世界人というネームバリューが必要なほど、家が困窮しているわけでも地位が低いわけでもない。
「異世界人だから、などという理由で後見人になりたいわけではありません。私はこの数か月、ジュン様と共に時間を過ごしてまいりました。貴女様は誰よりも知識のない中、その勤勉で真摯な姿勢を崩さず、見事成績上位者に上り詰めた。右も左も分からぬこの世界で一人立ち、前を向く貴女様を見て、どうしてその背を支えたいと、応援したいと、そう思わずにいられるでしょうか」
手袋を外したシドニーから、手を取られて握られる。綺麗に手入れをされている彼女の滑らかで温かい手が、純の手を優しく握り込んだ。信じられない。信じられないけれど、でも、信じたいと思ってしまう。
「…下心は?」
「ありません。あわよくばヨセフ様とお近づきになりたいと思っているだけですわ!」
それを下心というのに、隠しもしないシドニー。どうしてあのいけ好かない男にそこまで執着するのかは、きっとどれだけ説かれても分からないだろうなと純は思う。
「後見人に立候補をしただけ。契約も交わしてイなイ関係、でござイましょウ?」
「その通りでございます。そしてこちらの思いが本物であると認めていただくために、信頼を積み重ねていかなければならないのです」
第一歩が情報量の支払いで良いのだろうか。いや、良くない。実際に動くお金がシドニーのお金か親のお金か分からないが、バッカスとの取引は完全に純の私情。他の人に支払ってもらうのは何を言われても違う。純が断るよりも早く、シドニーの前に冊子が戻される。もちろん、中のページには一もゼロも何も書かれていない。
「オ取引はオ客様との信頼関係が第一、とワタシ、考えてオります。第三者が入り込むのはナンセンス。ジュン様にオ取引のご意思がなイのでアれば、強要はイたしません。と~~っても残念ではアりますが、また、次の機会にでも」
ずっと笑みを絶やさず、バッカスは綺麗に一礼する。シドニーも礼を返し、純の手を引いて近くに止めてあるという馬車へ向かう。振り返った先で、モノクロの光の反射からバッカスがこちらを見ていたのは分かったが、夕日の影になり、その顔はよく見えなかった。
日が沈み暗くなる馬車の中で、近くに家があると言うシドニーは、せっかくなら泊って行かないかと聞いてきた。
「外出届は出しましたけど、外泊届は出してないし、そんな急にはちょっと、」
「こんなこともあろうかと、私が代わりに届け出をしておりますからご安心くださいませ」
訪ねておいて始めから家に泊める予定だったなと、確信犯を見る目をする純にシドニーはニコリと笑うだけで何もダメージを受けていない。何も言わずに真っすぐ馬車が進んだ先はグルエフ公爵邸。王都での邸宅のため少し手狭だと説明するシドニーに、領地にある屋敷はどれほどの大きさなのかと考えを馳せる。
豪華な門を潜り、出迎えてくれたのは恰幅の良い男性と手先まで美しく手入れされた女性だった。シドニーの父と母らしい。
「ジュン様。本日は娘の我儘にお付き合いくださり誠にありがとうございます。しかし娘から話を聞いていた以上に素晴らしいお方だ。一目で分かりましたぞ」
「貴方、ここで引き留めては失礼です。申し訳ありません。私たち、ジュン様にお会いするのを心待ちにしておりましたものですから。さぁお入りになってくださいませ。手狭ではございますが、精一杯おもてなしをさせていただきますわ」
母親の方は随分若く見えるなと失礼に見てしまった純を咎めず、両者優しい笑みで快く受け入れ、夕食をごちそうしてくれるだけではなく部屋まで貸してくれた。
「ジュン様。お加減はいかがですか」
部屋の扉を開いて顔をのぞかせたシドニーの後ろには使用人らしき女性が二人。その手には紅茶が用意されていた。
「まさかお風呂までお世話されるとは思ってなくてビックリしました…」
「ジュン様は今後、我が家と親密な関係になるのですから、慣れていただきませんと」
決定事項のように告げるシドニーに純は微妙な顔をしてしまう。信じたいと思うが、そう簡単に信じられないし申し出を受けることもできないからだ。目の前に置かれた紅茶からは湯気が立つ。すぐに頷くことができないことに気まずさを感じつつ、噂話やヨセフのことを話していたシドニーが言葉を止める。どうしたのかと見れば、髪を指に絡ませて口を閉ざしていた。今までに彼女が言葉に詰まるところを見たことが無かった純は驚く。
「その…このようなことは経験がなく、上手く言えないのですが…。また、我が家にいらしてくださいませんか?」
髪に伸びる腕に手を添え、伺い見てくるシドニーの僅かに下がった眉毛が、自信の無さを表す。
「今回は些か強引だったと認めます。ですが、私はもっと、ジュン様と仲良くなりたいのです。…そう、思ったお方も、来て欲しいと願うことも初めてで、ご不快な思いをさせてしまったでしょうか?」
今回どころかいつも強引な気がするが、先頭に立ち常に目立つシドニーが、内心で不安に思っていたことを知る。彼女の意外な一面は、純の警戒を僅かに解いた。
「…私も、また来たいです。この家の人たちが大丈夫なら、ですけど」
「っ…!いいえ、いいえ!ここの者にジュン様を快く迎え入れない者などおりません!あぁ、良かった…!」
ホッと息を吐くシドニーは緊張から解放されたようで、再び話を始める。家に泊まりに来るのなら、今までできなかった女の子の秘密の話ができますわ!と瞳を輝かせる。彼女はこれから信頼関係を築いていくと言っていた。今すぐに結論を出さなくても良い。コクリと飲み込んだ紅茶は、とても甘く。使用人が流石に寝る時間だと止めに来るまで話していたからか、二人は自然と互いを呼び捨てにし、敬語もなくなっていた。
教室から美術室への道を歩くハリソンの手には、画材の他に新しい茶葉が握られていた。最近紅茶を飲み始めた純は、まだ出会ってない美味しい紅茶が沢山ある。そんな彼女にぜひ飲んで欲しいと、実家からわざわざ取り寄せた物だった。純が喜ぶものをと考えると、どうしても良いものを渡したいから値段も上がってしまう。しかしそんなものは、彼女の笑顔に比べれば安いものだった。あまり笑わない純が、ほんのわずかに口角を上げる。その瞬間が、たまらなく嬉しいと思うのだ。しかし今日、純は美術室には来ない。
(確か、グルエフ公爵家のご令嬢と買い物に行くって言ってたな)
公爵家の人間と、しかも買い物に行くなんて。下級貴族のしかも五男である自分には別世界の話だなと、つい乾いた笑い声が漏れてしまう。
恋人になった人は、異世界からやってきた少女。
異世界、だけでも十分なのに、彼女の交友関係は皇太子殿下から公爵家のご令嬢までと、国の上に立つ者たちばかりで固められている。帝国に暮らす者にとっては天上の人々。いくら貴族といえど、一生のうちに会話する機会が一度あるかどうかという存在。至上の彼らにとって重要で、替えの利かない存在が、純だ。まさか告白を受け入れてもらえるとは思っていなかった。付き合い始めてしばらく経つものの、まだ少し壁を感じる。しかし別の世界から来たのなら当然のことだ。少しずつ、美術室でお茶でも飲みながらゆっくりと話して、仲を深めて行けたら良い。
(そう、思うのに)
歩みを止めたハリソンの横を、同級生が通る。彼らはハリソンに気づくと、口元を歪めて手をあげた。
「やぁ、ビルターネン!聞いたよ、噂の異世界人と付き合ったんだって?難攻不落の彼女にどうやって取り入ったんだよ」
「せめて伯爵位以上だろうなって思ってたけど、まさかだったな。見た目は…あまり考慮に入れないのかな?人柄か、それとも、別の何か、か?」
「ハハハハハ。おい、やめないか。学園でそんな話、どこで誰に聞かれているか分からないんだぞ」
上品に笑い振る舞いながらも、浮かべられた笑みは汚いものだ。何を聞かれても黙ったままのハリソンに気づいた彼らは「すまなかったよ」と形だけの謝罪を取る。
「でも君だって、狙いがあって近づいたんだろ?」
「は…なにを、」
「異世界人という肩書に加えて、皇太子殿下や公爵家といった高位貴族方のご学友。それだけでも十分すぎるほどの利益がある」
「君は子爵家の五男。家を継ぐことはできないが、将来は画家になるんだったか?彼女の恋人、それ一つで注目の的!皆の関心は君にも注がれ、君の絵もたちまち有名になる」
「爵位も継げるかもしれないな。っと、いやしかし、君の所は既に優秀なお兄様がいるんだったな。失敬。いやそれでも、画家になろうが何になろうが、君の人生は安泰じゃないか」
そうだ、彼女は特別だ。その計り知れない価値も含めて、唯一無二の存在だ。分かっている。
「そんなことは、」
ハリソンの否定の言葉は、肩に置かれた手により遮られてしまう。
「もし要らなくなったら僕にくれ」
「おいおい、貴重な異世界人様を物扱いするなんて、場合によっては不敬罪だぞ」
「ビルターネンが手に入れるなんて、読みが外れたなぁ」
「いや本当に、羨ましい限りだ」
笑いながら過ぎていく彼らを背に、ハリソンは「そんなことは、ない」と独り言つ。
美術室での静かで、穏やかで、筆と紙の擦れる音と互いの呼吸音だけが響く時間が、何よりも大切だった。有名で遠いはずの彼女が触れるほどの距離にいるというのに、わずかにも触れれば割れてしまいそうな宝石のようで、でも目が離せなかった。話をするうちに、時間を共にするうちに、どんどん惹かれて行ってしまった。
(この心は、嘘じゃない。僕は、彼女のことが、本当に…!)
嘘じゃない。嘘じゃないと強く思うほどに、頭の隅の方で彼らの言葉がこだまする。本当に、何の利益もなく、彼女を求めたのか。彼女に思いを告げた時、そこに一切の不純な思いはなかったのか。そう問われると、完全に否定できなくて、ハリソンは新しい紅茶の缶を震える手で握り直した。




